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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(80) ― E. ケドゥリー

2006-01-12 00:06:27 | Quotation
「愛国心つまり自分の国や集団への愛着、その制度への忠誠心、それを防衛しようとする熱意といったものは、すべての種類の人々の間で知られている感情である。未知の人間や部外者を嫌い、そうした人間を自身の集団に迎え入れたがらない外国人嫌いもそうである。いずれの感情も特定の人間観に基づくものではないし、国家および国家に対する個人の関係についての特定の教義を主張するものではない。民族主義は、この二つのことをする。それは、独特のスタイルの政治に行きつく一つの包括的な教義である。だが普遍的な現象であるどころか、それはここ百五十年間のヨーロッパ思想の産物である。もし混乱があるとすれば、それは民族主義者の教義がどこにでもあるこうした感情を自らに取りこみ、特定の人間観や形而上学に奉仕させているからである」
(『ナショナリズム』)

E. ケドゥリー(Elie Kedourie, 1926 - 92)
英国の歴史家。専攻は中東史。バグダッドでイラク系ユダヤ人として生まれる。LSE (the London School of Economics) 卒業後、1953年から1990年まで同校で教鞭をとり、政治学教授に就く。
日本語に翻訳されている編著書には、エリー・ケドゥリー編『スペインのユダヤ人 : 1492年の追放とその後』(平凡社)、『ナショナリズム』(学文社)がある。

ケドゥリーの説によれば、単なる愛国心や外国人嫌いは、民族主義というイデオロギーとは異なるとする。
このようにして、イデオロギーとしての民族主義と、そうでないものとを分離することは正しい考察方法だろう。

けれども、上記引用の限りにおいては、「イデオロギーではない愛国心」がア・プリオリに人間に刷り込まれているかのような誤解を招く表現である。もちろん、「イデオロギーではない愛国心」とて、文化や歴史によって形が違ってくる。また、教育(学校教育とは限らない。むしろ、学校教育は、その社会で一般的な/価値あるものとされるイデオロギーを注入する役割を強く持っている)によっても、愛国心が育まれることがあるであろう。

それを踏まえた上で、「イデオロギーとしての民族主義」(日本では、これも「愛国心」と同じ用語を使用することに、議論の混乱の一因がある)と「イデオロギーではない愛国主義」とを分ける必要はあるだろう(「イデオロギーではない愛国心」の根に、社会的にプラス/マイナスの両面を持つ「感情としての愛国心」があると思われる。例えばマイナス面としての「異質なものへの排他的感情」=「外国人嫌い」:ゼノフォビア)。

ここからは、さまざまな考察が可能になる。

◯「イデオロギーとしての愛国心」と象徴との関係。
 *注意:「象徴するもの」と「象徴されるもの」との間に必然性はない。
◯近代国家の成立と「イデオロギーとしての民族主義」との関係。
その他、その他。

その意味で、ケドゥリーの説には、自らの用語を振返って考える際に、有用な点が多いのである(反面教師としての役割すらある)。

参考資料  E. ケドゥリー著、小林正之・栄田卓弘・奥村大作訳『ナショナリズム』(学文社)
     関曠野『民族とは何か』(講談社)

今日のことば(79) ―芥川龍之介

2006-01-11 10:49:27 | Quotation
「最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮すことである」
(芥川龍之介『河童』)

芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ、1892 - 1927)
小説家。
経歴に関しては、今さら詳述するまでもあるまい。
しいて挙げるなら、その死の動機・状況・手段などであろうが、それに関しては、山崎光夫『薮の中の家―芥川自死の謎を解く』(文藝春秋)、松本清張『昭和史発掘 1』(文藝春秋)などを参照されたい。

さて、上記引用は、芥川らしい皮肉あるいは反語。
同じ皮肉・反語であっても『侏儒の言葉』が、〈ことばの戯れ〉という要素があったのに対し、『河童』のそれは、妙に芥川自身の我が身をも傷つけるような鋭さや危うさがある。

