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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

センスのない学者と学識のない批評家と

2005-09-26 00:04:56 | Criticism
何世代か前の「~を聴かねばならない」とか「~はこのように聴くべきだ」という言説に対して、「好き/嫌い」「面白い/面白くない」という感覚で判断する傾向が出てきたのは、ある意味で当然のこと。

ただし、1リスナーとしての発言ではなく「評論」となると、それだけではすまないのは明らかである。自らの感覚や感性を基準とする以上、その感覚なり感性なりを客観的に表現できなければ、他人には伝わらないからだ。

単に「分る人には分ればいい」とうそぶいているだけでは、「評論」とはならない。あくまでも「評論」とは、文章によるコミュニケーションの1つ、表現の1手法であるから(今さら、故小林秀雄の名を挙げるまでもあるまい)。そうでなければ、自らの感覚や感性を表すための音楽活動(作曲や演奏)をして、それを伝えなければならない。

あるブログで次のようなことばが紹介されていた。
「センスのない学者と学識のない批評家。これは世の習いである」
と。おっしゃる通り。
小生が述べているのは後者の「学識のない批評家」についてである(ここでは前者については触れないが、「センス」には時代感覚ということ以外に、文章における「藝」も含まれる。最近の学者さんは、読みやすい文章を書くようになってきているが、「藝」のない人がまだ多い)。

映画は、ヴィデオなどコンテンツをパッケージしたメディアが登場したため、知識は豊富になったが、それに伴う歴史的パースペクティヴを持っていない人間も多くなったと言われる(小林信彦のエッセイには、そのような口吻がたびたび洩らされている)。
まあ、それも善し悪しで、通時的(diachronic) に映画を捉えるだけが能ではなく、共時的(synchronic)に考察すると見えてくるものもあるだろう。

音楽に話を戻すと、こちらは100年以上前から、レコードという形でパッケージングされたメディアが登場してきている。

そのために、歴史的パースペクティヴを失ったリスナーが増えたか?
演奏に関しては、そうかもしれない。かえって、相当以前の指揮者や演奏家を範とするマニアが出てきているのは否定できない。
しかし逆に、「音楽史」なるものが昔から記述されているために、その枠からなかなか抜け出せないとも言える。
*従来の「音楽史」は、美学的な「音楽様式史」に偏っているのではないか。むしろ「聴衆史」=「音楽をどのように享受してきたか」のような社会史的見方、あるいは「文化史の1ジャンルとしての音楽史」が必要なのではあるまいか。ごく一部ではあるが、そのような「音楽史」もないわけではない。

つまり、映画とは逆に、通時的に捉えがちで、共時的な見方ができにくいということだ。

というのも、「学識のない批評家」が多いからだろう。
お決まりの「音楽史」に則って発言することは、たやすい。
けれども、共時的な見方をするためには、理論の裏づけなり、オリジナリティが必要になってくる。そこで物を言うのが「学識」。
それが乏しいが故に、ついつい安易な方向での発言をしてしまう。まさしく音楽評論家の怠慢である。
それならば、実作者で筆の立つ人の発言の方が、よっぽど役立つというもの。
幸いにも、故柴田南雄氏、別宮貞雄氏などの著作は、実作の体験を踏まえた理論的記述が多く、いまだに価値を失っていない。

再度繰り返す。
はてさて、音楽批評業界は、このままでいいんだろうかね。

文藝批評と映画批評とのパラレルな関係

2005-09-25 01:02:47 | Criticism
北野圭介『日本映画はアメリカでどう観られてきたか』を読む(ただし、この本自体は、お勧めできるような出来とは言えないので、書評では扱わない)。
この本を読むと、映画批評は文藝批評から、かなりの方法論を借りているようで、映画ならではの批評の方法論が乏しいような印象を受けた。

たとえば、「前衛的映画解釈理論」なるもの。
「映画に対する分析方法として、『鑑賞者の経験』に考察の軸足を置くもの」と紹介されているが、これはまさしく、「読者反応批評」reader-response criticism に他ならない。

簡単に言えば、文学の表現の仕方には、
(1) 「修辞的な示し方」rhetorical presentation
(2) 「弁証法的な示し方」dialectical presentation

