インドネシアでのロホとナフスの合流の経緯
ジャワ 中東 <--発生場所
(4人兄弟) (クラーン) <--概念の起源
ナフス ロホ
| |
| | ナフス ロホ共に
デワルチ マルタバト・トゥジュ<--一応の完成
↓ ↓
→→→→ ←←←←
↓
1802~1873年 R.Ng.ロンゴワルシト(Ranggawarsita)
「Bima Suci Wirid」で「インサン・カミル」の誕生を語った。
「Wirid Hidayat JatiDari 」でナプスとロホ(napsu,roh) を語った
↓
1923年 KRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat
「スラット・ランパハン・ビモロドロ Serat Lampahan Bima Rodra」を書く
4つのナフスの名称の明示
↓
1936年 Tjan Tju An
スラット・ビモ・ブンクスで9つのロホと4つのナフスを語る。
:
:
1952年 バパ(Bapak)
スシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を語る。
ビモ・ブンクス(Bima Bungkus)は本来はデワルチの主人公であるビモの誕生の物語でした。
でもTjan Tju Anさんはこの物語を借りて「人間の誕生」、違うコトバでは「アダムの誕生」を語ったのです。
そうして、もともとスーフィズムの中の一つの流れであった「マルタバト・トゥジュの教え」では「アダムの誕生」は「完璧な人間(Insan kamil)の創造」として語られていたものでした。<--リンク
ですのでここでのTjan Tju Anさんの仕事は「マルタバト・トゥジュの教えにそった形で4つのナフス(nafsu)をアダムに付け加えた」ということになります。
こうして目出度く別々の進化をしてきたナフスの流れとロホの流れが一つになれたのでした。
さてビモ・ブンクス(Bima Bungkus)でのナフスとロホの人への入り方の説明です。
マルタバト・トゥジュの教えに従ってゼロから人間が順次作りだされていくのですが、その過程でまずはナフスが順次付与されます。
そうして次ぎに9つのロホが一度に付与されて「物理的な体を持った人間」の完成、アダム、あるいはインサン・カミル(Insan kamil)の完成となります。
このあたり、詳細は「Bima bungkus」 を参照願います。<--リンク
但しこのページの記述ではスフィア(supiah)の記載が抜けていますがこれは記述ミスです。
うまく見れる様でしたら「SERAT ”BIMA BUNGKUS” KARANGAN TJAN TJU AN 」をどうぞ。<--リンク
こちらがミスがないのですが、広告表示が邪魔をしますのでご注意ください。(うかつにOKとかYesはクリックしない方がいいですよ)
それで次はバパによる説明ですね。
即ち地上に降される前の彼(アダム)の存在は、まだロホ(スピリット)又は生命力のエッセンスという状態でありました。
なぜならば、まだ人間として形成されていなかったからであります。
・・・・・・・・
彼が人間の形の容器に作られ、素材的・植物的・動物的及び普通の人間的生命力を与えられた時、彼の人間としての性質が生じたのであります。
このことはすべて彼が地上に降された後で起こりました。
なぜならその時始めて、 素材的・植物的・動物的そして普通の人間的生命力から生ずるナフスを所有したのであります。
そして素材的生命力から生ずるナフスはアマラー(nafsu amara)、植物的生命力から生ずるナフスはアルアマー(nafsu aluama)、動物的生命力から生ずるナフスはスピアー(nafsu supia)、普通の人間的生命力から生ずるナフスはムトマイナー(nafsu mutmina)であります。
・・・・・・・・
70・12・5 チランダ
以上の説明から分かる様に「4つのロホを与えられると同時にナフスが備わった」というのがバパの説明でありました。
まあ、Tjan Tju Anさんの説明とは順序が前後しますが、いずれにしても「人としての完成」あるいは「アダムの誕生」の直前の出来ごとであったのは同じであります。
さあそれでかなりユニークなことはバパは「4つのナフスと4つのロホを対応させた事」であります。
この対応付けは「従来の伝統的な流れの中には見当たらない、バパ独自のもの」の様に見受けられます。
但し、現代のジャワイスラムでも「ロホ ロハ二は4つのナフスをコントロールできるもの」とするとらえ方があることには注意が必要ではありますが、、、。
こうやってインドネシアでは理解するにはまことにやっかいな「ロホ+ナフス システム」が誕生してしまったのでありました。
PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。
物質力にはアマラー(nafsu amarah:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。
ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラーamarahーー>2、アルアマーaluama ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)
しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。
つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)
そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)
そういえば2代目のトークではスシラ ブディ ダルマであつかわれている物質力から始まる4つの諸力についての言及がほとんど無いようであります。
そうして、この4つの諸力を介して我々は世界と、社会と、文化と、人々と相互作用をするものでありますれば、この事に注目しないということと、2代目の内向きの態度と言うものの間にはなにやら関係がありそうな気がいたします。(16.10.1)
追記
残念ですが植物力にアマラーamarahを、あるいは物質力にアルアマーaluamaを対応させているトークが見つかりました。
ですので、上記の対応関係は基本的にはそうである、という程度にご理解願います。
そしてこの件につきましては、ページを改めてまとめたいと思います。(16.10.8)
PS
上記と同じ内容を別の表現で、つまりJiwa(ジワ)とSukma(スクマ)を使って説明したトークもあります。ーー>(59OSL3:59・8・7オスロー)
・・・ですから、JiwaはSukmaを満たし、目覚めさせ、命を与える生命力です。
それによってSukmaは本当に働くのです。
そしてSukmaはこの粗い肉体の精妙体です。
実際にはSukmaは一つではなく五つあります。・・・
そうして「バパは人の形をしたバパ自身のSukmaを見たことがあります。」・・・と続きます。
5つのSukmaはジャワの5人兄弟の教えに対応しており、その内の4つが4つのナフス(Nafsu)に対応していることは前述した通りです。<--リンク
それから、Jiwaについてはこちらを参照願います。<--リンク
対応関係を整理すると、Jiwa≒Roh 、Sukma=Nafsu ということになります。
この対応関係のキーはジャワに古くから伝わる「4人兄弟+主人公=>5人兄弟の教え」です。
この教えを媒介にしてSukmaとNafsuが結びつき、その結果JiwaとRohの対応関係が生まれたように見えます。
JiwaとSukmaはもともとサンスクリット語が起源の様です。
つまり、生まれはインドということになります。
そうしてヒンドゥー教や仏教とともにジャワに伝わったのでしょう。
RohとNafsu(語源はNafs)はアラブで生まれ、イスラム教とともにジャワに伝わりました。
そうやって伝わった4つのコトバが最終的にバパの中で結び付けられました。
そうして、この多様性、複雑さはジャワという土地ならではのもののように思われます。
PS
Nafsu mutmina(ナフス ムトマイナー)には注意が必要です。
上記70・12・5 チランダ ではムトマイナーは「普通の人間的生命力」と結び付けられて説明されていますが、63・5・13 サンチアゴ では「普通の人間力」(ジャスマニ)ではなく「完成された人間力」(ロハ二)に近いように記述されています。
そうしてムトマイナーをそのように「高級な欲望」として他の3つの欲望から区別して扱うやり方はジャワ神秘主義(クバティナン)においても見ることができるものであります。
こうして、ジャワの伝統とイスラム神秘主義との融合を試みたバパの説明ではありますが、やはりそこには多少とも無理をした様な跡が、時と場所によっては違う説明内容と受け取れるものになってしまう様な事がある様であります。
PS
バパ独自の世界観をもう一つ。
7層の生命世界の構造はすでにお話した通りであります。
しかしながらバパはそれに加えて「それぞれの生命世界はまた7層の内部構造をもつ」と説明しています。
これではお話が非常に複雑になってしまいます。
そうして、もちろん伝統的な考え方には似たものがありません。
という訳で、詳細は原典を参照ねがいます。-->(63・3・30 AKL)
追伸(2018・9月)
バパはなぜ「7層の生命世界の構造はすでにお話した通りであります。
しかしながらバパはそれに加えて「それぞれの生命世界はまた7層の内部構造をもつ」と説明しています。
それは現世に生きる人間の中のジワがその7つのどのレベルにも存在可能であるから、と言うのが理由の様です。
つまり物質のレベルからラバニと呼ばれるレベルまでです。
人間力以下の4つのレベルには人間が4つのナフスを使う事もあり、そのいずれの世界に対しても人は親和性を持つようです。
そうして、実際にバパに言わせれば「人間力レベルのジワを持つ人はほとんどいない。」という事であり、良くて動物力レベルのジワ、多くは物質力レベルのジワの持ち主である、とされます。
さて、そのようである我々が死後に向かう事になる世界、死後の生命世界はどこになるのでしょうか?
たとえば、一番多いとされる物質力レベルのジワを持った人が亡くなりました。
その人のジワはどこに行くのでしょうか?