というのも、芥川自身が、一高―東京帝大というコースを歩み、漱石に認められるような秀才であったから。つまり、彼は、ここでいう「最も賢い生活」を送ってきたわけである。

それが何ゆえに自死を選んだのか。
「時代に対する漠然たる不安」
とのことばが有名ではあるが、所詮、誰の死であろうが(たとえ死の当事者であろうが)、理不尽であることに違いはあるまい。

その死の動機・状況・手段などに外縁から迫ることはできたとしても、本人にとっても理不尽な死について、本質的に理解することは永遠にできはしないだろう。

ちなみに、芥川の墓は染井の慈眼寺にあり、小穴隆一の筆で「芥川龍之介墓」とあるだけである。

参考資料 芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』(新潮社)
     山崎光夫『薮の中の家―芥川自死の謎を解く』(文藝春秋)
     松本清張『昭和史発掘 1』(文藝春秋)

今日のことば(78) ― 橋本治

2006-01-10 00:00:04 | Quotation
「『面白けりゃいい!』という言い方が公然と罷(まか)り通るようになってしまった今の時代に、どうして本当に面白いものがなくなってしまったのだろう、ということです。/表面的な面白さというものは、実はひょっとしたらその内側にある "何か" を含めて面白いじゃないんだろうかということだってあるんです。」
(『完本 チャンバラ時代劇講座』)

橋本治(はしもと・おさむ、1948 - )
小説家、評論家。東京大学文学部在学当時、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーの駒場祭ポスターで一躍注目される。イラストレーターを経て、1977(昭和52)年『桃尻娘』で第29回小説現代新人賞佳作となり、以後、小説、評論、古典の現代語訳など多彩な文筆活動を行なっている(著作リストはサイト「橋本治 インデックス」を参照)。

チャンバラ時代劇に関する本書は、「通俗だからこそ重要だ、その通俗の極致をこそ "チャンバラ映画" という表現で呼ぶ」という観点から述べている。
そこには、従来のインテリが陥り勝ちな、(1)民衆正義史観、や(2)俗を衒う態度、などがない。
そこにあるのは、「チャンバラごっこが何故面白いのかといえば、僕にとって全部をひっくるめての理由は一つ――即ち、それは自分達でルールを作りながら演じて行くメチャクチャなドラマだから」(本書「あとがき」)という幼児/少年体験。

ここまでぶっちゃけた話を、「大衆文化娯楽史」(ちょっと、このネーミングは何とかならなかったのかい)なる年表付きで、トータル四百数十ページに持ち込む技は、橋本治ならではのものであろう。

にもかかわらず(?)、冒頭引用の「問題点」の指摘があるのだから、面白くならないはずがない。

まだ、文庫化もされていないようなので、図書館で借りるなり、古本屋で探して買うなりしなさいね(ちなみに小生手持のものは、初版第1刷で定価2,000円)。

参考資料 橋本治『完本 チャンバラ時代劇講座』(徳間書店)

今日のことば(77) ― 石田梅岩

2006-01-09 08:46:46 | Quotation
「細工人に作料を給(たまわ)るは工の禄なり。農人に作間(さくあい)を下さるゝこと是も士の禄に同じ。商人の買利も天下御免(ゆる)しの禄なり。」
(『都鄙問答』)

石田梅岩(いしだ・ばいがん、1685 - 1744)
江戸時代の心学者。奉公の傍ら勉学し、1724 (享保9)年頃、独自の人生哲学を確立、1729(享保14)年京都の自宅に講席を開いた。士農工商の別は、人間の価値によるののではないという人間観・社会観によって、町人層の支持を受ける。
著書に『都鄙問答』『斉家論』がある。

江戸時代、商人層は何も生産せずに、利益を貪るだけだとして、蔑視する風潮が普通だった(「ただ利を知って義を知らず、身を利することのみ心とする」)。
これに対し梅岩は、商人の社会的役割を、
「其余りあるものを以て、その不足(たらざる)ものに易(かへ)て、互いに通用するを以て本とする」
とした。

