goo blog サービス終了のお知らせ 

一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

江戸のタワー・ジャンパーたち その3

2007-08-31 08:22:55 | History
昭和8(1933)年の「朝日新聞」に次のような記事が掲載されました。
「越来村胡屋の安里家四代の祖が、その弾力を利用して、弓を水平に支柱をとりつけ、弓の上に鳥の翼形のつばさをつけて、これを足で上下に動かして飛行する装置を考案し、泡瀬の海に面した断崖から飛び上がって成功した。」(昭和8〈1933〉年7月30日「朝日新聞」)

おそらく、この記事が、「飛び安里(あさと)」について触れた最初のものではないかと思われます。

2年後の昭和10(1935)年の「沖縄日報」の記事では、「飛び安里」の名まえが出され、より詳しいものになっていますが、本土にまでこの情報は伝わったのでしょうか。
「飛び安里は、西暦1768年尚穆(しょうぼく)王の代、首里鳥堀小村で、安里周当の四男として生まれた。周祥と推定され、さらに花火の名人だったという事実もつきとめた。
飛び安里の子孫が越来 509番地に住んでいた。その安里ゴゼイ(76歳)さんの話では、明治の初年頃、爺さんたちに聞かされてきた話では、先祖に飛行機のような物をつくって、空を飛んだ人がいたことを聞かされていた。ゴゼイさんから五代まえの周祥が、王の恩賞にあずかった程の手柄をたて、空を飛ぶという奇抜なことをやってのけた、というのである。」(昭和10〈1935〉年3月21日「沖縄日報」)

岡山の表具師幸吉が、飛行実験の咎で故郷を追われたのに比較すると、王から恩賞を受けたというのは、当時の沖縄が開明的であったことを思わせます(中国との中継貿易が盛んに行われていた)。
その後、「飛び安里」は飛行実験を繰り返したのかどうか、何も伝ってはいません。

戦後(1960年代)に刊行されて『沖縄風土記全集』第3巻コザ市篇によると、
「周祥は1780年11月10日、13歳のとき元服し、1784年17歳にて築登えに叙せられ、1800年33歳のおり、御蔵筆者となった。安里家は花火師(ひはなじ)安里と呼ばれ、周当、周英、周頭の三代まで、花火師であった。(中略)彼の製作した飛行体は、タコに似た羽ばたきで、高台より飛び、命綱は妻がにぎっていた。飛行地は一説では、越来東方のチカサンムイという、泡瀬を見下す台地というが、安里家は五代目になってから越来に移ってきているので、実際の飛行地は南風原(はえばる)津嘉山からであろう。周祥は1825年、59歳で死去した。」
となっています(南風原町役場HPによると、生年は1765年、没年は1823年)。

現在では、南風原町には「飛び安里初飛翔顕彰碑」とモニュメントが立てられているそうです(初飛行は、1780年と1768年との両説がある)。

江戸のタワー・ジャンパーたち その2

2007-08-30 08:04:22 | History
前回述べた岡山の浮田幸吉は、それなりに名まえが知られています(筒井康隆も『空飛ぶ表具師』という短編を書いているしね)。

初めて飛行実験を試みた岡山市の京橋には、「表具師幸吉の碑」が立てられ、現在でも地元の人にその存在を知らせています。
また、幸吉が晩年を過ごした静岡県磐田市(大見寺に墓がある)では、幸吉に因んだ「紙飛行機大会」などが開かれているようです。

江戸時代は、意外とこのような好奇心と冒険心に満ちた人がいたようで、今回ご紹介するのも、幸吉とほぼ同じ天明年間(1781 - 89)に活動した人。
三河の戸田太郎太夫です。

この人が、幸吉と違ってあまり知られていないのは、おそらく明確な同時代の史料が残されていないからでしょう。
現在われわれが知ることができるのは、明治時代の日本医学界で名をしられたエルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Baeltz, 1849 - 1913) の妻・花が証言を残しているからです。

