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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(100) ― 玉虫左太夫

2006-02-25 09:32:37 | Quotation
「貌列志天徳(プレジデント)ノ居宅ナレドモ、城郭ヲ経営セズ、他ノ家ニ異ナラズ(中略)花旗(アメリカ)国ハ共和政事ニシテ一私ヲ行フヲ得ズ、善悪吉凶皆衆ト之ヲ同(おなじく)シ、内乱ハ決シテ、ナキコトトスルナリ」
(『航米日録』)

玉虫左太夫 (たまむし・さだゆう、1823 - 69) 
仙台藩士玉虫平蔵の七男として生まれる。幼名は勇八。藩校養賢堂に入学すると、頭角を現し、藩士荒井東吾の娘を娶り養子となる。1846(弘化3)年、脱藩して江戸に走る。江戸では大槻磐渓(おおつき・ばんけい、1801 - 78)に認められ、大学頭林復斎の元で修業、やがて昌平黌の塾長となり、江戸仙台藩校順造館に復職。
1857(安政4)年、幕府箱館奉行堀利煕(ほり・としひろ)にしたがい蝦夷地に入り、「入北記」という記録を残す。1860(万延1)年、日米修好通商条約の批准書交換のための幕府使節一行にしたがい、アメリカ合衆国に渡る。この時残した記録が『航米日録(こうべいにちろく)』である。

左太夫は、アメリカでその共和政事(政治)に驚く。一つは、当時の日本の「門閥制度」がないこと(幕府高官は、かえってそれに反撥を感じ、国務長官を訪ねても茶の一杯もださない、などと批判している)。
このことが、左太夫に民主的な政治体制がどのようなものかに、目を開かせる元となった(ちなみに、"republic" に「共和」の語を当てたのは、左太夫の師磐渓である)。

戊辰戦争が始まり、軍務局頭取に任じられた左太夫は、「東日本政権」にも民主的な政治体制を取り入れようとしたが、仙台藩は新政府軍に降伏、その責任を取らされて切腹することになる。
「人心ヲ和シ上下一致ニセン事ヲ論ズ」
「和ハ天下ヲ治メルノ要法ナリ、此要法ヲ失ヒ、何ヲ以テ人心帰属セン」
とのことばを記したメモが、仙台の玉虫家に残されているとのこと。
そのメモでは、言論の自由、賄賂の禁止、賞罰の明確化を挙げ、
「その上に立って軍艦を建造し軍備を整え、他国の侵略を防ぐ。蒸気機関によって産業を興し、外国人を雇い技術の導入をはかる。万国と交易し、国を富ませる」(星亮一『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢』)
という方策が述べられているそうである。

従来「奥羽越列藩同盟」ひいては「東日本政権」は、改革派(明治新政府)に対抗するだけの守旧的な体制である、と断じられてきたが、はたしてそうだったのか。
玉虫左太夫のような人物を見ることによって、もう1つの「明治」を考えることができるような気がする。

参考資料 星亮一『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢』(中央公論社)
     佐々木克『戊辰戦争―敗者の明治維新』( 同 )
     小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ―明治維新を考える』( 同 )

今日のことば(99) ― A. ブロサ

2006-02-21 10:59:04 | Quotation
自分がしたことを条件反射的に相対化する論理を、ブロサ氏はミメティスムと指摘する。「わが国だけが悪いのではない。他国もやっている」といった論理だ。「仕返し主義」「模倣の論理」などの訳語が研究者の間で候補にあがっている。フランス語の「mimer(模倣する)」から派生、元来は生物学の「擬態」という意味だ。学校を例にブロサ氏は説明する。校庭で子どもがけんかをしていた。「どっちが先にやったんだ」と先生が2人に尋ねる。「あっちです、先生」――双方から同じ答えが。植民地支配、アジアや太平洋での戦争などをめぐり公然と繰り返される日本の政治家の問題発言などは、そうした「校庭シンドローム」ともいうべきレベルの議論だとブロサ氏は指摘する。「アジアの植民地支配を先に始めたのは、ぼくたち日本人ではないのに、何でいつもぼくらだけが悪者にされるんだ」とか「確かに殴ったかもしれないが、ぼくらがやった以上に、ぼくらだって殴り返されたじゃないか」とか。
(「仕返し主義」今も死なず」'06年2月20日「朝日新聞」夕刊)

