goo blog サービス終了のお知らせ 

一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

幻のクーデタ計画

2007-07-19 00:00:07 | History
真偽のほどは定かではありませんが、慶応4(1868)年4月7日に、江戸城奪還のクーデタ計画が発覚したそうです。

これがどのような時期かといえば、まず江戸城を新政府軍に引き渡す(「江戸城無血開城」)予定が4月11日、前将軍慶喜の水戸立退が同じく11日です。
ですから、もしクーデタ計画があって、それが成功していれば、再度新政府軍と旧幕府軍との武力抗争が、江戸を舞台にして行なわれる可能性があった。

この計画を、加来耕三『真説 上野彰義隊』によって見ると、
「不穏分子(=抗戦派の徳川海陸将校)は主君の旅立ち(当初9日を予定)を見送るや旧幕府陸軍を中心に、桑名、会津の有志、あるいは彰義隊などの府内集団と語らい、城門に通じる諸門を封鎖、江戸城を奪回したうえで、勝安房ら恭順派を拉致し、すでに草案のなった嘆願書を東征軍に提出。もともと承諾の得られるような内容でないことは計算済みで、それを口実にいよいよ一戦の運びという段取り」
というもの。

それでは、このクーデタ、どのようなメンバーが参加していたか、といえば、
「海軍副総裁榎本和泉(武揚)、前陸軍奉行松平太郎、撤兵奉行白戸石助の三人。あるいは陸軍副総裁並(のちに軍事取扱、別手銃隊頭)多賀上野介、もと歩兵頭の岡田豊後守を加える説もある」

しかし、計画は、白戸石助が「突如、上野の慶喜のもとまで、この大陰謀を密告」して出たため、潰え去ったというのです。

もし本当ならば、二・二六事件や録音盤奪取事件のような、江戸城を舞台とするクーデタ計画ということになるのですが、どうも歴史的事実として裏付けるものはあまりないようです。

たとえば、榎本武揚が首謀者だとすれば、それなりの処分が行なわれるはずですが、4月11日の時点でも役職に変化はなく、昼間は勝と共に行動しています。
「(勝は)早朝、浜御殿の海軍局に赴いて食事を取り、それから榎本武揚以下の海軍士官たちと屋上へ出て、砲声砲煙の有無を望見させた。」(綱淵謙錠『航 榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』)

さて、このクーデタ計画、本当にあったのでしょうか?

加来耕三
『真説 上野彰義隊』
中公文庫
定価:各 924 円 (税込)
ISBN978-4122033092

戊辰戦争の「謎」

2007-06-23 01:39:05 | History
戊辰戦争の勝敗を決したのは、火力の差だとよく言われます。
たとえば、
「戊辰戦争は一部の白兵戦を除いては銃撃戦であった。銃砲の良し悪しが勝負を決めた。(中略)連合軍(=新政府軍)の銃は最新式の西洋銃を多く使用しているに対して、幕府軍は火縄銃と西洋銃があっても連合軍のそれより一時代古い銃を使用している。」(『歴史への招待14』)
というのが代表的なものでしょう。

しかし、実際には、火力の差というよりは、その運用の差ではないかと、思われるのです。
「運用の差」で一番大きなのは、使用した武器の弾薬や弾丸が順調に補給できたかどうか、ではないでしょうか。
そのためには、ランニング・コストがどの程度かかるかを知らなければなりません。
例えば、アームストロング砲の場合、砲弾1発で0.44両(約1分3朱)掛かったという史料があります。こうなると、かなりの軍資金がなければ、大砲を思ったように発砲するわけにもいかなくなります(軍資金が乏しくなった榎本政権は、箱館の町民から無理な徴税をせざるをえなくなった)。

また、ほとんどの銃砲が輸入品だったために、弾薬や弾丸の補給ルートが確保できていなければなりません。
大鳥圭介率いる脱走幕府伝習隊は、〈シャスポー〉という最新鋭のライフル銃を装備していましたが、ペーパー・カートリッジという特殊な薬莢を使っていたため、日光に達した時には、既に不足してしまっていました。
もし、入手しようとすれば、当時、奥羽越列藩同盟側が制圧していた新潟港で陸揚げしなければなりませんでした(これも、慶応4年7月には、新政府軍側の手に入ってしまった)。

