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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

時代小説と小説の reality 【その5】

2006-10-23 06:14:58 | Criticism
なぜ、小説家は歴史小説を書くのでしょうか。

その問いに答えるために、まず森鴎外の場合をみてみましょう。

鴎外の場合も、三田村鳶魚と同様に「古典主義者」だったと思います。

彼が歴史小説を書き始めた、日露戦争後の日本社会は、
「自由は規律とモラルがあって、はじめて謳歌され得る。野放図な自由は自由の名に値しない、それはただの自堕落とむきだしのエゴの突出にすぎない」(関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』)
そのような時代であると、鴎外には思えたのです。

それに対し、江戸時代はどうだったでしょうか。
鴎外には、
「封建期を未開の遅れた時代とみなす時代の気分への強い反感がひそんでいました。江戸時代をなんら学ぶべきもののない時代と考え、そう教えていた度合は、現代より明治のほうがはなはだしかったのです。革命によって成立した新政府が前代を完全否定したがるのは、おのれの存在理由の正当化のためです。」(関川、前掲書)

1912(大正1)年9月に、鴎外は最初の歴史小説『興津弥五郎衛門の遺書』を書きます。
この年代に注目していただきたい。この年、7月30日に明治天皇が亡くなり、大正と時代が変わった。
その明治天皇の死に、鴎外が触発されて書かれたのが、この歴史小説だったというわけです。より正確に言えば、明治天皇の死とそれに引き続いて起こった乃木希典夫妻の殉死が、そのきっかけといった方がいいでしょう(同年9月13日)。

まず、明治天皇の死去によって、鴎外は、ある時代の終りを感じざるを得なかった。それは、1862(文久2)年生まれの鴎外だけではなく、1867(慶応3)年生まれの漱石も同様でした(漱石は『こゝろ』を書く*)。
*『こゝろ』には、「先生」の手紙として、次のような一節がある。
「すると夏の暑い盛りに明治天皇(めいじてんのう)が崩御(ほうぎょ)になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後(あと)に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈(はげ)しく私の胸を打ちました。」(『こゝろ』五十五)
また、1868(明治1)年生まれの徳富蘆花は、
「明治が大正となつて、余は吾生涯が中断されたかの様に感じた。明治天皇が余の半生を持つて往つておしまひになつたかの様に感じた。」
と『みみずのたはごと』に書き付けている。

乃木将軍の殉死は、鴎外に次のように感じられたろう、と関川夏央は述べています。
「これが本人の意志がそうであったというのでは必ずしもありませんが、明治帝ではなく時代の終焉に殉じたと考えることもできます。少なくとも、鴎外や漱石はそのように実感したろうと私は考えます。大葬の現場で乃木夫妻の死を知った鴎外は、帰宅するとすぐに『興津弥五郎衛門の遺書』を書きはじめ、数日のうちに完成させました。」(関川、前掲書)

つまり、鴎外の場合、「歴史」に関する実感(手触り)が彼の歴史小説を生んだというわけです。
その場合、そうした実感(手触り)を、私小説のようにもろに自分のこととして提示しないで、ワン・クッション置いたところに、歴史小説という形が生まれたのでしょう。

そう言えば、司馬遼太郎も小説の上で、主人公と「私」を重ねることのない小説家でした。

この項、つづく


関川夏央
『おじさんはなぜ時代小説が好きか』
岩波書店
定価:1,785 円 (税込)
ISBN4000271040

時代小説と小説の reality 【その4】

2006-10-22 04:36:11 | Criticism
当然のことながら、歴史小説のみならず一般の時代小説にも、無意識の内にせよ、作者の歴史観が潜んでいます。

おそらくは、一番大きなものは、江戸時代をどのような時代として捉えるか、ということでしょう。

近年では大分是正されてきたとはいえ、一般には、江戸時代=暗黒時代という歴史観が幅広く通用していたようです。
八王子千人同心の子孫である三田村鳶魚は、それに対して『大衆文芸評判記』の中で、こう述べています。
「薩長が新政府で跋扈するとともに、江戸の幕府というものをむやみに悪くいうことにして、学校の教科書なんぞにもそういう意味のことを書いた。大衆小説の作家なんぞは、わけもわからずに、そういう教育を受けたから、わけもわからずに、こんなこと(「政治を私し、民を絞る大盗徳川」)を書いている。幕府の功罪というものは、六十年たった今日でも、まだ本当に考えられることが少い。教育というものは恐しいもので、時に赤いものを黒いとすることもある。」(「林不忘の『大岡政談』」)