A. ブロサ (Alain Brossat, 1946 - ) 
パリ第8大学教授。専門は政治哲学。スターリン主義やジェノサイド、監獄制度などについて領域を横断する研究を展開。
フランス語の著作に『災厄の試練』('96)、『刑務所と訣別するために』('01) など。

名前がつけられたことで、実態がはっきりすることがある(言語による「分節化」)。
この「ミメティスム」などは、その1例。

小生は、「ミメティスム」ということばを知る前は、「先生言いつけ主義」とでもいうようなイメージを持っていた(上記引用の「校庭シンドローム」に近いもの)。

いずれにしても、「ミメティスム」の何と無責任なこと!
また、「校庭シンドローム」ということばに見られるように、子どもじみたこと!
まともな大人のする「言い訳」じゃあないね。

今日のことば(98) ― アントニー・D・スミス

2006-02-17 10:25:11 | Quotation
「民族主義は、専制的な体制が変革され民主化された数多くの事例の原因ではないかもしれないが、そうしたことに度々つきまとう動機であり、打ちのめされた人々の誇りの源泉であり、〈民主主義〉と〈文明〉に仲間入りないし再び仲間入りするための承認された方式である。それは今日また、民衆の同意をかち取り民衆の熱意を引き出すような政治的連帯をめぐる唯一のヴィジョンと論拠をもたらしている。」
( 『ナショナリズムの生命力』 )

アントニー・D・スミス (Anthony D. Smith)
「イギリスの社会学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。オックスフォード大学を卒業し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号取得。ナショナリズム研究を専門とし、国民(ネイション)およびナショナリズムを近代特有の産物とみるエリック・ホブズボームやアーネスト・ゲルナーの議論に対して、それ以前から存在する文化的共同体(エトニ)との連続性を重視する立場をとる。」
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

今回、この文章を引用したのは、「ナショナリズムの応用問題」の参考資料としてである。

「ナショナリズムの応用問題」では、何回かに分けて、林櫻園の思想に関して紹介してきた。
櫻園にとって、ナショナリズムの核心を〈攘夷〉(=外夷に対する国民戦争)と言い表していることはお分かりになったと思う。
そして、それが民族の「誇りの源泉」であったことも。
また、櫻園の立場から見た〈近代化〉が、実際に明治政府によって行なわれた〈近代化〉とは、かなり違ったものになった可能性も。

その機序を示すのに、このアントニー・D・スミスのことばは、多少の参考になると思う。

参考資料 アントニー・D・スミス、巣山靖司監訳『20世紀のナショナリズム』(法律文化社)
     アントニー・D・スミス高柳先男訳『ナショナリズムの生命力』(晶文社)

関曠野
『民族とは何か』
講談社現代新書
定価:本体756円(税込)
ISBN4061495798

今日のことば(97) ― 中江兆民

2006-02-14 08:38:34 | Quotation
「隣国内訌(ないこう)あるも妄(みだ)りに兵を挙げてこれを伐(う)たず。いはんやその小弱の国の如きは宜しく容(い)れてこれを愛し、それをして徐々に進歩の途に向はしむべし。外交の道唯これあるのみ。」
(「論外交」)

