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「始めてしまえば大丈夫」との目論通り開催されたオリンピック。なぜ発祥の動機から外れ疫病の最中でも実施せねばならない巨大イベントに 202208

2022-08-30 22:51:00 | なるほど  ふぅ〜ん

ヤマザキマリ「始めてしまえば大丈夫」との目論通り開催されたオリンピック。
 なぜ発祥の動機から外れ、疫病の最中でも実施せねばならない巨大イベントになったのか
  婦人公論jp より 220830 ヤマザキマリ


 急ピッチで進められた新国立競技場の建設風景。
  今オリンピックを振り返ってヤマザキさんが思うこととは
「旅する漫画家」として世界を駆けてきたヤマザキマリさん。コロナ禍ではイタリアにいる家族と離れ、日本に長期滞在することになりました。
 しかしマリさんいわく、思いがけなく移動の自由を奪われた毎日の中でむしろ考える機会が増え、多くの気づきや発見もあったそうです。特に緊急事態宣言下にあった東京で開催されたオリンピックについては、いろいろ思うところがあったそうで――。

* * * * * * *

◆強引さのもとで開催された東京オリンピック
 パンデミックが進行する最中に、世界中から人々を一地域に招集してオリンピック、パラリンピックを開催。

 古代ギリシャ人もびっくりするだろう事象が、2021年の夏、緊急事態宣言下の東京で遂行されました。コロナ禍の日本での象徴的な出来事として、振り返っておきたいと思います。

 何が何でも開催しなければなりません。安全と安心には気をつけます。

 開催前、政府から発せられるアナウンスは、結局その一点張りでした。パンデミックを押して開催しなければならない説得力のある理由は述べられず、絶対に実施されなければならない、という強引さのもとで、議論が尽くされることもありませんでした。

 その一連の流れを見ていて私が感じたのは、第二次世界大戦に日本が介入した際も同じような状況だったのではということです。

 有無を言わさず突撃を開始し、民衆は真相を知らないままで竹槍を持って、「突け!」と号令されれば従う。より記憶の新しいところでは、福島第一原発事故時の対応にも共通するものがあった気がします。

◆独特な「日本らしさ」なのかもしれない
 どうしても実施しなきゃいけないのであれば、その理由を民衆にわかるように説明してもらいたい。経済的な理由であれ何であれ、説明次第では国民も「ああ、それなら仕方ない。やるしかない」と思う場合だってあるわけです。

  📗『歩きながら考える』(著:ヤマザキマリ/中公新書ラクレ)

 にもかかわらずただ一方的に「何が何でも」と無茶を押して、根拠も有耶無耶(うやむや)なままに突き進む。

 実はこうした社会と組織の動向はある意味で日本の特徴であり、それが良いとか悪いとかということではなく、独特な「日本らしさ」なのかもしれないと私は捉えています。

 国民もその進め方に馴染んでいるし、具体性を求めない。「何だかわからないけど、そうらしいよ」という状況であっても、日本という国家はそれで統制が保たれてきた。

 事実、開催前には大多数が強く反発し、政府の対応を非難していましたが、開催後も反対意見を声高に言っていたのは、ある程度西洋化した認識をもつ人たちに限られていたように思います。

 その他の人々は「アスリート、頑張れ!」と、テレビ中継の前でエールを送ったり、メダリストの笑顔を見て感動の涙を流していたのではないでしょうか。

「始めてしまえば大丈夫」という政府の目論(もくろみ)通りに国民が手玉に取られた顛末には釈然とはしませんが、「オリンピック開催すべし」という一つの倫理が強硬に発動されて、人々は流され、社会が統括されるというのは、人間の現象としては別に不思議なことでも何でもありません。
 そういった意味で、オリンピックというイベントはつくづく、思考停止する人々の怠惰性をうまく利用するものだなと思います。

◆なぜ人々はこれだけ運動競技に熱狂するのか
 私は今年(2022年)の夏まで『オリンピア・キュクロス』という漫画を連載していました。
 古代ギリシャで壺絵師見習いをしていた青年が、1964年のオリンピックに沸く東京にタイムスリップするという設定で、構想を練るためにオリンピックのリサーチを様々に行いました。
 描き始めたきっかけは、「なぜ人々はこれだけ運動競技に熱狂するのか」という理由を知りたかったからです。
 小さな頃から運動が好きではなく、家族にも運動好きな人がいなかったのもあり、私にはスポーツを観戦する習慣がありませんでした。