鳶魚翁が指摘したように、江戸時代観を形づくった明治政府の教育のせいもあるでしょうが、それ以外に、小説観の問題も、ここには絡んでくるから、そう簡単には解決できるわけのものではない。

まず江戸時代観の問題として、ここで指摘しておきたいのは、鳶魚翁は江戸時代を平和であるが、スタティックなものと考えていたことです。そして「規範」というものが生きて働いていた時代であると。
つまり、侍は侍らしく、町人は町人らしく生きるために「規範」が働き、それゆえに二百数十年の平和な社会を作っていた、ということです。

ですから、鳶魚翁は、時代小説にもそのような「規範」を前提とした「時代考証」が必要だと考えていた。
「昔の人間の口語を現代語にうつすということについては、随分骨も折っておられるようであが、どうもその人間がそこに現れて来るようにはゆかない。昔の人間の思想なり、心持なりを現すというよりも、作者の現在の心持を現しているもののようにのみ思われる。」(「島崎藤村氏の『夜明け前』」)

そういう点からすれば、鳶魚翁は「古典主義者」であるともいえましょう。
ここでの「古典主義」というのは、次のような意味に考えておいていただきましょうか。
「古典主義を成立させる人間観は、人間とは本来的に限られた存在、堕落した存在――むしろ『原罪的』ともいうべき存在であるという思想であった。したがって、彼等にはなんらの価値をも自律的に、内発的に実現しうる能力はない。わずかに理性による抑制、規範による伝統というようなものをまってはじめて、積極的な価値を想像しうるにすぎぬとするのである。」(中野好夫『英文学夜ばなし』「浪漫主義と古典主義」)

これに対して、一般の時代小説家は、時代小説が「講談」の庶子であり、「活動写真」の兄弟であったことから分るように、その人間観において(また、広く歴史観において)「浪漫主義」的でありました。
「浪漫主義の基底になっている人間観は、一口にいえば人間万歳の思想――人間とは生まれながらにして『内なる光(インナー・ライト)』をもった善なる存在であり、そこには無限の可能性が内在させられている。その本来の人間性が発揮されなかったり、人間世界に悪や不幸が存在するのは、それらを抑圧する悪しき制度や法や因襲があるからにすぎぬ。それらさえ除かれれば、人間は限りないその完全性を実現しうるはずだという――言葉をかえていえば、実に大胆な人間讃美、人間肯定の哲学であった。」(中野、前掲書)

それが、過去に投影されると、明治以降の歴史教育とはまた別に、江戸時代はダイナミックな時代である、という認識になるわけです。

この項、つづく


中野好夫
『英文学夜ばなし』
岩波同時代ライブラリー
定価:968 円 (税込)
ISBN4-00-260152-8

時代小説と小説の reality 【その3】

2006-10-21 07:01:50 | Criticism
小説における歴史観まで問題になると、もはや「時代小説」というよりは、「歴史小説」と呼んだ方が適切になってきます。

しかし、それでも「ロマンいっぱいな作品」(『三田村鳶魚全集 第24巻』月報、座談会「鳶魚と時代小説」尾崎秀樹発言より)は、「柴田錬三郎から山田風太郎になり、あるいは半村良に至る」(同発言)路線として引き続いています(現在だと、誰になるのでしょうか)。

また一方で、尾崎は、歴史小説的路線として「吉川英治から司馬遼太郎に至る線」を指摘しています。

以上は、いわば類型的な見取り図で、中には隆慶一郎のような、両者を包み込むような作家もいるのですが……。

ここでは、歴史小説での「小説としての reality 」を考えてみましょう。

歴史書を読むと、歴史的事実は現在に近づけば近づくほど、何もかもがはっきりしているようにも思えます。
しかし、あらゆる歴史において、事実がすべてが明らかになっているわけではない。とくに大文字の「事件」だけではなく、日常茶飯事になればなるほどはっきりとはしていない。

