ヒジュラ暦1427年ムハッラム(1月)1日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日) |
職場の合併も決まり、主宰する道場の合併も決まり、落ち着かない日々が続く。違った価値観やスタイルを持った二つの団体が一つになるのだから、さまざまな調整をしなくてはならない。
自分の日常でも「誤差を縮める努力」がなされている。
※イスラム教徒以外の方にも結構このブログを読んでいただいていることがわかったので、アラビア語や専門用語はできるだけ使わないことにしています。
【そもそもイスラムは完全なのかについて】
「全体と部分について」では、イスラムの目指す方向性は、人類をひとり残らずイスラム教徒にすることではないと述べた。
多様な価値観が渦巻く世界で、「イスラムはすばらしいから改宗しろ」と強く言えばいうほど、相手の気持ちは逆に離れてゆく。気持ちが離れればお互いの排除へとつながっていく。
だから、「誤差を縮める努力」が必要なのだ。相手と自分の違いを縮めることで、共存のための新たな枠組みを作っていく(「妥協」とか「弁証法」という言葉はあえて使わない)。それが排除を避ける道である。
ところで、イスラムと非イスラムの関係を見てきたが、そもそもイスラムは完全なのだろうか? 答えは「否」である。
アッラーやクルアーンが完全であっても、人間は完全ではない。完全ではない人間の営みであるイスラムの枠組みが完全であるわけがない。
ウマイヤ朝の末期には、「こんなにヒドイ世の中がアッラーの意思であるわけがない」という考えから、天命やアッラーの存在自体に疑問が投げかけられた。
11~12世紀の大学者ガザーリーは、そもそもイスラムの信仰と不信仰の境目がどこなのかに大いに悩み抜いた。
法学者が法解釈(イジュティハード)を行う際、誤りは許されている。間違った解釈を行ってもアッラーから報奨は与えられるし、正しい解釈を行えば二倍の報奨を与えられる。
それゆえ、法学者も間違いを恐れることなく法解釈をおこなってきた。
法学者であっても完全ではないことの証左だ。
新しい事象が現れれば、それについて解釈し、*1)五つの規範のどれにあてはまるのかを決めていかなければならないが、法学者によって解釈が違うことだってあるし、共通の解釈が定まるまで数世紀かかることだってある。例えばコーヒーだって認められるまでに2世紀以上もかかった。
ベリーダンスについて、エジプトなどの法学者がどのような解釈を出しているのか寡聞にして知らないが、あるいは「許容」くらいはされている可能性はないのか?(さすがに無いか…)
もし「禁止」や「忌避」だとしたら、なぜこれほどまでにベリーダンスはエジプトで受け入れられてきたのか?
クルアーン第2章:第173節 かれがあなたがたに、(食べることを)禁じられるものは、死肉、血、豚肉、およびアッラー以外(の名)で供えられたものである。 だが、故意に違反せず、また法を越えず必要に迫られた場合は罪にはならない。アッラーは寛容にして慈悲深い方であられる。 |
豚肉や死肉でさえ、必要に迫られた場合は罪にならない。ベリーダンスはそれより重いのだろうか?
