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日本文明は「中華の衛星文明」なのか、それとも独立文明なのか 「王」ではなく「天皇」にした日本人の叡智 202206

2022-06-18 10:52:58 | なるほど  ふぅ〜ん

日本文明は「中華の衛星文明」なのか、それとも独立文明なのか 「王」ではなく「天皇」にした日本人の叡智
 現代ビジネス より 220618  宇山 卓栄


 日本の教科書が教えてきたアジア史は、いわば中国中心の見方だった。「殷、周、秦、漢、三国、晋…」と、紀元前からの中国の王朝名を中学一年生で暗記させられた経験は誰でもあるだろう。
 しかし、それではアジア全体の歴史のダイナミズムを感じ取ることはできない。アジア史はもっと雄渾で、さまざまな民族が闘争を繰り広げてきた。彩り豊かなその歴史を、民族・宗教・文明に着目して世界史を研究する宇山卓栄氏の新刊『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)から、おもに日本と中国、朝鮮半島との関係について連載でご紹介する。今回はその一回目だ。

⚫︎日本、韓国、ベトナムは中華文明?
 アメリカの国際政治学者サミュエル・ハンチントンは著書『文明の衝突』で、日本を中華文明とは一線を画する独立した文明圏と位置付けています。ハンチントンは、日本は神道や天皇の存在を中核とした独自の文化を形成し、それは中華文明とはまったく異質なものであると主張しています。また、日本文明を一国で完結している「一国一文明」と定義しています。

 一方、イギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、日本文明は中国からの文化的影響を強く受けた中華文明の衛星的存在であると主張しています。日本のみならず、韓国、ベトナムの3国が中華文明に属していると言います。
 トインビーはその根拠として、これらの3国が第二次世界大戦の前まで漢字を用いており(日本は今も用いている)、また、儒教・仏教・道教のような宗教文化を中国から取り入れたことなどを挙げています。

 トインビーの大著『歴史の研究』は12巻から編成され、1930年代に書かれた前半巻では、トインビーは日本が中国から多くの影響を受けたと述べていますが、「衛星文明」とは明示していません。しかし1961年に発刊された第12巻「再考察」で、トインビーは諸文明を「独立文明」と「衛星文明」に明確に区別し、日本を後者に分類したのです。

 トインビーは、「衛星文明」は「独立文明」に依存しながら形成され、宗教、政治制度、文字や技術等を独立文明から借用して未開から文明へと飛躍することができた自立不可能な従属文明であると述べています。
 トインビーは日本文明をほとんど理解していなかったのでしょう。
さらに、トインビーは1970年代前半,ヨーロッパ文明が世界を牽引した時代はすでに終焉を迎え,これからは東アジア文明の時代,特に「中国の時代」が到来すると主張しています。
 中国を中心として、日本、韓国、ベトナムの3国の中華文明衛星国が協調し、東アジア文明を再興することにより、世界は統合され、安定、繁栄を享受できるというのです。
 中国と安全保障上のさまざまな問題を抱える我が国にとって、トインビーの「協調への提言」はあまりにも非現実的と言わざるを得ません。

⚫︎あえて日本の君主号に「王」の称号を避けた意味
 また、トインビーは東アジア文明が中国を中心に形成されていたことは歴史的な根拠があるとも言っています。中国は今日まで、およそ2200年間、ほんの少しの時代の空白期を除き、数億の民を政治的に統合し、しかもその政治的宗主権を周辺国にまで拡げ、被保護国にもそれが認められ、文化的影響力も遠隔地域にまで及ぼし、いわゆる「中華帝国」を形成し、それはあらゆる時代にわたって、「世界の半分における引力圏の中心」であったと述べています。

 トインビーのこれらの発言は冊封体制について説明したものです。歴史的に中国王朝は強大な力を背景に主従関係を周辺諸国(地域)に強制し、その君主や首長に王や侯などの爵位を与え(冊封)、藩属国として中国の影響下に置きました。これにより、さまざまな程度の差はありながらも、中国は周辺を従属させます。この中国中心の東アジアの統治システム・国際秩序を「冊封体制」と呼びます。

 たとえば、朝鮮の王はこのような冊封体制において中国皇帝により認められた「王」でした。それは主権国家としての国や国王とは意味が異なるものです。朝鮮は歴史的に独立した国家ではなく、中国の属国でした。そのため朝鮮の王は「陛下(ペハ)」ではなく、一段格下の「殿下(チョナ)」と呼ばれました。中国皇帝の配下である朝鮮王は「陛下」と呼ばれる一国の主権者ではなかったのです。

 その世継ぎも「太子(テジャ)」ではなく、一段格下の「世子(セジャ)」と呼ばれます。この他、朝鮮王に「万歳(マンセー)」は使われません。「万歳」は中国皇帝にのみ使われるもので、朝鮮王には「千歳(チョンセー)」が使われました。明確な序列関係があり、これは「華夷秩序」とも呼ばれます。

 トインビーの言う中国を中心とする「冊封体制」の中に、日本は入っていません。7世紀、日本は中央集権体制を整備し、国力を急速に増大させていく状況で、中国に対する臣従を意味する「王」の称号を避け、「天皇」という新しい君主号をつくり出しました。日本は皇国として当時の中国に互角に対抗しました。

⚫︎日本文明の独自性の根拠はここにある
 当時、日本は中国から「倭」と呼ばれ、その君主の称号として「倭王」を授けられていました。
 しかし、聖徳太子は608年、中国の隋の皇帝・煬帝に送った国書で「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」と記し、「天皇」の称号を用い、中国への臣従を明確に拒否しました。『日本書紀』に、この国書についての記述があり、これが主要な史書の中で「天皇」の称号使用が確認される最初の例とされます。

