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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(90) ― 桂文楽

2006-01-22 01:04:59 | Quotation
「きこえなくても、きこえたふりしてしゃべってますとね、どうしても返事をしなきゃならないときがある。そんなときは『近頃はたいていそうだよ』と、いってやるんです。ほとんどこれで用がたります」
(『落語商売往来』)

桂文楽(かつら・ぶんらく、1892 - 1971)
落語家。八代目。
本名は並河益義。1908(明治41)年、初代桂小南(こなん)に入門。1917(大正6)年、五代目柳亭左楽一門に移り、翁家馬之助の名前で真打昇進。1920(大正9))年六代目桂文楽を襲名するが、縁起を担いで末広がりの八代目を名乗る。何度も練り直して完成度を高めるため、持ちネタは少ないが、代表藝に、『明烏』『船徳』『素人鰻』『富久』『つるつる』『心眼』『愛宕山』などがある。

冒頭引用は、晩年耳が遠くなってからの話を、評論家の矢野誠一が聞いたもの。
「『近頃、耳がめっきり遠くなりまして』
 とぼつりといったあと、こうつづけたのが忘れられない。
『なに、きこえなくったってかまやしません。この年齢(とし)ンなりますと、たいていのことはきいてしまって、いまさらどうしてもきかなきゃならないようなことは、ほとんどない』」
という一節に続く。

これへの矢野の感想。
「すごい老人の知恵だと思う。」
まさしく、そのとおり。
強いてそれに付け加えるとすれば、
「文楽だからこそ言えることば」
となるだろうか。

参考資料 矢野誠一『落語商売往来』(白水社)

今日のことば(89) ― 北一輝

2006-01-21 12:37:06 | Quotation
「天皇は全日本国民とともに、国家改造の根基を定めんがために、天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し、両院を解散し、全国に戒厳令をしく。」
(『日本改造法案大綱』)

北一輝(きた・いっき、1883 - 1937)
国家主義者。本名輝次郎。
早大聴講生として上京、社会主義に関心を抱き、1906(明治39)年『国体論及び純正社会主義』を自費出版(刊行後ただちに発禁)。宮崎滔天を通じて中国革命同盟会に参加、1911(明治44)年、辛亥革命の際、上海で湖南派の宋教仁の活動を支援し、帰国後、『支那革命外史』を執筆する。1919(大正8)年、『国家改造案原理大綱』(1923年『日本改造法案大綱』と改題、刊行)を執筆、大川周明と猶存社を主宰する。弟子の西田税(にしだ・みつぎ)を通じて青年将校に思想的影響を与え、1936(昭和11)年の2.26事件では黒幕として、西田とともに銃殺刑に処せられる。

北の『日本改造法案大綱』は、平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう)や安岡正篤(やすおか・まさひろ)、平泉澄(ひらいずみ・きよし)などの反動右翼、伝統的国家主義とは一線を画し、天皇機関説の立場をとっていることを忘れてはならない。

つまり、「天皇のための国民」ではなく「国民のための天皇」を構想していたのである。その点では、民本主義者である吉野作造と同一の立場にある。
「吉野は、議会と政党の責任内閣を基礎として、このルールの実現をくわだて、北は、軍事独裁を通じて、このルールの実現をくわだてた。いずれも、天皇と国民の中間に介在するさまざまな機関(一風斎註・明治憲法下では「輔弼機関」と言う)を排除し、一方で国民に、他方で天皇に直結する政府を作ろうとした点では同一の方向をめざし、一方は、世論と民衆運動にたより、他方は、暴力とクウデターにたよる点で方向を逆にしている。一方は、合法と民主主義の立場にたち、他方は、非合法と独裁主義の立場にたって、それぞれ全力をかたむけ、自己の生涯をかけて、日本の現実にはたらきかけた。」(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』)

この両者ともその実現に失敗し、従来の国家主義に一部を包摂されていったのが、その後の歴史であることは言うまでもない。

参考資料 北一輝『日本改造法案大綱』(サイト「昭和の子」
     久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』(岩波書店)

今日のことば(88) ― 山内進

2006-01-20 08:48:31 | Quotation
バチカンのスイス人傭兵。
今年は、法王ユリウス2世がスイス人を傭兵としてから
ちょうど500年目の節目の年となる。

「そもそも、傭兵となる男たちはいろいろな意味であぶれ者であった。オットー・ブルンナーによると、中世後期に見られる傭兵は、零落した者、さすらい人、犯罪者たちの織り成す地下世界から、そして平和喪失者たちから募られた、という。さらに言えば、貧窮にあえぎ、とてもその地に住むすべての人々を養い切れない地方から、傭兵がやってきた。傭兵は、これらの地方にとって、主要な〈輸出産業〉であった。」
(『掠奪の法観念史』)