クルアーン、ハディース、アラビア語、類推の手順などに精通した法学者でも誤りを犯す。ましてや一般のイスラム教徒が「完全なイスラム」などを実践できるわけもない。
ブハーリーのハディースの最初の方にも次のような言葉が出てくる。
信仰の書:29-(1) アブー・フライラによると、預言者は「イスラームは行うに易しい教えであるから、掟を守るのにあまり厳格にならぬよう。さもなければ、人は耐えられない。それで正しい方向を目指し、完全に近づくようつとめ、よい報いを望み、朝の祈り、夕の祈り、そしていくばくかの夜の祈りに助けを求めよ」と言った。 (『ハディース イスラーム伝承集成』全6巻、牧野信也訳、中公文庫) |
完全を求める態度は狂気をもたらす可能性もある。
例えば、第4代正統カリフのアリーがウマイヤ家のムアーウィヤと争った末に、カリフ位についてムアーウィヤと交渉しようとしたときのこともそうだ。
アリーの熱烈な信望者の一部は、正しいと信じていたアリーが、反逆者と交渉をすることになったことに腹を立てて、アリーのもとを去った。
そして結果的彼らがしたことはアリーの暗殺ではないか。
正しさとか完全を求めるあまり、イスラム初期のあれほど重要な人物をこの世から消してしまった。
考えてみれば、「正しくない世の中が許せない。宗教的に完全にただしい世界を作る」という理想に燃えてテロに身を投じたイスラム教徒だっているだろう。
人間は、アッラーによって不完全に作られている。自分自身を向上させるために完全を目指すのは構わないが、自分が完全になったと思いこめば(勘違いすれば)必ずひずみが生じてくるだろう。
- *1)五つの規範
- ①義務…やらなければならない(ワージブ)
- ②推奨…やった方がよい(マンドゥーブ)
- ③許容…やってもよい(ムバーフ)
- ④忌避…やらない方がよい(マクルーフ)
- ⑤禁止…やってはいけない(マフズール、またはハラーム)
《今日、我はお前たちにお前たちの宗教を完成させ、お前たちに我の恵みを全うし、おまえたちに対して宗教としてイスラームを是認した》(5-3)とあり、「イスラームは決して不完全であったことはない。」(ジャラーライン第一巻270p)イスラームとはアッラーの御光(9-32)でもあります。イスラーム自体は完全であるが、イスラームを実践するムスリムは人間ゆえ、完全ではないと思うのですが。ムスリムも所詮人間、現世の享楽も味わいたいと思う弱き被創造物、イスラームを標榜する国、例えばエジプトには国産ビールがあるなど、理想と現実の乖離は明白ですが、そのようなものが存在しているからと言って、アッラーがお決めになったハラールとハラーム(禁忌)を私たちの都合で変えることは出来ません。ムスリムが諸事情で規定に従えない場合、私たち同胞がすることは、非難することではなく、温かく遇し、更なる導きがあるように手を貸すことではないでしょうか。どうか皆様にそして私たちに更なる導きがありますように。
エジプトにビ―ルがあるのは、政権の腐敗でも人々の不完全から来ているものではないでしょう。 むしろ完全か不完全かで社会を評価する方が恐ろしい。 人間を一つの思想で色分けをした国で悲劇が起こらなかったことは歴史上ありませんでした。禁止しても密造や闇輸入がはびこって犯罪が増えて、おまけに危険な密造酒による死亡が増えるだけ。またわざわざ外国に行って飲酒する人もいる。 エジプトにいる異教徒の人達もいるわけであって自分たちの宗教だけで決めて終わるのであれば、彼らの権利すら認めない事になる。ビ―ル産業を解体したら失業者が増えるって言いませんが、何事も人間社会は経験をつんで発展してきました。 何でも禁止だけで成功したためしがないのです。
諸外国を良く見てください。 世界一禁止が多い某国が世界一ですか? 違いますね。
ちなみに私は信仰も無くても禁酒禁煙の生活です。
アッラーフンマ=フディーナー ワ=フディーヒム ちなみに「踊り」それ自体はハラームではないとこの本にはあります。(ユースフ・アル=カラダウィー著Al-Halal wa Haram Fil-Iskam301p)アッラーフ アアラム
本来イスラーム諸国に住む他宗教の人々は生命および財産を保護され、信教・思想の自由を認められています。
そらから現在のイスラーム諸国でイスラーム法を実施している国はサウジアラビアしかありません。その他ほとんどが、社会主義的独裁体制です。逆に、モスクで礼拝に毎日通っているからという理由だけで、過激派・政治犯扱いされ有無をいわさず逮捕されたりする国もあります。国が安定してないのはすべて宗教のせいという理論は成り立ちません。無神さまがおっしゃるように、独裁性の思想で染めようとしている上の悲劇です。
>何でも禁止だけで成功したためしがないのです。
イスラームからダンスからも話は逸れますが、法律において犯罪を「禁止」という概念はある一定の抑止力にもなります。
飲酒運転禁止にしたら、逆に轢き逃げが多発してしまったからといって飲酒運転禁止を解除することはありえません。
この場合も禁止が解決でないとおっしゃられるかもしれません。ではどのようにすればようのか?
