2017・8・23
バパが受けた事の本質は「新しい修行方法を受けた」という事ではないか、という事について。
今ではラティハンと呼ばれるようになった方法です。
夜、散歩していたら天から光の玉がバパに向かって落ちてきてそれからラティハンが始まりました。
さて、多くのスピリチュアルな物語ではそこで降臨した存在がその素性を明かし、「我を礼拝せよ」と言うのが今までの相場でした。
それはすなわち「礼拝の対象がメイン」な訳であります。
そうしてそこから物語が展開していくのであります。
かたやバパときたらひたすらラティハンを続けるだけでありました。
ラティハンをもたらした存在がその素性を明かす、ということはなかったのであります。
そうであればこれはまったく新しい事、革新的な事なのであります。
(宗教の始まりが「対象を信じること」で始まるとするならば、ラティハンの始まりは「ラティハンを受けること」で始まるのです。
宗教が「我を信ぜよ」というメッセージならば、ラティハンは「ラティハンを実習せよ」がそれに対応するメッセージとなります。
宗教が「我に従え」というならば、ラティハンは「ラティハンに従え」と言うのです。注1)
まあそれまでも瞑想によって、あるいは「静かにしている」という事だけで覚醒に至った事例はあるかと思われます
しかしながらその方法はその方のみに有効なだけであって、広く一般的に適用可能ではありませんでした。
それに対して、ラティハンは少なくとも人類であればどなたでも、人種、思想、宗教に関係なく参加が可能な形態なのであります。
さてバパはジャワ人でイスラム教徒でした。
そうであれば必然的にその礼拝対象は「唯一の神」になります。
そういうわけで、それ以降、バパが経験してこられた事はイスラムとジャワの伝統に沿った内容になるのは妥当なことでありました。
しかしそれはバパにとって妥当であるだけであって、すべての人に、ジャワ人でない、イスラムでない人にとっては妥当ではない事は明らかな事であります。
それゆえにバパは「各人は自分がラティハンで体験した事に沿っていきなさい」と言われたのでした。
さて、我々は今までの経緯から「礼拝の対象となるもの」が必要であるかのように条件付けられています。
したがってただ「ラティハンがそこにある」という状況だけでは理解できないのです。
納得できないのです。
そうではなくて「何らかの存在が働きかけてラティハンを地上に届けた」と、その様にしか想像できない、その様な理解の仕方しか慣れていないのです。
しかしながらいままでの経緯を見てみますれば、ただ単に我々がそのようにして存在している、という理解であっても実は問題はないのです。
それは宇宙が今のような姿で存在している、という事実と同じことです。
そうではありますが、当然それでは満足できない方が大部分でありましょう。
したがって、そこには何らかのお話が必要になる訳です。
つまり、世界創造と人類創造、そうしてラティハンが記述されたストーリーが必要になるのです。
さて、この話で何が言いたいのでしょうか?
それは従来の認識の仕方ではラティハンが到来した事の本当の革新性をつかみきれないのではないのか?
という事なのであります。
注1
「ラティハンに従え」と言う事の実態は「本来の自分に従え」あるいはバパのコトバで言うならば「ジワ(魂)に従え」となりましょう。
通常の我々が従っているものは、この世に生まれてから成長してきた、身につけてきたペルソナです。
そうして、ここで言う「本来の自分」というのは、この世に生まれてくる前の自分の状況と、この世の生命が終了した後の自分の状況を理解している「自分」であります。
ラティハンは言うならば、このペルソナと「本来の自分」とを引き合わせ、融合させるものです。
その見方からすれば、「ペルソナの言う事だけに従っていてはいけませんよ」と言う事になりましょう。
そういう事になります。
加えて言うならば、まずは本当の自分を知ることの方が先決であり、神とか天国とかいうタームを使うのは、使えるのはそうなってからだと。
そうでなければ、それは単に想像上の話にしかすぎなくなる。
そうして、そのような想像上の対象を求めて礼拝しても、それは本当のものにはならない、とまあ素直にいってしまえばバパはそう言っているのであります。
しかしまあ、あなた方が習慣上そうしないと落ち着かないのであれば、そのようにしてもかまわない。
逆にいえば、そのような習慣を持たない人に対しては、そのような事をする事を強制するものではない、と言っているのであります。
PS
ラティハンの道を歩く上での第一原理、それは各自が自分で受けた事に従え、というものであります。
そうであれば、いつかどこかでバパのトークやら考え方やら世界観から離れる時が来るのです。
なぜでしょうか?