したがって、その社会的な役割に対して、
「売利を得るは商人の道なり、元銀(一風斎註・原価)に売(うる)を道といふことを聞かず」
という形での利益を得ることは、不道徳でなく、正当な報酬であり、それは侍が主君から禄を得るのと同じ、とした。

このように商人の社会的存在意義を積極的に提唱した梅岩であるが、そこには商人としてのモラルが必要であることは否定していないし、いや、かえって、それを強く主張したとも言える。

今日、子どもに株式投資のシミュレーションをさせて、経済活動の基礎を教えると称している向きがある。
しかし、社会に経済活動や職業についてのモラルが低下している中で、株式投資のシミュレーションをさせることは、金銭崇拝につながるのは明らかであろう(まして「人の心はお金で買える」と豪語する輩がいる現在においては)。

参考資料 柴田実『石田梅岩』(吉川弘文館)

今日のことば(76) ― 團伊玖磨

2006-01-08 09:47:53 | Quotation
「時間。それは音楽にとってはその発生と成立の母胎である。そして、事に依ると、随筆にとっても、時間は、心に対する流れて行く背景としてだけでは無く、もっと根元的なところでその成立を支えている要素かも知れないと思ったりする。」
(『なお パイプのけむり』「あとがき」)

團伊玖磨(だん・いくま、1924 - 2001)
作曲家。政治家・実業家團伊能(実業家團琢磨の長男)の長男として東京に生まれる。1945(昭和20)年、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)卒業。諸井三郎に対位法・楽曲分析を、近衛秀麿に管弦楽法・指揮法を学ぶ。童謡『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』『おつかいありさん』(「童謡『さん』部作」) 歌曲『花の街』オペラ『夕鶴』、『交響曲第1番 イ短調』などを作曲。1953(昭和28)年、芥川也寸志、黛敏郎と〈三人の会〉を結成する。その後、5曲の交響曲初め、歌曲、劇音楽など、多数の作品を発表。2001(平成13)年、日中文化交流協会の親善旅行中、心不全のため、蘇州市で死去。
音楽作品のほか、「パイプのけむり」シリーズ、『エスカルゴの歌』などエッセイの著書も多い。

『なお パイプのけむり』は、シリーズ9冊目。連載開始から12年目に上梓された単行本である(個々のエッセイは「アサヒグラフ」連載)。
上記引用は、その間の感慨を、時間に託して述べたことば。

音楽は「時間芸術」、美術は「空間芸術」とよく言われるが、空間の中には時間が凝縮されており、時間は空間を離れてはありえない以上、そのような区分は無意味であろう。
ましてや、その芸術を享受する側においては、ある空間と時間とを伴って受け取るわけだから、なおのことである。

「時よ止まれ、お前はあまりにも美しい」
と言ったのは、ゲーテのファウスト博士。
しかし、芸術は常に時の変容の中にあるからこそ美しいのではあるまいか。

参考資料 團伊玖磨『なお パイプのけむり』(朝日新聞社)

今日のことば(75) ― 岸田劉生

2006-01-07 13:14:38 | Quotation
岸田劉生『自画像』(1914)

「要するに新たなる美をこの世に見出し、この世に造り出してもたらせばいゝのだ。批評家たちの口ぐせの様に云ふ、個性と云へオリヂナリチーと云ひ、これを擱いては外にない。不肖ながら僕の画を心して見得るものはこの事を僕の画に見出す筈だ。僕の画についてのこの問題は、日本よりは古典の本場たる欧洲へ持つて行つた時はつきりするだらうと思つてゐる。」
(「僕によりて見出された道」)

岸田劉生(きしだ・りゅうせい、1891 - 1929)
洋画家。明治時代のジャーナリスト岸田吟香の四男。1911(明治44)年、雑誌「白樺」に接し、それ以後白樺派の同人たちとの交友が始まる。1912(大正1)年、フュウザン会結成に参加、翌年『自画像』などを出品。1915(大正4)から1922(大正11)年まで草土社を主宰して、1916(大正5)年には『切通しの写生』を出品。1918(大正7)年の『麗子五歳之像』から1923(大正12)年まで、一連の麗子像を描く。

