真偽のほどは定かではありませんが、慶応4(1868)年4月7日に、江戸城奪還のクーデタ計画が発覚したそうです。
これがどのような時期かといえば、まず江戸城を新政府軍に引き渡す(「江戸城無血開城」)予定が4月11日、前将軍慶喜の水戸立退が同じく11日です。
ですから、もしクーデタ計画があって、それが成功していれば、再度新政府軍と旧幕府軍との武力抗争が、江戸を舞台にして行なわれる可能性があった。
この計画を、加来耕三『真説 上野彰義隊』によって見ると、
それでは、このクーデタ、どのようなメンバーが参加していたか、といえば、
しかし、計画は、白戸石助が「突如、上野の慶喜のもとまで、この大陰謀を密告」して出たため、潰え去ったというのです。
もし本当ならば、二・二六事件や録音盤奪取事件のような、江戸城を舞台とするクーデタ計画ということになるのですが、どうも歴史的事実として裏付けるものはあまりないようです。
たとえば、榎本武揚が首謀者だとすれば、それなりの処分が行なわれるはずですが、4月11日の時点でも役職に変化はなく、昼間は勝と共に行動しています。
さて、このクーデタ計画、本当にあったのでしょうか?
加来耕三
『真説 上野彰義隊』
中公文庫
定価:各 924 円 (税込)
ISBN978-4122033092
これがどのような時期かといえば、まず江戸城を新政府軍に引き渡す(「江戸城無血開城」)予定が4月11日、前将軍慶喜の水戸立退が同じく11日です。
ですから、もしクーデタ計画があって、それが成功していれば、再度新政府軍と旧幕府軍との武力抗争が、江戸を舞台にして行なわれる可能性があった。
この計画を、加来耕三『真説 上野彰義隊』によって見ると、
「不穏分子(=抗戦派の徳川海陸将校)は主君の旅立ち(当初9日を予定)を見送るや旧幕府陸軍を中心に、桑名、会津の有志、あるいは彰義隊などの府内集団と語らい、城門に通じる諸門を封鎖、江戸城を奪回したうえで、勝安房ら恭順派を拉致し、すでに草案のなった嘆願書を東征軍に提出。もともと承諾の得られるような内容でないことは計算済みで、それを口実にいよいよ一戦の運びという段取り」というもの。
それでは、このクーデタ、どのようなメンバーが参加していたか、といえば、
「海軍副総裁榎本和泉(武揚)、前陸軍奉行松平太郎、撤兵奉行白戸石助の三人。あるいは陸軍副総裁並(のちに軍事取扱、別手銃隊頭)多賀上野介、もと歩兵頭の岡田豊後守を加える説もある」
しかし、計画は、白戸石助が「突如、上野の慶喜のもとまで、この大陰謀を密告」して出たため、潰え去ったというのです。
もし本当ならば、二・二六事件や録音盤奪取事件のような、江戸城を舞台とするクーデタ計画ということになるのですが、どうも歴史的事実として裏付けるものはあまりないようです。
たとえば、榎本武揚が首謀者だとすれば、それなりの処分が行なわれるはずですが、4月11日の時点でも役職に変化はなく、昼間は勝と共に行動しています。
「(勝は)早朝、浜御殿の海軍局に赴いて食事を取り、それから榎本武揚以下の海軍士官たちと屋上へ出て、砲声砲煙の有無を望見させた。」(綱淵謙錠『航 榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』)
さて、このクーデタ計画、本当にあったのでしょうか?
加来耕三
『真説 上野彰義隊』
中公文庫
定価:各 924 円 (税込)
ISBN978-4122033092