さて、その証言とは、
「私の血族関係ある三河国宝飯郡御油町の戸田の家の次男に天明年間太郎太夫と申す一奇人がありまして、青年時代は発明に没頭しまして、こんな時代に、飛行機を研究し、御油の海岸に櫓をしつらへ、自ら櫓の上から飛行試験をやって墜落して重傷を負ったということです。また自転車の前身ともいふべき木製の三輪車を作り、それに乗って豊川稲荷に参詣したとのことで、土地の者に非常な変り者とされてゐました。近頃までその飛行機の翼が、つひ物置に保存されてありましたが、鳥を真似たもので、竹で骨組し渋紙で貼り、足を踏むと翼がバタバタ廻るといふ極めて原始的なものであったらしい。兎に角彼は交通発達史上に尖端を切ろうとして、苦心惨憺した人であったが、当時は此の様な研究をする者には非常な圧迫があって流刑の罪にさへ問はれさうな程で、発明とか研究に極度に恐れをなしたものであったさうですが、幸ひに太郎太夫は御油町の旧家で席貸の大元締の倅であったので、此の憂き目は見づに済んだが、親から貰った遺産は全部これ等の研究に使ひ果し、巳むなく豊橋に移って実業に従事したといひます。」(ベルツ博士夫人花子『欧洲大戦当時の独逸』)
というものです。

戸田太郎太夫というのは、花の父方の実家で、東海道御油の宿で戸田屋という宿屋を営んでいました。この証言にある太郎太夫は、その実家の人ということになります(証言では「次男」とありますが、「太郎太夫」というのは、代々の「当主」の名乗り。したがって、花としては、その辺をぼやかしているのではないでしょうか。年代的には曾祖父あたり。祖父の太郎太夫は1887年に死去)。

江戸のタワー・ジャンパーたち その1

2007-08-29 10:42:51 | History
どうやら人間は、昔から、できそうもないことに挑戦してきたようです。

「イカロスの伝説」をみても分かるように、その中でも「空を飛びたい」という欲求は強いようで、伝説だけではなく、多くの人がそれに挑んできたという史料が残されています。

日本人も、決してその例外ではない。
江戸時代にも、かなりの人が飛ぶための実験をしたという記録があります(西洋では、エンジンなしで高いところから飛び降りて、何とか飛行しようとした人たちのことを「タワー・ジャンパー」と呼ぶようです。リリエンタールなどは、その中で成功した部類)。

障子のようなものを背負って、橋の上から飛び降りたという、岡山県の表具師・浮田幸吉(1757 - 1847)の名前は割合に知られています(「鳥人幸吉」「表具師幸吉」とも)。
「機巧  備前岡山表具師幸吉といふもの 一鳩をとらへて其身の軽重羽翼の長短を計り我身のおもさをかけくらべて自ら羽翼を製し 機を設けて胸前にて揉り打ちて飛行す。地より直に飃(あが:実際は「票」ではなく「易」)ることあたはず 屋上よりは(羽)うちていづ。ある夜郊外をかけ廻りて一所野宴するを下し視て もししれる人にやと 近よりて見んとするに 地を近づけば風力よわくなりて思はず落ちたりければその男女おどろきさけびて遁はしりけるあとに 酒肴さはに残りたるを 幸吉あくまで飲くひして また飛さらんとするに 地よりはたち飃りがたきゆえ 羽翼をおさめて歩して帰りける。後に此事あらはれ市尹の庁(=町奉行所)によび出され 人のせぬ事をするは なぐさみといへども一罪なりとて 両翼をとりあげ その住る巷を追放せられて 他の巷にうつしかへられける。一時の笑柄のみなりしかど 珍しき事なればしるす。寛政の前のことなり。」(菅茶山『筆のすさび』)
このほかに、筆田満禾『黄薇野譚』偽天狗編、小島天楽『寓居雑記』、『西山拙斎詩稿』鳥人篇などにも記述があるようです。