歴史家とは違って、多くの小説家は、そこにこそ reality を保障するものがあると見ているようです。

吉村昭が歴史小説を書く場合には、描くべき、その日の天候から調べ始めたといいます。
「天保十五(1844)6月中旬――、
 江戸大伝馬町の家並には、暑熱がよどんでいた。まばゆい陽光にさらされた道は、白っぽくかわき、陽炎が立ちのぼっている。道を往きかう人々はしきりにながれる汗をぬぐい、にを背にした馬の体毛も汗にぬれていた。
 陽がかげり風がおこって、かわいた馬糞が土埃とともに舞いあがった。黒い雲がながれ、あたりが暗くなった。
 不意に大粒の雨が点々と落ちはじめ、またたく間に密度を増した。」
これは、吉村の『長英逃亡』冒頭の文章です。
この日、主人公である長英が、小伝馬町の牢獄に収容されたのです。

吉村にとっては、このような天候という小事実が、大事実の reality を保障するものとなっているわけです。

一方、登場人物の台詞の時代性に、それを求める作家もいます。

中村彰彦の場合は、「ことばの成立年代」にこだわる。
「『日本国語(大辞典)』〈あんさつ【暗殺】〉の項を引くと〈やみうち〉その他の語意の説明につぎ、このことばの初出文献が紹介されている。いわく、
『和英語林集成(再版)』〈Ansatsu アンサツ 暗殺(ひそかに ころす)〉
『和英語林集成』はアメリカ人ヘボンの編纂した辞書であり、その再版の刊行は慶応2年(1866)以降のこと。ここまでわかれば、たとえば万延元年(1860)3月3日に大老井伊直弼が桜田門外で水戸浪士たちに殺された事件を小説化する場合、
『大変だ、大老の井伊さまが暗殺されましたぞ」
 などというせりふを登場人物にしゃべらせてはならない、ということも自動的にわかる。」(中村彰彦『史談・信長に仕える苦労』)
という具合です。

このように、歴史小説での「小説としての reality 」を保障するものとして、何を最重要視するかは、作家によって異なりますが、いずれにしても些細な事柄が大きな reality を支えていることは、お分りになったでしょう。

ここでも繰り返せば、
 「神は細部に宿り給う」
  (Der liebe Gott steckt im Detail)
わけです。

この項、つづく


吉村昭
『長英逃亡(上)』
新潮文庫
定価:580 円 (税込)
ISBN4-10-111725-X

時代小説と小説の reality 【その2】

2006-10-20 04:58:27 | Criticism
大衆時代小説の先駆、
明治時代末期から大正時代にかけて人気を得た「立川文庫」。
発行元の「立川文明堂」の創業者が
立川熊次郎(たつかわ・くまじろう、1878 - 1932) であるところから、
「たつかわぶんこ」と呼ぶのが正しいようだ。
一般には、「たちかわぶんこ」「たてかわぶんこ」とも。

前に述べた三田村鳶魚の『大衆文芸評判記』(1933) に大衆小説(とくに時代小説)について、その始まりが書いてありますので、若干の引用を。
「大衆小説というものは、今から数年前に、雄弁会(今日の講談社の前身:引用者註)が『講談倶楽部』を出して、講談の筆記を載せていたのでしたが、そのうち講釈師と衝突して、雄弁会には筆記を載せさせないことに、仲間で相談をきめたことがありました。その時に雄弁会が困って、思いきってやさしく通俗的に、講釈師のようなものを小説に書いて貰う、ということを始めた。中には講釈の筆記をやっていた人なども、別の注文のわかりやすい小説というものを書き出した。それが案外な当りを取って、よその社でもそれをやるようになり、講釈風なものだけではまだいけないというので、活動の模様を取り入れたものを仕立てて、それが大はやりになって、ついに現在の状況に到った。」

ですから、当時、外務省嘱託を辞めた大佛次郎*(おさらぎ・じろう、1897 - 1973) や、アメリカ帰りの林不忘(はやし・ふぼう、1900 - 35。本名長谷川海太郎。牧逸馬や谷譲次のペンネームでも執筆) などの、若手の執筆者が時代小説をどしどしと書き始めたわけです。
*「洋書を買い過ぎて、お金がなくなって〈大衆小説〉を書き始めた」というエピソードもある(井上ひさし、小森陽一編著『座談会 昭和文学史三』)