ロハニでない事だけは確かです。
それで、考えられる可能性は2つ。
そのようなジワの状況でもジャスマニレベルの世界にとどまる、という可能性が一つ。
もう一つは物質の世界に落ち込んでしまう、という可能性があります。
まずは人間の世界にとどまって、しかしそのジワの状態は物質力レベルと親和性が高いという状況が一つ、考えられます。
このようなジワは多分物質力レベルにあるジワをもつ2人の男女の性行為にひきつけられる事になるでしょう。
つまり「人としてリンカネーションする」という事になりそうです。
他方で、本当に物質力にのみ目を向けてそれを追い求めた場合はどうなるのでしょうか?
そのようなジワはジャスマニの世界、人間の世界をはなれて物質の世界に入り込むことになると、そのようにスシラ・ブディ・ダルマは言うのであります。<--リンク
そうして、そのようなジワがまた人間として再誕生する、という事の可能性はゼロではないものの、なかなか難しいという事は明らかな事なのであります。
(まずは物質の世界から抜け出して人の世界に戻らなくてはなりません。
人の世界に戻って、しかしながら物質力と親和性が高いジワである、という状況にまで移動する必要があります。)
さてそういうわけで、ジャスマニレベルの生命世界にも動物力レベルから物質力レベルの内部構造をもつ、という事が明らかになるのであります。
ちなみに、現世にはジャスマニレベルのジワで生まれたが、ラティハンによってロハニレベル(聖人レベル)、あるいはラフマニレベル(預言者レベル)に到達する方もいるでしょう。
そうであれば、現世の人間のジワのレベルは7つのレベルのいずれにも存在可能である、と言うのであります。
PS
ワヤンの演目からの参照。
16. Bima Bungkus<--リンク
ビモ・ブンクス
このラコン(Lakon演目)はラコン・パクムに属し、アスティノ王妃デウィ・クンティがバトロ・バユを迎え、第二子を誕生させることが語られる。
その赤子は厚い皮に覆われた固まりで誕生した。様々な武器がその表皮を破る為に使用されたが成功しなかった。
ブガワン・アビヨソの命により、包まれたままの赤子はガジャ・セノ象の前に運ばれた。
その時、バトロ・バユが聖なる象の体内に入り、踏みつけられ、牙に突かれて、赤子のえなが破れた。
そのときまた、えなの中にはバタリ・ウモが入り、バユ専用の衣服、カムプ・ポルン・バン・ビントゥル・アジを着せた。
えなから出た赤子のビモは既に衣装を整えていた。
破れると共に竜巻が起こり、えなをシンドゥ・カランガン国へ飛ばした。
かくてビモのえなは、ブガワン・スムパニの膝元に落ち、ジョヨドロトという武将となった。
このラコン・パクムはわりと有名で、しばしば演題に昇る。
PS
ワヤンとその登場人物 マハバラタ 第31章
1976年11月28日 ユダ・ミングさんのジャワ神秘主義によるビモ・ブンクス解説<--りんく
31. ウルクドロは自分自身と邂逅し合一したが、責務を負うサトリアとして生きた
●ブンクス〈羊膜〉を破る
ビモはブンクスに包まれたままこの世に生まれた。(ビモはウルクドロの別名で、デワルチの主人公:引用注))
彼をこの世に出現させることができるのはシヴァ神だけであった(バタリ・ウモとして表される)。
これは、すべての人間が『現前』(生まれ出る前の世界)、つまり『空』なる世界にあるとき、宿運を負った世界に現れる以前に彼に触れることのできる力を持つのはマハ・ガイブ Maha Gaib 〈大いなる神秘の神〉のみであることを表す(ウモはシヴァの超能力を象徴する)。
数年間ビモのブンクスはセトロ・ゴンドラユ Setra Gandalayu 〈バタリ・ドゥルゴ(ウモ)の支配する精霊界〉に止めおかれ、誰もそのブンクスを破る(赤子を産む)ことはできなかった。
ビモ・ブンクスを破ったのはガジャ・セノ Gajah Sena (シヴァの息子)という象であった。
ブンクスを破った後、ガジャ・セノはビモと一体となった。
かくてビモはブロトセノ Bratasena 〈セノの創りし者〉と名付けられた。
というわけで、ワヤンの時代にも帝王切開のできる外科医がいたのである。
その時代、メスはなかったが象の牙があったのだ。
どうして象牙が『外科医』のシムボルとなったのか?
