今回の記事は、盛和塾が経営者の塾でなく、単なるカルト集団であるという事についてお話しします。
私の会社では、トップが盛和塾に入れ込んでおり、リーダー育成のためと称して、京セラフェロソフィやら、盛和塾の資料を学ぶ機会があります。
それを毎回読んで、感想を発表したり、日々の業務での反省やら学びをグループ討論するのですが、いつも学びがありません。
稲盛和夫自体、人物が浅いと感じますし、所々、理論が破綻しています。
彼らは美談やら苦労話やら絶体絶命なエピソードなど、シナリオライターが書いたような内容をツラツラと話します。
しかし、裏の顔は絶対に見せない、大本教系列の信者で、臨済宗に帰依してますが、本当に邪悪な雰囲気を漂わせてます。
大義名分があれば、何をしても良いという考え方や経営者は偉いという驕り高ぶりには辟易します。
以前から書いてますが、彼は
人生の結果=考え✖️熱意✖️努力
と決めつけててます。
そして、一番大切なのが
考え方だと。
それは分かります。
しかし、その考え方は企業にとって都合の良い考え方だけで、一人一人の個性に合わせた幸せな人生を送るための共通した考え方ではありません。
つまり、稲盛和夫に考え方が合わせられない人は全員、考え方が間違っているつまり、その人の人生は無価値なものになるという理論です。
稲盛和夫、何様なのでしょうか?
稲盛和夫の奥さんのお父さんは韓国では国民栄誉賞をもらっている程の重要人物です。
以下転載
男性がビジネスを立ち上げ、成功を収めるには、本人の才能や努力もさることながら、内助の功も大きな力となる。
“経営の神様”京セラ創業者の稲盛和夫氏の場合はどうか。妻の朝子さんは、稲盛氏が起業前に勤めていた会社で助手をしていた女性だという。稲盛氏は夫人について著書『ガキの自叙伝』で、こう語っている。
〈妻は知り合ってから今までグチひとつこぼしたことがない。京セラ創業のころ、食べるもの、着るものも満足に買えなかったが、不満一つ言わなかった。それ以来、帰宅するのはいつも遅いのだが、必ず寝ずに待っていてくれた〉
朝子夫人の父親は“韓国近代農業の父”と称された須永長春氏(本名・禹長春)だ。東京帝国大学で学んだ農学博士で、京都のタキイ種苗の農場長などをしていた。戦後、李承晩・大統領(当時)に請われて韓国へ渡り、疲弊していた農業の立て直しに尽力したという。
朝子氏とも面識がある経済ジャーナリストの水島愛一朗氏がいう。
「自宅に押しかけてきた記者に対しても、秘書やお手伝いさんでなく、朝子さんが応対していたことには驚きました。“皆さんから自宅に問い合わせがあるのですが、稲盛も体が1つしかなく、なかなかお答えできずに申し訳ありません”と、嫌な顔ひとつせずに夫の代わりに頭をさげる方です。
稲盛さんが師匠と仰ぐワコール創業者の故・塚本幸一氏は“稲盛君に物欲や出世欲、名誉欲がまったくなかったのは傾倒していた仏教からだけではない。謙虚で控えめな朝子さんの影響が強かったからだ”と評していました。もともと稲盛さんは世襲に批判的ですが、塚本氏は“もし稲盛君に息子がいても、朝子さんが世襲を許さなかっただろう”とも話していました」
※週刊ポスト2013年8月16・23日号
【転載ここまで】
稲盛和夫の師匠が塚本幸一で、塚本幸一は日本会議の初代会長です。
日本会議は、生長の家が作ったものです。
塚本幸一は下着メーカーワコールの創始者で、ブラジャーを戦略的に売って一大企業になりました。
稲盛和夫は民主党に政権交代した時の潮目に乗った?