勢いに任せて、勉強が不充分なまま、時代小説を大量生産したのですから、
鳶魚翁に、
「(小説の登場人物の言動が)まるでこれでは書生さんだ。下宿屋の二階だ。応対も沢山あるが、それが皆書生さんだ」
と言われてしまう。

というような出自を持つ時代小説ですが、戦後になると「清張史観」「司馬史観」と言われるようにまでなる。
松本清張のケースは、昭和史がメインになりますが、司馬の、
 「資料を集め始めると、関連する古書が古本屋から払底した」
というエピソードでも分るように、史料を豊富に使うような書き方がされるようになる(とは言え、小説=フィクションですから、史料の取捨選択は、歴史家とは違った視点から行なわれます)。

そうなってくると、問題は、昭和戦前期に鳶魚翁が指摘したような点だけではなくなる。つまり「史観」、歴史をどのように見るか、という側面からの批判なり批評なりが必要になってくるのです(もっとも、三田村鳶魚の『時代小説評判記』「島崎藤村氏の『夜明け前』」には、藤村の史観を問題にした一節もあるが)。

この項、つづく

時代小説と小説の reality 【その1】

2006-10-19 00:10:14 | Criticism
木村黙老描く『平賀源内肖像』
(『戯作者考補遺』より。慶応義塾図書館蔵)
源内も、小説により、さまざまな人物像に描かれてきた。

近代リアリズム小説の理念は、マシュー・アーナルド(Mattew Arnold, 1822 - 88) が『アンナ・カレーニナ』について述べた、次のようなことばに言い表せるでしょう。
すなわち、
「我々は『アンナ・カレーニナ』を藝術として受けとるべきではない。我々はそれを実生活の一片として受け取るべきだ……作者はそれが事実としてそのように発生したのを見たのである……彼の小説はこのようにして藝術に於いて失ったものを現実 reality に於いてかち得たのである」(伊藤整『小説の方法』より再引用)
ということです。

これを読者サイドからすれば、われわれは、小説に現実の一片を感じ取るわけで、それは時代小説であろうが現代小説であろうが、変わりはありますまい。

その現実の一片を感じさせるために、作者はさまざまな工夫を凝らすわけですが、とくに時代小説の場合には、「時代考証」(用語の時代性を含めて)が reality を保障するための一つの部分を占める。
だからこそ、三田村鳶魚は「時代考証」をうるさく指摘したわけで、単なる老人の懐古趣味というわけではありません。

もう一つ、小説の reality を保障するものに、キャラクターの言動や価値観というものがあります。

われわれ読者は、このような性格の持主は、このような行動や価値観を持っているに違いない、という「先入観」があります。ですから、読者の「先入観」を前提にして、小説の登場人物は造形されているわけです(もちろん、それを裏切るような新しい人物像を提示する場合もある。それに説得性を与えるのは、作者の「腕」ということになる)。

ただ、時代小説の場合、キャラクターの行動や価値観は、その小説がどのような目的意識の上に作られているかによって、かなり違ってくることも事実です。
ここで、以前に述べた大岡昇平の「歴史小説の2類型」という考え方を導入するのが理解しやすいでしょう。つまり、
「A.過去の再現という、歴史の線に沿ったもの。
 この場合、近代的レアリズムは、場面と人物の再現について、歴史に協調的に働く。
 B.現代社会の諸条件では不可能な状況を、歴史をかりて設定し、人間のロマネスク衝動を満足させるもの。」
という2類型です。

〈類型A〉の場合、登場人物の言動や価値観には、歴史的な制約条件があります。ですから、このケースでは、よほどのことがない限り、登場人物が現代的な価値観に則った言動をすることはありえません。
――余談ですが、以前TVドラマで、北条時宗の正妻が、自分の息子は優しい子なので武士にしたくはない、などという台詞を吐いていましたが、自分の生んだ子に執権を継がせたくない母親などは、この時代あり得ない。それとも、あれは歴史ドラマではなく、ホーム・ドラマだったのでしょうか。「平和愛好家」の豊臣秀吉なども、よくドラマに登場するけどね。