の2種類があるとするもの。
そして(1)は、
「読者がすでにもっている意見を反映し、強化するような方法」
であり、(2)は、
「読者を刺激し、自分で真実を見つけようと挑みかけるようなやり方」
を取る、とする。
「読者反応批評」では、(2)に研究対象としての興味を抱く。

これに対し、「前衛的映画解釈理論」では、文藝批評と異なり、鑑賞者に力点を置いた表現をするが、
(1) 「作品に誘導されるがまま、鑑賞者が自分の欲望を満たすという経験」
であり、「自分がこうであってほしいという世界を疑似体験し満足するタイプの経験」なのだと、説明する。
もう1つのタイプは、
(2)「作品に触発されつつ、自分自身がこれまでもっていた物の見方や世界の見方を変えてくれるような経験」
であり、つまりは「予測される快楽を覆してくれる経験」であり、「無意識の次元までも含めて、従来の感性や思考を刷新する契機となる経験」でもある、とする。

如何でしょうか。
小生には、完全にパラレルな言説だと思えるのですが。

それにしても、映画批評の最前線はまだましな方かもしれない。音楽の世界となると、いまだに個人の感性や審美眼に頼った批評ばかりで、骨董業界とほとんど変りがない(多少ましなところで「伝記的批評」や「歴史的批評」といったところか。そもそも、音楽批評家に、他ジャンルの芸術批評理論を心得ている人が、いかほどいるものか)。

はてさて、音楽批評業界は、このままでいいんだろうかね。

『三四郎』を読む。その十一

2005-05-10 07:02:08 | Criticism
フィクション(ここでは小説)における「視点」と「語り」の問題を、もう少々。

さて、ここで厳密に分離しておきたいのが、「視点」と「語り」の違いです。従来、この二つは分けては考えられずに「立場」というようなことばで言われてきました。しかし、分離しておかないと妙なことになる。
というのは、因果関係や心理について、どこまでフィクション内で語れるか、という問題にもなってくるからです。

よく第3人称小説の場合、「神のごとき立場」と言われてきました。これは「視点」の問題であると同時に、「語り」の問題でもある。もし、そのような立場を取れば、因果関係や登場人物の心理についても全て分っているということになる。ですから、「これから二人が~になるとは、神ならぬ彼らの知る由もなかった」や、「この時、◯◯の脳裡には、~という考えが浮かんだ」などという言説もありえた。
ただ、客観的な(フィクション内のどの登場人物とも関係なく、という意味)立場からでも、別の形の「語り」はあり得る。つまり、時間を追ってのできごとの経過や行動を述べるだけで、因果関係や心理については触れない、という「語り」があり得るのです。

けれども、これが第3人称小説でも、今話題にしている『三四郎』のように、主人公に密着した「視点」の場合はどうでしょうか。
もちろん、その場合には、因果関係や他者の心理について知るところも、主人公(=視点人物)である三四郎とほぼ同じでしょう。読者であるわれわれは、その「語り」を通して事実や心理を知るだけで、すべてを知りうるわけではないし、前もって知っているわけでもない。
『三四郎』における「視点」と「語り」の特徴は、そこにあるわけです(「一元描写にちかい手法」)。

けれども、それを作者の「芸」と見るか、作品の破綻と見るか、評価が分れるでしょうが、作者の「肉声」がフィクションの中に漏れ出してくる。確かに、「一元描写にちかい手法」を採っているのなら、それはあってはならないことでしょう。
ただ『三四郎』を都市小説として見るならば、その「肉声」によって漱石の都市論が見えてくるのも確かなことでしょう。本来なら、フィクション中の人物によって(特に、広田先生によって)語られるべき内容なのでしょうが、それではストーリーの展開とは、下手をすると水と油になってしまう。
それを回避するために、意識的に採った作者の「芸」と、小生は見るのですが……。

*写真は明治40年代の「団子坂の菊人形」。
「往来は暗くなるまで込み合っている。その中で木戸番が出来るだけ大きな声を出す。『人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ』と広田先生が評した」

