「本質と表象との二元論からどうしても脱し切れないドイツ人の在り方、考え方と、フランス人の直観的な物の感じ方、把握のしかたとは、全く違った世界のことである。(中略)フランス人はその骨骼にも皮膚の感覚を持ち、その皮膚にも骨骼の思想をたたえるが、フランスのオーケストラもまたそういった一元的な表現力を持っていて、冗長や詠嘆や威嚇的なものものしさには長じていない。退屈はフランス人にとっては堪え難いものであろう。ウィーンの退屈さの中にある美しい憂鬱はパリのものではない。」
(『欧州楽壇の思い出』)
大原總一郎(おおはら・そういちろう、1909 - 68)
実業家。倉敷紡績社長孫一郎の子(倉敷紡績創業者孝四郎の孫)。1932(昭和7)年倉敷絹織(現クラレ)に入社、1939(昭和14)年社長となり、1941(昭和16)年倉敷紡績社長も兼務する。1947(昭和22)年、両社を辞し物価庁次長に就任するが、翌年復帰。ビニロンの工業化を実現する。
経済人としてだけではなく、文化人としての側面ももち、柳宗悦とも親交を持ち、倉敷の大原美術館を今日のような姿に作り上げた。また、1956(昭和31)年のモーツァルト生誕200周年に当っては、日本人音楽家を支援する記念基金を設立し、自ら幹事長となるなど、音楽の振興にもつくした。
大原は、「生まれ変わったら音楽家になりたい」と語っていたほど、音楽への情熱は生涯を通じて変わらなかった。
上記引用は、1936(昭和11)年、3年近くの外遊を通じて感じたドイツとフランスとの音楽を通じての比較である。
マルセーユでヨーロッパに上陸し、パリを訪れて最初に聴いた演奏会は、モントゥー指揮のパリ音楽院管弦楽団(現パリ管弦楽団)のものであった。
曲目はムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲『展覧会の絵』。
それは「今でも記憶に残る精彩に富んだ美しい演奏」で、「フランスのリズムに接する最初の一夕」だった。
このような音楽を通じて、今まで聴いていたドイツ音楽とは異なる、フランス音楽の特徴に目覚めたのである。
参考資料 井上太郎『大原總一郎―へこたれない理想主義者』(中央公論社)
*上記引用は、本書よりの再引用
(『欧州楽壇の思い出』)
大原總一郎(おおはら・そういちろう、1909 - 68)
実業家。倉敷紡績社長孫一郎の子(倉敷紡績創業者孝四郎の孫)。1932(昭和7)年倉敷絹織(現クラレ)に入社、1939(昭和14)年社長となり、1941(昭和16)年倉敷紡績社長も兼務する。1947(昭和22)年、両社を辞し物価庁次長に就任するが、翌年復帰。ビニロンの工業化を実現する。
経済人としてだけではなく、文化人としての側面ももち、柳宗悦とも親交を持ち、倉敷の大原美術館を今日のような姿に作り上げた。また、1956(昭和31)年のモーツァルト生誕200周年に当っては、日本人音楽家を支援する記念基金を設立し、自ら幹事長となるなど、音楽の振興にもつくした。
大原は、「生まれ変わったら音楽家になりたい」と語っていたほど、音楽への情熱は生涯を通じて変わらなかった。
上記引用は、1936(昭和11)年、3年近くの外遊を通じて感じたドイツとフランスとの音楽を通じての比較である。
マルセーユでヨーロッパに上陸し、パリを訪れて最初に聴いた演奏会は、モントゥー指揮のパリ音楽院管弦楽団(現パリ管弦楽団)のものであった。
曲目はムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲『展覧会の絵』。
それは「今でも記憶に残る精彩に富んだ美しい演奏」で、「フランスのリズムに接する最初の一夕」だった。
このような音楽を通じて、今まで聴いていたドイツ音楽とは異なる、フランス音楽の特徴に目覚めたのである。
参考資料 井上太郎『大原總一郎―へこたれない理想主義者』(中央公論社)
*上記引用は、本書よりの再引用