それは多分、バトロ・ゴノBatara Gana 〈シヴァの息子ガネーシャ。象の頭を持つ〉が『知』、『知識』の象徴であり、その『牙』〈象牙〉が『力』、『鋭さ』の象徴とされたからであろう。
現世に現れたとき、セノは何も知らない状態だった。(セノはビモの別名:引用注))
なぜか?
厚い障壁(ワラナ warana またヒジャーブ hijab〈覆い〉)が自身を覆っていたからだ。
ワラナとは何か?
ワラナと呼ばれるものは、『人間の欲望』に他ならない。
ビモのように、『強欲、欲望を退ける』ことのできる人だけが自分自身、つまり自身の真の姿デウォ・ルチ Dewa Ruci と邂逅し、『彼の方』〈唯一神=トゥハン〉と一体となることができるのである。
宗教は教えてくれる、自分自身を知る者は、誰あろうとかならず『トゥハン』を知るであろう、と。
『彼』を知ることは人間を知るようには容易ではないが、真摯に、平静に、強く、確固として迷い無く「行」を為せばかならず知ることができる。
ウェドトモに言う。
『 Ngelmu iku kalakone kanti laku, lakune lawankas, tegese kas nyantosani, setya budya pangekese dur angkara. 』
『英知(マーリファト)は真摯なる「行」(タリカット)を続けて生きる者が、平穏、すなわち悪しき欲望を退ける手立てとしての認識に対する平静さを得て初めて実現し得るものである。」
詩節プチュン Pucung では、マーリファトのレベルを導いてくれる『行 laku 』を説明している( tur wus manggon pamucunging mring ma'rifat )。
先に挙げたシノム Sinom 詩節の最終連にある声明は、マーリファトへと導いてくれる『行法 tata laku 』以外のものではない。
この「行」はイスラーム・クバティナン〈クバティナン=ジャワ土着の信仰〉の教義において、タリカットと呼ばれるものであり、ウェドトモにおいては『スムバ・カルブ sembah kalbu 』と呼ばれる「行」である。
であるから、『行 laku 』、『タリカット』、『タオ tao 』(支那のクバティナン〈道教〉)とは、神秘主義者、スーフィーがマーリファト、また『ウジュン/プチュック ujung / pucuk 』のレベルに到達するために通らなければならない道のことである。
スーフィーが通らねばならないこの道は容易なものではなく、ひとつのマカーム maqam すなわち段階 stasion に何年も費やす必要のある困難で険しい道である。<--リンク
そして努力したとしても、自動的に『彼』と邂逅できるわけでもない。
人が『彼』にいたるには、『彼』を求め、『彼』へのリドー Ridho〈神への愛〉を保ち、神の恩寵を待つしかないのである。
●自身との邂逅
人間は神〈トゥハン〉と出会うことができるのか?
答えはできる、である。
聖書に言う。
『おお人間よ、真摯に神を求め続けるなら、きっと『彼』に出会うことができるだろう』(S.84;6)〈所出不詳〉
『あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、』(Jer.29; 13)〈エレミヤ書29章13節〉
ビモ・セノもまたそうであった。(デワルチの主人公:引用注)
年月を惜しまず自分自身を求め、彼は現世の師であるドゥルノ Drona に尋ねた。
師の命令であれば、どれほど奇妙でも、不合理でも、不可能と思えることでも従わねばならない。
これこそがタリカット、「行」、「タオ〈道〉」なのだ。
師に背くような弟子はタリカットをなし得た自身を見出すことはけしてできないのである。
・・・・・・・・
その方法は真摯なる努力であり、かくてミスティカル・ユニオン mistical union (神秘的合一)に到達する。
それはウェドトモの72と76詩節によればこのようである。
『 Krasaning urip iku, Krana momor pamoning sawujud [ mystical union ], Wujudullah sumrambah ngalam sakalir, Lir manis kalawan madu, Endi arane ing kono. 』(ガムブ 76)
「生の感覚とは、宇宙にあまねくトゥハンの意志、その意志との合一に由来する。
蜂蜜の甘さのごとき甘き感覚。
その名を誰が知ろうか。」
1976年11月28日 ユダ・ミング著
PS
「ロホ(roh)とナフス(nafsu)の物語・・・一覧」にはこちらから入れます。<--リンク
PS
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ジャワ 中東 <--発生場所
(4人兄弟) (クラーン) <--概念の起源
ナフス ロホ
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| | ナフス ロホ共に
デワルチ マルタバト・トゥジュ<--一応の完成