反対に〈類型B〉の場合には、極端な話、何でもあり、ということにもなる。
これもTVドラマの話で言えば、1971~72年に放映された『天下御免』(早坂暁脚本)などが、その好例ということになるでしょう。

伝記小説の場合は、〈類型B〉的なものを作ることもできましょうが(『天下御免』でさえ、平賀源内という歴史的人物を主人公にしていた)、多くは〈類型A〉ということになりましょう。

したがって、「登場人物の言動や価値観には、歴史的な制約条件がある」のは当たり前の話。史料で裏付けられない部分においても、安易に現代的価値観に基づく言動を取らせるわけにはいかないのです。

この項、つづく

三田村鳶魚翁、ふたたび。

2006-10-18 05:54:14 | Criticism
昭和戦前期に、三田村鳶魚(みたむら・えんぎょ、1870 - 1952) という江戸文化や風俗の研究家が、当時流行っていた時代小説を、時代考証という観点から斬りまくった 『大衆文芸評判記』(1933) や『時代小説評判記』(1939) という文章を発表しました。

前者で槍玉に挙がったのは、直木三十五『南国太平記』、大仏次郎『赤穂浪士』、吉川英治『鳴門秘帖』、中里介山『大菩薩峠』などの時代小説10編、後者では、崎藤村『夜明け前』、吉川英治『宮本武蔵』、邦枝完二『女忠臣蔵』、菊池寛『有馬の猫騒動』、藤森成吉『渡辺崋山』など8編。

「当時の流行作家は、江戸のお目付役鳶魚を恐れると共に彼の著作を必読文献とした」とのことです。

まあ、それだけ時代小説を手掛けた作家には、「時代考証」という観念が乏しかったともいえる。
それ以降、多少なりとも鳶魚の苦言が役に立ったのか、講談と違わない程度の、さほどデタラメなものはなくなったように思えます(「大衆小説におけるライバル」での同人誌「実録文学」の記述などを参照)。

また、より広い観点からですと、歴史観と史料の取り扱いに関して、大岡昇平の『歴史小説論』などの著作も出てきています(大衆文学のみならず、歴史小説一般を読み/書くという意味で役に立つ)。

けれども、また最近の時代小説に目を通していると、鳶魚以前のレベルの作品が結構多いのね。
少なくとも、リアリズム小説という手法を採っている限り、「時代考証」という側面を無視することはできないと思うのですが……。

一例を挙げてみましょうか。

ターゲットは、谷恒生『新井白石――国家再建の鬼』(学陽書房)。
「(吉原の)大門前の日本堤には、けとばし屋、猪鍋屋、どじょう屋、鰻屋など精力のつきそうな食べもの屋が軒を連ね……」
とあります。
これらの店が、元禄時代からあったか、ということもありますが*、それよりも大きいのは、日本堤の様子。
広重の『名所江戸百景』「よし原日本堤」を見てもお分かりのように、よしず張りの小屋はあっても、とても「食べもの屋が軒を連らね」という具合ではない(まして、広重より100年以上前の元禄においてをや)。
どうも、この作家、現代の「土手通り」と誤解しているんじゃないかしらん。
*鳶魚の『天麩羅と鰻の話』には、
「うなぎ蒲焼は天明のはじめ上野山下仏店にて大和屋といへるもの初めて売出す」(『世のすがた』、1833年・天保4年刊)
との史料が出ている。天明は18世紀後半だから、元禄とは100年近い差がある。

その他、江戸城西の丸で、
「ちかくの料亭『いちむら』からとりよせた仕出し弁当をひろげていた」
なんて記述があります(この人、食い物の記述に妙なクセがある)。
まさか、お城に岡持を持った料亭の若い衆が出前してくれたんじゃないでしょうね。

あまり本質なことではない、とお思いでしょうか。
しかし「神は細部に宿り給う」。
ちょっとした部分に嘘っぽいところがあると、読者に全体の信頼性を疑わせることにもなりかねません。

やはり、三田村鳶魚翁に再度お出ましいただいた方が宜しいのではないでしょうか。

三田村鳶魚
『時代小説評判記』
中公文庫
定価:820 円 (税込)
ISBN4122035260

三田村鳶魚
『大衆文芸評判記』
中公文庫
定価:999 円 (税込)
ISBN4122035074


大衆小説におけるライバル

2006-10-16 02:28:46 | Criticism
五亀亭貞房が描いた佐々木小次郎
(長府博物館蔵)