したがって、幕府伝習隊は、以後、会津戦線では〈シャスポー〉を有効に使用することができませんでした(その後、榎本政権下の箱館で入手できたかどうかは不明)。

こう考えてみると、資金力と補給ルートという要素が、戦争に与えた影響は、かなり大きなものではないかと思われます。

榎本艦隊の「謎」 その2

2007-06-22 00:33:55 | History
「三十万両」の行方については、出典からの引用を挙げて、綱淵謙錠『航―榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』で詳細に述べられていますので、そちらに考証は譲りましょう。
いずれにしても、大坂城の「三十万両」は、〈富士山丸〉あるいは〈長鯨丸〉
で、江戸に運び込まれました。その内、三万両(一説には三千両)は、横浜のオランダ領事ボードウィンに預けられ、それがオランダ留学生たちの費用となった、ということです。
ですから、十八万両の大部分が、そっくりそのまま榎本たちの軍資金になったことはないのです(綱淵は、大坂城にあった金貨自体が偽物であると、大胆な推理をしているが、それでは、オランダ留学生のために使用された金銭の出所はどこということになるのだろうか?)。

この話はこれまでにして、次に、〈開陽丸〉の江刺座礁の際、榎本は艦上にあったかどうか、という問題。
吉村昭『幕府軍艦〈回天〉始末』では、
「風波はおさまらず、〈開陽〉に乗る榎本をはじめ乗組員は艦内にとどまっていたが、ようやく十九日になって、わずかの兵器をたずさえて岸にあがることができた。」
と述べられており、座礁(十一月十五日夜から翌早朝にかけて)時には、榎本は艦上にあったように書かれています。
これは、おそらくは『雨窓紀聞』(小杉雅之進著)に、
「之(これ)に加(くわう)るに連日の暴風激浪にて、榎本を始め船に在るもの上陸するを得ず、漸く第三日に至り聊(いささか)風の凪間を計(はかり)、僅(わずか)に兵器を携(たずさえ)、岸に達するを得(う)」(原文は、漢字カタカナ混じり文)
を根拠にしているのでしょう。
小杉は、〈開陽丸〉蒸気方ですから、その場にいての証言です。

しかし、一方、〈開陽丸〉水夫頭見習の渡辺清次郎も回想録を残している(『渡辺清次郎回想録』)。
これによると、
「渡辺はまず、開陽丸が江刺に入港すると、『榎本、沢の正副艦長も上陸したが、私は船に残った』」(綱淵、前掲書)
と証言しています。

さて、どちらの証言が正しいのか、小生には判断するだけの資料はありませんが、次のような言明があることをお伝えしておきましょう。
「誰が開陽丸に残り、誰が上陸したかは諸説がある。榎本は上陸しなかったという説もあるが、これはあとからの創作である。
艦長の沢も一緒に上陸した。」(星亮一『箱館戦争』)

「沢はこのとき、前述したように、榎本と一緒に陸上にいた。したがって、沢は座礁時における開陽艦上の実際の光景は目撃していないはずであり……」(綱淵、前掲書)



星亮一(ほし・りょういち)
『箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち』
三修社
定価: 1,890 円 (税込)
ISBN978-4384041019

榎本艦隊の「謎」 その1

2007-06-21 01:14:56 | History
ちょっと大袈裟なタイトルにしてしまいましたが、きっかけは些細なことです。

箱館戦争について調べている時に、吉村昭『幕府軍艦〈回天〉始末』に目を通しました。すると、今まで史実に忠実に小説を書いていると思っていた吉村の記述に、「?」という部分がちらほらとあった。
そこで、手持の綱淵謙錠『航―榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』と星亮一『箱館戦争―北の大地に散ったサムライたち』も見てみました。

その過程で気づいた「こりゃあ定説がないんじゃないか」と思われる部分を挙げてみたという次第です。まあ、他に適当なタイトルも思いつかないので、こうしておきましょう(歴史観がらみの部分は、この際さておいて、事実に関してのみ)。

まずは「謎」に当たらない、吉村のチョンボについての指摘から。

本ブログで、「『燃えよ剣』の間違い探し」「〈ストーンウォール・ジャクソン〉のこと」と2回に渡って指摘したように、〈ストーンウォール〉と〈ストーンウォール・ジャクソン〉とは、まったく別の艦です。
そして、日本に売却されて、最終的に新政府軍の手に入ったのは、〈ストーンウォール〉の方(例の「宮古海戦」でアボルダージュされた艦ね)。
したがって、〈ストーンウォール〉=〈甲鉄〉=〈東(あずま)艦〉となるわけです。