山内進(やまうち・すすむ、1949 - )
一橋大学法学部教授。専門は、法制史、西洋中世法史、法文化史。
北海道小樽市生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程修了。成城大学法学部教授、一橋大学法学部教授、同大法学部長を歴任。『北の十字軍』でサントリー学芸賞受賞。他に『決闘裁判』『十字軍の思想』など。2004年、21世紀COEプログラム「ヨーロッパの革新的研究拠点」拠点リーダー就任。(『ウィキペディア(Wikipedia)』 より)

西欧において傭兵の〈特産地〉の代表例はスイス地方である。
かのミケランジェロのデザインによる制服を身にまとった、バチカンの衛兵が、スイス傭兵である。

まだ、時計に代表される精密機械産業の育っていなかったスイスにおいて、〈口べらし〉〈出稼ぎ〉の最大の手段は、傭兵だったのである(のみならず、中世のヨーロッパにおいては、戦争が最大の産業だったという説もある)。

日本の戦国時代も同様で、
「弓取りも春夏は手遣いせず、秋冬は軍(いくさ)をする」
といった状況であった。

であるから、兵農分離が、歴史上の画期であったとしても、それは武士の側に理由があるのではなく、農民の側に大きな理由があったとすることもできるのである(兵農分離後も、戦場での大多数の兵士――雑兵は、農民の〈出稼ぎ〉であることに変りはない)。
「武士の方も、ふだんの暮らしは貧しくて、大勢の兵士を食わせることができない。だから戦う時だけ臨時雇いの傭兵の方が都合がよかった。百姓と兵士の兼業を、兵の未熟さのせいにし、農の成熟を問わない、日本の兵農未分離論には、やはり見直しの必要があるだろう。」(『雑兵たちの戦場』)

参考資料 山内進『『掠奪の法観念史――中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』(東京大学出版会)
     藤木久志『雑兵たちの戦場――中世の傭兵と奴隷狩り』(朝日新聞社)

今日のことば(87) ― 志賀直哉

2006-01-19 08:12:53 | Quotation
「(法隆寺)夢殿の救世観音を見てゐると、その作者といふやうな事は全く浮かんで来ない。それは作者といふものからそれが完全に遊離した存在になってゐるからで、これは又格別な事である。文芸の上で若し私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名などを冠せやうとは思はないだらう」
(『座右宝』)

志賀直哉(しが・なおや、1883 - 1971)
小説家。東京帝大文学部在学中に武者小路実篤、里見◯らと同人雑誌を始める。1910(明治43)年には、有島武郎も加わり雑誌「白樺」を創刊。「網走まで」を発表する。大正時代には、『清兵衛と瓢箪』『城の崎にて』『小僧の神様』などの短編を発表、「小説の神様」とも呼ばれるようになる。昭和になってからは、唯一の長編『暗夜行路』を完成する。1949(昭和24)年には文化勲章を授章した。

小生、志賀直哉を世間でいう程認めているわけではないが、上記引用は、「自我意識」を重要視した白樺派作家にしては、謙虚な物言いで気になっている。
もちろん、ここには民藝運動の提唱者柳宗悦(やなぎ・むねよし)との交流が響いていることは間違いあるまい(柳は「白樺」創刊メンバー)。
「民藝」とは、本来、無名の職人による工藝品を指してのことだからである。したがって、そこには小賢しい「作品意識」や「自我意識」(両者が結びつくと「傑作意識」となる)などというものなどはなかった。

それとも、志賀の発言の背後には、大正初め頃の父親との「和解」によって、「自我意識」の必要性もなくなったということか(「対抗自我意識」counter self-consciousness?)。
もし、そうならば、白樺派の主張する「自己」「個」などというものは、その程度のものであったのだろうか(本ブログ「今日のことば(83)」参照) 。

参考資料 阿川弘之『志賀直哉(上)(下)』(新潮社)
     志賀直哉全集(岩波書店)

追記)ちなみに、次の文章も志賀のものである(雑誌「改造」昭和21年4月号)
「そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言葉、一番美しい言語をとつて、その儘(まま)、国語に採用してはどうかと考へてゐる。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ。」

今日のことば(86) ― 道元

2006-01-18 08:44:41 | Quotation
「『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』に云く、『衆僧(しゅぞう)を供養す。故に典座(てんぞ)有り』と。古より道心の師僧、発心の高士、充て来るの職なり。蓋し一色の弁道の猶(ごと)きか」
(『典座教訓(てんぞきょうくん)』)