この国の大衆小説で、ライバル(好敵手)という考え方が定着したのは、いつごろのことなのでしょうか。
実際に調べてみると、これが意外に遅く、昭和10年代のようです。

例えば、江戸時代から知られていた「武田信玄と上杉謙信」との関係にしても、かなり遅くまでライバルという捉えられ方はされていなかったんじゃないかしら。
「敵に塩を送る」という有名なエピソードにしても、二人の関係はあくまでも「敵同士」でありまして、塩を送ったのは謙信の「仁」を強調するためだったようです。
――余談になりますが、このエピソードが事実かどうかには疑問が残ります。
というのは、戦国武将において「仁」などは邪魔な観念だったからです。
「それ謀略は武の捷径なり。(中略)意(おも)ふに、禽獣にして巣を作り穴を穿(うが)つに、自然の謀(はかりごと)あり。然(しか)らずんば、何を以てか生命を保たんや。いはんや人倫においてをや。」(『武経要略』。佐伯真一『戦場の精神史』より再引用)

さて、「宮本武蔵と佐々木小次郎」という関係があります。
葛飾北斎の絵を見ると、二人はどちらも中年男で、どう見てもむくつけき武芸者にしか見えない(「和漢之誉」)。

それ以上なのが、講談を元にした、明治時代末から大正時代に流行った「立川(たちかわ)文庫」。
ここでの小次郎(「巖流(がんりゅう)」と言った方がいいかもしれない)は、武蔵の養父新免無二斉を斬殺した「憎き敵役」。蓬髪茫々で容貌魁偉という形象化がなされていた。
ここにあるのは、「善玉」対「悪玉」という単純なドラマツルギーなんですね。

それを前髪立ちの若衆姿に変えたのが、1935(昭和10)年に書き始められた吉川英治(よしかわ・えいじ、1892 - 1962) の『宮本武蔵』。

これが、ライバル(好敵手)という考え方が定着した時期を考える上での、一つの傍証になると思います。

どうやら、大衆文学の世界で、「様式の定型化」(例えば、善玉」対「悪玉」という単純なドラマツルギー)から、「対蹠的性格技法による性格の相剋」(「ライバル」の登場)に移り変わったのは、昭和10年代のことのようです。

文藝評論家の磯貝勝太郎(いそがい・かつたろう、1935 - )によると、1935年に創刊された同人雑誌「実録文学」が、大衆文学における近代化の一つのメルクマールのようです。
この同人雑誌に関係した作家には、木村毅(きむら・たけし、1894 - 1979)、笹本寅(ささもと・とら、1902 - 76)、海音寺潮五郎(かいおんじ・ちょうごろう、1901 - 77)などがいますが、海音寺の作品がその具体例としては適切でしょう。

その嚆矢が『柳沢騒動」(1938:昭和13年9月~12月「実録文学」掲載)。
従来は、
「柳沢吉保が、その妻を綱吉の枕席に侍せしめ、その結果として生まれた吉里に徳川家を継承させようとする野心をもって、綱吉をたくみにあやつったとう俗説『柳沢騒動』)(磯貝「海音寺潮五郎『吉宗と宗春』巻末解説」)
だったのですが、それを「綱吉と光圀の性格対比」の元に描いた作品だそうです。
つまりは「御家騒動」ものという「様式の定型化」を、「対蹠的性格技法による性格の相剋」に変えたというわけですね。
そのような流れの一端として「ライバル」という関係も出てくる。

この解説が載っている『吉宗と宗春』なんかが、吉川英治『宮本武蔵』と並んで、その実例となっていると思われます。

海音寺潮五郎
『吉宗と宗春』
文春文庫
定価:469 円 (税込)
ISBN4-16-713532-9

伝記小説における「悲劇」について

2006-10-07 01:03:34 | Criticism
歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』では、浅野内匠頭は、
「塩冶判官(えんやはんがん)時貞」となる。
彼の「悲劇」に同情するのが「判官贔屓(はんがんびいき)」。
これに対して、「九郎判官(ほうがん)義経」に同情するのが、
「判官贔屓(ほうがんびいき)」。