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1802~1873年 R.Ng.ロンゴワルシト(Ranggawarsita)
「Bima Suci Wirid」で「インサン・カミル」の誕生を語った。
「Wirid Hidayat JatiDari 」でナプスとロホ(napsu,roh) を語った
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1923年 KRT ウレクソディニングラト Wreksadiningrat
「スラット・ランパハン・ビモロドロ Serat Lampahan Bima Rodra」を書く
4つのナフスの名称の明示
↓
1936年 Tjan Tju An
スラット・ビモ・ブンクスで9つのロホと4つのナフスを語る。
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1952年 バパ(Bapak)
スシラ ブディ ダルマ(susila budhi dharma)を語る。
ビモ・ブンクス(Bima Bungkus)は本来はデワルチの主人公であるビモの誕生の物語でした。
でもTjan Tju Anさんはこの物語を借りて「人間の誕生」、違うコトバでは「アダムの誕生」を語ったのです。
そうして、もともとスーフィズムの中の一つの流れであった「マルタバト・トゥジュの教え」では「アダムの誕生」は「完璧な人間(Insan kamil)の創造」として語られていたものでした。<--リンク
ですのでここでのTjan Tju Anさんの仕事は「マルタバト・トゥジュの教えにそった形で4つのナフス(nafsu)をアダムに付け加えた」ということになります。
こうして目出度く別々の進化をしてきたナフスの流れとロホの流れが一つになれたのでした。
さてビモ・ブンクス(Bima Bungkus)でのナフスとロホの人への入り方の説明です。
マルタバト・トゥジュの教えに従ってゼロから人間が順次作りだされていくのですが、その過程でまずはナフスが順次付与されます。
そうして次ぎに9つのロホが一度に付与されて「物理的な体を持った人間」の完成、アダム、あるいはインサン・カミル(Insan kamil)の完成となります。
このあたり、詳細は「Bima bungkus」 を参照願います。<--リンク
但しこのページの記述ではスフィア(supiah)の記載が抜けていますがこれは記述ミスです。
うまく見れる様でしたら「SERAT ”BIMA BUNGKUS” KARANGAN TJAN TJU AN 」をどうぞ。<--リンク
こちらがミスがないのですが、広告表示が邪魔をしますのでご注意ください。(うかつにOKとかYesはクリックしない方がいいですよ)
それで次はバパによる説明ですね。
即ち地上に降される前の彼(アダム)の存在は、まだロホ(スピリット)又は生命力のエッセンスという状態でありました。
なぜならば、まだ人間として形成されていなかったからであります。
・・・・・・・・
彼が人間の形の容器に作られ、素材的・植物的・動物的及び普通の人間的生命力を与えられた時、彼の人間としての性質が生じたのであります。
このことはすべて彼が地上に降された後で起こりました。
なぜならその時始めて、 素材的・植物的・動物的そして普通の人間的生命力から生ずるナフスを所有したのであります。
そして素材的生命力から生ずるナフスはアマラー(nafsu amara)、植物的生命力から生ずるナフスはアルアマー(nafsu aluama)、動物的生命力から生ずるナフスはスピアー(nafsu supia)、普通の人間的生命力から生ずるナフスはムトマイナー(nafsu mutmina)であります。
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70・12・5 チランダ
以上の説明から分かる様に「4つのロホを与えられると同時にナフスが備わった」というのがバパの説明でありました。
まあ、Tjan Tju Anさんの説明とは順序が前後しますが、いずれにしても「人としての完成」あるいは「アダムの誕生」の直前の出来ごとであったのは同じであります。
さあそれでかなりユニークなことはバパは「4つのナフスと4つのロホを対応させた事」であります。
この対応付けは「従来の伝統的な流れの中には見当たらない、バパ独自のもの」の様に見受けられます。
但し、現代のジャワイスラムでも「ロホ ロハ二は4つのナフスをコントロールできるもの」とするとらえ方があることには注意が必要ではありますが、、、。
こうやってインドネシアでは理解するにはまことにやっかいな「ロホ+ナフス システム」が誕生してしまったのでありました。
PS
バパのトークで気をつけなければいけない点、それはナフスを上げる順序です。
物質力にはアマラー(nafsu amarah:赤)が、そうして植物力にはアルアマー(nafsu aluama:黒)がいつも対応しています。
ですので4つの諸力の順番にならべる場合は1、アマラーamarahーー>2、アルアマーaluama ・・・となります。
