7・30日の記事について、読者より :
大国主神の怨霊説のことは、わたしも知っています。大国主神は、出雲をはじめ九州から近畿、武蔵国あたりまでの広い範囲で幸せに暮らしていた先住の首長だったという説があります。大国主とは、大きな国の主という意味でありスサノオ命のように、固有名詞ではないそうです。古代出雲では、大国主の国を、まず比較的新しい時代に渡来してきたスサノオが平定したそうです。スサノオの支配はまだましでしたが、その後、九州からやって来た新たな渡来民族が残虐の限りを尽くし、原住民を支配したという説があります。もちろん、どこまで本当かはわかりませんが、富氏という先住民の末裔が、そう語っているそうです。伊勢ー白山道さまの霊視と部分的に似ているところが、興味深いです。
返答 :
実は、古代の超巨大な出雲大社の社殿をリーデイングした時
余りにも残酷な様子を霊視したので、この時の記事に書か無
かったことが有りました。
それは、社殿造営の為に、巨大な3本に束ねた柱を立てる時
の様子でした。
広大な平地に、まず土を盛り上げて行き、70m以上の高さ
の台形の小山を作ります。そして、頂上から垂直に、3本束の
巨柱の直径ぐらいの穴を、垂直に掘り下げていきました。
9箇所ぐらい、そのような70m以上の深さの垂直穴を、台形
の小山に堀ました。 問題は、穴が完成した時です。
工事をする奴隷のような気の毒な人々を、穴の上から、
生きたまま、堀投げる様子でした。1つの穴に、20名づつ
ぐらいを落としました。そして、今度は上から石を5mの高さ
分ほどの量を落とします。何とも言え無い悲鳴が、穴の中
から響きます。暫くの期間、その状態にした後、台形の山の
頂上で、3本の巨木を繋ぎ合わせた1本の60m級の巨柱を
寝かせた状態で組上げて、穴の上から落とし込みました。
9本の巨柱を穴に落としこみ、その上に社殿を造営しました。
そして、台形山の土を徐々に取り除いて行き、巨柱の間に
階段を筋交い状に取り付けて行きました。
山の土を全部取り除くと、そこには50mにも及ぶ高さの社殿
がそびえ建っていました。
これは、後世の人柱の原型にも成ったようです。
この工事をさせられた人々は、近畿圏・中国地方に古くから
居た住民達でした。九州から来た移民系の残虐な豪族は、
住民の中でも、若い健康な成人男性ばかりを捕虜にして
出雲に集め、この大工事を繰り返し実行しました。
ようは、謀反の防止の為に、疲労させる事と恐怖政治を維持
する為でした。異常な高さの社殿も、定期的に崩壊する為の
意味もありました。労働をさせる為の。
出雲は、古代の流刑地だったのです。
日本の悲しい過去が、そこに有りました。
生かして頂いて ありがとうございます
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私どものご先祖様のどなたかかが、出雲大社の造営に狩り出され、過酷な労働に使役されたあげく人柱として召されていたとしたら....
直接のご先祖様はいないかもしれませんが、召された方たちのお陰でご先祖様が生き残り、今の私どもが在るとしたら....
合唱させてください。
生かして頂いてありがとうございます。
埼玉県の「高麗神社」には、かつて朝鮮半島北部に
栄えた高句麗国からの渡来人高麗王若光が祀られています。
高句麗ではなく、百済(旧名コマ、古名?)を主張する方も
いるようですが・・・。
それはともかく、歴代の総理大臣や、現皇太子までの
皇室の参拝歴史があるようです。
禁足地の小山が気になりましたが、何か隠されているのでしょうか。
http://www.komajinja.or.jp/
実は2年ほど前にも出雲へ行ったことがあるのですが、その時は乗る予定だった寝台列車が台風で動かず結局次の日に新幹線で向かいました。夕方旅館について夕食を取った後、体調が悪くなりお腹を下してしまいました。夜、なかなか寝付けずにやっと眠れたのは朝方になってからでした。その時に夢を見ました。うっすらと霧のかかった森の中でミズラを結って白い衣装を着た男性(日本神話の神様みたいな格好)が5人くらいで火を囲んでいました。おかしな事に火はアルミ缶の中で焚かれていて、ミスマッチだな~と夢の中で思っていたことを覚えています。目が覚めた時に「ウタはウタキにまもられた」という言葉を覚えていました。それから出雲大社に出かけたのですが、体調不良で大変な思いをしました。このことをリーディングが出来る方にお話をしたところ「あなたは出雲で建物を建てるのに何かの関わりがあった」と言われました。
こちらの文面を読んで「もしかしたら私は虐殺をした側の人間だったのかもしれない」と気になりました。生きながら埋められ、柱の土台にさせられた人々の事を思うと胸が痛みます。今の私は虐殺はしてはならないことと知っていますが、もし、前世でそういった罪を犯していたとしたら…。もしそうだとして、出雲に行っても大丈夫か気になります。
勝手で申し訳ありませんが、コメントを頂けると幸いです。よろしくお願いいたします。
出雲というのは神無月に神々が寄る神聖な場所だと思っていましたから。
あんな悲惨な歴史があるなんて思いもよりませんでした。
私たちは本当の歴史を何も知らずに生きているのですね。
今日の出雲の話とは関係がないのですが
ひとつ教えてほしいことがあります。
猿田彦神という神は、実在の神霊なのでしょうか?
最近気になって仕方がないのです。
昼夜問わず脳裏に浮かんで仕方がありません。
よろしくお願いします
さて、今日、16歳の愛犬が逝ってしまいした。
以前、犬のお線香は半分に折ってお供えするとどこかに書いてあった記憶があります。
お線香は半分のを1本でいいのでしょうか?
また、何日くらい供養をすればいいのですか?
あと明日埋葬しようと思っていますが、何かアドバイスがあればお願いします。
愛犬を生かせて頂いてありがとうございました。
・・・太古にムー大陸が沈む前に、ムーの神官の
一部が、太陽神の寄り代となる石柱を持って、伊勢の
磯部町に辿り着きました。
これが、現在の伊勢神宮別宮 伊雑宮です。
天照太御神の実体が、現在も居る場所です。
本当の伊勢神宮です。
ムーから来た石柱は、超太古に石川県の白山山頂
に元は、あったものでした。
出雲地方の祭祀がかなり血なまぐさいものであることは、先述したとおりだ。が、巡礼を重ねてサイコメトリーを精緻化していくと、出雲の古代神殿では、宇豆柱を建てる前に、その下に生け贄を生き埋めにしている、というメッセージが得られた。また、山腹の神殿部分の建設にあたっては、生け贄を木に縛り付け、鳥につつかせるというやり方で、神殿の完成を祈願した。
当時の技術水準では工事は困難を極め、何度も倒壊し、当初の計画よりも低いところに神殿を建ててようやく完成した。しかも、神殿が倒壊するたびに、生け贄の数を増やして、神の加護をもらおうとした。
そもそも、古代出雲人には「個人」という概念がなかった。すべては氏族共同体の存続のためにあったのである。生け贄は「神の使い」として、共同体の想いを託し、神と一体化する尊い役目として神聖視されていた。生け贄には子供が使われることが多かったが、親も悲しみというよりは、神聖な役目を担う我が子に畏怖の念さえ覚え、誇りに感じた。いずれにしても、生きたものを、生きたまま神に捧げる事に意味があったのである。
愛媛大学・大学院教授 中村雅彦「21世紀の祓い」より