道元(どうげん、1200 - 53)
鎌倉時代中期の僧。曹洞宗の開祖。父は時の内大臣土御門(久我)通親(みちちか)、母は摂政藤原基房(もとふさ)の娘伊子。
1213(建保1)年、比叡山で得度・受戒して仏法房道元と称す。翌年山を下り諸寺を歴訪、修行を重ねる。1223(貞応2)年、宋に渡り天童山で禅の教えを受け、修行に励む。1227(安貞1)年、帰国後は比叡山からの迫害を逃れ、各地に禅の修行道場を開くが、1244(寛元2)年、越前に移り大仏寺(後の永平寺)を開き、著述と布教に励んだ。主著に『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』がある。

禅は、知識を得ることではなく、身体を通じての修行がメインとなっているから、日常座臥すべてが修行という考え方も生まれる。

道元の有名なエピソードに、彼が中国に渡った時のものがある。
「道元は、慶元府の港で、日本から輸出していた干し椎茸を買いに、阿育王山の広利寺から来ていた老僧に出会った。
たまたま話をしてみると、かなりの修行を積んだ僧だと分ったので、
『今晩は、ここに泊まって、いろいろとご指導いただけませんか』
と願ったところ、老僧は、
『食事のしたくが間に合わなくなるから』
と言って、その誘いを断わった。
奇異に思った道元は、なおも、
『食事のしたくなどは、若い僧に任せればいいではありませんか。
座禅や仏法について語ることの方が大切ではないのですか』
と言った。
老僧は、大笑いして、
『日本の若い僧よ、あなたは修行の何たるかがお分かりではない」
と言い捨てて、寺に帰って行った」
というものである(『典座教訓』)。

冒頭引用の文章は、「典座(てんぞ)」という禅道場での食事係が、いかに重要な役であるかを述べたもの。
「昔から典座の職は、『道心の師僧、発心の高士』が勤めるものである」
との言がある。

8世紀頃の百丈懐海(ひゃくじょうえかい)は、睡眠・食事・清掃などの、日常座臥ことごとく修行であると禅の規則を定めた。
この百丈懐海、あまりにも高齢になったので、畑仕事に出ようとするのを止めるため、ある小僧が鍬を隠したところ、
「一日作(な)さざれば一日食らわず」
と言ったという。

参考資料 道元著、中村璋八・中村信幸・石川力山訳註『典座教訓・赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』(講談社)

今日のことば(85) ― アウグスティヌス

2006-01-17 12:28:23 | Quotation
"Musica est scientia bene modulandi." (音楽は良く調節するための学である。)
("De musica" 『音楽論』)

アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354 - 430)
カルタゴ生まれの古代キリスト神学者。「ヒッポのアウグスティヌス」。
当初マニ教を信仰していたが、キケロを通じて哲学に関心を抱くようになり、マニ教の信仰を離れるようになる。イタリアに渡り、弁論術を教える内に、ミラノ司教アンブロジウスと母モニカの影響を受け、キリスト教徒となる。
――帰宅途中に、"Tolle, lege." (取って、読め)という歌の一節を耳にし、家で聖書を開き読んだところ、それが「ロマ人への書」第13章第13節「昼のごとく正しく歩みて……」だったので、キリスト教に改宗する決心をしたという)。
後にアフリカに戻り、修道院生活を送り、391年にヒッポ教会の司祭、396年には司教となる。
主要著作に『告白』『三位一体論』のほか、『音楽論』がある。

アウグスティヌスによれば、音楽の調節機能とは、知性と感性との調節である。

彼によれば、ある種の音楽は、「酔ったように歌われ、騒々しい戦いのラッパのようである」が、司祭による朗読、説教、祈りの時、教会での聖なる歌声は、「魂を献身の思いへと駆り立て、神への愛を燃え立たせるのに大変有益」である、とする。

つまりは、知性と感性が巧く調節されていない音楽は、かえって信仰のためには有害となるという(感性が信仰の足を引っ張るという図式か?)。

後世、「信仰のため」に代わり、「美のため」という芸術の目的が登場した。
しかし、音楽は知性と感性とを調節するのではなく、古典派では知性が重視され、その反動としてロマン派では感性が重視されるようになる。

しかし、ポスト・モダニズム時代にあって、「作品」という概念すら「脱構築」されつつある。「音自体の復権」である。
ここで、やっと、長い時代を経てきた目的論的な(=アウグスティヌス的な)音楽観が一掃されることになるのかに見えるが、そこには、どのような積極的な音楽観が生まれるのだろうか。

