中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

条順

2024年08月17日 | 中国グルメ(美食)
条順 tiáo shùn
(体つきがしなやか)

 今回も沈宏非『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)から、『条順』という文章をご紹介します。 「条順」の意味は、この文章を読んでいただくこととして、この文章で取り上げているのは麺料理についてです。その中で取り上げている『随園食単』、これは中国清代の人、袁枚が役人を辞してから南京近郊に随園という邸宅を営み、ここで彼が食した料理についてまとめたものです。浙江省出身の袁枚は、麺料理をどう位置づけているのか。そして沈宏非はどう考えているか。それでは『条順』を読んでいきましょう。

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 『随園食単』の中で、袁枚は麺類を「点心」(正餐の前に小腹を満たす軽食)類の中に入れている。これは明らかに麺類が主菜ではないだけでなく主食でもなく、正餐の間の腹の足しで、空腹感を鎮めるために供するという、一種の「且点心(正に気持ちに火をつける)」という着火剤となる美食である。
 
 しかし、「点」(火をつける)の字は別に「面条」(麺類)と「心」(気持ち)の間の関係を表すのに相応しいものではない。麺類の形状を論じるにせよ、麺類の美味しさを語るにせよ、それとわたしの気持ちの間には様々な思いがまとわりつき、あたかも「繞梁三日」(調子が高まり激しく揺れ動く)音楽のようで、たいへん心にまとわりつく。成都人は美女を「粉子」と呼び、美女の尻を追うことを「繞粉子」rào fěn ziと言う。この「繞」の字は、同様にわたしの麺類に対する気持ちを表現するのに相応しい。

 手を加えられた日常の食物の中で、見た目のしなやかさと美しさで言えば、麺類が一番である。麺の前身は、ふっくら太った小麦粉の団子であり、切り刻まれることで、小麦から細長い麺になり、驚くべき艶めかしい変身を実現していて、このため麺は小麦粉の最も美しく最も科学的な線状の延伸、展開である。

 70年代の北京の隠語で、美女に対する評価は、「盤正条順」という高度に濃縮された四つの文字であった。「盤」とは顔立ち(顔の輪郭)を指し、「条」とは体つきのことである。「盤正条順」は見た感じ、「名正言順」(名分が正当であれば道理も通る。名分も言葉も正当である)を焼き直したものだが、「正」は別に正確の正ではなく、端正の正でもなく、今日言うところの「正点」(定刻、定時)の「正」に近い。「順」に至っては、体つきのしなやかさ、流線型の曲線を指すに他ならない。麺も同様で、食べたいのがこの「順」であるなら、「順」は麺の見た目だけでなく、より重要なのは食感で、正にこの「順」だけが、わたしたちに、麺を食べる時に遠慮なく発することができ、食事の時に本来は発してはいけない、ズズッ、ズズッ と続く心地よい音を表すのであり、或いは魔物のようにしなやかな美女が、「順」であることで人に聞こえる「ズルッ」とすすり込む音なのである。

 もちろん、湯麺(タンメン)であるか撈麺(混ぜ蕎麦)であるか、箸を使うかフォークを使って食べるか、こうした要素も「順」に多大な影響をもたらし、場合によっては見た目が全く異なる。例えば、スープの無いスパゲティは元々湯麺 のような「美女が湯船に浸かる」色気が欠けており、更にフォークで巻いて食べても、少しも「順」の快感は感じられず、せいぜい口に頬張っても歯にまとわりつく柔らかい麻花(小麦粉をこねて細かく切り、ねじり合わせて油で揚げた揚げ菓子)のようなものだ。それに比べ、曾てイタリアの貧しい人が手で引っ張って伸ばした麺を高いところに「吊り下げ」口に入れた食べ方は、却ってより「条」の感覚を得ることができた。更に、広東人が作る麺類はたいへん不味い。それはまた広東語ではいつも「麺条」のことを「麺」とだけ言って「条」を付けないのと関係しているかもしれない。

面面観(麺についての様々な考察)

 『随園食単』「点心単」に列記された麺類は、全部で「鰻麺」、「温麺」、「鱔麺」、「素麺」、「裙帯麺」の五種であり、墨を惜しむこと金の如しか、麺を惜しむこと墨の如しか知らないが、少なすぎる気がする。

 袁枚は82歳まで生き、行ったことがある場所は少ないとは言えず、食べたことのある麺は思うに上記の五つに止まらないにちがいない。ところがこれら五つの麺だけ選んで食単に入れたのは、郷土の習俗や個人の好みの問題以外に、これら選ばれた麺に各々その独特な点があったからに違いない。しかしわたしはそれ以外に、五つの麺にはひとつの共通点があることを発見した。それは、その調理過程で、スープ、餡かけの効果をとても強調していることである。「鰻麺……鶏のスープはこれを澄ませ、鶏のスープ、ハムのスープ、干しキノコのスープを沸騰させる」、「素麺は、前日に干しキノコを水でふくらませ煮出したスープを澄ましておく。翌日そのスープに麺を加えて沸騰させる」。最後まで書いて、自分でも幾分不注意が過ぎると思ったのか、一筆を加えた。「およそ麺を調理するには、必ずスープを多くするのが良い。碗の中に麺が見えなくするのが良いのである。食べ終わっても麺をまた加えると、人をうっとりさせることができる。このやり方は揚州で流行っているが、正に甚だ道理がある。」

 もうひとりの清代の美食家、李漁は、袁枚より百年あまり早く生まれている。原籍は浙江省。江蘇に生まれ、これらふたりの終生の「麺類飲食生活区域」はほぼ完全に重複し、人生に対する態度も非常に似通っているが、彼らの麺に対する態度は大きな隔たりがあり、甚だしくは轅(ながえ)を南に向けながら、車を北に走らせるかのように、行動と目的が全く一致していない。李漁は『閑情偶寄』の中でこう批判している。「北人は小麦を食べるのに多くは餅(ビン)にするが、わたしは細長く切り分けて一本一本はっきりさせるのが好きだ。南人のいわゆる「切麺」がこれである。南人が麺を食べるのに、その油塩醤醋などの調味料は、皆麺のスープの中に入れ、スープは味があるが麺は味が無い。これは人の重視するのが麺にあらずスープにあり、未だ曾て麺を食せずというのはこのことである。」

 李漁は雄弁であるだけでなく、言だけでなく行動もでき、彼はふたつの上記の理論に基づく麺を打ち立てた。名を「五香」、号を「八珍」と言い、重点は麺を切る前に「醤(味噌)や、酢、山椒の粉、すりゴマ、茹でたタケノコ或いはキノコを煮、エビを煮た汁」、及び「鶏、魚、エビの三つの肉……と生のタケノコ、シイタケ、ゴマ、花椒の四つの物を細かく挽いた粉末を」尽く数えて麺の中に入れる。その目的は「諸物を調和させることで尽く麺に帰し、麺は五味を備え独りスープが澄み、こうしてようやく麺を食べるのはスープを飲むのとは異なることとなる。」

梨花帯雨(梨の花がしっとり雨に濡れる)

 湯麺(タンメン)についての忠実な擁護者として、わたしは袁枚は李漁よりずっと優れていると信じざるを得ない。

 麺について言えば、麺自身の味も固よりたいへん重要である。しかし、小麦粉自身を除いて、すなわち小麦自身の品種と品質以外に、麺の重要なセールスポイントはすなわち噛み応えであり、上記の要素を除き、噛み応えは小麦粉を捏ね、切り、茹でる技術により決まる。麺の味は、主にスープから汲み取られる。それと同時に、スープにも麺固有の芳香が溶け込む。こうして、スープも麺も、柔らかくもあり強靭でもあり、スープしたたる麺は、梨の花が雨がしっとり雨に濡れるように艶めかしい。

 それゆえ、「人の重んじるのは麺に在らずしてスープに在り」というのはもとより片方に偏してしまっており、逆にもし「人の重んじるのはスープに在らずして麺に在り」とし、「麺が五味を具え、スープは独り澄む」ようにするのも、専ら一方の味を好むものとなる。わたしたちが一碗の美味しい麺に対する要求は、一碗一碗どの麺も皆到達すべきだ。麺を食べないといけないし、スープも飲まねばならない。こうしてはじめてスープも麺も共にすばらしくなり、功徳円満となる。科学的にも市場の角度からも、スープと麺が「一体化」する有利な形勢が勝ち取れる。

 もちろん、上海冷麺のような干麺、拌麺(混ぜ蕎麦)、或いは新疆の「大盤鶏」の中の「幅広」の麺も美味しい。わたしが嫌いなのは、ただ人為的に各種の外の物を麺の中に混ぜることだ。広東人は 湯麺 であれ 干麺であれ、うまく作れない。ただ李漁の教義を継承し、その伝統を発展させ、技量を皆小麦粉を捏ねる点にかけ、蝦子麺、鮑魚麺といった俗悪な麺や餅(ビン)をでっち上げた。

 湯麺(タンメン)に対する態度の上で、李漁はひとつの極端な例で、張愛玲はまた別の極端な例である。すなわち、彼女はただそのスープを好み、麺は食べなかった。「わたしはあいにく湯麺が最も嫌いで、「スープがたっぷりで麺が少ない」、思うに一番いいのはいっそ無いことで、ただ少し麺の味が残り、スープが澄んで濃厚なこと……杭州のガイドは皆を楼外楼に連れて行き、螃蟹麺(上海蟹入りの麺)を食べる手配をしてくれた。当時、この老舗レストランはまだ上海のレストランのように「大衆向け」に、料理の値段を低く抑え、仕事の手を抜き材料をごまかし、品質を低下させてはいなかった。この店の螃蟹麺は確かに美味しかったが、わたしは麺の上にかかった具を食べてしまうと、スープがほぼ無くなったので、箸を置いた。自分でも、今の中国の情勢下でこのように気ままに食べ物を無駄にするのは、いささか罰当たりなことだと思った。」

 わたしの自宅に客を招待し、 湯麺を召しあがっていただく時は、必ず特大のどんぶりを用う。どんぶりのサイズはできれば自分の顔より大きいものを使い、人の五官をスープの湯気の熱さで燻せば、ひとしきり、またひとしきりと感動が人々の顔をなでながらやって来る。

南人北相(南方の人が北方の人の容貌を兼備する)

 袁枚が記録した麺料理は、皆南派(南方)のもの、いや基本的には江蘇、浙江の二省を出ることさえなかった。麺料理は畢竟北方に由来する食品であり、ちょうど李漁が『閑情偶寄』の中でこう言っている。「南人は米を食し、北人は麺を食すのが常である。」

