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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

つかの間の平安

2005-05-24 06:30:50 | History
●東京山手大空襲(2)
昭和20(1945)年5月24日、昨夜の東京西部の大空襲を免れた内田百間は、夫人に、
「敵の飛行機が如何に残虐であってもこの小さい家をねらうと云う事はあるまい」
と話しかけた。それに応えて、
「そう云えばお隣の立ち樹一本ですものね」
という返事が戻ってきた。隣が軍需大臣の邸で、樹々が長い列になって内田家までつらなっている。その一本にしか相当しない程の小さな家である、という意味なのだ。
月齢十二日の月が、麹町区五番町の小さな家を照らしていた(内田百間『東京焼盡』第三十七章より)。

5月25日、この日の東京は朝からの上天気で、警戒警報や空襲警報が何度か出たものの、夜までB29の姿を見ることはなかった。
前夜、目黒で罹災した山田誠也は、防空壕を掘り返して貴重品を取り出そうとしていた。
「しかし、結局出て来たものは、焼けた靴、中の服やシャツや着物も焼けこげたトランク、行李、半分灰になった医学書など、モノらしいモノは何も出て来なかった。奥の方に毛布や蚊帳があるはずなのだが、まだ熱く、煙がひど」い(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十五日)。

夜になって、午後10時5分に警戒警報が発令された。
「今晩の様な気分の時にはぐっすり眠りたいと思ったが仕方が無い。後続目標ありと云うのですぐに起きた」(内田百間『東京焼盡』第三十七章)。
10時23分、空襲警報になった。
「すぐに向うの西南の方角の空は薄赤くなったが、それよりも今夜は段段に頭の上を通る敵機の数が多くなる様であった」(同上)。
「敵はまず照明弾を投下して攻撃を開始した。
 三十分ほど後には、東西南北、猛火が夜空を焦がし出した。とくに東方――芝、新橋のあたりは言語に絶する大火だった。中目黒のあたりも燃えているらしい。
 ザァーアッという例の夕立のような音が絶え間なく怒濤のように響く。東からB29は、一機、また二機、業火に赤く、また探照灯に青くその翼を染めながら入って来る。悠々と旋回している奴もある」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十五日)。

この夜来襲したB29は、502機。中野、四谷、牛込、麹町、赤坂、本郷、渋谷、世田谷、目黒、杉並の、まだ空襲を受けていない地域で、焼夷弾3,000トンが一気に投下された。


山田誠也の空襲体験

2005-05-23 06:48:45 | History
前回の記述どおり、東京は5月25日に「山手大空襲」60周年の日を迎える。
60年前のこの日の夜から翌日の朝にかけて(前日には、東京西部に大空襲あり)、山手地域を中心にした大空襲があったのである。
3月10日の「下町大空襲」は、マスコミやブログでもかなりの数取り上げられていたが、この日に関しては、言及も今のところ少ない。そこで、本ブログでは、小生が過去に書いた記事を再掲載し、この空襲について少しでも知ってもらおうと思うと同時に、犠牲者の冥福を祈りたい。
本記事が元になって、その犠牲が何によって出たかを考えていただければ、筆者として幸いこれに過ぎるものはない。

既に本記事を読まれた方には、以上の事情をご了解いただき、ご海容を乞う。

●東京山手大空襲(1)
昭和20(1945)年5月になると、東京下町地域への大空襲が3月10日の《陸軍記念日》(日露戦争での「奉天大会戦」の勝利を記念して明治39年に制定された)だったことから、市民の間には、次は5月27日の《海軍記念日》(「日本海海戦」の勝利を記念して制定)が危ないとの噂が立っていた。
しかも4月13、15日の大空襲以来、「沖縄戦たけなわの間、東京への大きな空襲は無く、敵のB29は専ら九州、四国、中国方面の我基地を襲っていた」のだが、5月14日には名古屋が空襲にあい、「いよいよB二十九の大都市爆撃が一ケ月振りで再開されたのである」(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』昭和二十年五月十七日)。
「名古屋をやれば東京へと続いて来るにきまっている」(同上)。

山手地域を目標とした大空襲は、《海軍記念日》の3日前の5月24日から行なわれた。
525(一説には562)機のB29による、従来以上の大空襲であった(3月10日が約300機、4月13日が330機)。

目黒に下宿していた山田誠也は、次のように書く。
「遠く近く、ザアーアッと凄じい豪雨のような焼夷弾散布の音、パチパチと物の焼ける響。からだじゅう、もう汗と泥にまみれていたが、恐怖はみじんも感じなかった。空は真っ赤になって、壁には自分たちや樹の影が映っていた。(中略)
突然、土砂のふってくるような物凄い音が虚空でして、すぐ近いところでカンカンと屋根に何かあたる音が聞えた。防空壕の口に立っていた自分は、間一髪土煙をあげてその底へすべり込んだ。仰むけになった空を、真っ赤な炎に包まれたB29の巨体が通り過ぎていった。(中略)
ときどき仰ぐ空には、西にも東にもB29が赤い巨大な鰹節みたいに飛んでいる」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十四日)。