『三四郎』を読む。その十

2005-05-06 00:29:59 | Criticism
次に登場するのが、甲武鉄道で轢死した女ですが、これはさておいて、生きており三四郎に影響を与える女性としては、野々宮君の妹・よし子がいます。
しかし、よし子は、
「青年の頭の裡には遠い故郷にある母の影が閃いた」
とあるとおり、第一の世界に属する女なのです。
しかも、この段階で、すでに名前も属性も明らかにされている。これが何より、第一の世界に属することの証拠と言えるでしょう。
(その意味で、野々宮君は、基本的には第二の世界に属するが、第三の世界にも足を踏み入れている,と言った方が正確でしょう)。
第三の世界に属する女、「池の女」すなわち里見嬢とは、よし子の見舞いに来た病院でも出っ食わします。ここで初めて三四郎は口をきくことになるが、名前もどのような女性かもはっきりはしない。
ここまでが「三」すなわち形式の上での「呈示部」でしょう。

ですから「四」から、はっきりとした「展開部」へと入っていく。
季節も「夏」から「秋」へと変化する。
現代なら「五月病」に当たるような(当時は9月が学年初め)「人生に疲れている」三四郎も、「食慾が進む」ようになる。
そして、上京途中に出会った「髭の男」が、与次郎の居候先の「広田先生」であることが明らかになる。
「広田先生」の引越の手伝いに行って、「池の女」が「里見美ね子」であることが知れる。
という具合に、「呈示部」で登場してきた人物が、明らかな属性をもった存在として現れ、次から次へとストーリーが転がっていくわけです。

ここで三四郎が里見嬢に対して抱いた評語が「ヴォラプチュアス」(voluptuous)。
「池の女のこの時の眼付を形容するにはこれより外に言葉がない。何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうして正しく官能に訴えている。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴え方である。甘いものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴え方である。甘いと云わんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違う。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付である」
すなわち、「官能的な」「肉感的な」との語です。

ここで、いささか本題を離れます。
はたして、この評語の「語り手」は誰なのでしょうか。この一節に、語りの主体を表すことばは一切ありません。ただし、引用した直前までは三四郎の体験を示す、「その時美学の教師が~説明した」という文がありますから、この引用も三四郎のものと読者は思ってしまう。そういう仕掛けになっています。
しかし、あの素朴で「田臭」の抜けない三四郎が、これだけのことばを連ねることができるでしょうか。
ということは、三四郎の直覚が基本にはあるものの、ここでは漱石の肉声が聞えているということになりはすまいか。「その六」で述べたように、ここでも「仕掛け」=「ポリフォニックな手法」が使われているのです。

*写真はJean-Baptiste GREUZ(ジャン-バプティスト・グルーズ)の "L'Accordee de village" (『村の婚礼』)より部分。『三四郎』で「美学の教師が、この人の画いた女の肖像は悉くヴォラプチュアスな表情に富んでいると説明した」。

『三四郎』を読む。その九

2005-05-03 00:45:08 | Criticism
前回は、『三四郎』という作品が、都市小説でもあり、その枠組みを使って三四郎の精神(正確には、精神遍歴。それはこの後のストーリーで明かになる)をも描く小説であることを述べました。

この「三つの世界」の提示部分までに、主な登場人物は出てきています。
ソナタ形式なら、ここまでが「主題の呈示部」となるでしょうか。
第一主題は、明治40年代初めの東京という都市。
第二主題は、主人公の精神遍歴。
そして、『三四郎』は展開部へと入っていきます。

展開部で重要なのは、女性の存在です。
ここで、しばらく第一主題を離れて、呈示部で現れた主な女性を見ておきましょう。

最初に三四郎の前に表れたのは、上京途上の車中で出会った人妻、「汽車で乗り合わした女」です。彼女は「第三の世界」に属しますが、小説には一度現れたきり、二度と登場しない。後は、三四郎の記憶から何度か浮かび上がってくる「現実世界の稲妻」でした。