 袁枚は浙江の人だが、もし彼が北方の満州族出身で、関(居庸関)を越え、北京の役人になっていたら、おそらく彼は、麺という北方人の主食を「点心」の中に入れることはあり得ないし、そうする勇気も無かっただろう。北方人の日常の飲食生活の中で、麺は 点心と見做すことができないだけでなく、貧しい人々にとっては、麺は更にある種、精緻な小麦を使った食品と称するに足るものであった。これと同時に、北方の麺は日常の食べ物として普及しているだけでなく、その様式種類もすこぶる多く、山西省一省だけでも、麺の食べ方は百種類以上あり、当地の家庭の主婦は、更に「360日、毎食麺料理にしても、料理が重複しない」という腕前を持っている。もし袁枚が33歳で「官を辞して故郷に帰」っていなければ、『随園食単』の麺類メニューもきっと5種だけに止まることはなかっただろう。

 それゆえ、江蘇、浙江一帯で中国で最も美味な麺料理が盛んに作られた所以は、第1、ここは広義の南方であり、江蘇、浙江は曾て戦乱の禍と大運河による漕運の便により、中国北方の精緻な文化の最も深遠且つ最も長期間に亘る影響を受けたため。第2、北方の麺が初めて南に渡ったばかりの時、江南の精緻な飲食もまた初めて「北方の麺」の薫陶を受けたため。それゆえ呉越の麺料理は確かに「南人北相」、南方の人が北方の人の容貌を持つことで、双方の長所を兼備することとなった。

 翻って、北方に引き続き残った麺料理、その中でもわりと代表的な北京の炸醤麺(ジャージャンメン)を例にすると、たとえ文人たちが「雪のように白く柔らかくしなやか、平らで整った手延べ麺、四月の柳の葉に似たキュウリの細切り、卵、さいの目に切った豚肉、きくらげ、キノコ、黄ニラを油で揚げて作った味噌」というような言葉の修辞でそれを賛美していたとしても、わたし個人の経験では、北京旧市街、南城に住む「老北京」、昔から北京に住む人のお宅で御馳走になろうと、東城の五つ星ホテルのレストランで食べようと、炸醤麺はどこのものも美味しくない。そして最も不味いのは、他でもなく炸醤、油で炒めて作った肉味噌の塊りである。

 ネット上で広く流布した長編読み物、「包子麺条大戦」の一節で、炸醤麺が主人公になっている。ここで再度紹介しよう。なに、北京人に怨まれたって構わない。「さて、小籠包は殴られて後極めて不愉快になり、肉包(肉まん)、豆沙包(餡まん)、近い親戚の餃子、遠い親戚の月餅といっしょになって、かたき討ちをしようとした。ちょうど路上で炸醤麺に出逢ったので、皆は炸醤麺を取り囲むとそれをぺしゃんこにして虫の息にした。帰路の途中、皆は小籠包に言った。「君は本当にそんなに麺を怨んでいるのか。こんなに殴ったら死ななくても障害が残るだろう。」小籠包は言った。「元々、わたしもただ適当に何発か殴ればいいと思っていたのだが、奴がなんと全身に大便を塗りたくっていようとは誰が知ろう。こんなだとわたしは奴を殴る勇気が無くなる。本当によく考えたものだ。こんな意気地なしのチビがわたしの気持ちに火を点けた。殴り出したら節制が効かなくなって……」」

 実は炸醤麺が最も不味いわけではない。広東人の麺料理、とりわけあのワンタン麺というものを食べてはじめて、本当にこれは「惨たんたる人生を目の当たりにした」と叫びたくなるのだ。

拉麺(ラーメン)


 蘭州ラーメンは既に一碗の麺料理からひとつの神話に変化しており、流行の言い方を真似ると、ラーメンとは蘭州という「都市の名刺」である。

 ほとんど蘭州ラーメンと同期に神話になったものに、更に日本のラーメンがある。蘭州と日本は地理の上では遠く離れていて、双方の飲食文化はまた高度に異質であるけれども、これら二種類のラーメンとその土地で形成されたラーメン文化の間には、ある微妙な類似点が存在する。

 蘭州ラーメンと日本のラーメンは何れも湯麺(タンメン)で、「重湯」、スープが重要な麺類であり、どちらもスープが勝負のカギを握る。前者は牛や羊の肉をスープの主要な材料とし、後者は醤油、味噌、豚骨とコンソメスープを4つの基本的なスープの基本部分としている。もちろん、牛肉、ネギ、ニンニクの芽、香菜、唐辛子を除いて、蘭州ラーメンの原料の配合と名目は、日本のラーメンの原料やそれらの使用目的が極めて多いことに遠く及ばない。それには次のようなたとえをすることができる。蘭州ラーメンをWindowsとするなら、日本のラーメンはLinuxのようなものだ。後者は基本プログラムが完全に開放されたプラットフォームであり、およそ思いつき得る材料であれば、何でも意気揚々とスープの中に注ぎ込むことができる。こうした意味において、日本のラーメンは実際、集団での創作の成果であるかのようだ。

 日本のドラマやソニーを除いて、日本人のものの大部分が聞くところによると中国から伝わったものだそうで、ラーメンも例外ではない。ある人の説では、中国のラーメンは早くも三百年あまり以前に日本に上陸したそうである。当時、一心に「反清復明」を主張していた中国人、朱舜水(字は魯璵、舜水と号す。明の浙江紹興府余姚県の人。南京松江府の儒学生)は七度海を渡り長崎に到り資金を準備したが、やむを得ない事情で実現できず、やむを得ず1659年長崎に落ち着くこととなった。水戸藩第二代藩主で、徳川家康の孫、水戸黄門が儒学をたいへん好んだため、一年の時間を費やして家臣を長崎に派遣し、三顧の礼を尽くし、遂に 朱舜水を招聘して江戸水戸藩邸に居留してもらうこととなった。朱老師は水戸黄門に儒学を講義しただけでなく、彼に中国の麺料理をふるまった。『朱文恭遺事』の記載によれば、朱舜水は自ら厨房に立ち、水戸黄門のために作ったのは、レンコンの粉で作った平麵で、スープは豚肉のハムを煮つめて作った。

 もうひとつの説では、現代の日本のラーメンは、日本在留の浙江出身の華僑、潘欽星が大正年間(1920年代初め)に創始したと言われている。

 いずれにせよ、わたしは蘭州ラーメン、日本のラーメン、呉越の湯麺(タンメン)、及び李漁、袁枚、朱舜水、潘欽星といった既に亡くなった江蘇、浙江の人々の間には、麺類でつながった関係が、歴史と美味の霞みの中にたたずんでいるように感じる。


瓜子( クアズ )の音を聞く

2024年08月01日 | 中国グルメ(美食)
 瓜子( クアズ )はヒマワリやスイカやかぼちゃの種をを殻ごと煎って、塩や調味料で味をつけ、お茶請けのスナックとして食べるもの。「殻ごと」というのがポイントで、その食べ方は、殻を手で剥いたりせず、殻を前歯で噛んで割って、舌の先で器用に中身だけ口の中に入れ、殻はぷっとはき出すというもの。ここで、 「殻を前歯で噛んで割る」という動作のことを「嗑」といい、この時の音がこの話のテーマです。作家、テレビプロデューサーの 沈宏非著、『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)収録の作品です。


聴瓜子


 様々なものを食べる音の中で、水を飲む音の他、最も好ましい音は、クアズ(瓜子。ひまわりやスイカ、かぼちゃの種を炒ったもの)を前歯で噛み割る(嗑)音である。

 瓜子 ( クアズ )を噛み割る音は、主に以下の三つの動作が途切れず行われることでできている。 瓜子の殻は歯先でパキパキと破裂し、吐き出される時に唇と舌の間でパラパラと音を発して下に落ちる時に聞こえるのは空洞のこだまである。66年前、豊子愷先生は女性が瓜子 を噛み割る音を、澄んで耳に心地よい「チッ、チッ」という音で表したが、ひょっとすると66年前は 瓜子がとりわけ歯触り好く炒られていたのかもしれず、或いは66年前の女性の歯はとりわけ鋭かったのかもしれず、「チッ、チッ 」という音は今日ではもはや人に瓜子 を噛み割る音とは連想させられず、むしろ多少留守番電話機の信号の音に似ている。

 でも実は、瓜子 を噛み割るリズムが、その音よりもっと人々をうっとりさせるのだ。自分や他人が瓜子 を噛み割るのを連続して2分以上聞かされると、その絶えることなく続くリズムは、まるで楽器の旋律と肉声の歌声が同時に発せられた中国式のジャズのメロディのようである。

 もちろん、こうした音やリズムの多くは静かな部屋でひとり瓜子 を噛み割った時にはじめて気にかけられるもので、一般的な情況では、しばしばがやがやとした無駄話やあれこれと話す声の中に埋没してしまう。雨が芭蕉の葉を打ち、腹を空かした馬が鈴を揺する音が聞こえるのは、その前提として雨があまりじゃじゃぶりではなく、芭蕉の葉も馬もあまり多くないことで、もし暴雨が芭蕉の林に降り注ぎ、馬も空腹の余り発狂しそうになっていると、その有様は、大厨房の中で肉や野菜を炒めているのと変わらない。

 瓜子 を噛み割るのは中国人の生活に根付いた風習であり、瓜子 を噛み割る音も、如何にも中国的な音である。春節は一年の中で「中国の音」が最も強い月で、同時に瓜子 の販売の最盛期である。商品分類上、 瓜子は通常「炒貨」chǎo huò(スイカの種、落花生、ソラマメなど炒ったものの総称)に分類されるが、音の面では、 瓜子、マージャン、花火、爆竹は年越しの賑やかな雰囲気を作り出すために存在する正月用品で、何れも「吵貨」chǎo huò(騒々しい商品。発音は「炒貨」と同じ)と読まれるべきものである。

 瓜子 は別段美味しいものではなく、その主な属性はそれが唇や歯と一緒に動いた時に発する音声効果の上にあり、こうした音声は美学上の意義はもとより取るに足らないものではあるが、実際の効果から言うと、少なくともレイヴ・パーティー(ダンス音楽を一晩中流す大規模なパーティー)での薬物使用の乱用の問題の解決に建設的な意見を提供する可能性がある。レイヴ・パーティーの会場には瓜子 の自動販売機が設置され、瓜子 を噛み割ることで薬(やく)を噛むのに取って代えるよう提唱され、また地面を 瓜子の殻だらけにして、これ以上すごいDJも演奏できないような人々を魅了する音楽を提供することができるのである。


