「涙」が出るほどの衝撃…!世界中の人々が、なぜか「日本の四国」を歩き回るワケ 『マイ遍路』著者・白川密成さんに聞く
現代ビジネス より 230625 広部 潤
「四国遍路」のすごい魅力
自分の中の古臭い先入観が、驚きと共に、心地よく覆されていく一冊だった。
約1200年前に空海(弘法大師)が修行した88の霊場を巡礼する「四国遍路」。多くの人はこの言葉から、白衣をまとい杖(金剛杖)を片手に歩く「お遍路さん」の姿を思い浮かべるだろう。筆者も同様だった。
今回、📗『マイ遍路 札所住職が歩いた四国八十八ヶ所』という新刊書を手に取ったのは、著者の過去の著作を面白く読んだ記憶から、今回もきっと刺激的な読書体験を与えてくれるだろうと考えたからだった。予感は的中したものの、実は遍路自体については当初、高齢者が黙々と88の札所(お寺)を歩いて回っているくらいの漠然としたイメージしかなかった。
著者の白川密成さん(45歳)は、自らも57番目の札所である栄福寺(愛媛県今治市)の住職。『ボクは坊さん。』などの著書があり文筆活動でも人気を集める。今回の『マイ遍路』は、その密成さんが合計68日間をかけて1200kmに及ぶ遍路を自分の足で歩いた記録である。
読み進める中で驚嘆したのは、遍路が実に豊かで、多様で、みずみずしい体験だということだった。四国各地の大自然、空海ゆかりの静謐な諸寺院、お遍路さんを優しく支える地元の人々、そして、国内外から巡礼に訪れる老若男女の声……。温かく滋味あふれる体験記に、筆者がぼんやりと抱いていた貧弱な先入観は吹き飛び、きわめて魅惑的な人生体験としての遍路の像が浮かび上がってきた。
「八十八ヶ所の全体像を肌で感じたい」のがきっかけだったという巡礼の中で、何を感じ、考え、自分の何が変わったのか。ゆったりした空気が流れる栄福寺に密成さんを訪ねてお話を聞いた。
行きたいと感じたのだから、行こう
──一口に「遍路を歩く」と言っても、相当の時間とエネルギーを費やします。日々の住職のお仕事もある中で、実行するのは大きな決断が必要だったのではありませんか?
密成 一人の人間としても、仏教の修行者としても、四国遍路を歩く体験をしたいとはずっと考えていました。一皮むけたいとも思っていましたし、また、坊さんや住職というのは特に四国では大事にされるところがあって、その肩書が逆に自分にとって鎧(よろい)のようになっていた。だから、いったんそれを脱いで、栄福寺住職でも僧侶でもない形で、人間として四国遍路や空海と対峙したかったんです。
まあ、実際に歩いている間、周りに僕が坊主だとバレたことは何度もありましたけど(笑)。
木立に囲まれた栄福寺にはゆったりした空気が流れている
ある時期に、自分の中で、何となく「今が四国遍路に行くときだ」と強く感じるようになりました。僕は24歳で住職になったとき、糸井重里さん主宰のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)に「坊さん。」という連載を始めたのですが、書かせてもらうための作戦を特に練ったわけではなく、ただ糸井さんに「今書かせてほしいんです」という思いをそのまま伝えたんですね。
四国遍路についても同じように、「行きたいと感じたのだから、行こう」とあまり深く考えずに決めました。歩き始めて何が起こるかは、もう四国任せ、お大師さん(空海)任せにしよう、と。
急がずに、ゆっくり
──遍路では、決して急がず、ゆっくり、のんびり歩くというスローな方針が魅力的でした。1つの寺で1時間以上過ごすというのも、すごく豊かな姿勢に感じられて。