中江兆民(なかえ・ちょうみん、1847 - 1901)
明治時代の思想家、ジャーナリスト。高知生まれ。幼名は竹馬、後に篤介 (とくすけ)。1871(明治4)年、司法省からフランスに留学、1874(明治7)年に帰国、仏学塾を開く。1875(明治8)年、東京外国語学校校長、元老院権少書記官などに就く。1881(明治14)年、西園寺公望らと「東洋自由新聞」を発刊、主筆となる。翌年「政理叢談」を発行、ルソーの『民約訳解』(『社会契約論』の部分訳)を刊行するなど自由主義思想の啓蒙に努め、「東洋のルソー」と称せられる。1887(明治20)年、『三酔人経綸問答』を執筆。1890(明治23)年、第1回衆議院開設に当り、大阪から議員に当選するが、土佐派の一部が予算案成立に関して政府と妥協、その裏切りに憤慨し、国会を「無血虫の陳列場」と言い放って辞職。1897(明治30)年、国民党を組織、1900(明治33)年国民同盟会に参加。1900(明治33)年、ガンの宣告を受け『一年有半』『続一年有半』を執筆、1901(明治34)年、大阪にて食道ガンで病死。門人には幸徳秋水がいる。

『三酔人経綸問答』を読んでも分るように、中江兆民という人物、そう一筋縄ではいかない。
穏健な現実主義の「南海先生」は、等身大の兆民ではない。
実際には、非武装主義の「洋学紳士」のように理想主義的な面も強く持っていたし、軍国主義的で大陸への侵略を説く「豪傑君」の立場がありうることも分っていた(晩年には、国民党結成、国民同盟会への参加など、国家主義的傾向を見せた)。
しかし、それらの相矛盾するかのような全てを包摂しつつ、かつ国会開設前後の実際の行論は、舌鋒鋭く当路を批判する(「保安条例」で、治安妨害のおそれありとして、皇居外3里の外に追放などの処分もされる)。

上記引用は、朝鮮の「壬午軍乱」(1882年、首都漢城(現ソウル)で起きた兵士の反乱事件。政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた)に際しての兆民の発言。

一方、明治政府がとった行動は、陸軍歩兵1個大隊、軍艦4隻、海軍陸戦隊を花房公使に率いさせ、朝鮮に派遣する、というもの。
これらの軍事力を背景にして、朝鮮国王・大院君と交渉を図る。
結果、済物浦条約を締結、賠償金50万円、日本軍の首都駐留を含む要求を飲ませたが、清国との対立を高め、日清戦争へとつながることとなった。

「いずれにせよ19世紀末の日本は英米から脅威を受けたのではなく、むしろ彼らのバックアップで、朝鮮・清国に対して、英米にも利益をもたらす当時の国際法的秩序である不平等条約を押しつけようとしたのです。そのような大勢に抗しようとした清国や朝鮮は、旧来の体制を維持しようとしました。しかし『台湾出兵』や江華島事件等の経験から、しだいに日本がむしろ英米やフランスへの追随者であることをさとり、強い警戒心をもつようになったのは無理からぬことでした。」(岩井忠熊『大陸侵略は避け難い道だったのか―近代日本の選択』)

兆民の主張したのは、日本が「英米やフランスの追随者であること」を止め、清国や朝鮮とともに自主独立の路線を貫くことであった(その上での連携も、考慮内にあっただろう)。
発言の時期は違うものの、
「支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず。正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ」
という『脱亜論』と、兆民は、まったく違った観点に立っていたのである。

外交問題はさておき、兆民の本質が、革命的民主主義者か穏健な立憲君主主義者かは、いまだに評価が定まらない。
けれども、兆民がそれらの論議を聞けば、
「あしはナカエニストやき」
と言い捨てて呵々大笑するであろう。

参考資料 『中江兆民評論集』(岩波書店)
     『日本の名著36 中江兆民』(中央公論社)

今日のことば(96) ― I. クセナキス

2006-02-10 02:58:08 | Quotation
「『メタスタシス』は私の作曲家としての人生のスタート地点にある作品ですが、その発想の源は音楽というよりナチス占領下のギリシアでの印象にあるのです。ドイツ人はギリシア人労働者を第三帝国へ拉致しようとしました。われわれは大規模なデモンストレーションを行いこれに抵抗しようとしました。私は群衆がスローガンを叫びながらアテネの中心部へとデモ行進していく音を聞いていました。やがて彼らは道をふさぐナチスの戦車隊に行き当たり、機銃掃射の音がしたかと思うと、カオスが出現しました。私には決して忘れられません。何万人もの群衆がデモ行進する足音やシュプレヒコールの規則的なノイズが、素晴らしい無秩序へと転換したのです。」
(『クセナキスとの対話』)