瓜子臉(うりざね顔)

 スーパー・ボールの勝者が、なすべきことは何でも行い、誰にも譲らない「世界チャンピオン」とするなら、世界で一切の瓜子 に関係した歴史は、全て漢字で書かれたものである。

 馬王堆漢墓の女性の遺体の腹の中から消化されていない 瓜子が発見されたことがあるけれども、瓜子を食べる歴史は最大宋(960-1279年)から遼代(916-1125年)までしか遡ることができない。なぜならひまわりやスイカから作る瓜子の「親元」は、何れも五代の時期(五代十国時代。907年 -960年)になってようやく中国にもたらされたからである。それはともかく、わたしは世界で最初に 瓜子の殻を剥いて口に入れたのは、きっと女性に違いないと考えている。女性であるからこそこのように自然と注意深く繊細な観察力と我慢強さを備えていたのであり、もちろん小さく敏捷な口と指も、欠くことのできない道具である。

 たとえ今後考古学上の資料で 瓜子は男性が発明したものであると証明されたとしても、瓜子が女性の食べ物であるという広く一般に認められた事柄、つまり女性だけが瓜子 をこんなり優雅に、美しく噛み割ることができるという現実を改めることはできない。もちろん、女性が瓜子 を噛み割るのは彼女たち自身のためであり、男性の気を引くのとは無関係であるが、一粒の取るに足らない瓜子にとって、このように優雅に食べられれば、たとえ種が瓜になる輪廻に失敗したとしても、死んでも心残りの無い幸福と見做すことができる。どんなに粗野な女性でも、ひとたび瓜子を手に取れば、動作も自然と美しくなる。20年余り前、わたしは広州の東郊で学校に通ったが、市内に向かうバスの中は、毎日化学工場と製鉄工場の女工で一杯で、座っている者も立っている者も、女工たちは皆手にひと掴みの紅瓜子(赤く着色された瓜子)を持ち、ちょうど『カルメン』で煙草工場の女工が皆巻煙草をくわえているのと同じである。わたしはいつも彼女たちが瓜子 を噛み割る美しい姿に見惚れて、同時にまた「広州カルメン」で紅瓜子の殻と一緒に彼女たちの口から飛び出す人を驚かす汚い話の中から、徐々に早期の性教育を終えたのである。

 成都の茶館は茶館の中での瓜子の消費量が中国でトップである。他所と異なるのは、成都の茶館は男性が茶を淹れるのを好むだけでなく、女性も茶を淹れるのを好む。わたしは成都の女性の「うりざね顔」の比率が高いことを発見したが、それはひょっとすると中国第一かもしれない。広東人はこれが「形でもって形を補う」理論のひとつの確証であるとおそらく信じているだろう。実際のところ、生まれつきどのような顔の形をしていても、口を尖らせて瓜子 を噛み割った瞬間、誰しも皆 うりざね顔になるのである。

 中国の女性は何種類か代表的な「中国語で言う顔型」があり、瓜以外にも、ガチョウの卵、シャオピン(焼餅。小麦粉を薄く延ばして焼いたもの)、苦瓜などがあり、皆食べ物である。言うまでもなく、うりざね顔は公認の美女の顔型であり、鄭秀文(サミー・チェン)の人気が出たのも、聞くところによると、心を鬼にして自分の シャオピン顔をうりざね顔に整形した所以(ゆえん)であるそうだ。「瓜子」がひまわりの種であろうと、やや丸く太ったかぼちゃの種であろうと、「美白」の意義を参考にすれば、やはり後者が基本となる。

 中国至上主義者として、瓜子を欧米に輸出するには、今のところ難易度がたいへん高い。最も可能性があるのは、わたしはやはり日本だろうと思う。これは決してわたしたちが皆米を主食にし、同文同「種」であるからではなく、日本の漫画の中の男女の主人公が、うりざね顔なのが多数を占めるからである。

「嗑」(前歯で噛み割る)の芸術

 わたしが瓜子は専ら女性の食べ物に属すると信じる所以は、女性の「嗑姿」(瓜子を前歯で噛み割る姿)に対する偏愛と言うよりはむしろ、男性の瓜子を噛み割ることへの嫌悪のためである。

 男性が瓜子を噛み割る、とりわけ一群の男が瓜子を噛み割っているのを見るのは見苦しく、オスが第二の性を超越した存在として、「瓜子を噛み割る姿」は下品で見るに堪えず、一粒の女子の指先につままれたダイヤのような瓜子も、太い腕に大きな口の男の手にかかると、まるで蚤をつまんでいるようだ。同じように直接口に触れるものとして、葉巻は尚男女で寸法の違いがあるが、残念なことに瓜子はもともとLady sizeしか無く、寸法上の美的感覚の問題は別として、男性が瓜子を噛み割る音は、濁っていて聞き苦しい。だから、わたしは次のふたつの場合を除いて、男性は瓜子でこれ以上関わり合いを持つべきではない。

 第一:瓜子を売ることで商売に成功し、それによって更に個人の身分や地位が向上する。
 第二:腹痛や頻尿を患い、場合によっては排尿が困難な男性は、薬を飲む以外に、適度に瓜子を食べると良い。聞くところによるとかぼちゃの種は脂肪酸を豊富に含み、前立腺でホルモンを分泌するのを助ける働きがある。毎日だいたい50グラムずつ、生でもよく炒ったものでも良い。3ヶ月以上食べ続けないといけない。

 馮鞏(フォン・ゴン)と牛群(ふたりは何れも、中国漫才、「相声」の芸人)はこれまでずっとわたしが好きな芸人であったが、新聞によれば、春節晩会(大晦日夜のテレビのバラエティ番組)の準備で、ふたりは毎回70斤(35キロ)にもなる瓜子をひたすら食べ、わたしは本当に笑うことができなかった。ふたりのりっぱな師匠が瓜子なんかを口に入れるくらいなら、煙草を吸った方がましだ。

 しかし言ってみればわたし自身も信じられないのだが、男が十人いれば、九人まで瓜子を噛み割る様子は見苦しい。けれども、瓜子を噛み割るスピードとテクニックについて言えば、わたしが見聞きしたところでは、女九人寄ってもひとりの男性にかなわない。SNSで「小三」というペンネームのすばらしい「嗑文」が見られる。「手に虱くらいの大きさのスイカの種を持ち、機関銃のように右の口もとから続けざまに投入すると、前歯が一本しか見えないのに、左の口もとから直ちに殻が噴出され、噴水のようだ。しかも殻は真っ二つに割られ、全部揃っていて、よだれが少しも付いていない。それでも尚、口の中で噛み砕くのが滞るようなことはない。そうこうするうち山盛りの瓜子がみるみる小さくなり、殻の山が瞬く間に大きくなり、しばらくすると瓜子の大きな袋が空っぽになってしまった。」

 悪くない。文中の「嗑主」は間違いなく男性だ。男でなければ、こんなに高い効率はあり得ない。

葵花宝典(ヒマワリ宝典)


黒瓜子

 黒瓜子はスイカの種、紅瓜子は蘭州白ウリの種、白瓜子はかぼちゃの種。これらの白、黒、赤が一色で来るのに比べ、ただヒマワリだけは黒、白半々である。なぜならヒマワリの種は「花」から生まれたもので、「瓜子」でなく「花子」である。

  瓜子の値段はウリの価格に従って高くなり、大いにオヤジ、英雄、好漢の意味がある。しかしかぼちゃの種やスイカの種はヒマワリの種ほど美味しくない。ヒマワリの種はよくヒマワリの種子だと誤解されるが、実際には、これは一粒の種子であるだけでなく、一個のれっきとした果実である。ヒマワリの果実は典型的な痩果(そうか)で、形が小さく、皮が薄く、やや紙質を呈し、内に一粒の種子を含んでいる。このため瓜子と比べ、ヒマワリの種はもともと果肉に近い成熟した深みのある味わいを備えている。スイカの種をもう少し炒ると、見た感じ少し黒っぽくなり、ヒマワリはもう少し乾すと、食べると口の中がぽかぽか暖かくなる。実際、ヒマワリの種はまだ炒る必要があるのだろうか。ヒマワリの種は、ヒマワリが太陽の方向を向いている間に、日光に晒され、十分に乾される。

 スイカの種や紅瓜子の振り払っても取れない渋みを取り去るため、炒る時にしばしば大量の調味料を投入する。スパイスには、ウイキョウ、花椒、桂皮、八角などが含まれ、発がん作用のあるサフロールが含まれている。食塩、香料、サッカリンなどの調味料は、あまり多く摂取し過ぎると、健康に良くない。最近また研究報告がなされた。瓜子に含まれる油分は、大部分が不飽和脂肪酸で、過剰に摂取すると、大量のコリンを消耗し、体内のリン脂質の合成と脂肪の摂取や燃焼に障害を引き起こす。大量の脂肪が肝臓に堆積すると、肝細胞の機能に重大な影響を及ぼし、肝細胞の破壊をもたらし、酷い場合には肝硬変を引き起こす。

 実際のところ、食べられるものには皆害になるところがあり、瓜子もまたその例に漏れず、適量が望ましい。ただ瓜子の問題はどこにあるかと言うと、食べないでいるならいいが、ひとたび口に入れると、しばしばコントロールが効かなくなってしまうことだ。ヒマワリの種は、比較的噛み割り易く、しかも味があっさりしているので、口に入れると狂ったように手が止まらなくなり、しばしば知らず知らずのうちに、家族や仲間と談笑し、興が乗ってくるうち、目の前の瓜子の殻は山のように堆積し、恐ろしい造山運動が展開される。

 ゴッホ以後、ヒマワリの種の母体のヒマワリは、西洋の精神病研究の上でずっと精神錯乱のしるしと見做されてきた。中国では、ヒマワリは文革当時、「忠誠」のしるしであった。ヒマワリは永遠に太陽の方向を向き、たいへん直観的で、中国式の認識論に符合した。しかし今考えてみると、このしるしは狂気じみているだけでなく愚かである。瓜子であれ花子であれ、これが太陽の方を向いていようといまいと、最後には食べられてしまう。これが中国式の実践論である。

長個屎尖頭(大便の先端が伸びる)

 中国を除き、世界各地の人々は瓜子を食べない。面倒を厭い、美味しくないものを嫌うと言うより、彼らは終生一粒の瓜子に含まれる広くて深い学識に触れることもないと言うべきである。