参考資料 山田晶『アウグスティヌス講話』(講談社)
     聖アウグスティヌス『告白(上)(下)』(岩波書店)

今日のことば(84) ― 萩原朔太郎

2006-01-16 10:23:05 | Quotation
「旅への誘(いざな)いが、次第に私の空想(ロマン)から消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍(おど)った。しかるに過去の経験は、旅が単なる『同一空間における同一事物の移動』にすぎないことを教えてくれた。何処(どこ)へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。」
(『猫町』)

萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう、1886 - 1942)
詩人。群馬県前橋生まれ。北原白秋に師事、1917(大正6)年刊行の『月に吠える』で、一躍全国的に著名となる。以後、1923(大正12)年『青猫』、1925(大正14)年『純情小曲集』などの詩集を完成。高村光太郎とともに〈口語自由詩の確立者〉とされる。
冒頭引用の『猫町』は、朔太郎のほとんど唯一の小説作品。

〈猫町〉は、現実のネガである(「裏側」にある)幻視的な世界を描く。
「実在の世界への、故しらぬ思慕の哀傷」を歌った彼の詩の世界に通じる小説である。
このような世界を描くのは、散文よりは詩歌や音楽の方が適しているようだ(マンドリンや写真を趣味とした朔太郎は、その辺の事情はよく分っていたはず)。
それをあえて散文で表現したところに、彼の意欲を感じる。
つまり、説話や伝説の世界にも近い存在を描くには、詩歌や音楽では表現手段として不充分なのである(泉鏡花や内田百間の小説や、漱石の『夢十夜』を想起されたい)。リアルなものが、するりと手を抜けた時に立ち現われる世界の手触り、そのようなものを彼はここで表現したかったに違いない。

また言う。
「錯覚された宇宙は、狐に化かされた人が見るのか、理智の常識する目が見るのか、そもそも形而上の実在世界は、景色の裏側にあるのか表にあるのか。だれもまた、おそらくこの謎を解答できない。」

参考資料 『萩原朔太郎全集』(筑摩書房)

今日のことば(83) ― 加藤周一

2006-01-15 12:06:03 | Quotation
「ヨーロッパの例でいえば、ヨーロッパのブルジョワ的個人というのは社会との関係で生じている。そういう意味では、漱石のほうが社会から孤立していない。ヨーロッパ的な意味での〈社会化した個〉であってね。白樺派は〈社会化していない個〉だ。漱石と志賀直哉の〈個人主義〉の違いはそういうことじゃないか。」
(『座談会 昭和文学史一』「大正から昭和へ」)

加藤周一(かとう・しゅういち、1919 - )
評論家、小説家。(時代の回想に関しては『羊の歌』参照。)東京帝大医学部卒。中村真一郎、福永武彦と、日本語による〈定型押韻詩〉を押し進める詩人グループ〈マチネ・ポエティク〉を結成。『マチネ・ポエティク詩集』(1948年刊行)で韻律を持った日本語詩を発表。1950年には小説『ある晴れた日に』を発表、本格的な文筆活動に入る。1951年からは、医学留学生としてフランスに渡り、主に文明批評を発表。以後、文学論、美術論、文化論など多彩な評論活動を続ける。 1980年『日本文学史序説』で大仏次郎賞を受賞。

上記引用は、白樺派における「自分」について語った一節。
「彼らが好んで使う一人称は〈自分〉です。〈白樺派〉と同世代の青年を語り手にした夏目漱石の『行人』の一人称は〈自分〉です。しかし、〈白樺派〉は現実的なレベルで国際的に通用する普遍的な〈自分〉なるものをわかっていたのか。(中略)本当に現実の日本の位置をわかっていたのかどうか。」
という問題への答えとして述べられている。

これは単に白樺派批判としてではなく、半ばパトリ(郷土:「両親であったり、祖先であったり、あるいは一つの土地にずっと住みつづけてきた血族」(松本健一))の中に生活していた当時の日本人への批判と見るべきであろう。

つまりは、パトリというゲマインシャフトに根を下ろした〈個人〉は、〈社会〉というゲゼルシャフトという媒介項を通して成立する〈個人〉とは、まったく異なるということである。
歴史が示すように、前者が国家と結びつく場合には、いともたやすく排外的国家主義へ移行するのである。

参考資料 井上ひさし、小森陽一編著『座談会 昭和文学史一』(集英社)