前回、篠田達明の伝記小説『白い激流 明治の医官・相良知安の生涯』を元に、「悲劇」についていささか触れてみました。

繰返しになりますが、この小説の場合、著者は、悲劇的な結果に至ったのは、主人公の性格(性格悲劇的側面)と、時代状況とに原因あり、としていると述べました。そして、小生の評価としては、どちらの原因についても、描き方が不十分であるとも。

そこで今回は「悲劇」がなぜ人の興味・関心を惹くかを考えてみようと思います。

大きな理由としては、得意/幸福の絶頂(世俗的成功、宗教的昂揚、科学的真理の発見、恋愛での勝利、など)から、絶望/不幸のどん底への転落に、その「落差」に、「人の生き方」のダイナミズムをみることの快感があるでしょう(「落差」が大きいほど、その人物は巨人に見える!)。

われわれの日常には、多少の起伏はあるものの、それほど極端な変動を見ることは少ないでしょう。「悲劇」は、それを極端な形で見せてくれるため、われわれは「人の生き方」といったものを、マクロな形で感じてしまう。
そこにダイナミックなものを見ることの快感を得るのではないでしょうか(ルサンチマンの解消というのも、いささか含まれていることを否定しはしませんが)。
――また、この国の場合「判官贔屓(ほうがんびいき/はんがんびいき)」という感情傾向もあって、〈敗者〉=〈「悲劇」の主人公〉に同情することの快感もある。そこには、日常生活の自らの不幸を主人公に投影するという側面があることを否定できない。「一掬の涙を注ぎ」、自らの不幸を、幾分なりとも解消しようとするわけです。

ですから、小説家は、そのダイナミズムを感じさせるために、若干の誇張を含ませながらも、あの手この手を使って、絶頂とどん底との対照=「落差」を表現しようとする(ごく一般的な小説の場合、その差があればあるほど、読者の感情に訴える力が強くなる。また、その人物を偉大に見せることもできる)。
伝記小説の場合には、そのような人物を選ぶ、ということになるわけです(あるいは、部分的に「悲劇」の要素を取り入れることもできる)。

篠田達明の作品の場合でいえば、
「知安は大学東校の実質的な切り回し役として、医療制度の改革に没頭していた。
 日々は平安に流れてゆくように思われたが、医制の仕事は多忙をきわめた。なにしろこれまでに経験したことのないまったくあたらしい日本の医事制度をつくらねばならぬのだ。知安は八十五条にわたる医制の草案をまとめて役所に提出した。」
という部分までが、得意の絶頂期。
「そこは四畳半一間に台所があるだけで畳も障子も破れ放題、天井は煤(すす)ぼけ、廂(ひさし)はかたむいて、ようやく雨露をしのぐありさまだった。
 かつての同僚や後輩はことごとく出世し、世にときめいて富と栄誉を誇っている中で、ひとり知安は裏長屋の一角に身をひそめていた。」
と、貧窮のどん底が描かれるというわけ。

これが「落差」ではありますが、構成を意識してつくるなら、環境描写の対照や、経済状況の対照、服装の対照、など、もっと図式的な「対照性」を明らかにしてもいいくらい(露骨じゃあ困るけど)。

以上、あくまで近代リアリズムの場合。
なにせ、「大衆小説」「中間小説」などの「非純文学」の場合、近代リアリズムの技法がまだ主流だからね。

「開戦法規」(jus ad bellum) における6つの条件

2005-12-21 08:52:36 | Criticism
今回は、私見は一切抜きにして、「倫理的に戦争を制約する」ための「戦争に対する法」=「開戦法規」をご紹介する。

読者各自が、それぞれの知識に基づき、日中戦争でも、太平洋戦争でも、その他の戦争でも、これに照らした場合、どのような判断が得られるかをご判断願いたい。

(1) 開戦の理由が正義に基づいていること (Just Cause)。
(2) 正当な権威が開戦の決定を下すこと (Right Authority)。
(3) 正当な目的をもって開戦を決定すること (Right Intention)。
(4) 戦争が最後の手段であること (Last Ressort)。
(5) 戦争の目標が新たな平和にあること (Emergent Peace)。
(6) 目的と手段の釣合いが取れていること (Proportionality)。