密成 今思うと、そういう歩き方をして本当によかったです。前から住職として、ここ(札所である栄福寺)に遍路で来られる方々を見ていて、「結構急いでいる人が多いな」と思っていたんですね。もちろん、忙しいお仕事の合間に参っているとか、食事の時間に遅れないよう宿に着かなきゃいけないなど、やむを得ない事情もあるのでしょうが、せっかく四国の大地を歩ける機会なのに、急ぐのはもったいないという気がしていました。それで、大前提を「ゆっくり歩く」「のんびり回る」にしよう、と。
実際、お寺に1時間いると、「ああ、ゆっくりしていてよかった」と感じることがよく起こるんです。地元の人が話しかけてくれたり、境内の奥まで行ってみたら本堂にないような面白いものが見つかったり……。たとえば高知県の大日寺(第28番札所)では、奥の院に参拝して病気が治った人が穴の開いた自然石をお供えする風習があるんですが、行ってみると本当に、祠の周りに穴の開いた石がたくさん積まれていた。「この風習はどういう神話性の現れなのだろう」と考えたりして、たいへん豊かな時間を過ごしました。
ゆっくり、のんびりというのは、遍路だけでなく、坊さん自身の姿勢も本来そうあるべきだと思うのですが、現代社会の中心が明らかにそれと逆の方向に行っています。なので、せっかく遍路をするなら、急がないことを大切にしたいな、と。ある意味で、ゆっくり歩き、急がないことは、それによって遍路が仏教修行になり得るくらいの、重要な点かもしれません。
なぜ「世界中」から人がやってくるのか
──実に多様な人々が四国遍路に来ていることにも驚きました。不勉強で恐縮ですが、高齢の人や、何かに失敗した人、不幸な出来事で悲嘆に暮れている人などが多いのではないかなどと浅薄な先入観を持っていました。しかし実際は、本当にいろいろな人が、いろいろな思いを持って歩いているのですね。
密成 確かに時代を遡ると、病気に苦しむ人や故郷に居場所を失くした人が歩くという側面もあったようですが、現代はとにかくさまざまな人が遍路に来ますね。祈るために来た人もいれば、長い道を歩きたくて来た人、自転車に乗りたくて来た人、ただ何となく来た人……(笑)。移動手段も、徒歩やボロボロの自転車から、公共の交通機関、車とさまざまです。オートバイのハーレー(ダビッドソン)でツーリングしながら回っている人もいるし、ランボルギーニ・カウンタックでここに来た人もいます。でも、ほとんどの人が手を合わせるんです。
たくさんの人が、それぞれの動機とやり方で、遍路という合言葉の下に、四国に来て巡礼して回っている。それもあって今、各地の札所を中心に、面白くて風通しの良い場所になっている。仏教では、昔どうしたという過去の話が多いのですが、四国遍路は間違いなく、現代における聖地でありながら、楽しい場になっています。
お坊さんでもいろいろな人が歩いていますよ。宗教的に仏教を突き詰めている人、修験道に入れ込んでいる人、坊さんになるかどうか迷って遍路に来られた人もいました。海外の僧侶もよく来ます。中国やチベット、台湾、インド、ベトナム、フランス……さまざまな国から来られますよ。日本に遍路という巡礼があると聞いて、歩いてみたら充実した経験になり、帰国してまた他のお坊さんに勧めるというケースが多いようです。
アチャン・ニャーナラトーさん(日本出身の上座部仏教僧侶、英国在住)が歩き遍路でここに来られたときにお会いしたこともあります。初対面でしたが、いろいろ大切なお話を伺うことができて尊敬の念を持ちました。それから何度かメールや電話をやりとりするきっかけになりましたね。
「ヘンロ・ユーチューバー」になる人
──海外からは、お坊さんだけでなく多くの人が遍路に来るのですね。密成さんも歩いている間、アメリカ、イタリア、フランス、スイス、デンマーク、オーストラリア、台湾といった国からの巡礼者と出会います。中には「ヘンロ・ユーチューバー」になるという人もいるそうで、驚きました。