 遣隋使の小野妹子が遥々、海を渡り、隋の都・大興城(現在の西安)へ赴きました。その時、携えていた有名な国書があります。「日出処天子致書日没処天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無しや、云々)」の国書です。この国書に対し煬帝から返書があり、さらにその煬帝の返書に対する返書として日本から送られたのが、上記の「東天皇敬白西皇帝」の国書です。

 日本が自らの君主を中国側が認めた「王」とせず、「天子」や「天皇」と明記して国書を差し出したことには、大きな意味があります。
 7世紀後半の第40代天武天皇の時代には、「天皇」の称号が一般的に使われるようになり、孫の文武天皇の時代の701年に公布された大宝律令で「天皇」の称号の使用が法的に定められます。ハンチントンが日本を中華文明から独立した文明圏と位置付ける根拠がここにあります。

 一方、トインビーは、日本の天皇が朝鮮王などとは異なり、中国皇帝に対抗した存在であったという歴史的事実には一切触れていません。

 ハンチントンも言うように、日本は天皇とともに歴史を歩んできました。その意味において、初代天皇の神武天皇が即位した時が日本国のはじまりであると言えます。2月11日は「建国記念の日」として、文字通り日本国の建国を祝う日です。『日本書紀』によると、初代天皇の神武天皇の即位日が紀元前660年1月1日(旧暦)とされ、それをグレゴリオ暦に換算すると、2月11日になるのです。

『日本書紀』には、初代神武天皇に関して、「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歲為天皇元年(辛酉の年の春正月の庚辰の朔に、天皇は橿原宮にて即位、この年を天皇元年とする)」と記されています。この「辛酉の年の春正月の庚辰の朔」が旧暦の紀元前660年1月1日にあたるとされているのです。

⚫︎「日本のはじまり」はいつだったのか
『日本書紀』では、歴代天皇の即位や崩御の年により、天皇の在位年数がわかり、逆算していくと神武天皇が即位した辛酉の年が紀元前660年ということもわかるのです。ここから、紀元前660年を皇紀元年とする日本固有の暦が生まれます。2020年は皇紀2680年となります。

 世界史で紀元前660年頃というと、ギリシアでアテネなどの都市国家が勃興した時代であり、中国では斉の桓公が活躍した春秋時代でした。しかし、神武天皇が即位したとされる時が本当に紀元前660年であったかどうかは、多くの議論のあるところです。

『日本書紀』によると、初期の天皇は平均で70年ほど在位したことになり、きわめて長寿で100歳くらいまで生きたことになります。この時代の平均寿命は30歳くらいと言われますが、超長寿の天皇が歴代続くのは不自然です。

 古代日本では、耕作の可能な春から秋までを1年とカウントし、耕作できない秋から春までを1年とカウントする春秋暦を使っていたことが中国の史書からわかっています。
 『三国志』の「魏志倭人伝」における裴松之の注釈に「其俗不知正歳四節、但計春耕秋収為年紀」と記されています。これは「その(倭国)習俗は正歳四節(正しい1年の四季)を知らず、ただ春に耕し、秋に収穫したことを計算して年紀(年数)と為す」という意味で、春秋暦を表す記述です。

 このように、古代日本が1年を2年とする年数を使用していたことを想定し、計算をやり直す必要があります。『日本書紀』では、推古天皇以降の歴代天皇についての生没年は実年を当てているとされているため、そこから遡って春秋暦を実年で計算すると、神武天皇の即位は紀元前36年となります。この年代は一つの妥当な線ではないかと考えることができます。

中国の史書『宋書』には、5世紀に倭の五王が来訪したことが記されています。神武天皇の在位を紀元前1世紀頃とした場合、5世紀の倭の五王の時期にうまくつながるかどうかが1つの判断の基準となります。

⚫︎『日本書紀』『古事記』は単なる神話か?
 五王は讃・珍・済・興・武であり、彼らがどの天皇に該当するかについては諸説ありますが、有力な説の一つとして、讃は応神天皇、武は雄略天皇を指すと見られています。『宋書』によると、425年に讃、438年に珍、443年と451年に済、462年に興、478年に武がそれぞれ宋に来訪したと記されています。

 讃を応神天皇と見た場合、初代の神武天皇の紀元前1世紀から、第15代の応神天皇の5世紀前半の時代に在位した、ほとんどの天皇の在位年数は20~30年になります。この在位年数はおおよそ妥当であり、自然に15代の天皇がつながります。応神天皇以降の代へも無理なくつながっていきます。

 一方、『日本書紀』や『古事記』を単なる神話とみなし、それを典拠とする神武天皇からの十数代の初期天皇の実在を疑う見方もあります。天皇として実在したのは第10代崇神天皇から、または応神天皇から、あるいはそれよりももっと後の時代の天皇とする説があります。ただ、初期天皇の生没年や在位年数について正確なことがわからないとしても、その存在自体を否定することはできないでしょう。

 いずれにしても、日本の建国の謎の深さのため、日本の起点や起源がはっきりと見えず、前述のトインビーが言うような「日本が中国の衛星国家として派生した」などという解釈が生み出される原因になっています。


💋前王朝や敵対王朝を徹底的に滅ぼす支那文明と異なり、或いは神として祀ったりする日本とでは圧倒的に民度異なる。遣唐使廃止後の対応、道教でなく仏教文化重視(インド由来の)し支那文明を取捨選択。

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