第二に現れるのが、大学構内の池(後に「三四郎池」と名付けられる)のほとりに現れた女性(後に里見嬢だと分る)です。
彼女の第一印象は「白」に象徴されます。
「左の手に白い小さな花を持って」
「華やかな色の中に、白い薄を染め抜いた帯が見える」
一緒にいたのが「白い方」、すなわち看護婦だというのも、色の印象を強める。
ここで思い浮かべるのが、『それから』の三千代も「白」が象徴しているということ。「大きな白い百合の花」、そして「鈴蘭」(「リリー、オフ、ゼ、ワレー」)。
三千代の「白」あるいは「百合」は「甦る愛」の象徴であったが、それでは里見嬢の「白」は、何の象徴であろうか。
漱石自身のことばを借りれば、
「白色は華美を、緑色は静けき楽しみを想起し、赤色は勢力を表するものなり」(『文学論』)
と、ヴントWundt を引いて説明している。
「オラプチユアス」(voluptuous)という三四郎の評語が、これに当たろう。
少しく、話を先に進め過ぎた。
元に戻すと、「白」の印象を三四郎に与えて「女」は一旦退場します。

『三四郎』を読む。その八

2005-04-29 04:53:17 | Criticism
人称の問題は、これまでにして、主題である「都市小説」の面についての分析を続けます。

主人公は、東京に来て、交通網の急激な発達に混乱させられます。これも国や熊本ではありえなかったこと。

「神田の高等商業学校(現在の一橋大学の前身。正確には東京高等商業学校)へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、ついでに飯田橋まで持って行かれて、其処で漸く外濠線へ乗り換えて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ向いて急いで行った事がある。それより以来電車はとかく物騒な感じがしてならない」

東京の路面電車は、明治37、38年を開通のピークとして基本路線が造られましたが、その後も、小刻みな延長が続き、ショート・カットがいたるところでできてきました(明治39年9月に鉄道会社三社が合併、一社体制になったのもその一因)。
ですから、三四郎が、行き先に向かう電車を間違え、とんでもない方向に運ばれてしまったのです。
しかし、それは上京したての三四郎だけのことではない。
国の先輩であり、もうとっくに東京には慣れたはずの野々宮君も、
「『僕は車掌に教わらないと、一人で乗換が自由に出来ない。この二三年無暗に殖えたのでね。便利になって却って困る。僕の学問と同じ事だ」と云って笑った。」
と述懐するくらいなのですから。

ここで述べられているのは、都市では交通機関が複雑に絡み合っている、ということの指摘だけでしょうか。
別の方向から見てみましょう。

三四郎は、この世の中を「三つの世界」に分けて認識しています。
「第一の世界」は、三四郎の「国」(故郷)です。この世界は、いわば過去に属するといってもいい。そして、その中心には母親がいる。
「三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この世界の中へ封じ込めた。」
「第二の世界」は、大学の世界、学問の世界です。この世界は、未来へつながるかもしれないが、大学生である三四郎にとって、当面は現在に属する。
「第三の世界」は、象牙の塔の外にある、いわば「俗世間」。現在はモラトリアム状態にある三四郎も、いずれは、そこへ入っていかざるをえない、という意味では未来に属する。
「三四郎は遠くからこの世界を眺めて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへ這入らなければ、その世界のどこかに欠陥が出来る様な気がする。自分はこの世界の主人公であるべき資格を有しているらしい。それにも拘らず、円満の発達を冀うべき筈のこの世界が却って自らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでいる。三四郎はこれが不思議であった。」
登場人物の上では、広田先生、野々宮君、里見嬢が、この世界に属している。

そして、三四郎が乗るべき路線を間違った路面電車も、この「第三の世界」に属している!
上京したばかりの三四郎に、与次郎は、こう言いました。

「『電車に乗るがいい』と与次郎が云った。三四郎は何か寓意でもある事かと思って、しばらく考えてみたが、別にこれと云う思案も浮かばないので、
『本当の電車か』と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、
『電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちには自ら物足りる様になるさ』と云う。
『何故』
『何故って、そう、活きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつ尤も軽便だ』
 その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って、新橋に行って、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下りて、
『どうだ』と聞いた。」

与次郎という存在は、「第二の世界」と「第三の世界」とを自由に出入りするトリックスターでもあり、三四郎に「第三の世界」を案内する、悪意のないメフィフトフェレスでもあった。しかも、巧妙に漱石は、与次郎に「専門学校卒業生の東京帝大専科生」というマージナルな属性を与えているのです。
また、「教養主義の世界」=「赤門文化圏」への案内者でもありました。