竹内小虎『日本航空発達史』によれば、その後、
「追放処分に処せられた幸吉は岡山をさってそれより東海道を静岡に下り、ここに落ちついて、最初は時計の修繕業をはじめ、のち歯医者に転業して栄え、子孫ながく歯科医をつづけたといふ」
とありますが、いかなる思いを抱いて歯医者をしていたのでしょうか。

原敬の暗殺 その3

2007-08-21 08:47:30 | History
「宮中某重大事件」があった当時、原にとって不幸なことに、政友会をめぐっていくつかの疑獄事件(汚職事件)が起っていました。

満鉄事件、関東州阿片密売事件、東京ガス収賄事件などです。
特に、後の二つの事件には、原の腹心が関与していたのね。

だから、せっかくの政党内閣であるにもかかわらず、原のリーダーシップが強力過ぎる(「大臣にも余りえらいのはいない方がいい。総理大臣がえらければ沢山だ」と言ったとの報道あり)こともあり、野党・憲政会、国民党からも、袋だたき状態。
*ちなみに「リーダーシップ」の有り様については、山県から次のように言われていた。
「原は随分議論もするが、近頃になって自分で多くを語らず、能く他(ひと)の話を聞くようになつた。世の中には〈話し上手の聞き下手〉と〈聞き上手の話し下手〉とある。〈話し上手〉は誰にでも出来るが、〈聞き上手〉はむつかしい。原は大分聞き上手になつた。政治家は矢張り原のやうに〈話し下手の聞き上手〉でなければならない」(大正十年、松本剛吉にむかっての談話)

また前回書いたように、「宮中某重大事件」では、「君側の奸」として右翼からも非難攻撃を受ける、ということで、いつ何があってもおかしくないという雰囲気が、原周辺にはあったようなんです。

そこへ、大塚駅転轍手・中岡艮一(なかおか・こんいち。満18歳)による刺殺事件が起きた。
「大正十年十一月四日午後七時、原敬首相は、芝公園七号地ノ四の私邸を出た。
 同二十分きっかりに東京駅着、ただちに駅長室にはいる(中略)午後七時三十分発神戸行急行に乗りこむべく、定刻六分前に座を立った。(中略)三等待合室前にさしかかったとき、約六間ばかりはなれた柱のかげにたたずんでいた、紺絣に鳥打帽の若者が、朴葉の下駄の音を、カラカラと立てながら、疾風のように、首相目がけて体当たりした。」(長文連『原首相暗殺』)
中岡の刺した短刀は心臓を貫いていて、65歳の原は、ほぼ即死状態でした。

さて、裁判では大塚駅助役・橋本栄五郎の教唆が争点となったのですが、これは確証なしとのことで、無罪釈放。

しかし、実際のところ、この暗殺事件も、他のそれと同様に、まず教唆者がいないとは考えられないところ。
『原首相暗殺』では、思いがけない人物が教唆者として登場しますが、ここは実際に本書を当たっていただきたいと思います。

小生も、最初はトンデモ本の一種か、と思って読んだのですが、なかなかどうして、元新聞記者らしい手堅い推理によって、かなり確度の高い結論に達しています(また、「平民宰相」としてより、「現実政治家」としての原敬像がうかがえる)。
現在では入手困難ですが、ご興味のある方は、図書館などでご覧ください。

原敬の暗殺 その2

2007-08-18 08:07:58 | History
▲山県有朋(1838 - 1922)

原敬は「平民宰相」と呼ばれ、反閥族の改革者であるというイメージがありますが、政友会総裁として凄腕を奮った現実主義者でもありました。
したがって、閥族とも妥協するところは妥協し、対抗するところは対抗するというメリハリのある対応を採ったのね。