それが、『幕府軍艦〈回天〉始末』では、
「アメリカ政府は、フランスのボルドーで建造された〈ストーンウォール・ジャクソン号〉を幕府に引き渡すこととし、同艦は四月二日に横浜に到着していた。」
となってしまっているんですね。これは完全な誤り。

次は、まだ議論の余地がありそうな「十八万両」問題。
これは、榎本が大坂城から幕府の軍用金18万両を江戸まで運び出し、それからどうなったか、ということです。『幕府軍艦〈回天〉始末』には、
「〈開陽〉には、十八万両という多額の軍資金が格納されていた。それは将軍慶喜が鳥羽、伏見の戦いにやぶれて江戸に向けて脱出した時、大坂城に所蔵されていた金貨約十八万両を榎本が運び出し、艦にのせて江戸に持ち帰ったものである。」
と江戸脱出後も、〈開陽丸〉には十八万両がそのまま積まれており、それが箱館戦争の軍資金になったように暗示されています。

けれども、〈開陽丸〉艦長の沢太郎左衛門の回想「戊辰之夢」には、「和泉守(榎本武揚)江戸に帰着の後、大坂城より持越せし古金」と記され、その内三万両を慶喜公から下しおかれ、それを「阿蘭陀国へ送りたり」ともあるのです。
つづく


吉村昭
『幕府軍艦〈回天〉始末』
文春文庫
定価:各 357 円 (税込)
ISBN9784167169275

将軍権力の構造 その2

2007-06-13 01:54:12 | History
このような、建前としての(もちろん、実質的な場合もありうるが)最終決定権者と、実際の合議制という構造は、各藩でも同様であったようです。

さすがに将軍の場合はなかったものの、藩では「主君押込(おしこめ)」といって、家臣団が都合の悪い藩主を監禁することがありました。

より強権を発動すると、今度は藩主を強制的に隠居させてしまい、藩主血縁の適当な人物に後を継がせる場合もあったようです。こうなると、無血クーデタに近くなりますな。

さて、明治維新により、天皇を首長とする新政府ができたわけですが、新政府の人々に、最初から、どのような権力システムを形づくるか、はっきりしたイメージがあったわけではありません。
一つ「天皇親政」という形態は考えられていたでしょうが、まだ明治天皇は少年で、意識的に為政者教育を受けていたわけではない。

そこで、現実的な方策として、考えられていたのは、幕藩体制における権力構造だったのではないでしょうか。

つまり、天皇には建前上の最終決定権を与えるものの、実際に政治を動かすのは家臣団(=藩閥政府首脳)である、という前回述べた「弱い将軍」のシステムです。

明治天皇が成人した場合どうするかは、視野には入っていたでしょうが、実際には「天皇親政」という形態は、明治憲法にも盛り込まれなかった。
悪名高い「統帥権」は別にしても、すべての政府の決定事項は「輔弼行為」となり、天皇には政治責任を及ぼさないシステムとなったわけです。

それでは、明治憲法下で、天皇は「弱い将軍」であり続けたのか?
「弱い将軍」システムを採ったとすれば、近代立憲君主制に近くなってきます。

その答えは、昭和天皇の政治行為を見てみればわかるでしょう。
天皇が自分自身を「立憲君主」として捉えていたとしても、実際には「弱い将軍」と「強い将軍」との間で、最終決定権を行使していた。

「強い将軍」として現れたのが、2.26事件で反乱軍に強硬姿勢を採るように命じたことと、8.15のポツダム宣言受諾の決定です。

このような事例を見ると、明治憲法体制に「将軍権力の構造」の影が、時折ちらつくように思えるのですが、如何でしょうか。

ちなみに、開戦時について、昭和天皇は、
「私が若(も)し開戦の決定に対して〈ベトー(拒否)〉をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保証できない。」(『昭和天皇独白録』)
と語っています。
これは、平和的か、武力を使ってかは別にして、「主君押込(おしこめ)」を連想させます。