密成 テレビ番組の「YOUは何しに日本へ?」で四国遍路に来る人の回もありましたし、とにかく多くの国の方がいらっしゃいます。行政や企業はインバウンドのために「来ていただく」ことを重視していて、それは非常に大事ですけど、来る人たちは特に「モノよりコト」というか、面白いこと、気持ちの良いことを体験したいのかもしれません。
日本では、モノがたくさんある東京や京都も楽しいと思うんですけど、四国のような大自然の中を、時に苦しさを感じながらも気分良く、ただ歩く、そして祈る。皆さん、そこに、宗教を土台にしながらも宗教の枠内に留まらない、大切なものの存在を感じるのではないでしょうか。
メッテ・ホルムさんというデンマーク人翻訳家がおられます。村上春樹さんの多くの作品をデンマーク語に翻訳され、ドキュメンタリー映画『ドリーミング村上春樹』の主人公にもなった方ですが、彼女がやはり遍路がお好きで、僕もこの寺でお話ししたことがあります。
「私は文章を書くことで自分を知るのです。あなたもそうでしょ?」と言われたのを覚えています。海外のお坊さんと話したと思えば、日本文学の翻訳者とも語り合うという、世界の中でも面白い場所に遍路がなっているんですよね。
──車で回る参拝者だけでなく、肉体的にきついときもある徒歩での遍路にも、国内外から多くの人がトライするというのは興味深いです。密成さん自身も、体力を消耗した日には足の痛みに悩まされたり、めまいを覚えたり……。
密成 股ずれになったり(笑)。やはり毎日何十kmと歩くと負担はかかりますね。でも、歩いて疲れ切るというのも、なかなか現代の日本ではできません。非生産的な時間がもったいないように感じてしまう。特にふだんデスクワークが多いと、疲れるのも新鮮な経験で、ある意味、気持ち良くもありました。
一日中雨に打たれるというのも、考えてみれば人生で初めてでした。でも、動物はみんなやっていることですよね。生き物としては当たり前の経験をさせてもらっていたなあ、と今では思います。そのときはただ寒かっただけですけど(笑)。
訪ね、祈り、また歩く
密成 「人間は自然物」という考え方が、日本人の信仰の根底にあるような気がします。生物も植物も石ころも含めて自然に存在するさまざまなものの一つが人間なのだ、と。
──車で回る参拝者だけでなく、肉体的にきついときもある徒歩での遍路にも、国内外から多くの人がトライするというのは興味深いです。密成さん自身も、体力を消耗した日には足の痛みに悩まされたり、めまいを覚えたり……。
密成 股ずれになったり(笑)。やはり毎日何十kmと歩くと負担はかかりますね。でも、歩いて疲れ切るというのも、なかなか現代の日本ではできません。非生産的な時間がもったいないように感じてしまう。特にふだんデスクワークが多いと、疲れるのも新鮮な経験で、ある意味、気持ち良くもありました。
一日中雨に打たれるというのも、考えてみれば人生で初めてでした。でも、動物はみんなやっていることですよね。生き物としては当たり前の経験をさせてもらっていたなあ、と今では思います。そのときはただ寒かっただけですけど(笑)。
訪ね、祈り、また歩く
密成 「人間は自然物」という考え方が、日本人の信仰の根底にあるような気がします。生物も植物も石ころも含めて自然に存在するさまざまなものの一つが人間なのだ、と。
つまり、人間だけが特別な存在なのではない。そして個別に持っている生命とは別に、他の自然物とも共通して持っている生命があるのではないか、その生命が「神」や「仏」と呼ばれてきたものに近いのではないか……。そんなことを考えながら大自然の中をお遍路するのがまた楽しいんです。
歩きながら瀬戸内海や太平洋を眺め、そこで獲れた魚を食べ、山に登り、雄大な四万十川を徒歩で渡るなんて珍しいこともして、お寺を訪ね、祈り、また歩く。本当に不思議で面白い経験でした。