 ただ、四六時中木によじ登ったり、野山を駆け回ったりしていましたので、走るのがめちゃくちゃ速い、身体能力の発達した子どもだったのです。
 そのため小学校でも中学校でも、運動競技会があれば必ず選手になり、「学校のために頑張ってくれ」と参加させられていました。しかし、一列に並んで勝った負けたのために走り、優劣をつけられることが、吐き気をもよおすほど嫌だったのです。

 なぜこんなことで競わなきゃならず、自分の好きなように好きな方向へ走ることの何がいけないのだろうと、ずっと考えていました。『オリンピア・キュクロス』の主人公デメトリオスには、私のそんな思いも投影されています。

◆古代オリンピックの精神
 オリンピックの起源は、2800年前の古代ギリシャに遡ります。

 もともとは神に奉納する神事としての競技会で、戦争に明け暮れる人間たちへの神の怒りを鎮め、蔓延していた疫病を退散するための祈りでもありました。
 戦わずにはいられない人間という生物にとって、運動競技は命を無駄遣いしないための工夫であり、代償的イベントでもありました。

「現代の在り様は、オリンピズムを提唱したクーベルタン男爵が想像もしなかった域に及んでいるように思います」
 だからこそ開催期間中は前後を含め、戦闘は一切禁止された。選手たちは一糸まとわぬ真っ裸で、まさに武器を捨てて肉体だけで競っていました。

 その平和の祭典での競技の目的は、徳や名誉をも意味する「アレテー(真理)」を得るためです。観客はアレテーを極める選手たちの姿に熱狂したのです。

 開催地のオリンピアは、神殿だけが建っているような自然豊かな場所でした。オリンピック開催時のみ人が集まり、テントで寝泊まりする人もいたとか。キャンプ大会と音楽フェスが一緒になったかの様相だったようです。
 現代の感覚で言うと、"ジャンボリー形式のウッドストック"といったところでしょうか。
 この古代オリンピックの精神を復興し、世界平和のための祭典をつくろうと始まったのが、近代オリンピックです。
 ただし現代の在り様は、オリンピズムを提唱したクーベルタン男爵が想像もしなかった域に及んでいるように思います。

◆潰しのきかない巨大イベントになってしまった
 スポーツの力による平和の祭典からは逸れた意味が付与されるようになったのは、1936年のナチス政権下で行われたベルリンオリンピックからです。

 ヒトラーは世界が注目するオリンピック大会を強いナチスのプロパガンダになるように利用し、大会は強い政治力を帯びるようになりました。当初の、戦争の代償であったはずのイベントが戦争的意図を煽るものとなってしまったわけです。

 1964年の東京オリンピックでは、敗戦からの復興が加速し、日本橋の上に高速道路をつくるなど急ピッチで都市が開発されて、高度経済成長期真っ只中の日本をさらなる経済大国へと邁進させる大きなきっかけになった。
 まさにこの東京大会がきっかけとなり、その後のオリンピックに経済の力が加味されていくようになるのです。

 今のような大々的なコマーシャリズム化と裏金の噂が絶えなくなった最初の契機は、1984年のロサンゼルスオリンピックですね。開催に何百億ドルという莫大な費用の掛かる現在のオリンピックの基盤が確立しました。

 今後、パリ、ロサンゼルス、オーストラリアのブリスベンでの開催が決定していますが、以降、手を挙げる都市があるのかなと疑問に思います。

 いずれにしても、オリンピックというものが古代の発祥の動機から外れ、疫病の最中ですら実施せねばならないような潰しのきかない巨大イベントになってしまったことに疑いの余地はありません。

※本稿は、『歩きながら考える』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。



💋不思議のオリンピック。政府はおかしいが…日本だけではなく、最大級にお金と利権が動き、政治的な… 原点に立ち返るのは…  利権と金…
 オリンピック開催前後にわざわざ、戦争を始める、スポーツの大国は更に論外!参加資格無し。

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