 瓜子が奇異であるのは、それが形態として食べ物と認められるかどうか、また食べてから満腹と感じられるかどうかによる。

 瓜子も口腔、食道、胃腸といった伝統的な路線に沿って進むものではあるが、瓜子を食べる快感は、その大半が「嗑」(前歯で噛み割る)にあり、ことばを換えて言うと、「殻無しの瓜子」はきっと市場が無くて売れないだろう。次いで、くるみやピーナツ、ピスタチオなどを食べる時も「殻をはずす」という工程があるが、こういったものはたくさん食べると満腹で腹が張る感覚が生じるのを免れない。瓜子はそれとは異なり、正に豊子愷先生が言うように「俗語では瓜子は食べても腹が膨れない(不飽)と形容され、「三日三晩食べると、大便の先端が伸びる」(吃三日三夜,‌長個屎尖頭)と言う。」

[注] 豊子愷(ほう しがい)1898-1975年。中国の画家、随筆家、翻訳家、教育家。「漫画」と呼ばれる題つきの絵で知られる。また、『源氏物語』を最初に中国語に完訳した人物。浙江省崇徳県石門鎮(現在の嘉興市桐郷の石門鎮)で生まれた。1914年に杭州にある浙江省第一師範学校に入学し、中国における西洋絵画・西洋音楽の草分けであった李叔同に音楽と絵画を、夏丏尊に国文を学んだ。1921年に日本に私費留学して西洋美術や音楽を学んだが、資金不足のためわずか10か月で帰国した。しかしこの留学は竹久夢二を知るなど豊子愷に重要な影響をもたらした。

 豊子愷先生がこのように瓜子文化に関心を持つのは、当時進歩的な知識分子の考え方では、瓜子を噛み割ることは中国の貧困、衰弱、野蛮の原因を形作るもので、アヘンを吸ったり痰を吐くのと同罪であった。魯迅はこうした食べ物を嫌っただけでなく、一切の形式のおやつにも反対した。もちろん、西洋や日本の近代医学の影響を受けた魯迅や豊子愷たちは、瓜子が「食べても腹が膨れない(不飽)」から健康に無益だと信じ、否定的な態度を取ったのではなく、心を痛めたのは、瓜子を噛み割ることでの時間の浪費であった。豊子愷先生は1934年4月20日にこう書いている。「時間の浪費を利するのは、……世間の一切の食べ物の中で、いろいろ考えてみると、瓜子だけである。だからわたしは、瓜子を食べることを発明した人は、すごい天才だと思う。そしてできるだけ瓜子を楽しむことができる中国人は、暇つぶしのやり方の上で、本当にすごい、積極的な実行家である。中国人は、「ゲップ、ペッ」、「チッ、チッ」という音の中で無駄に使われた時間は、毎年統計を取ってみると、きっと驚くべき数字になるだろう。将来このままの状態が続くと、ひょっとすると中国全土が「ゲップ、ペッ」、「チッ、チッ」という音の中で消滅してしまうかもしれない。わたしは元々瓜子を見る度に恐ろしく感じていた。ここまで書いて、わたしは今まで以上に恐ろしくなった。」

 確かに、「嗑」と「不飽」は何れも途中経過で、時間の消耗こそが最終である。時間の経過により、中国が最終的に瓜子のために滅ぼされたのではないと証明されて初めて、わたしたちはこれまで以上に、瓜子のため滅ぼされたのは、「チッ、チッ」として過ぎ去った時間だけであり、効率や金銭に置き換えられ、瓜子 を噛み割る音の中で消耗されたのは、時間により特定された品質である、と知るのである。

白塔寺廟会

2024年07月09日 | 中国文化
白塔寺白塔

 白塔寺、すなわち妙応寺は、北京阜成門内大街路北に位置し、寺の中に有名な全体が真っ白の巨大なチベット式仏塔があることで有名で、それゆえ俗に白塔寺と呼ばれる。

 遼の道宗寿昌2年(1096年)ここに仏舎利塔が建てられた。塔内には、お釈迦様の仏舎利と戒珠(かいしゅ。戒を保つことによって、その身が清らかに飾られることから、戒を珠玉(真珠)にたとえた)が20粒、香泥小塔(素焼きの小塔)2千個、離垢、浄光など陀羅尼(だらに)経5部が納められた。後に、塔は火災で焼失した。元代になり、この一帯の地区は新たに作られた元大都の内城になった。元の世祖フビライは文武両道の頗る政治的な頭脳を持った封建君主で、彼は「儒を以て国を治め、佛を以て心を治める」という国策を採用し、各民族の求心力を強化し、その統治を確固たるものにした。彼はラマ教を国教に定め、且つ都城内に大型のチベット式仏塔を造営し「以て都邑を鎮め」、「王城を壮観に」することを発願した。このため、彼は更に自ら塔の場所を定め、且つチベットで貢金塔を建設したネパールの著名な建築家、アニカ(阿尼哥)に委託し大塔の設計と建設を行った。至元8年(1271年)から着工し、至元16年(1279年)竣工。工期は8年であった。白塔が完成すると、お釈迦様の仏舎利を塔の中に収めた。同年、フビライがまた塔を中心に、四方へ向けて弓矢を射て届いた地点までを寺域に区画するよう命じ、塔を中心に寺を建立した。建築規模は広大、華麗で、「まるで内廷(宮廷内で皇帝が私生活を営む所)のような作り」の寺院であり、占有地は約16万平米、「大聖寿万安寺」の名を賜った。寺は至元25年(1288年)に完成し、その後ここは元代の皇室の仏事活動の中心となり、朝廷の百官が儀礼を演習する場所であり、中国で最初にモンゴル語の仏典を翻訳、印刷した場所であった。万安寺は元の大都の宗教、政治、文化史上、均しく重要な地位にあった。

 寺内の白塔全体の高さは50.9メートル、塔の台座、塔身、相輪、華蓋、塔刹(とうさつ。塔の一番てっぺんの刹頂)から成る。レンガを積み上げ、中に空洞が無い構造で、外部は白く塗られ、端っこは方形、円形、円錐体など、いくつもの幾何学形状で構成されている。塔の形状は優美で調和がとれ、造形は穏やかだが雄壮で、統一された中で変化に富み、中国で現存する中で年代が最も古く、規模が最大のチベット式のラマ教の鉢を伏せた形状の仏塔である。


白塔の構造

 塔の台座の高さは9メートル、面積は810平方メートルで、三層に分かれている。下層は方形の保護壁で、中層は折れ曲がった須弥座である。平面は「亜」字の形で、四隅は次第に収束してふたつに折れ、上層には鉄の灯籠が置かれている。その上は装飾性に富む過渡的な構造となっていて、一周が華麗なレリーフの覆蓮座、塔身を支える五本の輪っかである金剛圏があり、塔の下の方形で折れ曲がった基壇を、穏やかで自然に円形の塔身につなげている。

 塔身は直径18.4メートルの巨大な伏せ鉢で、上方には七本の鉄のたがが嵌っていて、塔身を十分に堅固にしている。塔身の上には折れ曲がった須弥座が加えられ、これにより塔身と上層の13層の相輪(十三天とも言った)を接続し、相輪の外形は円錐形を呈し、下から上へ各層が収斂してゆき、急峻な形をしていた。頂端で直径9.9メートル、上を40枚の放射状に銅板の瓦で覆った円形の華蓋を支え、周辺には高さ1.8メートル、梵語の文字を浮き彫りにした瓔珞(ようらく。玉の首飾り)と流蘇(りゅうそ。房状の装飾)36片と銅製の風鐸(ふうたく)36個が吊り下げられた。華蓋の上は高さ5メートル、重さ4トンの銅製金メッキの覆鉢型の小塔の形をした 塔刹であった。小塔の頂上にはまた精美な相輪が鋳込まれていて、まるで大きな真珠が青空の中で金色の光を発しているかのようであった。

 元末の至正28年(1368年)、寺内の堂宇は全て特大の雷火で焼失し、ただ白塔だけが幸い難を免れた。この後寺院は90年近く荒れ果てていたが、明代の天順元年(1457年)になり、宛平県民の郭福清が皇帝の勅命を奉じて修復、寺の名を「妙応寺」に改め今日に至る。寺院は北側に坐し南に面し、四重の堂宇と塔院で構成されていた。土地の占有面積は1.3万平方メートルあったが、それでもなお元の万安寺の10分の1にも及ばなかった。主要な建物は山門、天王殿、意珠心境殿、七佛宝殿、具六神通殿、白塔で、東西両側に配殿(正殿の両脇の殿宇)があり、山門と天王殿の間に対称に鼓楼と鐘楼が建てられていた。


白塔寺伽藍図

明代の成化元年(1465年)に塔の台座の周囲に鉄製の灯籠108基が追加で建設され、以後明清両時代に何度も補修され、その伽藍は基本的に今日まで保たれている。1978年夏、北京市の文物部門が白塔に対し修理をしていた期間に、塔の頂上で清の乾隆18年(1753年)に塔の修復が完了後に供えられたいくつかの「塔を鎮める」仏教文物(文化財)が発見された。その中で、724帙(ちつ)の龍蔵新版『大蔵経』、乾隆手書きの『般若心経』、チベット文の『尊勝咒』、銅製の三世仏像、十粒の舎利子が最も貴重なものであった。

 清の中期以後、妙応寺は北京のチベット仏教寺院の中でもはや重要な地位から外れ、昔の赫々(かくかく)とした隆盛はもはや再現されることがなかった。寺内の僧たちは生計を維持するため、大部分の寺の資産を貸出し、妙応寺は次第に北京城内の定期廟会(定期的に開かれる寺社の縁日)の会場のひとつになり、北京で名の知られた白塔寺廟会になった。毎年祝日になると、寺内の両側は商品を満載した店舗や屋台で溢れ、寺の敷地内に芝居のテントが掛けられ、各種の民間の衣類や道具、季節の食べ物、北京の特色ある軽食、娯楽や技芸など、何でも揃い、多くの人々が集まり、その賑やかさは並外れていた。


廟会で日用雑貨を売る屋台のテント
写真は日用雑貨の屋台の一角で、腰かけ、拔火罐儿bá huǒ guànr(こんろに火を起こす時に使う先が細くなった短い煙突)、やかんなどが積み重ねて置かれている。向こうに多くの参拝の女性や子供がいる。大木の下の屋台には布やアンペラ(葦で編んだ蓆(むしろ))のテントが吊るされ、日差しや雨を遮っている。こうした廟会の光景は、昔は至る所で見られた。