──そうやって周囲の状況を五感で捉え、思い、感じたことを記した本書の文章は非常にリアルで、読んでいてところどころ、自分が歩いているかのような感覚を覚えました。
密成 そのように受け止めてもらえるのは、担当編集者に助けられたところが大きいですね。遍路を歩いた記録も書籍として残したいと相談したところ、編集者は快諾すると同時に、「書くための遍路はしないでください」とも言ってくれたんです。あくまで「一人の人間として歩いてみたい」という思いのまま自由に回ってみて、その軌跡を記したものが結果として本になればそれでいい、と。
編集者や出版社によっては、「せっかく書くのだからあの名所は必ず回ってください」「いかにもお坊さんらしく書いてください」などと求めてくる場合もあるかもしれない。その結果、教科書的、お説教的な本になったかもしれない。でも本書ではそういった作為的な指示が一切なく、「思ったままに歩き、感じたままに書いてほしい」だけだったことに助けられました。
おかげで、本書の原稿を書いていて、もう一度遍路を歩いているように感じたんです。合わせて2回、四国を巡礼したような印象で、さらに豊かな経験になりました。できれば、その経験を読者にもこの本を読みながら、追体験していただきたいです。多くの経験者が「遍路するとその記録を書きたくなる」と言っているのも、感覚的によくわかりましたね。
血みどろになって苦しんでいる人たちへ
──歩く人々を、地元・四国の住民の皆さんが共に応援して支えていこうとする姿勢、中でも「お接待」(巡礼者に無償で飲食物や宿を提供すること)の親切さ、熱心さに感銘を受けました。考えていた以上に、お接待が頻繁に行われていて。
密成 ふだん、「手放すことが大切です」「喜捨(金品を寄進すること)が大事です」なんて話をしていますけど、では実際に持っているものをパッと手放せるかとなると、それがなかなか難しい。僕らのような坊さんでも、そうでなくても……。しかし四国遍路という習俗の中では、お金でも食べ物でも、持っているものを差し上げるということが自然にできてしまうんですね。そこは遍路の強さだと思います。
歩いている人たちも、お接待を受けて非常に驚くことが多いそうです。皆さん、ふだん社会生活や仕事で揉まれる中で、大なり小なり「俺とお前とどっちが凄いか」「俺は誰か」といったことばかり考えて、血みどろになって苦しんでいますよね。
歩きながら瀬戸内海や太平洋を眺め、そこで獲れた魚を食べ、山に登り、雄大な四万十川を徒歩で渡るなんて珍しいこともして、お寺を訪ね、祈り、また歩く。本当に不思議で面白い経験でした。
──そうやって周囲の状況を五感で捉え、思い、感じたことを記した本書の文章は非常にリアルで、読んでいてところどころ、自分が歩いているかのような感覚を覚えました。
密成 そのように受け止めてもらえるのは、担当編集者に助けられたところが大きいですね。遍路を歩いた記録も書籍として残したいと相談したところ、編集者は快諾すると同時に、「書くための遍路はしないでください」とも言ってくれたんです。あくまで「一人の人間として歩いてみたい」という思いのまま自由に回ってみて、その軌跡を記したものが結果として本になればそれでいい、と。
編集者や出版社によっては、「せっかく書くのだからあの名所は必ず回ってください」「いかにもお坊さんらしく書いてください」などと求めてくる場合もあるかもしれない。その結果、教科書的、お説教的な本になったかもしれない。でも本書ではそういった作為的な指示が一切なく、「思ったままに歩き、感じたままに書いてほしい」だけだったことに助けられました。
おかげで、本書の原稿を書いていて、もう一度遍路を歩いているように感じたんです。合わせて2回、四国を巡礼したような印象で、さらに豊かな経験になりました。できれば、その経験を読者にもこの本を読みながら、追体験していただきたいです。多くの経験者が「遍路するとその記録を書きたくなる」と言っているのも、感覚的によくわかりましたね。