(70・12・5、72・11・3、85・6・25、85・7・2 etc)
しかしながら単にナフスの事を述べる場合(諸力との関係を言わない場合)はインドネシアの伝統にそった順番になります。
つまり1、アルアマーー>2、アマラー ・・・と順序が逆転するのでありました。
(57・9・29、59・8・6、59・8・7、63・9・13、81・6・18 etc)
そうして、二代目の並べ方は常に後者であります。
(99・12・16、01・7・12、02・2・28、02・3・3、03・2・14 etc)
そういえば2代目のトークではスシラ ブディ ダルマであつかわれている物質力から始まる4つの諸力についての言及がほとんど無いようであります。
そうして、この4つの諸力を介して我々は世界と、社会と、文化と、人々と相互作用をするものでありますれば、この事に注目しないということと、2代目の内向きの態度と言うものの間にはなにやら関係がありそうな気がいたします。(16.10.1)
追記
残念ですが植物力にアマラーamarahを、あるいは物質力にアルアマーaluamaを対応させているトークが見つかりました。
ですので、上記の対応関係は基本的にはそうである、という程度にご理解願います。
そしてこの件につきましては、ページを改めてまとめたいと思います。(16.10.8)
PS
上記と同じ内容を別の表現で、つまりJiwa(ジワ)とSukma(スクマ)を使って説明したトークもあります。ーー>(59OSL3:59・8・7オスロー)
・・・ですから、JiwaはSukmaを満たし、目覚めさせ、命を与える生命力です。
それによってSukmaは本当に働くのです。
そしてSukmaはこの粗い肉体の精妙体です。
実際にはSukmaは一つではなく五つあります。・・・
そうして「バパは人の形をしたバパ自身のSukmaを見たことがあります。」・・・と続きます。
5つのSukmaはジャワの5人兄弟の教えに対応しており、その内の4つが4つのナフス(Nafsu)に対応していることは前述した通りです。<--リンク
それから、Jiwaについてはこちらを参照願います。<--リンク
対応関係を整理すると、Jiwa≒Roh 、Sukma=Nafsu ということになります。
この対応関係のキーはジャワに古くから伝わる「4人兄弟+主人公=>5人兄弟の教え」です。
この教えを媒介にしてSukmaとNafsuが結びつき、その結果JiwaとRohの対応関係が生まれたように見えます。
JiwaとSukmaはもともとサンスクリット語が起源の様です。
つまり、生まれはインドということになります。
そうしてヒンドゥー教や仏教とともにジャワに伝わったのでしょう。
RohとNafsu(語源はNafs)はアラブで生まれ、イスラム教とともにジャワに伝わりました。
そうやって伝わった4つのコトバが最終的にバパの中で結び付けられました。
そうして、この多様性、複雑さはジャワという土地ならではのもののように思われます。
PS
Nafsu mutmina(ナフス ムトマイナー)には注意が必要です。
上記70・12・5 チランダ ではムトマイナーは「普通の人間的生命力」と結び付けられて説明されていますが、63・5・13 サンチアゴ では「普通の人間力」(ジャスマニ)ではなく「完成された人間力」(ロハ二)に近いように記述されています。
そうしてムトマイナーをそのように「高級な欲望」として他の3つの欲望から区別して扱うやり方はジャワ神秘主義(クバティナン)においても見ることができるものであります。
こうして、ジャワの伝統とイスラム神秘主義との融合を試みたバパの説明ではありますが、やはりそこには多少とも無理をした様な跡が、時と場所によっては違う説明内容と受け取れるものになってしまう様な事がある様であります。
PS
バパ独自の世界観をもう一つ。
7層の生命世界の構造はすでにお話した通りであります。
しかしながらバパはそれに加えて「それぞれの生命世界はまた7層の内部構造をもつ」と説明しています。
これではお話が非常に複雑になってしまいます。
そうして、もちろん伝統的な考え方には似たものがありません。
という訳で、詳細は原典を参照ねがいます。-->(63・3・30 AKL)
追伸(2018・9月)
バパはなぜ「7層の生命世界の構造はすでにお話した通りであります。
しかしながらバパはそれに加えて「それぞれの生命世界はまた7層の内部構造をもつ」と説明しています。
それは現世に生きる人間の中のジワがその7つのどのレベルにも存在可能であるから、と言うのが理由の様です。
つまり物質のレベルからラバニと呼ばれるレベルまでです。
人間力以下の4つのレベルには人間が4つのナフスを使う事もあり、そのいずれの世界に対しても人は親和性を持つようです。
そうして、実際にバパに言わせれば「人間力レベルのジワを持つ人はほとんどいない。」という事であり、良くて動物力レベルのジワ、多くは物質力レベルのジワの持ち主である、とされます。
さて、そのようである我々が死後に向かう事になる世界、死後の生命世界はどこになるのでしょうか?