転載記事
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今日の産経新聞に京セラの稲盛和夫氏の新春年賀交歓会の挨拶の内容が
載っています。
稲盛氏は鳩山政権について「国民が温かい目で見守ってくれることで、
いい政治が出来るようになってほしい」と擁護し、さらに「せっかく
政権交代したわけだから、その政権が変なふうにつぶれていったのでは、
国民全体にとっても不幸だ。何とか支援していく態勢であってほしい」と
強調しています。
今日は世界的な企業に成長させた偉大な稲盛氏をおこがましいですが
批判したくなりました。
企業経営者が現政権を応援するということは利権を手に入れることが
出来るのか、あるいは政権の考え方に賛同できるか、の2点です。
利権がらみで現政権を応援するのならいけないことですが稲盛氏の頭は
経営者としてはまともです。ところが稲盛氏の過去の言動や著書を見ると
非常に道徳的で、利権がらみでないことがわかります。
という事は鳩山政権の目指している方向に賛同していることになります。
となると稲盛氏の頭は完全に狂っているか、あるいはまるで勉強せずに
知識が無いということになります。
【転載ここまで】
鳩山由紀夫はフリーメーソンですよね?
JAL再建の時の国交相は前原誠司で池田大作の隠し子と噂されてますから、創価との繋がりもありそうです。
余談ですが、トヨタは、ドクターヘリの朝日航洋という企業を傘下に持っています。
まぁ、美談の影で、本当にあっち側で上手くやってるだけなんですよね?
以下転載です。
リンク元貼り忘れました。
京セラ稲盛名誉会長の奥さんの
お父さんなのです!!
禹長春の父親、禹範善は一八九五年、
乙未事変(閔妃暗掌件)の折、訓練隊第二隊長として
指揮下の将兵たちを率いて、日本軍守備隊と合同で
宮殿に侵入、閲妃の刺殺を幇助した。
そのために
逮捕令が下り一時身を隠す。翌年政局が一変すると
身辺の危険を感じ、日本人の保護を受けながら
日本へ亡命した。東京に居住し日本の女性、
酒井ナカと結婚。再起を夢見るも、一九〇三年十二月、
本国より送り込まれた閔泳翊の家僕、高永根によって
呉市で暗殺された。
禹長春は東京帝国大学の付属校を抜群の
成績で卒業し、白菜の改良や種なし西瓜の開発で
すばらしい業績を上げた人である。須永元はこの
禹長春の生涯に多大な影響を与えた。
禹博士は、一九二四年二十六歳のとき、渡辺小春
(二十二歳)と結婚するが、小春の両親や兄たちが
こぞって反対した。
両家の保護者であった須永元に
小春との婚約を報告すると、彼は非常に喜び
「生まれてくる子供の将来のために、この際君たちは
須永家の夫婦養子となり、将来にわたって家族全員が
須永姓を名乗ってはどうか」と提案した。
両博士は
この提案を受け入れた。こうして彼の正式な日本名は
「須永長春」となつた。須永元は禹範善を尊敬し、
終生変わらず禹家の保護者となるほどの篤志家であった。
長女朝子は後に京セラ会長稲盛和夫氏と結婚する。
稲盛氏は自叙伝の中で次のように述べている。
「一九五八年十二月、松風工業を退社した。その翌日、
同じ特磁課にいた須永朝子と結婚した。朝子の父親・
須永長春(本名禹長春)は東京大学農業実科を出た