この空襲で、渋谷、目黒、大森、蒲田、荏原、芝区の大部分、赤坂、杉並、世田谷区の一部、本郷区などの焼け残りの市街が焼かれた。
しかし、空襲を免れた地区も、翌25日夜から26日にかけての次の空襲で、追い討ちをかけられるようにして大被害を受ける。


『東京焼盡』の夜

2005-05-22 07:38:27 | History
今年の3月10日前後は、東京下町大空襲の60周年ということで、マスコミやブログでもかなりの言及があった。
さて、それでは今週の25日あたりはどうであろうか。
実は、5月25日は「東京山手大空襲」とでも言うべき空襲のあった日なのである。
規模的にも、下町大空襲が約300機のB29によるものであったのに対して、山手大空襲は525機とも562機ともいわれている。

この空襲によって、内田百間の麹町の自宅は焼け、その後しばらくはあばらや(隣家の「塀の隅」にある「三畳敷きの小屋」)暮らしとなる。その経過を表した作品が『東京焼盡』。
また、永井荷風などは、偏奇館を下町大空襲(山手にも被害があった)で焼け出され、今度は山手大空襲で寄寓先のアパートを失い、とうとう都落ちすることになる。

以上のような空襲のようすを、小生は、以前に他のブログで記した。
けれども、もうかなり前になり、記事を見るのも難しいと思うので、明日より4回に分けて再録しようと思う。
既に読まれた方には、ご容赦を乞う。

ちなみに、2回の大空襲の間にも空襲は続き、その中でも4月11日から12日にかけての第1次空襲は170機によるものだった。

以下、その部分を再録する。
●東京への第二次大規模爆撃
3月10日の大空襲によって、本所区はその面積の96%が焼失、深川区、城東区、浅草区も壊滅に近い状態となった。

3月18日、昭和天皇は空襲の罹災地を見て回った(ルートは、皇居→永代橋→深川→業平橋→湯島→皇居)。
「車列は電車通りをさらに東へ進み、小名木川橋の上で停った。ここで、天皇は車を降りて、橋の上から焼け跡を二、三分見た。(中略)車列は被爆地を停らずに、来た時と同じように時速三十六キロで走り抜けて、皇居に戻った」(加瀬英明『天皇家の戦い』)。

しかし、政府および軍部の継戦の意志は変らず、米軍の沖縄上陸を前にした3月21日、小磯国昭首相はラジオで「国難打開の途」と題する放送を行なった。
「硫黄島の喪失(註・3月17日《玉砕》)によって戦場は一層本土に近接、空襲の被害も亦激増するに至る事は争ふべからざる現実であり、今後戦局は内地外地を問はず刻々酷烈の度を加へ来るであらう。(中略)今や帝国の総力を挙げて戦争目的完遂の一点に結集し、敵の物量に体当たりを敢行すべき秋である。」

その小磯内閣も4月5日には総辞職し、7日に鈴木貫太郎内閣が成立した。
4月12日、ルーズベルト大統領が死去し、翌13日には日本でも、そのことが発表された。
「ルーズヴェルトの死は、日本人に相当の衝撃を与えて然るべきである。しかし日本人は、いかなる大ニュースにももはや決して感動も昂奮もしないほどに鍛えられた。(――疲れてしまったのかも知れない)」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年四月十三日)。

その夜から翌14日にかけて、東京は再度大空襲に襲われた。

「◯昨夜十一時より今晩三時にかけ、B29約百七十機夜間爆撃。
 一機ないしは少数機にて波状的に来襲し、まず爆弾を以て都民を壕中に金縛りになし、ついで焼夷弾を散布す。ために北方の空東西にわたり、ほとんど三月十日に匹敵するの惨景を呈し、目黒また夕焼けのごとく染まる」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年四月十三日)。

「十一時忽ち空襲警報となり、すぐに東の方に火の手上がる。焼夷弾の攻撃にて、続いて方方に火の手上がり、初めの内は真暗だった四谷の側の空にも、つい間近に焼夷弾が落ちるのが見えたと思ったら忽ち烈しい火の手が上がり、天を焦がす大火事となった」(内田百間『東京焼盡』第三十一章)。

「主として山の手を狙ったこの夜の空襲は、省線電車の大部分を不通にし、これまでほとんど無疵であった山の手の町々を大きく焼き払った。四谷の半分は失われたという。麻布の霞町、牛込の神楽坂から江戸川べりにかけて、新宿の駅前、高円寺と阿佐谷の間、中野と東中野の間、それから板橋、滝ノ川等は最もひどい損害だったという」(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』昭和二十年四月十八日)。

この大空襲は、計330機(352機説もあり)が二日に分れており、13日は東京西部の赤羽(赤羽兵器廠があった)、豊島、王子、小石川、荒川、四谷、牛込など、15日は大森、蒲田から京浜工業地帯を爆撃した。
この東京への第二次大規模爆撃で、約22万戸の家屋が焼失した。

*ちなみに、半藤一利『昭和史』の推察によれば、昭和天皇が、敗戦止むなしとの決意を行ったのは、3月18日の空襲の被災地視察によってではなく、6月15日であるとする