たとえば、一番多いとされる物質力レベルのジワを持った人が亡くなりました。
その人のジワはどこに行くのでしょうか?
ロハニでない事だけは確かです。
それで、考えられる可能性は2つ。
そのようなジワの状況でもジャスマニレベルの世界にとどまる、という可能性が一つ。
もう一つは物質の世界に落ち込んでしまう、という可能性があります。
まずは人間の世界にとどまって、しかしそのジワの状態は物質力レベルと親和性が高いという状況が一つ、考えられます。
このようなジワは多分物質力レベルにあるジワをもつ2人の男女の性行為にひきつけられる事になるでしょう。
つまり「人としてリンカネーションする」という事になりそうです。
他方で、本当に物質力にのみ目を向けてそれを追い求めた場合はどうなるのでしょうか?
そのようなジワはジャスマニの世界、人間の世界をはなれて物質の世界に入り込むことになると、そのようにスシラ・ブディ・ダルマは言うのであります。<--リンク
そうして、そのようなジワがまた人間として再誕生する、という事の可能性はゼロではないものの、なかなか難しいという事は明らかな事なのであります。
(まずは物質の世界から抜け出して人の世界に戻らなくてはなりません。
人の世界に戻って、しかしながら物質力と親和性が高いジワである、という状況にまで移動する必要があります。)
さてそういうわけで、ジャスマニレベルの生命世界にも動物力レベルから物質力レベルの内部構造をもつ、という事が明らかになるのであります。
ちなみに、現世にはジャスマニレベルのジワで生まれたが、ラティハンによってロハニレベル(聖人レベル)、あるいはラフマニレベル(預言者レベル)に到達する方もいるでしょう。
そうであれば、現世の人間のジワのレベルは7つのレベルのいずれにも存在可能である、と言うのであります。
PS
ワヤンの演目からの参照。
16. Bima Bungkus<--リンク
ビモ・ブンクス
このラコン(Lakon演目)はラコン・パクムに属し、アスティノ王妃デウィ・クンティがバトロ・バユを迎え、第二子を誕生させることが語られる。
その赤子は厚い皮に覆われた固まりで誕生した。様々な武器がその表皮を破る為に使用されたが成功しなかった。
ブガワン・アビヨソの命により、包まれたままの赤子はガジャ・セノ象の前に運ばれた。
その時、バトロ・バユが聖なる象の体内に入り、踏みつけられ、牙に突かれて、赤子のえなが破れた。
そのときまた、えなの中にはバタリ・ウモが入り、バユ専用の衣服、カムプ・ポルン・バン・ビントゥル・アジを着せた。
えなから出た赤子のビモは既に衣装を整えていた。
破れると共に竜巻が起こり、えなをシンドゥ・カランガン国へ飛ばした。
かくてビモのえなは、ブガワン・スムパニの膝元に落ち、ジョヨドロトという武将となった。
このラコン・パクムはわりと有名で、しばしば演題に昇る。
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ワヤンとその登場人物 マハバラタ 第31章
1976年11月28日 ユダ・ミングさんのジャワ神秘主義によるビモ・ブンクス解説<--りんく
31. ウルクドロは自分自身と邂逅し合一したが、責務を負うサトリアとして生きた
●ブンクス〈羊膜〉を破る
ビモはブンクスに包まれたままこの世に生まれた。(ビモはウルクドロの別名で、デワルチの主人公:引用注))
彼をこの世に出現させることができるのはシヴァ神だけであった(バタリ・ウモとして表される)。
これは、すべての人間が『現前』(生まれ出る前の世界)、つまり『空』なる世界にあるとき、宿運を負った世界に現れる以前に彼に触れることのできる力を持つのはマハ・ガイブ Maha Gaib 〈大いなる神秘の神〉のみであることを表す(ウモはシヴァの超能力を象徴する)。
数年間ビモのブンクスはセトロ・ゴンドラユ Setra Gandalayu 〈バタリ・ドゥルゴ(ウモ)の支配する精霊界〉に止めおかれ、誰もそのブンクスを破る(赤子を産む)ことはできなかった。
ビモ・ブンクスを破ったのはガジャ・セノ Gajah Sena (シヴァの息子)という象であった。
ブンクスを破った後、ガジャ・セノはビモと一体となった。
かくてビモはブロトセノ Bratasena 〈セノの創りし者〉と名付けられた。
というわけで、ワヤンの時代にも帝王切開のできる外科医がいたのである。
その時代、メスはなかったが象の牙があったのだ。
どうして象牙が『外科医』のシムボルとなったのか?