 昔の北京の廟会は、会期から区分すると、毎年決まった時期に開かれる廟会と毎月定期的に開かれる廟会の二種類があった。白塔寺廟会は毎月定期的に開かれる廟会であった。最初、廟会の時期は陰暦の毎月5と6の付く日に開かれていたが、1922年にこれが陽歴の毎月5と6の付く日に開かれるよう改められた。1949年以後、市民や廟会の屋台の主人の必要から、白塔寺の廟会はもう二日増やされ、陽歴で毎月3、4、5、6の付く日に連続して開かれ、毎月全部で12日廟会が開かれるようになった。


白塔寺山門と開光法会
写真は1938年5月13日から15日までの白塔寺開光法会(開眼供養)の期間、山門の前に建てられた牌楼である。当日、開光法会に参加しに来る各界の信徒や観光客はたいへん多く、門前には自動車が走っているだけでなく、自転車、リヤカー、人力車が通り、更に水売りの車が1輌、牌楼の前に停まっている。

 白塔寺は廟会の時期になると、東は馬市橋から、西は宮門口西岔(「岔」は分岐のこと)まで、道路の両側は地方風味の軽食、食品雑貨、おもちゃなどの屋台や天秤棒を担いだ行商人たちで、宮門口から西向きの道の北側には十数軒の古着屋があり、その店先にも屋台を設けて商品を売った。寺の後門の元宝胡同は鳥市で、ハト、鶉(うずら)、鷹(たか)、鳥、ウサギ、犬などの禽獣を売っている他、鳥籠、ハト笛、鳥の餌入れ、コオロギを飼う小壺、鳥の餌、魚釣りの道具なども売っていた。秋になると、鳥市ではこの他、「油葫芦」(コオロギ)、キリギリスなどの秋の虫を売り、春の鳥市では金魚を売った。寺の前門には糖葫芦(サンザシ飴)売り、衛青(青ダイコン)、心里美ダイコン(水ダイコン)売り、大串の山里紅(サンザシ)売りや花籠売りがいた。


鳥の餌を売る屋台
廟会の期間、白塔寺の後門の元宝胡同では、ハト、鷹、小鳥が売られた他、更に鳥籠、鳥の餌、コオロギを飼う小壺、魚釣りの道具などが売られた。写真は地面の上に雑穀の鳥の餌が広げられ、ひとりの男の子がこれを買おうとしている。盛んな人の流れにより、廟会のにぎやかな雰囲気を増している。

 寺内の前院(意珠心境殿院)東側には日用雑貨を売る屋台があり、西側には年糕(もち米のしん粉を蒸したもちやもち菓子)、切糕(もち米やアワ粉を蒸して作ったもちを切って売った)、豆面糕(豆粉を蒸して作ったもち)など食べ物の屋台やテントがあり、テントの下には簡単なテーブルや腰かけが置かれ、食事する者に供用した。寺内の後院(七佛宝殿院)はずっと民間の芝居の上演場所で、その前後には相声(漫才)、評書(講談)、大鼓書(カスタネットを叩きながら語り物を歌う)、変戯法(手品)のテントがあった。


塔院内のテント
白塔寺廟会では、塔院内で主に講談や芝居の一節が歌われ、のぞきめがね、映画の小篇が演じられた。この当時の有名芸人には、「小蜜蜂」、「大妖怪」、楊樹林、常蔭泉などがいた。

1930年代、大殿の門前の石造りの台の上では、付士亭の楽亭大鼓、侯五徳の梨花大鼓が演じられ、台の下には豆汁(緑豆で春雨を作った残り汁で作った飲み物)、豆腐脳(豆乳を煮たて、にがりを入れ半ば固めたもの)、炸丸子(肉団子を油で揚げたもの)、炸豆腐(揚げ豆腐)を売る屋台があった。院内の東側の屋台やテントはひとつに繋がっていて、衣服や靴、帽子を売る者、靴下や髪をすくすき櫛を売る者、更に化粧品、かつら、刺繍の見本を並べた店、絹で作った造花などを売る者などがいて、こうした屋台がずらりと並んでいた。おもちゃを売る屋台には、関羽、張飛、猪八戒、孫悟空など芝居のくま取りのお面が一杯に並べられ、更に大頭和尚、起き上がりこぼし、木刀、張り子の虎、竹とんぼ、木のコマ、でんでん太鼓などが売られていた。白塔寺二門の西の塀に囲まれた道では、四季折々の生花が売られていた。二門の階(きざはし)の上では、銅の磨き粉、焊磁薬、胡塩などを売る屋台が出ていた。北京の主要な廟会の中で、白塔寺の草花や木碗がもっとも有名で、寺に来た者はそれらを喜んで買って帰った。


廟会の屋台の一瞥
写真は後院で古本や靴下、手袋などの日用雑貨を売る屋台である。屋台の間には狭い通路があった。

 寺内の西の回廊の北側には茶館がふたつあり、廟会の間、参拝者にお湯を出して茶を飲んで休憩してもらい、併せて出店者に飲み水を出したり物品を保管してあげたりした。廟会をしていない時も通常通り営業し、普段の主な客は不動産の仲介業者であった。

 塔院の西側の空き地では、1930年代から1950年代まで、相前後して多くの民間の芸人が講談を語ったり芝居の一節を歌ったりした。昔、「小蜜蜂」(ミツバチ。張秀峰のこと)はここで西路平戯(西路評劇。華北や東北地方で行われた地方劇で、最初華北西部で盛んであった)を歌い、後に滑稽大鼓を歌うようになり、『劉公案』の演目が特に名高かった。ここではまた阿闊群の評書『小五義』、楊樹林の楽亭大鼓『楊家将』、『呼家将』。「全家福」一家の演じる文明戯、「大妖怪」夫婦の滑稽二簧(「二簧」は京劇で歌う節の一種で、ゆっくりとしたテンポで、叙情的な内容や悲しい心情を表現するもの)、馬宝貴の相撲などが行われた。1949年以降は、常蔭泉が評書『三侠剣』をやり、藍剣舒が芸をしながら薬を売り整骨をした。何広珍は人体の各種の寄生虫を展示するやり方で、虫下しの薬を売った。また何人かの名も知らぬ芸人がここでのぞきめがねや日光を利用し演じ手が機械を揺り動かして映画の小片を上映し、子供たちが争って鑑賞した。塔院の北側の空き地は、ほとんど皆、星座や人相見の占い師で、字を見たり、人相を見たり、圓光(壁に貼った白い紙にできた影の形で、吉凶禍福を占う)を行う占いの屋台であった。


拉洋片(のぞきめがね)
北京の主な廟会や天橋地区には「拉洋片」(のぞきめがね。「拉大画」とも言う)の芸人がいて、彼らはひとりで銅鑼を鳴らしてきれいに描かれたスライドをゆっくりと動かし、同時に画面に基づき内容を語ったり歌ったりした。観客は木箱ののぞき穴から拡大鏡を通じて画面を見た。写真は廟会に訪れた客がのぞきめがねを見る情景である。

 白塔寺廟会は北京のその他の廟会と同様、1950年代中期以降、次第に衰退した。1960年代前後には、白塔寺廟会は既にもう存在しなかった。昔日の北京廟会の盛況は、既に昔の北京の歴史上の事柄となった。


雍和宮「打鬼」(鬼やらい)とチベット仏教の神舞

2024年06月26日 | 中国文化
法会の観衆

 毎年、首都北京の有名なラマ教寺院である雍和宮は伝統的な「祈願法会」が行われ、その間、1月の最終日と2月1日には、「打鬼」(鬼やらい)が行われる。昔、毎年鬼やらいの時期になると、雍和宮附近の通りは封鎖され、雍和宮内ではたくさんの人が動き回り、大通りや横丁には、物売りが雲集した。清の人、敦礼臣は『燕京歳時記』の中で次のように描写した。「毎年鬼やらいになると、……都の人々で見に行く者が甚だ多く、町の多くの家が留守になるような有様だった。」その賑やかさの一端が見えるかのようであった。

 「鬼やらい」は昔の北京の人の俗称で、民間ではまた「跳神」や「跳鬼」という呼び方もあった。北京に住むモンゴル族の人々は、鬼やらいを「跳布札」tiào bù zhá と呼んだ。「布札」はモンゴル語で「舞蹈」(ダンス)の音訳で、前に漢字の「跳」を加えると、よりイメージを形容しているだけでなく、中国とモンゴルの間の文化的交流を体現している。チベット語でこうした宗教内容を表す寺院の祭神舞を「羌姆」と言い、これは一般の民間舞踊のことを「卓」と言うのとは異なっている。このため、こうした専ら宗教を内包することを目的とする蔵伝仏教(チベット仏教)の祭神儀式の舞踊を「金剛駆魔神舞」と訳すのが、より適切である。

 こうした神舞の起源については、多くの伝説がある。その一、吐蕃(古代チベットの名称)に石の家があり、中に化け物が住み、昼夜人間を襲い、食物を掠奪していた。ラマ僧が諸神に変装し、この家に入って妖魔を痛打し、これを追い払ったので、これより吐蕃は太平になった。このため、ラマたちは必ず「鬼やらい」をしなければならなくなった。その二、古代チベットである王様が苯教(ボン教。チベットに仏教が伝来する以前の土着の宗教)を助け仏教を滅ぼし、仏教はチベットで伝播することができなかった。ひとりの勇士が「跳神」(鬼やらい)で王が観覧するよう誘い、この機に乗じてチベット王に接近して王を殺し、これより仏教がチベットで再び盛んになった。この勇士を記念し、毎年寺院では「跳神」の儀式を行うようになった。その三、チベット第一の寺、桑耶寺(サムイェー寺)が建設の最中、何度も当地の鬼神の破壊に遭った。このため、インド僧の蓮花生大師が神通力や法力を発揮し、「鎮鬼圧神之歌」を吟唱し、且つ「虚空の中で金剛舞」を舞った。これより鬼神は再び敢えて騒動を起こしたり破壊を行うことがなくなり、また寺の建設のため力を出した。この「金剛舞」とはすなわち神舞である。この他、まだたくさんの「牽強附会」(無理やりこじつけた)説があった。