笠谷和比古(かさや・かずひこ)
『主君〈押込〉の構造―近世大名と家臣団』
講談社学術文庫
定価:1,050 円 (税込)
ISBN978-4061597853


将軍権力の構造 その1

2007-06-11 11:28:51 | History
ここで「将軍」というのは、北の共和国の「将軍さま」ではありません。
徳川幕府の歴代将軍のことです。

さて、以下の文章を読んでいただきましょう。
「基本的にどの治世においても将軍は完全な独裁者、もしくは(将軍が幼少の場合を除き)幕閣の完全な傀儡という状態ではなく、老中を中心とする幕閣による合議で決定された事案を将軍が決裁するシステムが存続した。」(Wikipedia「江戸幕府」より)

つまりは、徳川幕府において、将軍権力は、絶対独裁でもなければ、実力者の傀儡でもなかったということですね。
このシステムは、家康の幕府創設以前、大名家としての徳川家で、家臣団の力が強く、当主といえども絶対権力を発揮できなかった、つまりは、〈家臣団の合議―当主の決済〉というシステムだったことに由来しているのでしょう。
その点で、織田信長や豊臣秀吉の政権とは、権力構造に違いがあったのです。

ただし、15代の将軍の中には、絶対独裁により近い「強い将軍」と、傀儡により近い「弱い将軍」がいたことも事実でしょう。
前者の例としては、5代綱吉、8代吉宗、15代慶喜などが、後者の例としては、4代家綱、7代家継、9代家重、13代家定などが挙げられるでしょう。

そして、「弱い将軍」の場合には、幕閣や側近の権力が強まり、中には独裁権に近いものを発揮する場合もありました。
その例としては、「下馬将軍」酒井忠清、側用人間部詮房、大老井伊直弼などがいるでしょう。
つづく

「攘夷論」という被害妄想について

2007-05-07 08:12:10 | History
ペリー来航当時、日本では、欧米列強に植民地化されるのでは、とか、清朝のように戦争状態になり、敗れて不平等条約を結ばされるのでは、とかいった危機感が高まっていた。

しかし、その時点で植民地化される可能性は低く、ましてや欧米列強が日本と本格的に戦う意図も条件もなかった、というのが今回のお話。

まず、「砲艦外交」を行なったアメリカであるが、ペリーは大統領から発砲を厳しく止められていた。
 He will bear in mind that, as the President has no power to declare war, his mission is neccessarily of a pacific character, and will not resort to force unless in self defence in the protection of the vessels and crews under his command, or to resent an act of personal violence offered to himself, or to on of his officers.
(彼=ペリーは以下のことに留意すべきこと。米大統領は戦争を布告する権限を持たないこと、彼の使命は平和的な性格のものでなければならないこと、そして、艦艇や乗員の保護のための自衛や、彼自身または将校に対する暴力への報復のため以外には、軍事力には訴えてはならないこと)

したがって、いかにペリーが強硬派であろうとも、日本の砲台から発砲を受け、艦艇が危害を受ける虞れのある場合以外には、4隻合計63門の大砲が火を吹くことはなかったのである。

ましてや、以下のような指摘もある。
「もし交戦になり、イギリスが中立宣言すれば、補給基地の香港を使えなくなります。巨大な艦隊が立ち往生してしまうんです。日本を植民地化する必要も能力も、アメリカになかったとも言えますね。補給線が長いという意味で能力がなかったし、必要性の点では経済の面や、世界戦略上のメリットが、当時はほとんどありませんでした」(東洋史家・加藤祐三氏の発言。岸俊光著『ペリーの白旗』より)

それではイギリスはどうか。
「イギリスにすれば、新興国のアメリカに先を越されてはメンツが立たない。しかし、このころは巨大な中国をどうするかが難しい時期でした。アヘン戦争の末、南京条約を結び、貿易の中心地になりそうな上海に入ったけれど、一八五一年に太平天国の乱が起こって、それは最終的に五七年まで続きました。五六~六〇年にかけて、イギリスは第二次アヘン戦争も仕掛けたし、日本を省みる余裕など、ほとんどなかったんです」(同上)

ロシアの南下政策を強調する向きもある。
けれども、当時、ロシアの南下の攻勢正面は、バルカン半島にあり、その主要敵国はオスマン帝国であった(1853年のクリミア戦争、1877年の露土戦争を想起)。
シベリア鉄道の開通もなされていない状況で、ロシアは、充分な補給線を持たないため、少数の陸軍兵力と多少の海軍力を東洋に派遣していただけであった。