ゴッホやセザンヌの影響から始まり、デューラーや古典絵画の写実、そして初期肉筆浮世絵や中国宋元画へと関心を移して、自己の絵画世界を追い求めてきた劉生であるが、上記の引用は、その途上、『切通しの写生』を描いた4年程後のことばである。
つまりは『麗子像』の時代の発言。

劉生は最晩年に、フランス行きを計画し、
「フランス人に絵を習いにいくのではなく、教えに行くのだ」
と語っていたという。
これだけの自負はどこから生まれてきたものであるのか。

西洋絵画が彼らの自然観に基づいて生み出されたものであるとすれば、それを、自然観の異なる、われわれ東洋人が追いかける必要はあるのだろうか。
たとえ画材は西洋海外の物を使おうが、われわれには、われわれの自然観に基づく絵画の有り様があるのではないのか。
というようなことを、劉生は語っているような感がする。
しかも、それは絵画に限ったことではないであろう。

参考資料 芳賀徹『絵画の領分―近代日本比較文化史研究』(朝日新聞社)
     *上記引用は、本書よりの再引用
     宮下誠『20世紀絵画―モダニズム美術史を問い直す』(光文社)

今日のことば(74) ― W. S. チャーチル

2006-01-06 08:52:07 | Quotation
「1914年の第一次世界大戦が終りを告げた後、平和が世界を支配するだろうという、深い確信と、ほとんど万人に共通した希望とがあった。あらゆる国民のこの心からの希望は、正しい確信に根ざした不動の信念と、理にかなった常識と思慮分別さえあれば、容易に達成されたはずである。『戦争を終わらせるための戦争』という言葉は、あらゆる人々の口の端にのぼり、それを実現させるための、種々の手段が講じられた。」
(『第二次世界大戦』)

W. S. チャーチル(Winston Leonard Spencer Churchill、1874 - 1965)
英国の政治家。英国首相(1940 - 45、1951 - 55)。貴族政治家の父ランドルフ・チャーチルと、アメリカ人資産家の娘である母ジャネットの間に生まれる。サンドハースト陸軍士官学校卒業後、第4騎兵連隊の将校に任官し、ナイル遠征やキューバ反乱鎮圧、スーダン遠征に参加するが、その後、ジャーナリストに転身。1899年ボーア戦争の従軍記者として捕虜になるが、脱走に成功。英雄としての名声を受ける。1900年総選挙に保守党から出馬して当選。1904年には自由党に入党、1910年内務大臣、1911年海軍大臣を歴任するが、第一次世界大戦でダーダネルス海峡攻撃作戦を推進するも惨敗。その責任をとり海軍大臣を辞職。1922年の総選挙では落選し下野。1924年保守党に復帰し、大蔵大臣となる。
1939年第二次世界大戦の勃発ともに、海軍大臣に再就任。1940年にはチェンバレンの後を受け、首相に就任。挙国一致内閣を率いる。第二次世界大戦を勝利に導くが、1945年7月の総選挙で保守党は大敗し、首相の座から降りる。1951年の総選挙で保守党は勝利し、再度首相の座に就く(~1955年)。
その著『第二次世界大戦回顧録』は高い評価を受け、1953年にノーベル文学賞を受賞。

本書は、『第二次世界大戦回顧録』(全6巻)から、チャーチル自身が改めて編集し直し、1945年以降の記録と所見とを収めた1巻本である。
上記引用は、本書冒頭部分。
ほとんど、第二次世界大戦後の状況と変りがない。もっとも、2006年現在までの60年間、局地戦争(朝鮮戦争、ベトナム戦争など)はあったものの、第三次世界大戦が勃発していないのが、当時とは違う点とは言えるだろうが。