今日のことば(82) ― 孟子

2006-01-14 00:04:26 | Quotation
曰、弑其君、可乎。孟子対曰、賊仁者謂之賊、賊義者謂之残。残賊之人、謂之一夫。聞誅一夫紂矣、未聞弑君也。」
[(斉の宣王が)孟子に「武王は紂王を討伐したというが、本当か」とたずねた。孟子は「仁を賊する者を賊と申し、義を賊する者を残と申します。残賊の人間は、一夫と言います。紂という一夫が誅殺されたことは聞いておりますが、主君が弑逆されたことは聞いておりません」とこれに答えた。]
(『孟子』「梁恵王章句下」)

孟子(もうし、BC390 - BC305)
中国の戦国時代中期の儒家。孟軻(もうか)。聖人孔子につぐ亜聖と呼ばれた。
孟子は、仁義礼智を備わせて四徳とし、人間には先天的に四徳への端緒(四端)が備わるという「性善説」を唱えた。君主は、徳をもって人民を教化する「王道」で天下統一すべきとした。そのために、王道の平和的交代(「禅譲」)のほか、武力交代(「放伐」)もありうるとする。それが、上記引用部分である。

君主に「徳」が失われれば(「徳」があるかどうかは、天から選ばれた者かどうかの証明となる)、それは君主でも何でもないことになる。いや、かえって「残賊」となり、天下を乱すものとなる。
そこで、孟子は「残賊」はこれを討つのが、正義となるとした(「湯武放伐論」)。

しかし、日本の儒学では、この放伐論を危険視し、後期水戸学では天皇の正統性の根拠を「天」=「倫理的価値の源泉」ではなく、「天=天祖」から受けた使命と読み替えた(「百王一姓」。いわゆる「万世一系」)。
ということになると、正統なる王朝が続くことが、最大の価値ということになるわけである。儒学の役割は、その正統性を確認することになる(正閏論)。

このような論理から言って、「湯武放伐論」は危険思想以外の何物でもなく、明治政府は、『孟子』は「人臣たらん者の読むべき書にあらず」としたのである(そのほか、「民為貴、社稷次之、君為軽」[民を貴しとし、社稷これにつぎ、君を軽しとなす]という主権在民的な色彩のある考えも、明治政府には反体制的思想と思えた)。

参考資料 『孟子(上)(下)』(岩波書店)

今日のことば(81) ― 本居宣長

2006-01-13 09:02:38 | Quotation
『六十一歳自画自賛像』

「おのがいふおもむきは、ことごとく古事記書記にしるされたる、古の伝説(つたえごと)のまま也」
(『玉勝間』)

本居宣長(もとおり・のりなが、1730 - 1801)
江戸時代の国学者。医学を学ぶとともに、契沖の古学に近づき、郷里の松坂で小児科医を開業する傍ら国学の研究を行なう。『源氏物語』を初めとする平安文学の研究から、「もののあはれ」説を提唱。1763(宝暦13)年、賀茂真淵に入門、『古事記伝』の執筆を始める。
『玉勝間』は、1795(寛政7)年から1812(文化9)年に執筆された随筆。

宣長は、『古事記』や『日本書紀』に書かれたことに解釈を加えるのは、中国(からくに)の悪習によるもので、自分自身は解釈すらせず、「古の伝説のまま」説くだけだからこそ正しいとした。

これは『聖書』の記述への科学的な解釈を拒否する、キリスト教原理主義と似ているように思えるが、小川忠著の『原理主義とは何か』によれば、
「宣長の言説には原理主義との類似点が見出されるのであるが、国学がアブラハム宗教(一風斎註・「キリスト教、イスラーム教、ユダヤ教といった同じ宗教的ルーツをもつ」宗教)の原理主義と違う最大の理由は、そこに回帰すべき宗教的原理が明らかになっていないことにある。つまり宣長は、神の多様性のみを語り、「神とは何か」「神の教えとは何か」という問いに答えていない。むしろ神を定義することは、小ざかしい外国の流儀であると、否定するのである。」

ここからは、幕末維新期の「尊王攘夷」といった政治的イデオロギーは発生しようがない。
それを用意したのが、18世紀後半に藤田幽谷(1774 - 1826)を創始者として始まった〈後期水戸学〉である。
「宗教的価値体系とナショナリズムが合体した新しいイデオロギーがこの時代に形成されたのである。」

このように、現在の「万世一系」イデオロギーの起源は、意外と新しいことに注意されたい。
ましてや、それが古くからの「伝統」であるかのように装うのは、歴史的事実の歪曲以外の何物でもない(「創られた伝統」!)。

参考資料 小川忠『原理主義とは何か―アメリカ、中東から日本まで』(講談社)
     本居宣長『玉勝間』(岩波書店)