何世代か前の「~を聴かねばならない」とか「~はこのように聴くべきだ」という言説に対して、「好き/嫌い」「面白い/面白くない」という感覚で判断する傾向が出てきたのは、ある意味で当然のこと。
ただし、1リスナーとしての発言ではなく「評論」となると、それだけではすまないのは明らかである。自らの感覚や感性を基準とする以上、その感覚なり感性なりを客観的に表現できなければ、他人には伝わらないからだ。
単に「分る人には分ればいい」とうそぶいているだけでは、「評論」とはならない。あくまでも「評論」とは、文章によるコミュニケーションの1つ、表現の1手法であるから(今さら、故小林秀雄の名を挙げるまでもあるまい)。そうでなければ、自らの感覚や感性を表すための音楽活動(作曲や演奏)をして、それを伝えなければならない。
あるブログで次のようなことばが紹介されていた。
「センスのない学者と学識のない批評家。これは世の習いである」
と。おっしゃる通り。
小生が述べているのは後者の「学識のない批評家」についてである(ここでは前者については触れないが、「センス」には時代感覚ということ以外に、文章における「藝」も含まれる。最近の学者さんは、読みやすい文章を書くようになってきているが、「藝」のない人がまだ多い)。
映画は、ヴィデオなどコンテンツをパッケージしたメディアが登場したため、知識は豊富になったが、それに伴う歴史的パースペクティヴを持っていない人間も多くなったと言われる(小林信彦のエッセイには、そのような口吻がたびたび洩らされている)。
まあ、それも善し悪しで、通時的(diachronic) に映画を捉えるだけが能ではなく、共時的(synchronic)に考察すると見えてくるものもあるだろう。
音楽に話を戻すと、こちらは100年以上前から、レコードという形でパッケージングされたメディアが登場してきている。
そのために、歴史的パースペクティヴを失ったリスナーが増えたか?
演奏に関しては、そうかもしれない。かえって、相当以前の指揮者や演奏家を範とするマニアが出てきているのは否定できない。
しかし逆に、「音楽史」なるものが昔から記述されているために、その枠からなかなか抜け出せないとも言える。
つまり、映画とは逆に、通時的に捉えがちで、共時的な見方ができにくいということだ。
というのも、「学識のない批評家」が多いからだろう。
お決まりの「音楽史」に則って発言することは、たやすい。
けれども、共時的な見方をするためには、理論の裏づけなり、オリジナリティが必要になってくる。そこで物を言うのが「学識」。
それが乏しいが故に、ついつい安易な方向での発言をしてしまう。まさしく音楽評論家の怠慢である。
それならば、実作者で筆の立つ人の発言の方が、よっぽど役立つというもの。
幸いにも、故柴田南雄氏、別宮貞雄氏などの著作は、実作の体験を踏まえた理論的記述が多く、いまだに価値を失っていない。
再度繰り返す。
はてさて、音楽批評業界は、このままでいいんだろうかね。
ただし、1リスナーとしての発言ではなく「評論」となると、それだけではすまないのは明らかである。自らの感覚や感性を基準とする以上、その感覚なり感性なりを客観的に表現できなければ、他人には伝わらないからだ。
単に「分る人には分ればいい」とうそぶいているだけでは、「評論」とはならない。あくまでも「評論」とは、文章によるコミュニケーションの1つ、表現の1手法であるから(今さら、故小林秀雄の名を挙げるまでもあるまい)。そうでなければ、自らの感覚や感性を表すための音楽活動(作曲や演奏)をして、それを伝えなければならない。
あるブログで次のようなことばが紹介されていた。
「センスのない学者と学識のない批評家。これは世の習いである」
と。おっしゃる通り。
小生が述べているのは後者の「学識のない批評家」についてである(ここでは前者については触れないが、「センス」には時代感覚ということ以外に、文章における「藝」も含まれる。最近の学者さんは、読みやすい文章を書くようになってきているが、「藝」のない人がまだ多い)。
映画は、ヴィデオなどコンテンツをパッケージしたメディアが登場したため、知識は豊富になったが、それに伴う歴史的パースペクティヴを持っていない人間も多くなったと言われる(小林信彦のエッセイには、そのような口吻がたびたび洩らされている)。
まあ、それも善し悪しで、通時的(diachronic) に映画を捉えるだけが能ではなく、共時的(synchronic)に考察すると見えてくるものもあるだろう。
音楽に話を戻すと、こちらは100年以上前から、レコードという形でパッケージングされたメディアが登場してきている。
そのために、歴史的パースペクティヴを失ったリスナーが増えたか?
演奏に関しては、そうかもしれない。かえって、相当以前の指揮者や演奏家を範とするマニアが出てきているのは否定できない。
しかし逆に、「音楽史」なるものが昔から記述されているために、その枠からなかなか抜け出せないとも言える。
*従来の「音楽史」は、美学的な「音楽様式史」に偏っているのではないか。むしろ「聴衆史」=「音楽をどのように享受してきたか」のような社会史的見方、あるいは「文化史の1ジャンルとしての音楽史」が必要なのではあるまいか。ごく一部ではあるが、そのような「音楽史」もないわけではない。
つまり、映画とは逆に、通時的に捉えがちで、共時的な見方ができにくいということだ。
というのも、「学識のない批評家」が多いからだろう。
お決まりの「音楽史」に則って発言することは、たやすい。
けれども、共時的な見方をするためには、理論の裏づけなり、オリジナリティが必要になってくる。そこで物を言うのが「学識」。
それが乏しいが故に、ついつい安易な方向での発言をしてしまう。まさしく音楽評論家の怠慢である。
それならば、実作者で筆の立つ人の発言の方が、よっぽど役立つというもの。
幸いにも、故柴田南雄氏、別宮貞雄氏などの著作は、実作の体験を踏まえた理論的記述が多く、いまだに価値を失っていない。
再度繰り返す。
はてさて、音楽批評業界は、このままでいいんだろうかね。