また、フランスも、1858年のインドシナ出兵や1861 - 67年のメキシコ出兵で、こちらも軍事力に余裕はない。

つまるところ、欧米列強の植民地化という危機感は、世界情勢を知らないがための、一種の被害妄想であったのだ。

「主権線」と「利益線」

2007-05-06 07:51:58 | History
「日本の独立自衛のためには主権線の守禦とともに、利益線の防護が必要だ」
というのが、明治20年代に山県有朋が主張した内容です(明治23年3月、「外交政略論」)。

その「主権線」と「利益線」とは、次のようなことを意味します。
「ここでいう主権線とは、国土すなわち日本の領土のことでありまして、利益線とは、主権線の安全に密接な関係のある隣接地域のことだと山県は説明しています。そして、利益線を防衛する方法は何かと問われれば、それは日本に対して各国のとる政策が不利な場合、責任をもってこれを排除し、やむをえない場合は『強力を用いて』日本の意思を達すること、つまり武力行使であると述べています。『我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り』という有名なフレーズが使われたのも、この意見書においてでした。」(加藤陽子『戦争の日本近現代史』)

この考え方は、山県のみならず、その後の歴史(日清戦争→日露戦争)を見ると、明治政府の統一見解であることが分るでしょう。
つまり、この意見書で書かれている「主権線」と「利益線」の考え方は、日本の武力侵略の理論的基盤になったのね。

「主権線」「利益線」自身、固定したものではなく、朝鮮が植民地となると(「日韓併合」。明治43年)、鴨緑江が「主権線」となり、今度は「満洲」(中国東北部)が「利益線」となる。
その後、昭和に入っても事情は変わらず、「満洲」が「準主権線」に入り、中国の長城線以南が「利益線」となります。

というように、いわばドミノ倒し的に、「主権線」と「利益線」が拡大していき、ついには仏領インドシナに達した時点で、欧米諸国と決定的な対立状態となり、太平洋戦争にまで突入することになります。

これらの一連の動きは、明治新政府が「西方覇道」の路線を選択した時点から始まっていると言えるでしょう(こちらをご参照ください)。

去る者、残る者

2005-05-26 05:40:54 | History
小生が危惧したとおり、5月25日の「東京山手大空襲」に関しては、マスコミは一切触れず、ブログでも関連した記事を目にすることは少ない(今、検索してみたら、血縁者がお亡くなりなった方の記事が1件あっただけ)。

どうも、この国においては、歴史的事象でさえもが歳時記に組み込まれてしまい、それ以上のことは考えない傾向が強いようだ。
1年に1度だけ、「原爆」に関しては8月6日と9日に、「敗戦」については8月15日に思いをいたせば事足れり、とする。したがって、東京の空襲についても3月10日に回顧したから、もういいでしょう、というわけである。
――話はややずれるが、「敬老の日」にのみ老人を大事にすれば、他の日はどうでもいいというのに似ている。本来、老人を敬い大切にする風習が根付いているならば、「敬老の日」などがなくともいいはずだ。公共交通機関にあるハンディキャップのある人々のためのシートも、また同様。

3月10日にあれだけ記事にした諸君、5月25日のことはどう考えているのかね。

●それぞれの大空襲の後
この後、5月29日(横浜を襲った編隊が、東京南部に投弾したもの)を最後として、大規模な空襲は東京に加えられることはなかった。というのも、
(東京は全市街の50.8%を焼失し)「名古屋とともに焼夷弾攻撃リストからはずされた」(『米軍戦略爆撃調査団報告書』)
からである。

警視庁の発表によれば、昭和19(1944)年11月24日から、昭和20(1945)年8月15日までの空襲の規模は、以下のとおり。
 ◯来襲敵機:延べ4,347機
 ◯投下された通常爆弾:1万1,642発
 ◯投下された焼夷弾:38万8,741発
 ◯死者:9万5,996人
 ◯負傷者:7万791人
 ◯被害家屋:760万6,615戸
 ◯罹災者:286万1,882人
しかし、資料(『東京都調査資料』)によれば、死者行方不明者合計は25万670人(内死者9万2,778人)で、9万人近い差がある。
かように実態は確実になってはいないが、『東京都調査資料』の数字以下であることは、まずないであろう(「東京空襲を記録する会」推計によれば、死者11万5,000人以上、負傷者15万人)。