それとともに、時代の制約として「皇室尊重主義者」であったことに間違いはない。
この点で、山県有朋とも共通する部分があったんです。
山県の政治情報係とでもいうべき松本剛吉の証言によれば、
「原さんが刺された翌11月5日、私が山県公を訪ねて逐一事情をお話すると、公は涙をハラハラと流して、原は皇室中心で勤王であったのにといって落胆された」(大正10年12月15日付「東京日日新聞」。長前掲書より再引用)
ということです。

もちろん、陸軍、官界のドンとしての山県には、批判的な意見を持っていたのではありますが。
「今日に始まりたる事に非ざれども山県の胸中には皇室もなく国家もなし。」
「今や山県の独舞台となりて後、一己の欲望を逞うする外、毫も皇室国家の為めに計りたる事跡なし」
と「原敬日記」に厳しい意見が残されているとおりです。

しかし、現実政治家としての原は、山県との共闘路線を、いくつか採ってもいます(「敵の敵は味方」! 大隈重信は、山県に明らかに敵視されていた。ご承知のとおり、大隈は反政友会でポピュリスト)。

一つは、原の首相就任時に、山県から同意を取り付けたこと。
原の終生のライバル犬養毅などは、
「元老等が政党内閣を認めたなどと思うと大きなまちがいで、依然として官僚の手に政権を握っておりたいのはやまやまであるけれども、平田(東助)は病身、清浦(奎吾)は貧弱で、もはや官僚、閥族の畑には総理大臣の候補者が種切れになったから、西園寺(公望)がことわったとすると、いやでも原に持って行くより他は途がなくなったのだ。」(大正7年9月26日付「時事新報」夕刊。長前掲書より再引用)
と言っています(平田、清浦はともに山県系の官僚)。
また、山県自身は、
「原の意見は大体に於て、予の意見と一致する点が多い」(徳富蘇峰編述『公爵山県有朋伝』下 明治百年史叢書 90)
と言って、原の現実的態度を認めています。

また、前回述べたように、「宮中某重大事件」においても、原と山県とは同意見だったのです(意見の擦り合わせのため、何度か会談を行なっている)。

原敬の暗殺 その1

2007-08-17 06:36:55 | History
▲原 敬(1856 - 1921)

暗殺事件では、直接の加害者ははっきりしていますが、その背後にある本当の使嗾者が明確でないケースが多いようです。

大正10(1921)年11月4日の原敬(はら・たかし)首相の暗殺も例外ではありません。

中岡艮一(なかおか・こんいち)による東京駅での刺殺ということは、はっきりしているのですが、中岡による単独犯行の裏にある陰謀の全容は裁判によっても暴かれていないのです(というより、むしろ裁判によって隠されてしまった感が強い)。

ここでは、長文連(ちょう・ふみつら。元読売新聞論説委員)著『原首相暗殺』(図書出版社)によって、事件の概要を見てみましょう。

本書では、まず暗殺の最大の要因となったのは「宮中某重大事件」だと指摘しています。
それでは「宮中某重大事件」とは何か。
「時の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と、久邇宮良子(ながこ)女王(後の香淳皇后)との結婚に、元老山県有朋が、久邇宮家系に『色盲の遺伝』があるということを理由に反対したのにたいし、女王の父久邇宮邦彦(くによし)王は婚約取消しを拒み、皇室中心主義者や超国家主義者らの、いわゆる『右翼』が同宮の側に起って支援し、一般国民のあずかり知らない政界上層部と宮中の内部において、大正9年春から、原暗殺までの約2年間、一大暗闘が渦巻いたことをいう」

結果としては、大正10(1921)年2月10日に宮内省から、
「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し、世上種々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」
との発表があったことによって幕となりましたが、この事件によって山県は失脚し、失意の内に世を去りました(翌大正11年2月1日)。