ご参考のために、「戦争における法」=「交戦法規」も挙げておく。

(1) 戦闘員と非戦闘員との区別(Discrimination)
(2) 二重結果(Double Effect)

*「戦闘行為は二つの結果をもたらすことがありうる。第一は、正当な軍事目標の破壊という意図した結果であり、第二は無辜の民の殺傷という意図せざる結果である。戦闘行為が無辜の民の殺傷を意図しない限り、意図せざる、あるいは付随的損失として許容される。」
(3) 目的と手段との釣合い(Propotionality)
*「悪の総量が、得られる善を上回ってはいけない」

参考資料 加藤朗、長尾雄一郎、吉崎知典、道下徳成『戦争―その展開と抑制』(勁草書房)

「現代音楽」を聴く難しさ

2005-09-27 01:09:56 | Criticism
吉田秀和氏は、エッセイ「新音楽への視野」(『吉田秀和全集3』所収)で、
「現代音楽はむずかしいといわれている。旋律らしい旋律がない。古典やロマン派の音楽のように気持のよい、きれいな響きがしなくて、何かわけのわからない、きたない音がするなど、要するに『音楽らしい』ところが少ない」
ことが、とっつきにくいと思わせる原因であると書いている。

それは「慣れ」の問題でもある、と吉田氏は説く。
「昔からある作品(一風斎註・ゲーテの詩、シェイクスピアの演劇、ドストエフスキーの小説、レンブラントの絵、ゴチックの彫刻)はみんななんとなく慣れてしまっている。だからわかるような気がしているだけなのだ」。
けれども、それを本当に「慣れ」の問題に還元できるのか。

現代音楽とは何か、ということはさて置こう。そうしないと、議論が脇道に逸れるばかりで、前に進まない。
ここでは、第2次世界大戦後に作曲された音楽、とザックリした共通認識に留めておきたい。

このような現代音楽に共通する特徴は何か?

吉田氏の前述の文章に基づき、整理すれば、

(1) 旋律らしい旋律がない。
*無調・12音技法・セリエリズムなどなど
(2) 古典やロマン派のように気持のよい、きれいな響きがしない。
*上記の音楽語法による機能和声の否定
(3) わけのわからない、きたない音がする。
*(2)に付け加えるに、新楽器(ミュージック・コンクレートや電子音楽も含む)・新奏法・民族音楽の取入れや組込み
ということになる。

その原因としては、常に作曲家は新しい表現を求めているからだと言えるだろう。
考えるに、背景にあるものは、1つは、芸術の価値がオリジナリティにあると、より強く意識されるようになったということ。もう1つは、聴衆に新しい価値観なり美意識なりを突きつけたいから、ということであろう。
要するに「尖った音楽」がベストという価値観ですな。

従来の音楽観を壊したくない、という態度が、クラシカル音楽の聴衆に根強くあるのは否定できない。
―ー文藝批評の語をもじれば「聴衆反応批評」(lisener-response criticism) における「修辞的な示し方」(rhetorical presentation) を享受する層ということになりますか。
これに対して「尖った音楽」=「弁証法的な示し方」(dialectical presentation) を良しとする層もある、というわけ。

この前者に対して、「慣れれば難解でも何でもなくなりますよ」、という形での啓蒙活動は、ある種の不毛ではないかと思える。

吉田氏が、
「難解だといわれる現代音楽の中にもバッハやモーツァルトよりは、はるかにやさしいものがたくさんある。ただ、その音が新しいので、聴き手の理解がききにくい音のその先にある精神的な内容の問題を考えるところまでとどかないのだ」。
と、いくら「修辞的な示し方」を享受している層に向け発言しても、彼らは言うだろう、おそらくは物理的に音楽が聴けなくなるまで。
「おっしゃりたいことは良く分りました。けれども、私は、自分がこうであってほしいという世界を疑似体験し満足するタイプですから」
と。

啓蒙活動が不毛であるとすれば、どうすれば良いのか?

小生、その根が、学校教育を含めた音楽教育にあると思っているので、まず短期的な戦術は無効であろうかと思う。

では、長期的な戦略は、どの辺にあるのか?

それは、次の機会に。