中野で罹災した永井荷風は、東京を去って行った。
五番町の家を焼失した内田百間は、隣家の「塀の隅」にある「三畳敷きの小屋」に仮住いすることになる。
「一畳は低い棚の下になっているから坐ったり寝たり出来るのは二畳である。天上も壁もないがトタンの屋根の裏側には葦簾が張ってあり、壁の代りに四方みんな蓙を打ちつけてある。二枚ある硝子窓のカーテンも蓙であ」(内田百間『東京焼盡』第三十八章)った。
目黒の下宿を焼け出された山田誠也は、知り合いを頼って山形県へ。
「京橋から地下鉄で上野にゆく。上野駅の地下道は依然凄じい人間の波にひしめいていた。
 汽車にのってから気分が悪くなり、窓から嘔吐した。越後に入るまで、断続的に吐きつづけた。水上温泉のあたり、深山幽谷が蒼い空に浮かんで、月明は清澄を極めていたが、苦しくて眠られず、起きていられず、悶々とした車中の一夜を過ごした」山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十六日)。


東京焼盡

2005-05-25 07:17:01 | History
●東京山手大空襲(3)
昭和20(1945)年5月25日夜。
玄関に置いてある非常持ち出し用の荷物を、いつものように外に持ち出した内田百間は、このような光景を目にした。
「焼夷弾が身近に落ち出した。B29の大きな姿が土手の向う、四谷牛込の方からこちらへ今迄嘗つて見た事もない低空で飛んで来る。機体や翼の裏側が下で燃えている町の◯の色をうつし赤く染まって、いもりの腹の様である。もういけないと思いながら見守っているこちらの真上にかぶさって来て頭の上を飛び過ぎる。どかんどかんと云う投弾の響が続け様に聞える」(内田百間『東京焼盡』第三十七章)。

百間夫妻は、表の防空壕に避難する。しかし、焼夷弾は次々と落下してくる。
「大谷の家が見通しになって、その裏に白い色の◯が横流しに動いているのが見えた。もう逃げなければいけないと考えた。ひどい風で起っていられない位である。土手の方へ行こうと思ったが家内が水島の裏へ抜けた方がよくはないかと云うのでそれもそうだと思い、裏の土手の途へ出た。二人共背中と両手に荷物が一ぱいなので、ただでさえ歩くのが困難である。その上風がひどく埃と灰と火の粉で思う様に歩けない(中略)
一息休んでいる内に、一寸家の様子を裏から見て来ると云って家内を一人置いて、水島の裏へ行って見た。大きな火柱が立っている。多分私の家だろうと思ったけれどはっきり見定める事はできなかった」(同上)。

午前1時、空襲警報が解除になった。
しかし、大火災が収まったわけではない。
「空襲警報解除になった後、火勢は愈猛烈になった。私の家が焼けたのは十二時前後、多分十二時より少し前ではないかと思う。未だ立ち退かぬ少し前に新坂上の朝日自動車と青木堂の四ツ角に焼夷弾のかたまりが落ちたらしく、こちらから見るその辺りの往来一面が火の海になった」(同上)。

午前五時頃、太陽が東から顔を出した。
「双葉(学園)の前の土手の腹で夜が明けた。薄雲だか大火事の煙だか灰塵だかわからぬものが空を流れている。(中略)九時近くなって雨が降り出した」(同上)。

煙や灰塵が上空の大気を刺激するのか、空襲の後には雨が降ることが多い。
百間は、この後、丸の内まで歩いて勤めに出る(この時代、日本郵船の顧問に就いていた)。

一方、3月10日の大空襲で偏奇館を焼け出され、東中野の作曲家・菅原明朗(夫人は歌手の永井智子。その間に生まれた娘が小説家の永井路子)の住むアパートに一室を借りた永井荷風は、またもこの夜の空襲で住いを失うことになる。
「爆音砲声刻々激烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる煙風に従つて鼻をつくに至れリ。最早や壕中にあるべきにあらず。人々先を争ひ路上に這ひ出でむとする時、爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり。無数の火塊路上到るところに燃え出で、人家の垣牆を焼き始めたり。(中略)遠く四方の空を焦がす火焔も黎明に及び次第に鎮まり、風勢もまた衰へたれば、おそるおそる煙の中を歩みわがアパートに至り見るに、既にその跡もなく、唯瓦礫土塊の累々たるのみ」(永井荷風『断腸亭日乗』昭和二十年五月廿五日)。

以後、荷風は東京を離れ、明石、岡山と移り住むことになる。