 文字で神舞の起源を考察できるものとして、チベット文の古籍『蓮花生大師本生伝』があった。蓮花生は蔵伝仏教(チベット仏教)寧瑪派の始祖で、8世紀北インドの烏仗那(ウディアナ)国(今のパキスタン域内)の人であった。この地は仏教の密宗舞踊で有名であった。唐玄宗の天宝6年(747年)、蓮花生は吐蕃賛普(すなわちチベット王)赤松徳賛の招きに応じ、チベットに入り仏教を伝えた。賛普はこのためラサの東南方に桑耶寺(サムイェー寺)を建て、建設中に、蓮花生は金剛舞を作った。舞踊は本国で流行していた密教儀式化した演技を基に、インドの法器や道具を用いた。今日、わたしたちは神舞の中で相変わらずたくさんのインドの血統を持った役柄を見ることができる。たとえば、「瑪哈嘎拉」(大黒天)、「倉巴」(大梵天)、「雅瑪達嘎」(大威徳金剛)、班達拉娒(吉祥天母)などである。

 神舞のもうひとつの起源は、蔵伝仏教(チベット仏教)前期の宗教芸術からであった。蓮花生は、チベットでの伝教が完全にインド密宗をそのまま取り入れたなら、必ずチベットの原始宗教の苯教(ボン教)の反対や抵抗に遭うことがよく分かっていた。このため、蓮花生などインドの高僧大徳たちは、法術を振るって妖怪を鎮め悪魔を降参させると同時に、また大量のチベットの土着の神霊や祭祀儀礼を受け入れた。同様に、神舞の創作過程で多くのチベットの土着の踊りや祭祀舞を吸収した。

 仏教がチベットに伝わって後、当地の原始宗教である苯教(ボン教)と長期に亘り、互いに争い互いに受け入れる過程を経て、独特なチベット語系仏教を形成した。発展に従い、蔵伝仏教(チベット仏教)は次第に寧瑪(紅教)、噶挙(白教)、薩迦(花教)、格魯(黄教)などいくつかの大教派に分かれ、神舞もそれに応じて各種の流派を形成した。各流派の神舞の主題や内包するものは基本的には同じで、皆蔵伝仏教(チベット仏教)密宗の駆邪儀式のためのもので、ただ踊りのスタイル、音楽、役柄、表現形式に違いがある。

 寧瑪派(紅教)の神舞は、蓮花生の8つの化身を主役とし、多くの護法神を配役とし、舞踊により本派の教義を述べている。

  噶挙派(白教)の神舞は独特で、旧密乗の内容があるだけでなく新密乗の内容もあった。しかも多くの他の教派の神舞の人物や踊り方も吸収した。

  薩迦派(花教)の神舞は当初は別に公開されていなかった。薩迦派の教権は昆氏の家族から継承されたので、この派の神舞もこのため家廟の祭礼の色彩を帯ていた。密宗の教法を発展させるため、ようやく次第に多くの人々の面前で演技するようになった。

  格魯派(黄教)の神舞の形成が最も遅く、内容と踊り方も最も豊富であった。この派の神舞が伝播した地域は頗る広く、影響も最も大きかった。格魯派の神舞は内容が厳かで、ダンスのポーズが豊富で、動作は力強く、舞楽はリズミカルで、テンポは明快であった。

 北京の各ラマ寺院で神舞を踊るのは明代に始まり、清代に盛んになった。明代には劉若愚が『酌中志』の中で、万暦帝の時代の宮内で神舞を踊る情景を記載した。清代、北京の32のラマ廟では、雍和宮の神舞が最も名声が高かった。

 雍和宮の神舞は全部で13幕の内容から成っている。

 第1幕、白鬼の踊り。4名のラマ僧が白色の繻子のズボンと短い上着、足に刺繍を施した白い靴を履き、頭に白い髑髏のマスクを被り、白い鬼に扮する。手に長さ50センチの木の棍棒か革の鞭を握り、白粉(おしろい。俗に白土子と呼ぶ)を詰めた袋を斜めに背負い、手足を振って踊りながら、最初に会場に出る。もし観衆が多くて、演技をする場所を侵犯しているなら、4人の白鬼は袋から白粉を取り出し、土地を占領している観衆に向けそれを撒き、これを「灑煞気」(不吉な気をばら撒く)と言う。昔の北京の人々には迷信的な言い方があり、正月に誰かに白粉が付くと、その一年は運が悪いと言われた。この不吉な気を避けるため、観衆は急いで後退しなければならず、演技場所は自然と空けられた。この行動を「浄壇」(壇を清める)と呼ぶ。


白鬼の踊り
白い繻子(絹織物)の上着とズボンを身に着け、足には白い刺繍で模様を付けた靴を履き、頭には白い髑髏のマスクを被ったラマが、手に短い棍棒や皮の鞭を持ち、おしろいの入った袋を斜(はす)に背負い、飛び跳ねながら、おしろいを撒き、これを邪気を撒くと言ったり、壇を清めると言ったりした。

 「浄壇」後、楽隊が登場する。ラマ僧たちはラッパを吹き、法鼓を叩き、九音の銅鑼を揺り動かし、チャルメラを吹き、シンバルを叩きながら、会場の四方を取り囲んで座る。抑揚のある楽曲を奏で始めると、4名の白鬼はリズミカルに踊り始める。


楽器を奏でるラマ

 第2幕、黒鬼の踊り。4名が黒い緞子のズボンと短い上着、足に黒い緞子の刺繍をした靴を履き、頭に黒い髑髏のマスクを被り、手に木の棍棒を持ったラマ僧が黒鬼に扮し、会場内を乱舞し、白鬼はそれに従い舞台を降りる。黒鬼がしばらく踊ると、白鬼がまた入場し、8名の黒白の鬼が一緒に踊る。

 第3幕、螺神(巻貝の神)の踊り。4名のラマ僧が五色の刺繍を施した緞子の長衣を着て、足に青い綿の薄底の布靴を履き、濃緑と赤色の巻貝の殻のマスクを被る。マスクの隈取りは、ぶざまに笑いさざめく表情を呈し、走って登場してくる。彼らは水中の巻貝、エビ、蟹、魚などの水生動物を代表し、手で木の棍棒を持ち上げ、ひらひらと踊り始める。この時、黒白の鬼は退場する。数分後に、黒白の鬼が再び登場し、螺神と共に踊る。


螺神の踊り
五色の刺繍模様の繻子の長衣を身に着け、足に青いビロードの薄底の靴を履き、頭に濃い緑や赤色の巻貝のマスクを被り、手に棍棒を持った螺神が舞台の黒と白の鬼と一緒に踊る。

 第4幕、蝶仙(蝶の仙人)の踊り。4名もしくは8名のラマ僧が蝶仙に扮する。彼らは上に色模様の緞子を見に着け、身体にぴったりの短い上着と赤い前掛けを身に着け、下に色模様のズボンと色模様の靴を履き、手には色模様の手袋を着ける。マスクの形は丸い目に大きな口、笑いさざめき、ぶざまな表情をしている。両側の耳はそれぞれ一枚の色模様の絹布が伸び、蝶の羽を表している。彼らは両手を上下にぱたぱたさせ、蝶々が飛ぶように「飛んで」舞台に入って来る。黒白の鬼と螺神は舞台を降りる。蝶仙たちは時に丸く取り囲み、時に一列になり、隊形を変え、感情豊かに楽しげに踊る。踊りが最高潮に達すると、幕下の黒鬼、白鬼、 螺神が共同で舞台に上がり、 蝶仙と群舞を舞う。

 以上の演技は、もののけ、水中の魚類、陸地の昆虫を表し、神仏がやがて世間のたたりを排除し、人類が平安な日々を送ることができるだろうと聞き知り、狂わんばかりに喜び、歌い踊って喜ぶ心情を表している。

 第5幕、金剛の踊り。四大金剛は身に五色の錦の緞子の上着を着、肩に五色の刺繍の花の肩掛けを着け、足に模様の付いた緞子の靴を履いている。付けているマスクは皆異なり、それぞれ象の頭、ライオンの頭、犼(こう。野獣の一種。一般的には狗(いぬ)あるいは獅(しし)のような姿の霊獣として描かれる)の頭、夜叉の頭であった。彼らは天王殿から出て来る。その意味は、お釈迦様が四大金剛を派遣し、もののけを駆逐し、魔王に戦いを挑むということである。

 第6幕、星神の踊り。演技者が4人の時は、四星神と言う。10人の時は、十天干と言う。12人の時は、十二地支と言う。最も多いのは28人の時で、二十八宿と言う。一般に四星神を採用している時が最も多く、その中で2人が色模様の緞子を着て、足に厚底の青い緞子の朝靴(朝廷に参内する時に履く靴)を履いているのは文曲星(北斗七星の第4星。文運(科挙の合格祈願など)の神)である。別の2人が五色の糸で刺繍した緞子の甲冑を着て、足に厚底の色模様の緞子の戦闘靴を履いたのは武曲星(文曲星と相対する。富や財産、武運の神。北斗七星の末尾。)マスクは全て髑髏に金の冠。眉を吊り上げ目を怒らし、目じりが垂れて三角形の目をしている。彼らはお釈迦様に派遣され、四大金剛を助けて戦う。


星神(文曲星)
繻子の長衣を身に着け、足に青い繻子の靴を履き、頭に五佛冠(五智如来を象徴する宝冠で、五体の小さな化佛が載っている)に似た古い天竺(インド)式のヘルメットを被り、舞う姿は健康的で力強く、威風堂々として、その意味はお釈迦様の命を奉じて金剛を助けて戦うということである。写真は跳躍して身体を回転させている 星神である。


星神に扮するラマ

 第7幕、天王の踊り。演技者4人は、頭に五佛の冠様の古い天竺式の兜の載ったマスクをし、身体には金の甲冑を着け、足に戦闘靴を履き、顔は雍和門殿内の四天王に似ている。彼らは威風凛凛(りんりん)として舞台に現れ、時にひとりで舞い、時に群舞を舞う。その意味は、お釈迦様の命を奉じて、四金剛、四星神が協力して戦いを行った。

 第8幕、護法神の踊り。演者は8人、12人、16人となることが可能で、護法神とは大威徳金剛である。彼らは身体に五色の緞子の長衣を着て、下部に「海水江崖」紋の図案が刺繍され、腰部に八宝図案が刺繍され、足に薄底の靴を履く。被るマスクは各々異なり、獅子、象、虎、豹などで、牛の頭が率いて隊列を組み、踊りながら登場し、金剛、星神、天王とそれぞれ一緒に一度踊って後、護法神がひとり踊る。このように重複することが何度か行われてから、突然天王殿の中から一頭の鹿のマスクを被った人が飛び出してくる。この鹿は魔王の化身である。鹿が出現するや、直ちに多くの神がぐるりと取り囲み、この時場内外の白鬼、黒鬼、螺神、蝶仙などが一緒に登場して一緒に踊り、これは仏神、人鬼、昆虫、魚類が一致団結し、共同で魔王を討伐することを表現している。しばらく踊ると、鹿がまた天王殿に走って戻ってくる。このことは魔王討伐の戦闘がまだ勝利を得られていないことを表している。