I. クセナキス(Iannis Xenakis, 1922 - 2001)
現代の作曲家。ルーマニア生まれのギリシア系フランス人。アテネ工科大学で建築と数学を学ぶ。反ナチス・レジスタンス運動を行い逮捕され死刑宣告を受けるが、フランスに亡命。建築家としてル-コルビュジェと協力する一方、パリ音楽院でD. ミヨー、A. オネゲル、O. メシアンに師事。電子音楽や数学の論理を音楽に応用した作曲活動を続けたが、晩年はアルツハイマー型痴呆症に冒され、作曲が困難になった。

『メタスタシス』は1955年にドナウエッシンゲン音楽祭で発表された(1954年作曲)、グラフ図形を基礎にしたデビュー作品。しかし、そのような数学を基礎とした作品が、現実の「素晴らしい無秩序」から生まれたということは、現代の音楽を考える上で示唆的である。

これは「自然の秩序」という本質的な自然観に関係してくる。
小生、理系の知識には不案内なので、見当違いかもしれないが、直感的には、クセナキスの背景にあるのは、ハイゼンベルクの〈不確定性原理〉以降の自然観のように思われる(正確には、「粒子の運動量と位置決まってはいるが、人間にはわからないだけだ」とする〈隠れた変数理論〉か?)。

これらの量子力学的理論の詳細はともかく、物理学のパラダイムが、そこで大きく変わったことに間違いはあるまい。
従来のクロノメーターのような自然という考え方(ニュートン力学の自然観)から、確率論的世界への自然観の変更である。

クセナキスは、「ストカスティック・ミュージック」(stochastic music)という「テーマや音列、リズム・パターンのような音楽的な前提をまったくもたず、ポワソン分布などの確率過程をつかって音の高さ・長さ・密度(単位時間内の音数)・音色配分、さらに全体の構成(マクロ・コンポジション)にいたるすべての局面を決定する手法」(高橋悠治) により一連の器楽作品を創り出した。

上記引用の政治的な事件と、このような作曲技法との関連は定かではないが、そこに確率論的世界という自然観があることに間違いはないように思われるのだが、如何なものであろうか。

参考資料 渡辺裕、増田聡ほか『クラシック音楽の政治学』(青弓社)
     *上記引用は本書による。


訃 報

なお、伊福部昭氏が2月8日にお亡くなりになりました。
謹んでご冥福をお祈りもうしあげます。
合掌

今日のことば(95) ― 吉田秀和

2006-02-07 04:07:11 | Quotation
「マーラーとドビュッシーは、同じ一つの時間に生きていたのであるということ、つまり音楽家たちは、どんな生き方をし、どんな仕事の仕方をした人間でも、すべて、その前の人、同時代の人、後から来た人からまったく独立に、別々の〈時間〉を与えられ、その中で勝手に仕事をしたのではないのである。」
(「新しい音楽の芽」。『音楽展望』1971・4・15)

吉田秀和(よしだ・ひでかず、1913 - )
音楽評論家。東京帝国大学文学部仏文科卒。1946(昭和21)年、雑誌「音楽芸術」に『モーツァルト』を発表、評論活動を開始する。1948(昭和23)年、斎藤秀雄らと「子供のための音楽教室」を開設し、初代室長に就任する。この教室は後に、桐朋学園音楽科に発展するが、一期生には、指揮者の小沢征爾、ピアニストの中村紘子らがいる。1957(昭和32)年、作曲家の柴田南雄らと二十世紀音楽研究所を設立、所長に就き現代音楽の育成、紹介の活動にも貢献する。2005(平成17)年には『吉田秀和全集』(全24巻。白水社刊)が完結した。