それでは、この事件に原敬はどのような立場にあったのか。
「大正10年7月5日、原は山県を訪ねて、目下訪欧中の皇太子殿下が帰朝したとき、摂政問題をいかに解決すべきかを相談したあとで
『色盲問題(良子女王婚約取消問題)は、自分は今日になっては天皇の聖断を仰ぐわけには行かないので、皇太子を摂政にしたうえ、摂政としての皇太子および、皇后陛下の御意向を承って、決定することが適当と思う』
と、摂政設置のうえ、久邇宮との婚約を取り消したらどうかと意見を述べている。」

つまり、この件に関しては、山県と原とは同意見を持っていたわけです。

薩摩藩への軍楽伝来

2007-08-11 07:48:59 | History
▲サツマ・バンド
"The Far East" 1870年7月16日号より

薩摩藩の軍楽隊について、次のような史料が目についたので、ここに書き付けておきましょう。

土佐藩出身の軍人で、後に西南戦争時に熊本鎮台司令官となった谷干城の回想です。
「(慶応3年12月)27日にいたり日御門(建春門)前において薩長土芸四藩の観兵式の天覧あり。さすがに薩は服装帽も皆一様にて、英式により大太鼓、小太鼓、笛等の楽隊を先頭に立て、正々堂々御前を運動せる様、実に勇壮活発、佐幕者をして胆を寒からしむ。」(『谷干城遺稿』)
これは後になっての回想という点が弱いのですが、他の史料によって、まず確実であろうと思われます。

というのは、薩摩藩へは早くも、文久3(1863)年の時点で、横浜外国人居留地に駐屯したイギリス軍から、大太鼓、小太鼓、ラッパ(または代替品として日本の篠笛)という編成の軍楽が伝わっていたからです(建春門前観兵式の4年前)。
また、それ以前の弘化3(1846)年に、薩摩で行なわれた高島流の演習で、島津斉彬から蘭式のドラムに関して質問が出ている、ということも背景にあったでしょう。

従来の「サツマ・バンド」についての通説では、明治3年に横浜に「薩摩藩洋楽伝習生」が派遣されたことを契機としていますが(横浜の本牧山妙香寺に「日本吹奏楽発祥の地」の碑あり)、それ以前から薩摩には、軍楽に対する興味関心とともに、英式軍楽が伝わっていたことを、谷干城の回想は示しています。

したがって、幕末から第一次の薩摩軍楽隊があり(この軍楽隊が、天覧観兵式に参加)、第二次の薩摩軍楽隊が「サツマ・バンド」と称せられるものとなるわけです。

「サツマ・バンド」が、フェントンの指導を受けて、海軍軍楽隊に発展するのに対して、第一次の薩摩軍楽隊は戊辰戦争の混乱の中で、その後どうなったかもはっきりしていないために、あまり重視されていないようです。
しかし、「日本吹奏楽発祥の地」の碑は、横浜ではなく、鹿児島ないしは京都に立てられるべきかもしれません。

この第一次の薩摩軍楽隊については、次のように書かれた文章があります。
「1867年(慶応3年)1月に全面的にイギリス式兵制へ改編した薩摩藩では、40歳以下の能役者に『陸軍楽隊』(鼓笛隊)を命じ、また、同年7月に京都にのぼった島津久光の随行部隊は喇叭と大太鼓・小太鼓・笛からなる楽隊を有していた。このイギリス式楽隊は、同年12月9日の王政復古クーデターのさいも建春門外で部隊の先頭にたって行進している。」(『グラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ』所収、塚原康子「第3章 軍楽隊と戦前の大衆音楽」)

*なお、先日書いた高島秋帆の蘭式軍楽については、次のような記述があったことをご紹介しておきます。
「天保年間長崎の高島秋帆は蘭式兵学を学び、大砲隊と歩兵の訓練を行ひ、これが附属として鼓笛隊の必要を認めた。洋楽の知識のあつた長崎のことなのでオランダ式軍楽はかくしてでき、各藩も新しい兵学と軍楽に留意するやうになった。かくして開港当時フーチャーチン(原文ママ。プチャーチン)やペルリの軍楽隊を見学した結果、軍楽隊の必要を大いに感じてゐたのである。」(遠藤宏『明治音楽史考』、昭和23年初版発行)