一方、第一次世界大戦の終結は1918年、第二次世界大戦の勃発は1939年ということで、その間、21年の「平和」(とは言え、エチオピア侵略、日中戦争、スペイン内戦などはあったのだが)が続いた。

その差は、どの辺にあるのか。
国際連盟と国際連合との差なのか、それとも、第一次世界大戦の教訓から、第二次世界大戦後は、敗者へ極端な賠償を要求しなかったからなのか。

一つだけ確実に言えるのは、人類が進歩したからではない、ということである。
第二次世界大戦後の人類が予測したのは、次の世界大戦は核兵器を主要な武器とするであろう、ということと、そうなった場合には、ほぼ全人類が絶滅するであろうということとである。

したがって、今後とも、地域と武器とを限定した戦争が起こらないという保証は、どこにもないのである。

今、われわれが歴史から学ぶものは、何なのであろうか。

参考資料 W. S. チャーチル著、佐藤亮一訳『第二次世界大戦』(河出書房)

今日のことば(73) ― 小林信彦

2006-01-05 08:55:54 | Quotation
「芸のスタイルとは、あらかじめ外在しているものではない。その芸人が現実とどのように切り結ぶかという問題のあかしである。/たとえば志ん生において、彼は〈江戸っ子〉を造形する必要はなかった。それは彼の内部にすでに存在しているものであった。彼は、自分はこのように生きてきた、このように現実を見つめてきた、ということを語ることによって芸を形成してきたのである。」

(「明るく荒涼たるユーモア―ある落語家の戦後」)

小林信彦(こばやし・のぶひこ、1932 - )
小説家、評論家。江戸時代から9代続いた、日本橋の和菓子屋の息子として生まれる(『和菓子屋の息子』参照)。1959年、宝石社創刊の「ヒッチコック・マガジン」編集長に就く(~63年)。
1964年、筆名の中原弓彦名義で処女長編『虚栄の市』を刊行。1969年以降、小説執筆に専念、『唐獅子』シリーズ、『夢の砦』などを発表。一方、喜劇評論をも執筆し、『世界の喜劇人』『日本の喜劇人』などのほか、『天才伝説 横山やすし』『おかしな男 渥美清』などの評伝をも発表する。その他、『私説東京繁昌記』、『私説東京放浪記』などの東京を題材としたエッセイほか、作品多数。
イラストレーターの小林泰彦は弟。

上記引用の「ある落語家」とは古今亭志ん生。
ご承知のとおり、志ん生には、数々のエピソード、「武勇伝」がある。
本書にも引かれている一つに、
主演しても、気が向かないと、さっさと高座を下りてしまう。大阪の寄席に、志ん生を襲名してからの初出演の時、聴衆が気に入らなかったのであろう。五分か七分で高座を下りた。……『あのハナシカさん、あれで真打だっか』と大阪の有名な漫才君が、呆れて私に訊ねたことがある
という徳川夢声の紹介するものがある。

普通の評論家なら、「破滅型」とでも名づけて済ませるところ、小林は、志ん生が「uprootされた江戸っ子」であることに理由を求める。
江戸っ子といっても、町人ではない場合(一風斎註・志ん生の父は徳川直参の士族)、〈根こそぎされた〉在り方は、また、いささか変わってくるのではないか。敏感な志ん生は、もって生まれた強い気性が現実とかみ合わぬことに早くから気づいていたはずである(小林、前掲書)
これは、
敗者の身の処し方は勝者と異なって、自然・人間・文化に対して、もうひとつの視点を形づくっていくというところにあるはずであった。
と、山口昌男が『「敗者」の精神史』に述べたことにも連なってくる見解であろう。

参考資料 小林信彦『道化師のためのレッスン』(白夜書房)
     山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店)

今日のことば(72) ― R. ベネディクト

2006-01-04 09:07:47 | Quotation
「日本人は、自らに多大の要求を課する。その緊張(テンション)は非常に大きく、日本を世界の一大強国とした大望となって現われる。しかしこの緊張は個人には重い負担である。時には、こらえにこらえた鬱憤を爆発させ、極度に攻撃的態度にかり立てられる、侮辱、もしくは誹謗されたと認めた時である。その時、彼らの危険な自我は、その誹謗者に向って、そうでなければ自分自身に向って爆発する。」
(『菊と刀』)

