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輪廻を超える心理学。新たな視点で解き明かす十二支縁起  202403

2024-03-22 01:29:00 | なるほど  ふぅ〜ん

輪廻を超える心理学。新たな視点で解き明かす十二支縁起
  ゴールドライフOnline より 240321  東海林 さとる


 人間の苦悩の根源を12の項目に体系づけた心理法則、“十二支縁起”。
2500年前の教えを再解釈し、人間の知に革新的な変化をもたらす——。仏教徒・仏教初学者に贈る、仏教の神髄が詰まった一冊。※本記事は、東海林さとる氏の書籍『ゴータマ・ブッダの自己心理学 十二支縁起の謎を解く』(幻冬舎ルネッサンス)より、一部抜粋・編集したものです。


⚫︎第一章 十二支縁起の新解釈
  新解釈による十二支縁起の流れ


 凡夫の理解する十二支縁起の流れは、信じられないかもしれませんが、従来の流れとは真逆であります。無明から老死の苦、そして生、有、取、愛、受、触、六処、名色、識、行と続き、行まで行ったら、また無明へと続いていく流れであります。

 車の車輪がクルクル回る(輪廻する)ように、老死の苦、生の苦が無明によって再び繰り返され回り続ける流れであります。つまり十二支縁起の円環が繰り返し回り続ける流れであります。

 この流れだと、苦の根源が無明にあることに矛盾しません。もちろんその流れを説明するための一つひとつの言葉の意味は、従来のものとは異なってきます。それは僕自身が納得するための解釈であり、その解釈が仏教の歴史や言葉の意味において可能なものかどうかさえ正直自信はありません。

 ただ、この流れに沿って理解すれば、現実世界における苦の繰り返しを説明することが可能になると思われます。さしたる根拠はないのであります(僕自身が納得できる論理を展開しているだけかもしれません)。それゆえ僕の解釈もある意味こじつけととらえられても仕方ないと考えています。

 ただそれが従来の説明よりも少し分かりやすくなっていると思われるだけであります。

 十二支縁起が誤解される原因の一つに、「サンユッタ・ニカーヤ 12、20」の「縁」の中でゴータマ・ブッダが説いたとされる次の言葉があります。

 『{生まれること}によって老死がある。』

 という言葉は、普通「人が生まれて老いて死ぬ」という常識的な関係を述べたと思うかもしれません。

 しかし、十二支縁起は理解することが困難で、常識の流れに逆らうとあるように、ゴータマ・ブッダが十二支縁起の説明において常識的なことを述べたとは考えにくいのであります。

 さらに言えば、十二支縁起は心理法則であります。ここでは、何が「生まれること」なのか はっきりしませんが、心に何かが「生まれること」によって「老死の苦」が起こるということを述べたと思われます。その何かは、十二支縁起において、苦の根源であるとされる無明(無知、迷い)のことだと考えられます。      

 この「無知」や「迷い」とは、自我というものは実在するものではない(無我)ということを知らず、自我(自分)が実在すると錯覚していることを意味します。つまり、ゴータマ・ブッダは、心の中に「自我という錯覚」が「生まれること」によって「老死の苦」が起こるということを語ったものと思われます。

⚫︎自己心理学から見た十二支縁起の意義
 ここで、僕が考える十二支縁起の意義、重要性を指摘しておきたいと思います。

(人の心の中に起こる)

(一) 自我という錯覚形成とその再生の心理的メカニズム

(二) 苦の悪循環が形成される心理的メカニズム

(三) 際限の無い欲望形成の心理的メカニズム

 また間接的ではありますが、行為とそれに伴う感情の心理から、

(四) 人間の悪い行為を生み出す心理的メカニズム

 を示していると考えられます。人間の悪事は、際限の無い欲望によってもたらされると考えられるからであります。そして悪い行為を無くせば、善い行為へと変えられる可能性があります。

 これら四つの形成メカニズムが一つにまとめられ十二支の円環として示されているのが、十二支縁起であります。これらのことから、欲にまみれた自己を浄化するという自己変革が求められることになります。

 ゴータマ・ブッダが座禅という瞑想修行によって悟りを得たように、苦を無くすための実践的方法論こそ、当時としての自己変革の具体的な方法論であったと考えられます。 

 凡夫と呼ばれる者でも、権威や先入観にとらわれなければ、気づくことのできるものがあるような気がします。古い文献にとらわれずに十二支縁起の解釈を試みることで、自我と苦と欲との関係が見えてきました。古い文献に沿った解釈では、現代においても合理的に理解することは困難であります。それが何を意味するかは明らかであります。

 けれど、仏教関係者がそれを公言することは、ためらわれることと思われます。あえて凡夫である立場の者が単にたわごととして公言するならば、許されるのではないかと勝手に考えた次第であります。つまり、古い文献にある十二支縁起の内容は、誤って理解された可能性があるということであります。

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