まずは、高峰のみをつないでいく奇妙な音楽史が、この国には存在する。
学校教育で行われている学習では、バッハがいて、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェンが、音楽室の壁に掛けられた肖像画のように独自に存在し、その間の関係はまるでなかったかのような音楽史が教えられる。
せいぜいが、それぞれの音楽家たちと、その様式のみをセットで覚えさせるくらいだろうか(バッハは「バロック音楽」、ベートーヴェンは「古典派」と線で結ばせる)。

もう1つの学習機会である「世界史」においても、あたかも文化史は、その時代の政治史や社会史との流れとは無関係に存在するかのような扱いである(ベートーヴェンとフランス革命との関係は、交響曲〈英雄〉とナポレオンとのエピソードで触れられるのみ。ハイドンやモーツァルトの音楽活動と、貴族社会やドイツの領邦国家との関係などは、まったく扱われない)。

そのようなパースペクティブに欠ける音楽史のことを、まずは上記引用は述べているのだろう。
また、その後には、
「音楽家たちは、いつの間にか自分の領分をつくりあげ、その主となると、あとはまわりを気にはしても、それと対決しながら、みんなが集まって生きている一つの時間の中での自分の位置、意味を明らかにしようとする習慣もなければ、その努力もしない。」
と、音楽界の現状についても述べる(1970年代だけのことか?)。

その原因を、吉田は、
「近代日本の音楽に、ベートーヴェンやヴァーグナーにあたる〈古典〉、つまり規範でもあれば偉大な障害でもあるものがない」
ことに見出す。
本来なら、近世文化から近代文化が連続してつながっているならば、当然のこと存在すべき〈古典〉が、明治維新の〈文明開化〉(西洋化=近代化)で断ち切られてしまったために、日本には存在していないのだ。

ここからは、吉田の発言からは、離れる。
〈古典〉が存在しないということは、ひるがえって考えると、その代わりに妙な〈伝統〉が「復活」することがありうる(規範が存在しないのだから、適当なものがでっち上げられる可能性が大)。
それは、近代になって(あるいは近世に)〈創られた伝統〉を、あたかも脱歴史的な太古から存在するかのように取り扱うということである。

〈歴史〉と〈伝統〉ということばが提示された場合には、充分に吟味してかかるべきであろう。

参考資料 吉田秀和『音楽 展望と批評』(朝日新聞社)
     『吉田秀和全集』(白水社)

今日のことば(94) ― 橋川文三

2006-02-03 08:05:19 | Quotation
「自由民権運動以降の日本ナショナリズムは、それがしばしば指摘されるように、あまりにも速やかにその中に民権的契機を喪失し、侵略的国権主義の方向のみを肥大させたといわれることが事実であったにせよ、そのことは、それ自体としていえば、日本ナショナリズムの健全さでも、不健全さでもなく、本来、近代ナショナリズムの原型そのものの中に、そのような要因があったのである。ルソーのナショナリズム理論が、後に自由民主主義の政治形態を支えるよりもむしろ民主主義の全体主義化(トタリタリアニズム)を促進したといわれる意味において、日本ナショナリズムの異常形態も、それなりにある理論的必然性をはらんでいた」
(『日本浪漫派批判序説』)

橋川文三(はしかわ・ぶんぞう、1922 - 83)
評論家、思想史家。東京帝国大学法学部卒業後、編集者生活を経て、1970(昭和45年明治大学教授に就く。1960(昭和35)年の『日本浪漫派批判序説』で注目される。昭和精神史を中心として、思想、歴史、文学と幅広い発言がある。

日本浪漫派の名前は、保田與重郎(やすだ・よじゅうろう、1910 - 81) を中心として、1935(昭和10)年から1938(昭和13)年まで発行された雑誌からつけられた。メンバーには亀井勝一郎や中谷孝雄らを初めとして、雑誌『青い花』の同人太宰治、檀一雄、山岸外史らが加わる(太宰は、途中で保田と別れる)。