植物育種が専門の農学博士で、京都のタキイ種苗の
農場長などもしていた。
戦後、実父の故国、韓国へ
渡って疲弊していた農業を立て直し、“韓国近代
農業の父”と呼ばれた。私は一度しか会っていない。
研究者同士、大いに話が弾んでいたことを覚えている。」
禹博士は一九三六年五月四日、東大より農学博士の
学位を授与された。しかし彼は日本社会の差別に遭い、
博士になつても高等官技師になれなかった。
この時、長男禹長春はわずか五歳で、翌年弟が
生まれ、生活はますます苦しくなつた。それでも
禹博士は依然として、「禹」という実父の姓を
名乗って就職した。父の日本名北野一平から取った
「北野」や母の「酒井」でもなく終生「禹」姓を通した。
禹博士は農学者として比較的に誉れた
環境にありながら、五十二歳のとき、突如永住の
決意をもって言葉もわからない父の国へ渡った。
政情不安時代に、日本に妻と六人の子供を残して
渡韓するのであるから、凡人にできることではない。
禹博士の学者としての実直さと人間本来の正義感が
そうさせたのであろう。
渡韓後の禹博士は多くの困難を乗り越え、晩年には
輝かしい業績を残して、「韓国近代農業の父」とまで
呼ばれるに至った。
一九五九年八月七日、韓国政府は、
病床の雲呑に大韓民国文化褒賞を授与した。この褒賞は
国家が感謝を込めて愛国者に送るもので、国民にとつて
最高の名誉であった。
一九五八年八月十日、博士は妻の
小春に看誉れながら本国で息を引き取る。
享年六十二才であった。
父禹範善は韓国の近代史の中で、まだ相応の評価を
受けていない。しかし、長男・禹長春は歴史教科書に
残るほどの農学者として国民に広く知れわたつている。
この人が秀才中の秀才、朝鮮農業の父といわれる禹長春氏
【転載ここまで】
只者じゃないですよね?
この人たち裏で何やってるかわかりません。
盛和塾、稲盛和夫は一癖二癖ありますから、注意しなければなりませんね。
raptブログ 稲盛和夫
盛和塾の危険性
私の会社では、トップが盛和塾に入れ込んでおり、リーダー育成のためと称して、京セラフェロソフィやら、盛和塾の資料を学ぶ機会があります。
それを毎回読んで、感想を発表したり、日々の業務での反省やら学びをグループ討論するのですが、いつも学びがありません。
稲盛和夫自体、人物が浅いと感じますし、所々、理論が破綻しています。
彼らは美談やら苦労話やら絶体絶命なエピソードなど、シナリオライターが書いたような内容をツラツラと話します。
しかし、裏の顔は絶対に見せない、大本教系列の信者で、臨済宗に帰依してますが、本当に邪悪な雰囲気を漂わせてます。
大義名分があれば、何をしても良いという考え方や経営者は偉いという驕り高ぶりには辟易します。
以前から書いてますが、彼は
人生の結果=考え✖️熱意✖️努力
と決めつけててます。
そして、一番大切なのが
考え方だと。
それは分かります。
しかし、その考え方は企業にとって都合の良い考え方だけで、一人一人の個性に合わせた幸せな人生を送るための共通した考え方ではありません。
つまり、稲盛和夫に考え方が合わせられない人は全員、考え方が間違っているつまり、その人の人生は無価値なものになるという理論です。
稲盛和夫、何様なのでしょうか?