それは多分、バトロ・ゴノBatara Gana 〈シヴァの息子ガネーシャ。象の頭を持つ〉が『知』、『知識』の象徴であり、その『牙』〈象牙〉が『力』、『鋭さ』の象徴とされたからであろう。
現世に現れたとき、セノは何も知らない状態だった。(セノはビモの別名:引用注))
なぜか?
厚い障壁(ワラナ warana またヒジャーブ hijab〈覆い〉)が自身を覆っていたからだ。
ワラナとは何か?
ワラナと呼ばれるものは、『人間の欲望』に他ならない。
ビモのように、『強欲、欲望を退ける』ことのできる人だけが自分自身、つまり自身の真の姿デウォ・ルチ Dewa Ruci と邂逅し、『彼の方』〈唯一神=トゥハン〉と一体となることができるのである。
宗教は教えてくれる、自分自身を知る者は、誰あろうとかならず『トゥハン』を知るであろう、と。
『彼』を知ることは人間を知るようには容易ではないが、真摯に、平静に、強く、確固として迷い無く「行」を為せばかならず知ることができる。
ウェドトモに言う。
『 Ngelmu iku kalakone kanti laku, lakune lawankas, tegese kas nyantosani, setya budya pangekese dur angkara. 』
『英知(マーリファト)は真摯なる「行」(タリカット)を続けて生きる者が、平穏、すなわち悪しき欲望を退ける手立てとしての認識に対する平静さを得て初めて実現し得るものである。」
詩節プチュン Pucung では、マーリファトのレベルを導いてくれる『行 laku 』を説明している( tur wus manggon pamucunging mring ma'rifat )。
先に挙げたシノム Sinom 詩節の最終連にある声明は、マーリファトへと導いてくれる『行法 tata laku 』以外のものではない。
この「行」はイスラーム・クバティナン〈クバティナン=ジャワ土着の信仰〉の教義において、タリカットと呼ばれるものであり、ウェドトモにおいては『スムバ・カルブ sembah kalbu 』と呼ばれる「行」である。
であるから、『行 laku 』、『タリカット』、『タオ tao 』(支那のクバティナン〈道教〉)とは、神秘主義者、スーフィーがマーリファト、また『ウジュン/プチュック ujung / pucuk 』のレベルに到達するために通らなければならない道のことである。
スーフィーが通らねばならないこの道は容易なものではなく、ひとつのマカーム maqam すなわち段階 stasion に何年も費やす必要のある困難で険しい道である。<--リンク
そして努力したとしても、自動的に『彼』と邂逅できるわけでもない。
人が『彼』にいたるには、『彼』を求め、『彼』へのリドー Ridho〈神への愛〉を保ち、神の恩寵を待つしかないのである。
●自身との邂逅
人間は神〈トゥハン〉と出会うことができるのか?
答えはできる、である。
聖書に言う。
『おお人間よ、真摯に神を求め続けるなら、きっと『彼』に出会うことができるだろう』(S.84;6)〈所出不詳〉
『あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、』(Jer.29; 13)〈エレミヤ書29章13節〉
ビモ・セノもまたそうであった。(デワルチの主人公:引用注)
年月を惜しまず自分自身を求め、彼は現世の師であるドゥルノ Drona に尋ねた。
師の命令であれば、どれほど奇妙でも、不合理でも、不可能と思えることでも従わねばならない。
これこそがタリカット、「行」、「タオ〈道〉」なのだ。
師に背くような弟子はタリカットをなし得た自身を見出すことはけしてできないのである。
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その方法は真摯なる努力であり、かくてミスティカル・ユニオン mistical union (神秘的合一)に到達する。
それはウェドトモの72と76詩節によればこのようである。
『 Krasaning urip iku, Krana momor pamoning sawujud [ mystical union ], Wujudullah sumrambah ngalam sakalir, Lir manis kalawan madu, Endi arane ing kono. 』(ガムブ 76)
「生の感覚とは、宇宙にあまねくトゥハンの意志、その意志との合一に由来する。
蜂蜜の甘さのごとき甘き感覚。
その名を誰が知ろうか。」
1976年11月28日 ユダ・ミング著
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