思想的には、「近代」そのものへの批判から「日本の伝統への回帰を叫び、次第に国粋主義的傾向を強めた」とされる。橋川のことばを借りれば「耽美的パトリオティズム」ということになり、「美的に帰一すべき共同体」を目指す文学運動ということになる。

さて、上記引用であるが、玄洋社の歴史に見られるように、国権ナショナリズムが民権ナショナリズムから生まれたことは、橋川の指摘どおりである。
ーー玄洋社の母体となった向陽義塾(向陽社)は、自由民権運動の結社で、「わが福岡こそは憲政発祥の地であった」と頭山満が言うように、一時は土佐の立志社を凌ぐ勢いであった。それが、1890(明治23)年の第1回総選挙を契機に、国権主義に転向したといわれる。

ナショナリズムそのものが、自らのアイデンティティの根拠を国家へ預けてしまうものであるから、国家に必要なものが「民権」ではなく「国権」であると判断すれば、「民権的契機を喪失し、侵略的国権主義の方向のみを肥大させ」るのは、転向でも何でもなく、「理論的必然性」があったと言えるだろう。

話を『日本浪漫派批判序説』に戻すと、
「保田(與重郎)や小林(秀雄)が『戦争イデオローグ』としてもっとも成功することができたのは、戦争という政治的極限形態の過酷さに対して、日本の伝統思想のうち、唯一つ、上述(=「ある政治的現実の形成はそれが形成されおわった瞬間に、そのまま永遠の過去として、歴史として美化されることになる」)の意味での『美意識』のみがこれを耐え忍ぶことを可能ならしめたからである。いかなる現実もそれが『昨日』となり『思い出』となる時は美しい」
との一節は、今日にどのような有効性を持っているのだろうか。

「靖国神社」は、今でも「美化」の装置として、九段坂上に厳然として存在しているのではないのか(戦死者を「平和のための貴い犠牲者」と表現するのも同様)。

参考資料 橋川文三『日本浪漫派批判序説』(講談社)
     『橋川文三著作集』(筑摩書房)

今日のことば(93) ― 北畠親房

2006-01-31 12:18:51 | Quotation
「大日本(おほやまと)は神国なり。天祖(あまつみおや:国常立尊のこと)はじめて基をひらき、日神(ひのかみ:天照大神のこと)ながく統を伝給ふ。我国のみ此事(このこと)あり。異朝には其(その)たぐひなし。此故(このゆゑ)に神国と云也(いふなり)。」
(『神皇正統記』)

北畠親房(きたばたけ・ちかふさ、1293 - 1354)
鎌倉時代末、南北朝時代の公家、武将。1334(建武1)年、建武政権へ出仕、従一位・大臣に任命される。長男顕家(あきいえ)の陸奥守就任に伴って、義良(のりなが)親王を奉じて、陸奥多賀城へ下向。建武政権の挫折後、上京。京での国政に携わる。1335(建武2)年、足利尊氏の九州からの東上に当り、伊勢神宮度会氏の支援の下に、南朝の拠点構築を行なう。1336(建武3/延元1)年、尊氏により光明天皇が即位すると、後醍醐を吉野に迎え、南朝を開く。1338(暦応1/延元3)年、再び、義良親王を奉じて東国回復のため、伊勢を出帆するが暴風に遭い、常陸へ上陸する。東国で北朝方と戦い、その間、常陸国小田城中で『神皇正統記』を著わす。

古くは戦前・戦中の「皇国イデオロギー」のスローガンとして、新しくは森某という宰相の失言まで、神国=日本は「他国に優るという主張として読まれてきた」(菅野覚明『神道の逆襲』)。

しかし、北畠親房は「伊勢神道を学び、その深い影響を受けた政治家」(菅野、前掲書)である。その文脈から理解しなければ、この言説の正しい意味が得られるとはいえない。
また、親房が生きた時代は、南北朝の内乱期である。その中にあって、どのようにすれば天下が治まるかを考えての発言として見なければならないだろう。