血みどろになって苦しんでいる人たちへ
──歩く人々を、地元・四国の住民の皆さんが共に応援して支えていこうとする姿勢、中でも「お接待」(巡礼者に無償で飲食物や宿を提供すること)の親切さ、熱心さに感銘を受けました。考えていた以上に、お接待が頻繁に行われていて。
密成 ふだん、「手放すことが大切です」「喜捨(金品を寄進すること)が大事です」なんて話をしていますけど、では実際に持っているものをパッと手放せるかとなると、それがなかなか難しい。僕らのような坊さんでも、そうでなくても……。しかし四国遍路という習俗の中では、お金でも食べ物でも、持っているものを差し上げるということが自然にできてしまうんですね。そこは遍路の強さだと思います。
歩いている人たちも、お接待を受けて非常に驚くことが多いそうです。皆さん、ふだん社会生活や仕事で揉まれる中で、大なり小なり「俺とお前とどっちが凄いか」「俺は誰か」といったことばかり考えて、血みどろになって苦しんでいますよね。
そこへ「あなたが誰だか知らないし、凄いかどうかも知らないけど、修行しているようだからこれを差し上げます」と言われて食べ物をもらったりすると、人によっては涙が出たり、頭を殴られたような衝撃を受けたりするという。
これは、「他者より上に行こう」とか「個として自分らしくあらねばならない」といったこだわりから解放される、つまり「私」から解放されるからなのですね。
一方、お接待する側には、毎日何食ものお弁当を作るおばあちゃんとか、たくさんコーヒーを淹れて飲ませてくれる若い女性とか、この栄福寺でも熱心な方々がおられますけど、皆に共通しているのは「やらせてもらっている」とおっしゃるところですね。
一方、お接待する側には、毎日何食ものお弁当を作るおばあちゃんとか、たくさんコーヒーを淹れて飲ませてくれる若い女性とか、この栄福寺でも熱心な方々がおられますけど、皆に共通しているのは「やらせてもらっている」とおっしゃるところですね。
人に「良いことをしてあげている」のではなく「良いことをさせてもらっている」のだ、と。
「私」から解放される
密成 これは決して、東南アジアの仏教のような「善行により良きカルマが生まれて自分に返ってくる」といった思想ではないと感じています。シンプルに、人を助けるのが凄く嬉しい。救われている感じがする……。これもまた、「私」から解放されるからだと思うんです。
実際の日常生活では、「私」でいなければなりませんよね。仕事もするし、利益も上げなきゃいけない、生きていかなきゃならない。
「私」から解放される
密成 これは決して、東南アジアの仏教のような「善行により良きカルマが生まれて自分に返ってくる」といった思想ではないと感じています。シンプルに、人を助けるのが凄く嬉しい。救われている感じがする……。これもまた、「私」から解放されるからだと思うんです。
実際の日常生活では、「私」でいなければなりませんよね。仕事もするし、利益も上げなきゃいけない、生きていかなきゃならない。
でも、遍路でお接待を受けている時間や、お接待をしている時間には、「俺が俺が」「私はこうしたい」という気持ちから離れて、ちょっとだけ自分から解放される。
「私」であることが、ありがたいと同時に、苦しみにも繋がっているのを解除してくれるわけです。
そういう時間を持つ嬉しさ、気楽さは、複雑な宗教性や倫理性ではなくても、遍路が持つ大事な仏教的成分の一つです。
そういう時間を持つ嬉しさ、気楽さは、複雑な宗教性や倫理性ではなくても、遍路が持つ大事な仏教的成分の一つです。
「私」のない世界というのは、生命体にとって、おそらく原初の姿なのでしょう。
それが、「四国を遍路するのはふるさとに帰るようだ」とよく言われる由縁なのだと思います。