日本への軍楽導入の先駆者(?)、高島秋帆

2007-08-02 05:16:44 | History
日本の西欧砲術・兵術導入の先駆者である高島秋帆は、日本への軍楽導入においても最初の人物である、と言いたいところなのですが、これを明確にする史料はないようです。

例えば、天保12(1841)年の徳丸が原の砲術・兵術演習においても、軍楽が演奏された、という記録はありません。
海舟の『陸軍歴史』に引かれている文書においても、そのような記述はありません。

この演習では、
「まず横隊を作り、左右に打ち方、次に後方に打ち方、次に左へ陣形変換して打ち方、次に方形陣となり打ち方、次に着剣・二重陣を以て突撃し打ち方、三重陣に変じ退却、横隊となり野戦砲を列前に進め砲発、次で追撃に移り打ち方、次に後退輪形陣を作り打ち方、更に横隊となり打ち方を以て演練を終った。」(有馬成甫『高島秋帆』)
とのナポレオン式の銃隊の演習だったわけですが、合図には太鼓もラッパも使われていません。

このように、天保12年の演習では軍楽使用が見られなかったわけですが、秋帆が軍楽を行なわせたであろう、という間接的な証拠はあるのね。

その一つが、有馬著に紹介されている「天保5年の注文書」です。
これは長崎町年寄名義でオランダに注文されたもののリストですが、実際には秋帆が発注したのでしょう。
そこには、「閲兵式用喇叭 1挺」の注文があります。
ですから、徳丸が原の演習以前から、秋帆は軍楽に関心を持っていたことは確かなことでしょう。

また第二の証拠としては、弘化3(1846)年、薩摩で行なわれた高島流の演習で、島津斉彬から質問が出、それに秋帆の弟子が答えている内容です。
「問、備打(そなえうち)の時、足並が揃わぬように見えるが、太鼓を打つようにしてはどうか。
答、御沙汰の通りであります。長崎でも太鼓を用いておりますが、当方ではまだ太鼓も備わっていない有様です。」(有馬、前掲書)
この問答によれば、遅くとも、徳丸が原の演習の5年後の弘化3(1846)年には、太鼓を用いた軍楽が行なわれていた、ということになります。

ただし、直接的な証拠なり証言なりを記した文書がないので、歴史家は断定はせずに、「らしい」と述べているだけなのですが……。

有馬成甫(ありま・せいほ)
『高島秋帆』(人物叢書・新装版)
吉川弘文館
定価:1,580 円 (税込)
ISBN978-4642051552

山国隊の兵式と鼓笛隊について その2

2007-07-22 04:18:33 | History
前回の続きです。
山国隊の編制に鼓士が登場したところから。

当初、鳥取藩からの山国隊の調練は、蘭式のそれでした。
前回出てきた鳥取藩士足羽徳治郎は、藩の兵制を蘭式から仏式に転換します(蘭式は仏式の影響が大きいので、転換に当たっての混乱は少なかったと思われる)。
それに伴って、山国隊も仏式に転換します。

この調練は江戸で行なわれ、軍楽とは関係ないのですが、特記すべきは、
「江戸滞在中に何度か射撃訓練が行われ、山国隊は常に良好な成績を収めた。平素、山里での狩猟で銃の扱いに慣れ親しんだ経験がミニエー銃の操作にも遺憾なく発揮された。」
ということです。
これは、主たる構成員が名主階級であるにもかかわらず、従士階級の成績が良かったということを示すのでしょう(名主は、林業を主に営んでいた)。

前回述べたように、この段階で、山国隊の編制に初めて鼓士が現れます。
その名を、浦鬼柳三郎といい、本論文の著者によって、次のような経歴の持ち主であると推測されています。
「当時長崎海軍伝習所で軍楽を学んだ旗本たち(例えば、関口鉄之助!:ブログ主註)が江戸に帰って私塾を開いたというから、恐らく浦鬼柳三郎はこうした場所で軍楽を学んだ御家人の二、三男辺りであろう。故に彼の打ち鳴らす太鼓の拍子は蘭式であったはずである。」