バパはバパでしかなく、ジャワとイスラムの影響に下にあります。
その様に我々も自分の生まれた場所の文化と伝統とコトバの下にあるのです。
そうであれば、バパの受けた事はバパにとってはぴったりのものでしょうが、それはバパ以外の人にはぴったりのものにはなりません。
もしも我々が「理解のステージ」をめざす、というのであれば、他人の理解にいつまでも頼っていてはそのような場所に到達できるはずもありません。
まずは自分の足で立って、自分の経験を積み重ねる。
その心意気がなくてはだめでありましょう。
どこかで子供は親から離れる、やはりラティハンの道もそのようになっている様です。(2018.8.8)
PS
ラティハンと長年つきあっていると、その神秘さ、奇跡的である事をつい忘れてしまします。
そうして通常の「リラックス体操か何か」そのような「ごく普通の物事」の様にとらえ始めてしまいます。
一面ではそれは正常な事であり、そのようにしてラティハンと日常生活が一つになってゆく事は「期待されている事」あるいは「望ましい事」ではあります。
しかしながらその感覚に埋没して「ラティハンがどれほど奇跡的であるのか」と言う事を忘れてしまう、と言うのでは困ります。
実はラティハンのたびごとにラティハンが起きる。
これはどこにもその保証がないのにそのようになります。
これが既に奇跡的です。
我々は実はラティハンの為に何の努力もしてはいないのですから。
しかも基本的には、そのラティハンの場にオープンを希望する方が一緒にいるだけで、その方もラティハンを始める事が可能になります。
そのような「べらぼうな修練方法」というのは今まで存在した事はありません。
多くの神秘的な密教的な精神的な修練方法は、その目指す地点が高ければ高いほど、すぐれた師にめぐりあい、その師の下で何年も修行して、その師の許しを得て初めて他人に指導を始める事が出来る、そう言う具合になっています。
他方でラティハンはどうでしょうか?
目指す地点はそれまで述べられている、知られているものと同じ最高地点を目指します。
しかしながら、それでいて「通常の日常生活をすごすこと」が許されています。
というよりも「通常の日常生活を体験してゆく事」がラティハンの道の一つの条件でもあります。
それから、どこにも「すぐれた、従わなくてはならない師」という存在はありません。
バパがご存命の時には人によってはバパを「そのような師」としてとらえていた方が大勢おられました。
バパは「私を礼拝するな。自分のラティハンに従え。」と言ってもお弟子さんたちは聞く耳を持ちませんでした。
まあそれはそれ、仕方のない事であります。
それほどにバパの存在は大きなものでありました。
・・・話がそれました。
そのようなすぐれた、バパの様な存在にならなくても、それなりにラティハンが修練している人の中に定着すれば、そのような人は新しくラティハンを始める事を希望する方をオープンする事が可能なのです。
これは事実であって、それはオープンに立ち会った方が「すぐれた師」というレベルになくとも、ただ単に「ラティハンの経験をそれなりに積んだ」と言う事で「オープン」と言うような、考えようによっては「奇跡的な事」が出来てしまいます。
その様になっていますので、中には自分が「ものすごい力を持っているのだ」などど勘違いする御仁も現われる事になります。
いえいえ、そのような奇跡的な力はその人に属するものではなく、ラティハンに属するのです。
そこの所がポイントです。
ラティハンにそのようなとんでもない力がある事、それは奇跡的な事であって、そのような力が毎回のラティハンで表れて我々を導き、修練させるのであります。
そのことがすでに「とんでもない事」であって、さてそれに比較すればラティハンを修練している人が「光を見た」だの「声を聞いた」だの「ヴィジョンを見た」だのと言うような事は、まあ「とるに足らない神秘体験」と言う事になりそうです。(2018・10月)
PS
同様にして、オープンを待っておられる待機者の方々は、目の前の先輩方に自分の求めている理想像を投影しないようにしなくてはなりません。
目の前にいる先輩方はほとんど普通の人であって、従来、このような神秘的な体験をもたらす方々は「グル Guru:師」と呼ばれた存在であり、それなりのカリスマ力、神秘力を見せてはいたのですが、ラティハンではそのような事は少しもありません。
もしそのようなグルをお探しなのであれば、この場所においてそのような方を見つける事はもはやとても難しい、と言うのが状況でありますので、ここにおられる事は時間の無駄になります。
従いまして、そのような方(グル)をお探しの場合はよそをあたって頂くのがよろしいかと思われます。
PS:ラティハンの恩恵というものがあるのかどうか、まあしかし恩恵があった、としてもそれは「求めて得られるもの」ではないでしょう。しかしながら、「知らない間にそこにある」やもしれません。
かつて先輩は「分かっても、分からなくても、ラティハンを続けていきなさい」と言われました。
さて、恩恵を求めるのは間違ってはいますが、さりとて「何も恩恵がない」という認識もまた間違っていると、まあこれはそれなりの年数をラティハンと過ごしてきた者の感想であります。(2022/5)
PS
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