「語られるゲーテ・シュニッツラー・ニイチェの話を聞くと、何か自分はしんき臭い父母や縁者を去って全く自由な美しいコスモポリタンの世界で学芸にいそしんでいる感じになるのだった」
これは『三四郎』の一節ではありません。
フランス文学者新関岳雄の『光と影――ある阿部次郎伝』からで、まさしく、彼の感想と同じ経験を、三四郎はすることになるわけです。

『三四郎』を読む。その七

2005-04-26 00:22:48 | Criticism
基本的に『三四郎』の視点が、一人称小説的であることを示す、卑近な例をもう一つ。

一人称小説で意外と難しいのは、自己紹介です。
三人称小説なら、地の文でいかようにでも説明できることが、一人称小説の場合は、必然性を持った形式で行うことがなかなかできにくい。不自然になりやすい。
思い切って居直れば、
(1) 地の文で自己紹介を行う。
という手がある。
例としては、かの有名な「猫」が冒頭から行っている。この小説では、一種の意外性やユーモラスな感じを狙っているから、このような形で居直れる。
普通の手としては、
(2)  会話文での処理
といことになるでしょう。小説中で他人から呼びかけられる、他人に自己紹介する(名刺を差し出すなども、珍しいが、この一つ。『三四郎』でもヒロインは、これを行っている)。
これを普通のやり方じゃあ嫌だ、となると、こうする。

「名は何と云う。」
「大江匡(おおえただす)。」と答えた時、巡査は手帳を出したので、「匡は〓(はこ)に王の字をかきます。一タビ天下ヲ匡スと論語にある字です。」
 巡査はだまれと言わぬばかり、わたくしの顔を睨み、手を伸ばしていきなりわたくしの外套の釦をはずし、裏を返して見て、
「記号(しるし)はついていないな。」つづいて上着の裏を見ようとする。
 (中略)
「住所は」
「麻布区御箪笥町一丁目六番地。」(永井荷風『墨東綺譚』)
 *さんずいのある「ボク」の字は表示できませんので、「墨」で代用します。

と、以下、不審尋問に答える形で、職業・年齢・家族構成と「わたくし」の属性が示されます(冒頭に近い部分。これが普通。推理小説で最後にこれをやる、なんてのも「謎解き」としてありうる)。
面白いことに、『三四郎』の場合は、名古屋で泊まった宿屋で宿帳に、
「福岡県京都郡真崎村小川三四郎二十三年学生」
と記すことで、出身地・姓名・年齢・職業が分るような仕掛けになっているのです(冒頭に近い、この部分で主人公の属性を明らかにしないと、後の展開が難しくなる)。
これは、一人称小説での「自己紹介」の芸と同質であることは、荷風の例を見ればよく理解できるでしょう。

『三四郎』を読む。その六

2005-04-23 00:23:36 | Criticism
この項「その一」では、この『三四郎』という小説の冒頭で、「主人公=読者という主客が未分明の状態に置かれるよう、慎重に描かれている」と指摘しました。
そして、それ以降も、三人称で書かれているにもかかわらず、ほぼ一人称と同様の視点を採っているのです。

この小説は、上京した青年が、明治40年代初めの「東京」をどのように見たか、体験していったかという描写を通じて、作者の「東京」論を語ろうという構造をもっています。そのため、描写の視点は三四郎を離れることはまずない。
三四郎がこう見た、三四郎がこう体験した、三四郎がこう思った、という描写が続きます。これらの描写において、三人称小説にあるような「第三者の視点」はありません。いわばカメラは常に、三四郎にフィックスしているわけです。
われわれ読者は、三四郎に取り憑いてさまざまな体験をする、といってもいい。

これは一人称小説のあり方なのです。
ですから、試みに、どの一節でも「三四郎が/は」という部分を、「私は/僕は」に代えてみられるとよろしい。
ほぼ、違和感なしに読めるものと思います。

