「愛国心つまり自分の国や集団への愛着、その制度への忠誠心、それを防衛しようとする熱意といったものは、すべての種類の人々の間で知られている感情である。未知の人間や部外者を嫌い、そうした人間を自身の集団に迎え入れたがらない外国人嫌いもそうである。いずれの感情も特定の人間観に基づくものではないし、国家および国家に対する個人の関係についての特定の教義を主張するものではない。民族主義は、この二つのことをする。それは、独特のスタイルの政治に行きつく一つの包括的な教義である。だが普遍的な現象であるどころか、それはここ百五十年間のヨーロッパ思想の産物である。もし混乱があるとすれば、それは民族主義者の教義がどこにでもあるこうした感情を自らに取りこみ、特定の人間観や形而上学に奉仕させているからである」
(『ナショナリズム』)
E. ケドゥリー(Elie Kedourie, 1926 - 92)
英国の歴史家。専攻は中東史。バグダッドでイラク系ユダヤ人として生まれる。LSE (the London School of Economics) 卒業後、1953年から1990年まで同校で教鞭をとり、政治学教授に就く。
日本語に翻訳されている編著書には、エリー・ケドゥリー編『スペインのユダヤ人 : 1492年の追放とその後』(平凡社)、『ナショナリズム』(学文社)がある。
ケドゥリーの説によれば、単なる愛国心や外国人嫌いは、民族主義というイデオロギーとは異なるとする。
このようにして、イデオロギーとしての民族主義と、そうでないものとを分離することは正しい考察方法だろう。
けれども、上記引用の限りにおいては、「イデオロギーではない愛国心」がア・プリオリに人間に刷り込まれているかのような誤解を招く表現である。もちろん、「イデオロギーではない愛国心」とて、文化や歴史によって形が違ってくる。また、教育(学校教育とは限らない。むしろ、学校教育は、その社会で一般的な/価値あるものとされるイデオロギーを注入する役割を強く持っている)によっても、愛国心が育まれることがあるであろう。
それを踏まえた上で、「イデオロギーとしての民族主義」(日本では、これも「愛国心」と同じ用語を使用することに、議論の混乱の一因がある)と「イデオロギーではない愛国主義」とを分ける必要はあるだろう(「イデオロギーではない愛国心」の根に、社会的にプラス/マイナスの両面を持つ「感情としての愛国心」があると思われる。例えばマイナス面としての「異質なものへの排他的感情」=「外国人嫌い」:ゼノフォビア)。
ここからは、さまざまな考察が可能になる。
◯「イデオロギーとしての愛国心」と象徴との関係。
*注意:「象徴するもの」と「象徴されるもの」との間に必然性はない。
◯近代国家の成立と「イデオロギーとしての民族主義」との関係。
その他、その他。
その意味で、ケドゥリーの説には、自らの用語を振返って考える際に、有用な点が多いのである(反面教師としての役割すらある)。
参考資料 E. ケドゥリー著、小林正之・栄田卓弘・奥村大作訳『ナショナリズム』(学文社)
関曠野『民族とは何か』(講談社)
(『ナショナリズム』)
E. ケドゥリー(Elie Kedourie, 1926 - 92)
英国の歴史家。専攻は中東史。バグダッドでイラク系ユダヤ人として生まれる。LSE (the London School of Economics) 卒業後、1953年から1990年まで同校で教鞭をとり、政治学教授に就く。
日本語に翻訳されている編著書には、エリー・ケドゥリー編『スペインのユダヤ人 : 1492年の追放とその後』(平凡社)、『ナショナリズム』(学文社)がある。
ケドゥリーの説によれば、単なる愛国心や外国人嫌いは、民族主義というイデオロギーとは異なるとする。
このようにして、イデオロギーとしての民族主義と、そうでないものとを分離することは正しい考察方法だろう。
けれども、上記引用の限りにおいては、「イデオロギーではない愛国心」がア・プリオリに人間に刷り込まれているかのような誤解を招く表現である。もちろん、「イデオロギーではない愛国心」とて、文化や歴史によって形が違ってくる。また、教育(学校教育とは限らない。むしろ、学校教育は、その社会で一般的な/価値あるものとされるイデオロギーを注入する役割を強く持っている)によっても、愛国心が育まれることがあるであろう。
それを踏まえた上で、「イデオロギーとしての民族主義」(日本では、これも「愛国心」と同じ用語を使用することに、議論の混乱の一因がある)と「イデオロギーではない愛国主義」とを分ける必要はあるだろう(「イデオロギーではない愛国心」の根に、社会的にプラス/マイナスの両面を持つ「感情としての愛国心」があると思われる。例えばマイナス面としての「異質なものへの排他的感情」=「外国人嫌い」:ゼノフォビア)。
ここからは、さまざまな考察が可能になる。
◯「イデオロギーとしての愛国心」と象徴との関係。
*注意:「象徴するもの」と「象徴されるもの」との間に必然性はない。
◯近代国家の成立と「イデオロギーとしての民族主義」との関係。
その他、その他。
その意味で、ケドゥリーの説には、自らの用語を振返って考える際に、有用な点が多いのである(反面教師としての役割すらある)。
参考資料 E. ケドゥリー著、小林正之・栄田卓弘・奥村大作訳『ナショナリズム』(学文社)
関曠野『民族とは何か』(講談社)