要するに個々の「心」に任されているということです。
何度も言いますが、イスラームにおいて「禁止」の概念があることは事実ですが、その際「強制があってはならない」のも事実なのです。
「強制」を禁止しても、その禁止を破って異教徒を攻撃する人がいるかもしれませんが、人間完璧でないので、その「禁止」を
守れなかったのでしょう。皮肉です。
最近書き込みすぎました。失礼します。
けど映画も女性の車の運転も自由出国も観光入国も女性参政権も音楽もオリンピックで始まる女子フィギアも無い国が理想の方と私とは元々食い違いが生じて当然と思いました。
所詮私にとってよその国の話ですから関係はありません。
しかし祖国日本がそうならない様に祈る次第です。
トラブルってどこの国にもありますよ宗教対立も異教同士間だけでなくスンニ派とシ―ア派の対立も。 それと布教ができたかな? 改宗したら死刑の国もありますよね。
確かに誤解を招く書き方をしてしまったようです。クルアーンの中では、確かにイスラームは完全と書いてあります。
私の書いた文章の中で、良くなかったのは次の部分です。
「アッラーやクルアーンが完全であっても、人間は完全ではない。完全ではない人間の営みであるイスラムの枠組みが完全であるわけがない」
最後の部分が良くないですね。「イスラムの枠組みが完全であるわけがない」ではなく「イスラムの実践が完全であるわけない」などの記述にするべきでした。
理想のイスラムは完全かもしれませんが、人間が実際にそれを顕現できていないと言うことを書きたかったのです。
自分の中で理想のイスラムとは、イデア論のようなイメージで捉えている部分もあります。
そして、おそらく人間は誰であっても、完全なイスラムを実践できないかもしれないけれど、それに向かってひとりひとりが努力することが価値あるのだと思います。
理想と現実との「誤差を埋める努力」は大切でしょう。
ただ、人によってその程度は差があります。自分ができるからと言って他人ができるとは限らない。
また、ある人があるときに急に理想に向かって邁進するようなこともあるかもしれません。
自戒も込めて、完全でない人間が、完全なる理想との誤差を埋める努力をするには、焦らないことが大切かなと感じています。
私がブログで展開しようとしている趣旨とは異なりますので、今後、感想として読ませて頂きます。
一般的な「禁止」と、宗教的な「禁止」は別のものであると、私は思っています。
自分のブログでも書きましたが、一神教における禁止とはあくまで神の命令であって、理由を考える必要は無いと思っています。
ですから、よくムスリムの学者の方が「豚肉を食べない方がよい医学的理由」などと発表されたりするのも個人的には反対です。
なぜ、宗教が医学にすりよらなくてはならないのか? 「豚が健康に良かろうが、悪かろうが、神の命令だから食べられない」というのが、宗教的な禁止の意味だと思っています。
一方、非宗教的な禁止事項というのは、ある行動をだれかがすると、社会全体の枠組みが危うくなるからするものです。
アメリカの妙な法律が例に引かれることが多いですが(ライオンを連れて劇場に入るなとか)、「誰かが不都合なこと」をやると禁止事項とせざるを得ないということです。
ということで、宗教的な禁止と、非宗教的な禁止はわけて考えていきたいと思います。
その上で、宗教的な禁止のはずのものが、まさにその宗教を基盤とした社会の中で支持を集めているのはなぜかということを綴っていくつもりです。
時間がとれなくて、最近更新スピードが遅くなっていますけど…。
今後ともよろしくお願いします。
平安有れ
しばらくの間、ペースダウンは避けられませんが、このテーマについてはもう少し考えながら綴っていきたいと思っています。
また感想やご意見などを頂ければ幸いです。