例えば、任意の一節。

「三四郎(僕/私)は全く驚いた。要するに普通の田舎者が始めて都の真中に立って驚くと同じ程度に又同じ性質に於て大いに驚いてしまった。今までの学問はこの驚きを予防する上に於て、売薬程の効能もなかった。三四郎(僕/私)の自信はこの驚きと共に四割方滅却した。不愉快でたまらない。」

いかがでしょうか(もっとも、厳密なことを言えば「要するに~驚いてしまった。」の一文は、素朴ではないにしろ「単純な」青年である三四郎にしては分析的過ぎる、との感はある。漱石の肉声が聞えてくるのだ。このようなポリフォニックな効果を与えるため、作者は、視点は一人称でも、三人称の「語り」を採ったのかもしれない)。

『三四郎』を読む。その五

2005-04-21 04:02:05 | Criticism
西欧に対するある種のコンプレックスは、すでに伏線のように「一」の部分にちりばめられていました。

ページを戻して浜松駅の情景を見てみると、
「こう云う派手な奇麗な西洋人は珍しいばかりではない。頗る上等に見える。三四郎は一生懸命に見惚れていた。これでは威張るのも尤もだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人の中に這入ったら定めし肩身の狭い事だろうとまで考えた。」
とあります。これは三四郎の感慨だけではなく、漱石個人の感慨であることは言うまでもないことでしょう。

――漱石、ロンドン留学中の有名なエピソードに、向うから背の低い、色の黄色いちんちくりんな男が歩いてきたと思ったら、それはショウ・ウィンドウに映った自分の姿だった、というものがあります(「背の低き妙なきたなき奴が来たと思へば我姿の鏡にうつりしなり」)。

この「一」で、建築について触れた部分には、「髭の男」(実は広田先生)の、
「『お互いは憐れだなあ』と云い出した。『こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが」
というものがある(『三四郎』全編を通して、広田先生の言動は漱石自身を色濃く反映している)。

西欧文明に触れたしまった新帰朝者としては、「一丁倫敦」などと威張っていても、、それは、規模においても美的趣味においても、スケール・ダウンした紛い物にしか見えなかったことでしょう。

熊本から出てきたばかりの「三四郎」の目を驚かすことは必定ではありますが、漱石としては、そんな紛い物を認めるわけにもいかない。「三四郎」の感覚を読者に伝え、かつ都市小説として、西欧の物真似にしかすぎないという作者漱石の意見をも伝える描写を、そう容易にできるわけはありますまい。

そのような事情が、一見放り出したような「丸の内」という単語に現れていると見るのは、深読みに過ぎるでしょうか(それに漱石にとってロンドン留学は「尤も不愉快の二年なり。狼群に伍する一匹のむく犬の如く……」という経験でもあったわけだ)。

『三四郎』を読む。その四

2005-04-19 08:25:10 | Criticism
大名屋敷が建ち並んでいた「丸の内」は、明治政府が国有地とし、兵舎や官庁としてきた。けれども、財政困難に陥った政府は,明治23(1890)年に、現在の神田三崎町から大手町、丸の内、有楽町までの総計107,000坪もの地を払い下げた。
この払い下げが、丸の内を一大オフィス街に変貌させる契機となった。
広大な土地を買い取ったのは、岩崎彌太郎の実弟岩崎彌之助が社長を務めていた三菱社。
明治25(1892)年に、現在の三菱商事ビルが建つ土地で鍬入れ式が行われ,明治27(1894)年には、日本最初のオフィスビル、三菱第1号館が完成した。赤煉瓦造り地階付き3階建て(設計はジョサイア・コンドル)であった。
以後、明治45(1912)年までには、20棟もの建物が立ち並び、「一丁(約100メートル)倫敦(ロンドン)」と言われるようになった。
これらの多くは、当時ロンドンで流行ったクィーン・アン様式を採用、ヨーロッパを思わせる街並であった。

三四郎が驚いたのは、このような欧風の建物群だったに違いないのです。

しかし、実際のヨーロッパを見てきた漱石にとっては、どうだったでしょう。
あくまでも「紛い物」としてしか、目に映らなかったのではないのか。かえって、日本の貧しさ、見にくさを際立たせる存在でしかなかったのではないか。

次回は、その辺りの事情から。