さて、主人公の設定がここまでできてくると、最後の締めとして名付けをしたいところ。
小説でのネーミングに関して、小生、かつてメールマガジンに「文章について考える」という記事をものしたことがありますので、それを再掲載することにします。
読者諸兄諸姉のご了解を乞う。
♪
一般的に、長編小説には多くの固有名詞が登場します。
地名、人名、行きつけの店の名前、飼っている犬の名前、その他、その他、実際の固有名詞の場合もあれば、創作された固有名詞の場合もあります。
固有名詞は指向作用(ことばが何かを指示するはたらき)が強いため、小説では必要不可欠なものと言えましょう。それは作者の虚構の指向対象であるだけではなく、作中人物が次々と指向対象を作り出して、小説内部の世界を広げていくことにもなるのです。
ここでは、創作された固有名詞、特に人名のネーミングを考えてみましょう。
まずは、古いところで、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』。
『八犬伝』の場合、ネーミングには、作者の、
「名詮自性(みょうせんじしょう)」(名は自ずからそのものの性質を現す)
という理念が働いています。
ですから、蟇六(ひきろく)、蛇太夫、船虫など、悪役・妖婦には爬虫類や甲殻類の名前がつけられ、石亀地団駄(いしがめじだんだ)、向水五十三太(むかうみづいさんた)、枝独鈷素手吉(えどっこすてきち)などにはキャラクターまんまのネーミングがなされている。
この方法、現在では古臭くて役に立たない、とまず思ってしまうのですが、実は現代の小説でもややそれに近いことがある。ただ、馬琴のような明快な理念ではなく、連想に近いのかもしれませんが(ただし、ことばはそれぞれ、連想させるものだけではなく、語感や「歴史や伝説」の背景をもっています。作者はネーミングに当たって、その点も配慮しているはずです)。
例えば、大沢在昌氏の「新宿鮫」シリーズの主人公、新宿署防犯課の刑事「鮫島」。
このネーミングにおいては明らかに、「鮫」の持つ「獰猛」だとか「不気味」「孤独」といった属性が人間に付加されている。だから、「常に単独で妥協を許さない捜査ぶりから『新宿鮫』とおそれられる」というキャラクターにふさわしいのですね。
これが、仮に、鈴木や山田、高橋といった名字だと、ハード・ボイルド・タッチの主人公にはふさわしくはありますまい。平凡だし、イメージがはっきりしない。いわゆる「キャラクターとして立ってこない」というやつですな。
これを逆手に取ったのが、いしいひさいち氏の「となりの山田くん」(現在は「ののちゃん」に変更)。新聞朝刊の4コママンガとしては、かえって平凡であることが、親近感を生むという高度な戦術からのネーミングと見ました。
そう言えば、主人公に平凡かつニュートラルな名前を付けて、「普通の人」というイメージを強調している小説があったことを思い出しました。矢作俊彦氏の『スズキさんの休息と遍歴』です。
ごく普通のサラリーマンが、大学闘争時代の「過去」を求めて車で旅に出るという内容だったと記憶しています。
副題が「またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行」で、ドン・キホーテ物語が下敷きであることを示唆している。 ちなみに「ドーシーボー」っていうのは、"2CV" (Citroen)のフランス語読み、もちろん主人公の愛車の車種ですね(このフランス製大衆車、中古のものを大学生が乗り回すのがカッコいい時代が、かつてあった。故影山民夫氏の青春回顧もの参照)。
「となりの山田くん」同様、平凡であるという記号としての「スズキさん」の使い方です。
小説でのネーミングに関して、小生、かつてメールマガジンに「文章について考える」という記事をものしたことがありますので、それを再掲載することにします。
読者諸兄諸姉のご了解を乞う。
一般的に、長編小説には多くの固有名詞が登場します。
地名、人名、行きつけの店の名前、飼っている犬の名前、その他、その他、実際の固有名詞の場合もあれば、創作された固有名詞の場合もあります。
固有名詞は指向作用(ことばが何かを指示するはたらき)が強いため、小説では必要不可欠なものと言えましょう。それは作者の虚構の指向対象であるだけではなく、作中人物が次々と指向対象を作り出して、小説内部の世界を広げていくことにもなるのです。
ここでは、創作された固有名詞、特に人名のネーミングを考えてみましょう。
まずは、古いところで、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』。
『八犬伝』の場合、ネーミングには、作者の、
「名詮自性(みょうせんじしょう)」(名は自ずからそのものの性質を現す)
という理念が働いています。
ですから、蟇六(ひきろく)、蛇太夫、船虫など、悪役・妖婦には爬虫類や甲殻類の名前がつけられ、石亀地団駄(いしがめじだんだ)、向水五十三太(むかうみづいさんた)、枝独鈷素手吉(えどっこすてきち)などにはキャラクターまんまのネーミングがなされている。
この方法、現在では古臭くて役に立たない、とまず思ってしまうのですが、実は現代の小説でもややそれに近いことがある。ただ、馬琴のような明快な理念ではなく、連想に近いのかもしれませんが(ただし、ことばはそれぞれ、連想させるものだけではなく、語感や「歴史や伝説」の背景をもっています。作者はネーミングに当たって、その点も配慮しているはずです)。
例えば、大沢在昌氏の「新宿鮫」シリーズの主人公、新宿署防犯課の刑事「鮫島」。
このネーミングにおいては明らかに、「鮫」の持つ「獰猛」だとか「不気味」「孤独」といった属性が人間に付加されている。だから、「常に単独で妥協を許さない捜査ぶりから『新宿鮫』とおそれられる」というキャラクターにふさわしいのですね。
これが、仮に、鈴木や山田、高橋といった名字だと、ハード・ボイルド・タッチの主人公にはふさわしくはありますまい。平凡だし、イメージがはっきりしない。いわゆる「キャラクターとして立ってこない」というやつですな。
これを逆手に取ったのが、いしいひさいち氏の「となりの山田くん」(現在は「ののちゃん」に変更)。新聞朝刊の4コママンガとしては、かえって平凡であることが、親近感を生むという高度な戦術からのネーミングと見ました。
そう言えば、主人公に平凡かつニュートラルな名前を付けて、「普通の人」というイメージを強調している小説があったことを思い出しました。矢作俊彦氏の『スズキさんの休息と遍歴』です。
ごく普通のサラリーマンが、大学闘争時代の「過去」を求めて車で旅に出るという内容だったと記憶しています。
副題が「またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行」で、ドン・キホーテ物語が下敷きであることを示唆している。 ちなみに「ドーシーボー」っていうのは、"2CV" (Citroen)のフランス語読み、もちろん主人公の愛車の車種ですね(このフランス製大衆車、中古のものを大学生が乗り回すのがカッコいい時代が、かつてあった。故影山民夫氏の青春回顧もの参照)。
「となりの山田くん」同様、平凡であるという記号としての「スズキさん」の使い方です。