ここに山国隊と『行進曲』との接点があるのです。
小生の仮説ですと、『行進曲』(=『維新マーチ』)の原型は『ヤッパンマルス』であり、それは長崎海軍伝習所で作曲された、と考えているからです。
また傍証としては、浦鬼が学んだような私塾では、「5マルス」の一つとして『ヤッパンマルス』が教えられています(篠田鉱造『幕末百話』による)。

山国隊では、その後、次のような動きがありました。
「明治元(1868)年9月26日、鼓士大河原万治郎を当分雇いとする。10月5日夜より吹笛・太鼓の稽古を始め、7日には吹笛家鳥山嘉司馬が来隊し吹笛を指導、9日には御家人の三男丹羽春三郎少年を鼓手に召し抱えている。吹笛家鳥山嘉司馬の出自は不明だが、山国隊の伝承に『旗本から軍楽を習った』とあるので、或いは旗本なのかもしれない。」

さて、ここで、今日のような『行進曲』の要素が出揃いました。
蘭式の小太鼓、吹笛、『ヤッパンマルス』です。
ですから、当初考えていたようなフランス兵式の影響ではなく、むしろ幕臣系の蘭式の影響が強かったということになります(というのも、ある意味当然で、仏式はラッパ信号を使っていたのだから)。

以上のような論文をご紹介したわけですが、小生、意外に幕臣系の影響が大きいことに、実は驚いているところです。
他のジャンルも含めて、新政府が積極的には評価しようとしなかった(むしろ隠そうとした節もある)幕臣系の人々が、明治の近代化に与えた影響を再評価すべきでしょう。

山国隊の兵式と鼓笛隊について その1

2007-07-21 02:22:32 | History
本ブログで、山国隊による『行進曲』の演奏について触れました(こちらを参照)。
その際に、彼らが演奏する『行進曲』は、どのようなルートで伝わってきたか、という疑問を提示しました(「フランス式教練を受け」た先からであることは間違いないのですが、その時は、具体的な藩名などが分らなかった)。

ちょうど、この疑問に答える論文が季刊「軍事史学」通巻165号に載っていたので、若干、ご紹介しておきます(前原康貴「丹波山国隊の兵式と編制」)。

慶応4(1868)年1月11日に結成された山国庄の農兵隊は、
「京で伊王野治郎左衛門(鳥取藩士)の斡旋により岩倉具視から『山国隊』の名を賜り、鳥取藩に加わって働くよう命じられ」
ます。そして、
「29日より鳥取藩が北野椿寺前の茶畑を造成した練兵場で軍事調練を受けることと」
なります。この段階で、鳥取藩は勝海舟の弟子によって兵制の改革がなされており、論文著者によれば、「調練は蘭式によって行われていた」と推測されます。また、編制表によれば、山国隊にまだ鼓士は登場していません。

それでは、いつどこでフランス式の調練を受けたかといえば、これも鳥取藩の動向と関係してくるのです。

鳥取藩士足羽徳治郎という人物がキーパーソンです。
この人は、「予て幕府へフランス式調練の修業に派遣」されていたのですが、戊辰戦争が始まったため、新政府軍に参加した藩に戻ってきました。
そのため、鳥取藩の兵制は、より進んだフランス式に改められ、山国隊もその伝習を受けることとなります(フランス式は「元込銃」への変換に対応した、軽歩兵による散兵戦術を含んでいた)。

この段階で、山国隊の編制に初めて鼓士が現れます。

ちょっと長くなりそうなので、この続きは、また次回。

軍事史学会編集
「軍事史学」通算165号「特集 幕末維新軍制史」
錦正社
定価:各 2,100 円 (税込)
ISSN 0386-8877