親房が了解しているのは、「この国は、神を祭ることでのみ、国として保たれる」ということ。それが、「神国」の意味である。
その「神を祭る」主体が天皇である。
「神を祭る」基準として「三種の神器」は、親房の理解によれば、「鏡」は「正直(せいちょく)」の、「玉」は「慈悲」の、そして「剣」は「智恵」の象徴なのである。
「鏡は(中略)其すがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源なり。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源なり」
と『神皇正統記』には記されている。

したがって、上記引用は、「祭祀国家」としての日本のありようを述べたもので、「神聖国家」としての日本の優越性を述べたものではない。

このような伊勢神道的な理解が、近世に儒教(朱子学)と出会うことによって、
「万世一系」(「百王一姓」)というカリスマ的レジティマシイ(統治正統性)や、「天皇親政」(「天皇親征」)という天皇独裁権力の主張と変わっていくのである(特に、山崎闇斎の「垂加神道」)。

後はご存知のように、国学的復古神道、後期水戸学になり、対抗ナショナリズムの根拠として明治政府に引き継がれ、アジア/太平洋戦争の敗戦にまで到る。
けれども、それが誤読であることは、今まで述べたとおりである。

参考資料 菅野覚明『神道の逆襲』(講談社)
     井上順孝『神道入門―日本人にとって神とは何か』(平凡社)

今日のことば(92) ― R. タゴール

2006-01-28 00:00:22 | Quotation
「いまあなた方は、歴史のうえでもったことのないもの、属国というものをもっている。またあなた方より軍事力の弱い国を、一つ近隣にもっている。極めて率直にいわせていただければ、朝鮮人で、みなさんよりずっと不幸な人々への、不正な取り扱いの実例を、たまたま聞いて、私はひどく失望させられ、深く心を傷つけられている。」
(「日本に寄せるインドよりのことづて」講演より)

R. タゴール(Rabindranath Tagore, 1861 - 1941)
近代インドのベンガル語詩人、小説家。ベンガル地方カルコタ(カルカッタ)の名門タゴール(正しくはタークル)家に生まれ,少年時代から文才を発揮、詩を発表する。詩集『ギーターンジャリ(歌の贈物)』の英訳版(1912年発刊)が,国際的に高く評価され,1913年にノーベル文学賞を受賞する。また、ベンガル語の教育にも努め、1901年にはサンチニケタンにヴィスワ・バーラティ学園を創設。植民地政府から一切の資金援助を受けなかったが、インド独立後、大学の資格を得るようになった。マハトマ・ガンディーとならんで、インド独立運動の精神的支柱でもあった。

上記引用は、1916(大正5)年6月11日、二度目に来日したタゴールによって、東京帝国大学八角講堂で行なわれた講演の一節。

タゴールも孫文と同様に、西欧文明の欠陥を見つめ、
「ヨーロッパは人間性に顔を向けている時は善意にあふれ、他に類を見ないほど善良です。しかるに自己の利益を見つめ、人間の中にある無限なるもの、永遠なるものに敵対するために彼等の偉大な力を使い始めると、ヨーロッパは有害な側面を示すようになり、そこでも比類ないほど邪悪な存在なのです」(大澤吉博著『ナショナリズムの明暗』)
と述べた。

しかし、タゴールは、西欧文明の「暗」の部分だけではなく、「明」の部分をも示している。
「民族の偉大さを表わす根は、その特性を示す、意識下の土壌に生えているものです。ヨーロッパの秘められた心の中には、人間の愛の最も純粋な流れが走っており、正義を愛する気持、高貴な理想のためには自らをかえりみない精神があります。何世紀にもわたるキリスト教文化がヨーロッパ人の生活の髄にしみ込んでいるのです。ヨーロッパには皮膚の色、信条に関わりなく、人間の権利を擁護した高貴な人々がいました。」(大澤吉博著『ナショナリズムの明暗』)