 第9幕、白救度の踊り。少なくとも13人が参与し演技する。白救度は観音菩薩の化身で、白度母とも言う。彼らは身体に白の緞子に五色の刺繍の模様のある長衣を着て、頭に「大竹枝」の形の、白の刺繍の花帽を被り、足に模様のついた繻子の靴を履いている。マスクを被らないので、必ず眉目秀麗なラマ僧を選んで演技する。先ずひとりの白度母が登場してひとりで踊り、しばらくすると鹿がまた出現する。ふと見ると白度母が何度か揺れ動き、その他の白度母がどっとなだれ込む。これは一人目の白度母に多くの化身があることを表し、鹿をぐるりと取り囲んだ。これ以前の場面の中の各種の配役もやって来て助太刀し、共同で激しく踊り、動作の中には殺陣の動作が混ぜられている。しばらくすると、鹿が再び天王殿に逃げ、魔王を包囲殲滅する激戦は依然終わらなかった。


白救度の踊り
白救度は観世音菩薩の化身で、名は白度母である。白の繻子に五彩の刺繍模様の長衣を身に着け、足に柄の付いた繻子の靴を履き、頭に大きな竹の枝の形の飾りに、白い刺繍を施した「花帽」を被った。白度母はお面を被らないので、容貌が端正で、眉目秀麗なラマがこの役に扮した。写真は白救度が身体を揺すぶって何人かの白救度に姿を変える場面である。


写真は白救度のソロの踊りで、右側に立つ鹿は魔王の化身である

 第10幕、緑救度の踊り。緑救度は文殊菩薩の化身で、緑度母とも言う。演者の人数と服装の洋式は白度母と同じで、ただ服装の色が緑色である。内容も前の場面の白救度と同じである。鹿が逃げてしまって後、楽隊が再度チャルメラ、法鼓、ラッパの合奏をする。

 第11幕、弥勒の踊り。俗に「捉鬼」(鬼を捕まえる)と称した。演者は7人、その中の1人は「大肚弥勒佛」(布袋)に扮し、6人は「小弥勒佛」に扮する。大弥勒の身体には黄色の緞子の模様の付いた僧衣を着て、足には青い緞子の靴を履き、頭には大笑いした弥勒のマスクを被る。6人の小弥勒の服装、マスクは大弥勒と同じだが、ただサイズが少し小さい。弥勒たちが舞台に上がってひとしきり踊ると、鹿が再び出現し、金剛、天王、度母、護法、螺神、蝶仙などが一緒に登場し、鹿をぐるりと取り囲む。最後に弥勒が縄で鹿を縛って捉える。これは魔王が捉えられたことを表し、鬼魂は既に生け捕りにされた。

 第12幕、鬼を斬る。俗に「打鬼」(鬼やらい)と名付けた。続けて登場するのは、舞台の四方に囲んで座ったラマ僧と多くの演者が、主宰のラマ僧の引率の下でお経を唱え、二人のラマ僧が三角形の木の箱を持ち上げて天王殿から歩み出て、舞台の中央に進む。木の箱の中には一面の顔の俑(土人形)が置かれ、その頭、喉、胸、両腕、両膝、両足の9ヶ所を釘で箱の中に固定した。この顔の俑(土人形)は鹿(魔王)の魂が既に捕まえられ、釘付けにされたことを表した。この時、鼓の音楽が一斉に鳴らされ、諸神が一斉に踊り、護法が法器や月刀を振り上げて鬼俑の首を切り落とした。魔王は処刑された。


三角匣と月刀
写真は「跳布札」第12幕「斬鬼」の三角木匣(三角形の木の箱)と月刀(三日月形の刀)である。三角匣の中に魔王の霊魂(面俑(陶器の仏像))が置かれている。

 第13幕、送祟(厄払いをする)。魔王が処刑され、仏心は快哉を叫んだ。ふたりのラマ僧が法輪殿内からコウリャンの茎を縛って作った三角形の「垛」(上に突き出た部分)台を持ち上げて出てくる。台の上に紫がかった濃紅色の色紙を切って作った短い穂を斜めに巻き付け、先端に紙を貼って作った赤い竿、黒い鳥の羽、女真族の金の矢柄の弓矢を突き刺し、これを矢を捕えた「巴苓」(モンゴル語のbaling。仏前のお供えのこと)と称した。これは魔王が斬殺されて後、霊魂が弥勒佛に捉えられてお釈迦様のところに送られ、お釈迦様は金の矢柄の弓矢で魔王の霊魂を「垛」内に釘付けにした。ふたりのラマ僧が僧たちがお経を唱え鼓楽の演奏をする中、「垛」を昭泰門から担ぎ出し、牌楼院内で火を点け燃やす。これにより魔王が徹底的に消滅させられ、これより天下が太平となることを表す。


厄払いをする
魔王が滅ぼされ、仏の慈悲の心が勝利した。ふたりのラマが法輪殿内から黒い鳥の羽、金の弓矢で飾った三角の棚を担ぎ出し、魔王が斬殺された後、魂が弥勒佛に捉えられ、お釈迦様が金の弓矢で魔王の魂を三角の棚の中に釘付けにした。ふたりのラマが、多くのラマがお経を唱え、太鼓の音の中で、三角の棚を昭泰門から担ぎ出し、焼却地まで運んで焼き払い、ここから天下泰平を表した。写真はふたりのラマが魔物を積み込んだ三角の棚を担ぎながら厄払いし、焼き払う準備をしている。


写真はラマが三角の棚を昭泰門から担ぎ出し、焼き払う準備をしているところである。


魔物を焼き払うのに使うコウリャンの茎の薪を積み上げたもの

 翌日、太陽が昇る前に、ラマ僧全員が寺を廻る活動をする、すなわちラマ僧たちが隊列で儀仗し、ふたりのラマ僧が銅鑼を鳴らし道を開け、その他のラマ僧たちは手に幡幢、旌旗(いずれも色とりどりの旗のこと)や大黄(ダイオウ)で染めた緞蓋(緞子の傘)を執り、肩に乾隆皇帝から賜った金色の屋根で黄色の緞子の駕籠を担ぎ、駕籠内には未来の弥勒佛が座る。駕籠のすぐ後ろには楽隊と「跳布札」で登場した順番に並んだ演者全員が続く。隊伍の最後はラマ僧のリーダーが率いるラマ儀仗隊である。寺を廻る隊伍は南院の東の牌楼門を出て、北に向け寺を一周し、最後に西の牌楼門を入る。寺を廻る意味は、清郷(あたりの村々を清査、粛正する)し民を安んじ、魔王の残党が民間に潜んでいないようにするためである。これにて、「跳布札」の儀式は全て終了する。


寺の周りを廻る儀式
「跳布札」の厄払いが終わると、翌日(農暦の2月1日)の早朝、太陽が上る前に、ラマ全員が隊列を組んで寺の周りを廻る。これが鬼やらいの活動全体の最後の儀式である。ふたりのラマが銅鑼を鳴らしながら先導し、ふたりのラマが銅製の長いホルンを吹き、その後ろから各種の旗、傘、幟(のぼり)を掲げたラマの儀仗隊、手に四対の香炉と一基の黄色い傘を提げ、乾隆皇帝から賜った金の頂上の黄色い緞子の駕籠を担いだラマの隊列が続き、最後が主宰のラマが率いるラマ僧たちで、隊列は南院の東牌楼門を出て、北に向け寺を一周廻り、西牌楼門を入る。ここに至り、鬼やらいの活動は全部終了する。写真は寺の周囲を廻るラマの儀仗隊である。

雍和宮廟会

2024年06月22日 | 中国文化
雍和宮殿扁額
雍和宮正殿の前面の庇の下の扁額は、乾隆皇帝の親筆である。扁額の上の文字は、右から左に満州語、漢語、チベット語、モンゴル語の四種の文字で書かれている。この扁額は乾隆9年(1744年)に作られた。

 雍和宮は北京安定門内以東の雍和宮大街に位置し、孔子廟、国子監と街路をはさんで相対していた。土地は6.6万㎡を占め、殿宇は雄壮壮麗で、北京に32ヶ所あるラマ教寺院の中で最も壮大なもので、今日に到るまで既に300年の歴史を有している。

 雍和宮は元々清代皇帝康熙帝の第4子胤禛(いんしん)が建てた府邸(屋敷)で、康熙33年(1694年)に建設され、最初は「禛貝勒府」(「貝勒」は清朝の爵位名で、親王・郡王の下に位した)と名付けられた。康熙48年(1709年)胤禛は爵位が上がり和碩雍親王に封じられ、その府邸も「雍親王府」に改称された。清代の規制に基づき、皇帝の即位前の住所や出生地は、何れも「龍潜禁地」で、寺院に改める以外は、その他の用途に用いることができなかった。それで雍正が皇位を継いで後、元の王府の過半は章嘉呼図克図(「呼図克図」はモンゴル語で「聖者」のこと)に賜り、黄教(ラマ教の一派)の上院にし、残りの半分を留めて行宮にした。後に行宮は火災で破壊され、雍正3年(1725年)にはまた上院を行宮に改め、「雍和」の名を賜り、遂に「雍和宮」と称して今日に至った。1735年雍正が死ぬとここに柩が停め置かれ、遂に主要な殿宇の緑色の瑠璃瓦が黄色の瓦に改められた。乾隆9年(1744年)、雍和宮は正式に寺院に改築され、北京最大の藏伝仏教(チベット伝来仏教。ラマ教のこと)皇家寺院となった。


雍和宮殿
康熙33年(1694年)建立。正殿の幅は七間(柱と柱の間が7つ)、前に廊下が出ていて、後ろに建物があり、入母屋造りの屋根、棟木や梁に模様を彫り彩色され、緑の横木、屋根の頂は金色に輝き、荘厳で雄壮である。この建物は元々雍王府銀安殿で、雍正が親王の時に客と会見する場所であった。雍正3年(1725年)雍王府は行宮になり、この建物は雍和宮に改名された。乾隆9年(1744年)寺院に改められ、正殿は引き続き雍和宮として用いられ、内部に銅製で金でメッキされた「三世佛」が供えられた。これはすなわち過去の世界を主宰する燃灯佛、現在の世界を主宰する釈迦牟尼佛、未来の世界を主宰する弥勒佛である。