R. ベネディクト(Ruth Fulton Benedict, 1887 - 1948)
アメリカの文化人類学者。コロンビア大学大学院でフランツ・ボアズの指導を受ける。『文化の型』(1934) など、文化相対主義に基づく、文化とパーソナリティーの研究ですぐれた業績をあげる。太平洋戦争勃発とともに、戦争に関連して日本文化を分析するために召集される。その研究を元に、日本文化の価値体系を分析した『菊と刀』(1946)は、1948(昭和23)年に翻訳されるとともに日本で大きな注目をひいた。

今日では、日本文化の独自性とベネディクトに思われたものの多くが、明治維新後に西欧文化の影響下に形づくられたものであることが明らかになっている。
けれども、その所説には、いまだに読まれるに値する考察が含まれている。

特に上記引用などは、少子化傾向にある現在の状況において、示唆するものが大きいのではあるまいか。
右肩上がりの成長曲線を続けることが、明治維新以降の日本の「国是」であった。つまりは、「日本を世界の一大強国とした」いという大望である。戦前には軍事大国、そして戦後は経済大国となることが国家目標だった。
そのためには、人口も右肩上がりの成長曲線を続けることが必要となる(その過程での政策的齟齬のため、満洲や南米に「棄民」までした)。

けれども、いまだにそのような路線を取ろうとすることは、正しいのであろうか。
どうも、為政者はそう信じ、人口を増加させようとする政策を選ぼうとしている。けっして、来るべき少子化社会への対応策は講じてはいないようなのだ。

緊張のない、肩の力を抜いた社会の方が、よっぽど住み易いのではないかと思うのだが,それは将来においても少数派でしかありえないのだろうか。

今日のことば(71) ― 大林宣彦

2006-01-03 10:58:19 | Quotation
「あれだけ好意的誤解の中で、観客とつながるということは、映画というのは結局、個人の思いでしかない。個人の思いが強ければ強いほど、逆に普遍性を持って、百人が見れば、百人それぞれの個人的な映画になるということですね。」
(「大林宣彦のロングトーキング・ワールド」)

大林宣彦(おおばやし・のぶひこ、1938 - )
映画監督。広島県尾道市出身。1963年、『喰べた人』(16mm作品)がベルギー国際映画祭で、審査員特別賞受賞。以後、CMディレクターとして2000本以上のTVCMを手掛け、1977年には『HOUSE』を監督し、商業映画に進出する。
『ねらわれた学園』(1981)『廃市』(1984)『ふたり』(1991)『あした』(1995) など、多くの監督作品があるが、『転校生』(1982)『時をかける少女』(1983)『さびしんぼう』(1985) は尾道を舞台とした「尾道三部作」(「新尾道三部作」は『ふたり』『あした』『あの、夏の日』)として知られる。

上記引用は『さびしんぼう』に関して語ったもの。
「僕が『さびしんぼう』をやって、とても自信を持ったのは、映画というのは、ある種の客観性を持たなければならないけれども、客観性という呪縛に捉われてしまうと、最大公約数にしかならないんですね。百人に理解されるように、客観的にものを考えるということは、個人の思いから離れてしまう。」
という文脈に続き、語られている。

表現というものに関する、客観性と主観性との複雑な関係を述べたものと理解しておきたい。

主観的になり過ぎれば、他人に伝わらない。
しかし、客観的に過ぎれば、自分の思いを表現できない。

その兼ね合いを表現者は常に意識しているわけであるが、『さびしんぼう』では、幸福にも、個人の思いを徹底することで、それが普遍性につながった。
それは表現者として幸福なことではあるが、それはごくまれにしか起きない。その幸福をつかめるかどうかは、一生に一度あるかないかなのである。

参考資料 『A MOVIE・大林宣彦』(芳賀書店)