したがって、上記引用のように、普遍的な正義の観点から見た、日本の欠点を指摘することも忘れない。

このような指摘は、日露戦争後の驕慢な日本人にとっては、その存在を貶めるものとして不評であった。
それを真摯に受け止めるだけの知性と、倫理観が日本人にあれば、その後の歴史も大きく変わった可能性もあっただろうが、この演説の7年後、1923(大正12)年の関東大震災では朝鮮人・中国人の虐殺事件を起こすことになる。

参考資料 大澤吉博著『ナショナリズムの明暗』(東京大学出版会)
     大江志乃夫『張作霖爆殺―昭和天皇の統帥』(中央公論社)
     *上記引用は本書よりのもの。

今日のことば(91) ― 孫文

2006-01-27 09:15:31 | Quotation
「今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」
(「大アジア主義」講演より)

孫文(そんぶん、Sun Wen, 1866 - 1925)
中国の政治家、革命家。字は中山、逸仙。
広東省の客家に生まれる。兄を頼ってハワイに渡る。キリスト教系学校に学び、西洋思想に傾倒したことを心配した兄に故国へ帰される。帰国後、香港で医学を学び、マカオで開業する。1894年、興中会を組織、中国の革命を志す。翌95年、広州蜂起に失敗、日本とアメリカを経てイギリスに亡命するが、一時清国大使館に勾留される。その体験を記した『倫敦被難記』を発表、一躍中国の革命家として名声を博する。1905年、興中会・光復会・華興会を合同させ、中国同盟会を結成する。
1911年、辛亥革命によってアメリカから帰国した孫文は、翌12年に臨時大総統に就く(南京政府)が、袁世凱に座を追われる。以後、反袁闘争を行ない、17年、広東政府を樹立。24年には中国共産党との間に協力関係を結ぶ(第一次国共合作)。1925年「革命未だならず」とのことばを残して、北京に客死。

上記引用は、1924(大正13)年、北京に向う途中の孫文によって、11月28日、神戸第一高等女学校講堂で行われた講演の最後の一節。

孫文は、その講演で、
「日本が日露戦争の勝利で全アジア民族に大きな喜びと希望をあたえた事実を指摘したのち、日本人にたいするきびしい警告の言葉をもって演説をしめくくった」(大江志乃夫『張作霖爆殺―昭和天皇の統帥』)
のである。

孫文の大アジア主義とは、東アジアから欧米列強を追い出すためには、日本と中国が連帯することが要(かなめ)という認識に基づいている。しかし、それを実現するためには、1915(大正4)年に出された「21か条の要求」がネックとなる、と指摘する。

なぜなら、その要求は、日本が採った「西洋覇道」の文化を体現するものだからである。
「西洋覇道」の文化、すなわち「西洋物質文明」は、
「科学の文化であり、功利を重視する文化でした。このような文化を人類社会に応用しますと、たんなる物質文明となるのであり、そこにはただ飛行機と爆弾、鉄砲と大砲があるだけであり、一種の武力の文化にすぎないのであります。」
つまりは、この文化を採用した日本は、帝国主義列強の一員となったと認めざるをえない。

しかし、「東洋王道」の文化、すなわち「東洋仁義道徳の文化」は、
「人を感化するのであって、人を圧迫するのではなく、人に徳を慕わせるのであって、人を畏れさせるのではありません。」
孫文は、日本と中国が連帯して、西欧の帝国主義諸国に対抗するためには、「東洋王道」を採らねばならないと指摘する。

実際に、その後も日本が採ったのは、孫文のいう「東洋王道」ではなく、「西洋覇道」であったことは、実際の歴史が明らかにしている。
日本が現実には辿らなかった歴史には、もう1つの「東洋王道」という選択肢もあったことを覚えておくべきであろう。

参考資料 山口一郎,伊地智善継監修『孫文選集』(社会思想社)
     大江志乃夫『張作霖爆殺―昭和天皇の統帥』(中央公論社)