 雍和宮は毎年農暦12月8日に「臘八粥」(旧暦12月を臘月と呼び,その8日を釈迦成道の日(臘八会)とし,これにちなんで作る粥で、「八宝粥」ともいう。米・雑穀・豆類のほかナツメ・栗・ハスの実など各種の果実をまぜ,砂糖で甘味をつけて煮る)を煮るが、これは曾て北京ではたいへん有名だった。臘八節は漢族の民間の伝統的祭日で、中国全土で流行した。「臘」は中国古代の祭礼のひとつで、一般に冬が終わろうとする時に、昔の人々は狩りで得た禽獣で祖先や神様を祭り、それにより災害を避け吉祥を求めようとした。『史記正義』によれば、「12月は臘月である。……禽獣を狩り、以て歳の終わりに先祖を祀った」。南北朝時代、始めは農暦12月8日を「臘八節」とした。寺院は 臘八節を過ごすのに仏教の伝説の話と結びつけ、「臘八粥」を食べる習俗を形成した。伝説によれば、12月8日は仏教の始祖釈迦牟尼が修行し悟りを得た日であった。釈迦牟尼は修行時飢えて地面に倒れ、ひとりの牧童の娘から一碗のもち米を煮て作った粥をもらい、釈迦牟尼はそれを食べ、川の中で沐浴し、静かに菩提樹の下に座って沈思し、12月8日に悟りを得て成仏した。これを記念し、仏教徒は毎年臘八、すなわち12月8日に必ず「臘八粥」を煮て仏に供えた。『夢粱録』によれば、「臘月八日、寺院ではこの日を臘八と言い、大刹などの寺院では、皆五味の粥を設け、これを名付けて臘八粥と言った」。雍和宮の臘八粥が有名である所以は、ひとつには粥を煮る鍋が特別に大きかったからで、『燕京歳時記』によれば、「雍和宮のラマ(ラマ僧)は、8日の夜のうちに、粥を煮て仏に供えた……その粥鍋の大きいことと言ったら、数石(1石は百升)の米が入るほどであった。」ふたつには皇室の恩寵で、清朝廷は特に大臣を派遣して監視し、以て心からの敬意を明らかにした。『光緒順天府志』によれば、「雍和宮が粥を煮るのは、制度として決まっていて、大臣を派遣して監視し、蓋し上膳に供した」。これから分かるのは、満清皇帝までも雍和宮の臘八粥を食べたということで、故にその名が京城(都北京)に轟いたのである。

 雍和宮の年に一度の「打鬼」は更に有名で賑やかであった。観衆は雲の如く方々から雲集したので、年に一度の雍和宮廟会が形作られた。


法会の観衆
雍和宮で一年に一度の祈願法会は、多くの人を惹きつけて見に来させ、この日の北京は「どの家も横丁も留守になり」、皆争って見に来る有様であった。写真は、雍和宮の境内で、人々が海の潮のように押し寄せ、人波でごった返す盛況の様子である。

 毎年農暦正月の末、北京の大人も子供も雍和宮に集まり、廟内を見物し、ラマが演じる打鬼 (鬼やらい)を我先に見て、子供たちは大串の糖葫芦やお面を買うのが、新年の年越しと同じくらい愉快であった。北京のラマ廟の 打鬼の行事について、『燕京歳時記』によれば、「打鬼(鬼やらい)は元々西域の仏法で、決して怪異なものではなく、昔の九門観儺(都の各城門で追儺の行事を見る)の遺風で、また不吉を排除する所以である。毎年打鬼の時節になると、各ラマ僧は諸天神将に扮し妖怪変化を駆逐した。都人の観衆は甚だ多く、万家空巷(全ての家々が留守になる)の風であった。朝廷は仏法を重んじ、特に散秩大臣(皇宮の警備担当)を一人派遣してこれを見、また聖人(ラマ寺の高僧)は朝服を着て東側の階にいるよう命じられた。打鬼の日時は、黄寺は(1月の)15日、黒寺は23日、雍和宮は30日であった。」


廟会でのお面の屋台
雍和宮廟会で売られたお面は他の廟会とは異なっていた。他の廟会のおもちゃ屋台で売られたお面の大多数が、玄奘三蔵、孫悟空、猪八戒、関羽、張飛など、伝統的な芝居の登場人物の顔のくま取りであったが、雍和宮廟会で売られたお面は、廟の中でラマが鬼やらいの時に被ったお面とよく似ていた。写真では、お面屋台の前にお面を被った子供がいて、屋台の主人は商売を招き寄せ、その傍らには多くのそれを見物する子供たちが映っている。

 チベット仏教の寺院の宗教的な鬼やらいの儀式は、中国古代の「追儺」の作用と同じで、ラマ教を信じるモンゴルやチベットの民族が行う鬼を追い払う行事であった。チベット族は「莫朗木多」と言い、意味は「伝召送鬼」(仏法を伝授し、僧たちを召集し、鬼を祭送する)、モンゴル語で「跳布札」tiào bù zhá、意味は「悪魔を追い払い、祟りを散じる」。その儀式の過程で、一般にお面を付けたり化粧をしたラマと扮装した魔物が争い、最終的に魔物を打ち負かし、駆逐、或いは焼き殺す。これを「送祟」と言う。

 チベット語の仏教経典によれば、仏教の始祖釈迦牟尼が「邪道」を降伏させ、吐蕃僧の拉隆巴勒多尔吉が悪王の朗達尔瑪を刺殺したことを記念し、チベット、青海、モンゴル等のラマ廟では、毎年「善願日」法会を行い、同時に黒衣で踊りを舞い、お祝いの意を示した。こうしたチベット伝来の黄教の仏事行事は乾隆59年(1794年)北京の黄寺に伝わり、その後、雍和宮やその他のラマ教寺院でも毎年「跳布札」の宗教儀式が行われるようになった。


東配殿内部の景観
写真は雍和宮東路東配殿内部の様子である。ちょうど真ん中に供えられているのがチベット伝来仏教の密教仏像である大威徳金剛像である。チベット仏教では、大威徳金剛は文殊菩薩の化身である。これには悪を屈服させる勢いがあるので、これを大威と言う。また善を護る功労をし、大徳を備える資質を持つことから、大威徳金剛の名を得たのである。金剛は元々仏門の中で鋭利で硬い兵器を指し、ここでは特に修行により不朽の身体を獲得したことを指す。仏像の前のお供えの台には「五供」が供えられた。これは香炉がひとつ、燭台がふたつ、花瓶がふたつで、全て銅製である。お供えの台の前には一基のお供え台が置かれ、海灯が置かれた。両側はラマ僧たちがお経を学ぶための経卓である。

 雍和宮は毎年農暦1月30日(小の月の場合は29日)に法輪殿の宗喀巴(ツァンカパ)像の前で、幅広くお供えをし、三面「コ」の字型にテーブルを並べ、灯を数百個燃やし、両側のお供えを置く長椅子には「八令」の小麦粉で作った「満札」が一杯に並べられた。


法輪殿内壇城
写真は法輪殿の内部の様子で、中央にあるのが壇城、両側がお供えのテーブルである。仏教では、壇城とは仏たちが集まって居られるところである。「壇」は梵語で曼荼羅のことである。

 午後1時、角笛を鳴らしてラマ達が神殿に上がり、行事を主宰するラマが仏の対面に設けられた「替僧宝座」に上がり、盛大な「善願日」法会を挙行した。お経を唱え奏楽の後、天王殿の前で「跳布札」が開始された。これは全部で13幕に分かれていた。


「跳布札」を観覧するラマたち

 鬼やらいの儀式が終わると、翌日の明け方(2月1日)、ラマ僧達の隊列全体が廟を出て、寺院の外壁の周りを一周する。これを「繞寺」と言った。

 清代、雍和宮の鬼やらい儀式は皇帝が主宰し、当時は歩兵統領衙門がそれを受けて実施し、「跳布札」用の衣服や飾りまでも宮廷で刺繍をした。鬼やらいの前夜、天王殿の前には観覧台が設置され、時には皇帝自ら臨席して祭礼を見た。王侯や大臣も補服(身分を表す刺繍の付いた上着)を身に着け、胸には朝珠を吊るし、頭には花翎の飾りを付けて駆けつけ、行事を見物し、その有様はたいへん厳かであった。民国初年、鬼やらいの行事は蒙蔵院が受け継いで行ったが、儀式は次第に簡略化されたが、基本は相変わらず清の制度に沿って行われた。雍和宮の年に一度の鬼やらいの行事は、宗教意識が後退するに従い、北京の民間の新春の風俗となり、廟会の行事の内容のひとつになった。

 雍和宮の鬼やらいの二日間、排楼院から山門前までが廟会で、地方の特色のある軽食が売られ、おもちゃやお面を売る屋台が出店し、その間に輪投げや射的など、賞品のあるゲームの屋台が入り混じった。


輪投げ
昔の北京の廟会では、たくさんの大衆的な娯楽が楽しめた。輪投げは競技的要素もある、露店の遊びである。店主は地面に区画を区切って、煙草、石鹸、歯磨き粉などの日用品や子供のおもちゃなどを並べ、輪投げを投げる客の足元から、近くから遠くへ、並べる景品の価格を次第に高いものにし、輪投げの難易度も上げていった。廟会見物の人は皆、店主に金を払って籐の輪を買って投げ、地面の上に置かれた景品の上に輪が被されば、景品をただで持って行くことができるが、輪が被らなければ、何ももらうことができない。この遊びは誰でも気安くできるし、競技的な要素も備えていたから、輪投げをやってみる客も、それを周りで見る客もたいへん多かった。写真はひとりの男が手に籐の輪を持ち、足で境界線を踏んでちょうど輪を投げるところで、横で見ている子供の首には、それぞれサンザシの首飾りを掛けている。

 1950年代初頭、雍和宮は内部の修繕が行われ、鬼やらいの行事は一旦停止された。1957年に再び行事が復活した際、宗教舞踊芸術の見学会として実施され、参加したのは全て招待された宗教や芸術の研究機関の関係者であった。行事に合わせて、おもちゃを売ったり食事を提供する商店は、一律雍和宮大街と国子監街東口一帯で営業した。1960年代の「文化大革命」、「破四旧」で、宗教は「叩き潰す」ものに属したが、雍和宮は幸い周恩来総理により保護され、破壊を免れた。1981年に雍和宮が宗教の場として対外開放され、近年はまた年に一度の伝統的な鬼やらいの宗教行事も復活したが、廟会は復活していない。