稲盛和夫の奥さんのお父さんは韓国では国民栄誉賞をもらっている程の重要人物です。
以下転載
男性がビジネスを立ち上げ、成功を収めるには、本人の才能や努力もさることながら、内助の功も大きな力となる。
“経営の神様”京セラ創業者の稲盛和夫氏の場合はどうか。妻の朝子さんは、稲盛氏が起業前に勤めていた会社で助手をしていた女性だという。稲盛氏は夫人について著書『ガキの自叙伝』で、こう語っている。
〈妻は知り合ってから今までグチひとつこぼしたことがない。京セラ創業のころ、食べるもの、着るものも満足に買えなかったが、不満一つ言わなかった。それ以来、帰宅するのはいつも遅いのだが、必ず寝ずに待っていてくれた〉
朝子夫人の父親は“韓国近代農業の父”と称された須永長春氏(本名・禹長春)だ。東京帝国大学で学んだ農学博士で、京都のタキイ種苗の農場長などをしていた。戦後、李承晩・大統領(当時)に請われて韓国へ渡り、疲弊していた農業の立て直しに尽力したという。
朝子氏とも面識がある経済ジャーナリストの水島愛一朗氏がいう。
「自宅に押しかけてきた記者に対しても、秘書やお手伝いさんでなく、朝子さんが応対していたことには驚きました。“皆さんから自宅に問い合わせがあるのですが、稲盛も体が1つしかなく、なかなかお答えできずに申し訳ありません”と、嫌な顔ひとつせずに夫の代わりに頭をさげる方です。
稲盛さんが師匠と仰ぐワコール創業者の故・塚本幸一氏は“稲盛君に物欲や出世欲、名誉欲がまったくなかったのは傾倒していた仏教からだけではない。謙虚で控えめな朝子さんの影響が強かったからだ”と評していました。もともと稲盛さんは世襲に批判的ですが、塚本氏は“もし稲盛君に息子がいても、朝子さんが世襲を許さなかっただろう”とも話していました」
※週刊ポスト2013年8月16・23日号
【転載ここまで】
稲盛和夫の師匠が塚本幸一で、塚本幸一は日本会議の初代会長です。
日本会議は、生長の家が作ったものです。
塚本幸一は下着メーカーワコールの創始者で、ブラジャーを戦略的に売って一大企業になりました。
稲盛和夫は民主党に政権交代した時の潮目に乗った?
転載記事
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今日の産経新聞に京セラの稲盛和夫氏の新春年賀交歓会の挨拶の内容が
載っています。
稲盛氏は鳩山政権について「国民が温かい目で見守ってくれることで、
いい政治が出来るようになってほしい」と擁護し、さらに「せっかく
政権交代したわけだから、その政権が変なふうにつぶれていったのでは、
国民全体にとっても不幸だ。何とか支援していく態勢であってほしい」と
強調しています。
今日は世界的な企業に成長させた偉大な稲盛氏をおこがましいですが
批判したくなりました。
企業経営者が現政権を応援するということは利権を手に入れることが
出来るのか、あるいは政権の考え方に賛同できるか、の2点です。
利権がらみで現政権を応援するのならいけないことですが稲盛氏の頭は
経営者としてはまともです。ところが稲盛氏の過去の言動や著書を見ると
非常に道徳的で、利権がらみでないことがわかります。
という事は鳩山政権の目指している方向に賛同していることになります。
となると稲盛氏の頭は完全に狂っているか、あるいはまるで勉強せずに
知識が無いということになります。
【転載ここまで】
鳩山由紀夫はフリーメーソンですよね?
JAL再建の時の国交相は前原誠司で池田大作の隠し子と噂されてますから、創価との繋がりもありそうです。
余談ですが、トヨタは、ドクターヘリの朝日航洋という企業を傘下に持っています。
まぁ、美談の影で、本当にあっち側で上手くやってるだけなんですよね?
以下転載です。
リンク元貼り忘れました。
京セラ稲盛名誉会長の奥さんの
お父さんなのです!!
禹長春の父親、禹範善は一八九五年、
乙未事変(閔妃暗掌件)の折、訓練隊第二隊長として
指揮下の将兵たちを率いて、日本軍守備隊と合同で
宮殿に侵入、閲妃の刺殺を幇助した。
そのために
逮捕令が下り一時身を隠す。翌年政局が一変すると
身辺の危険を感じ、日本人の保護を受けながら
日本へ亡命した。東京に居住し日本の女性、
酒井ナカと結婚。再起を夢見るも、一九〇三年十二月、
本国より送り込まれた閔泳翊の家僕、高永根によって
呉市で暗殺された。
禹長春は東京帝国大学の付属校を抜群の
成績で卒業し、白菜の改良や種なし西瓜の開発で
すばらしい業績を上げた人である。須永元はこの
禹長春の生涯に多大な影響を与えた。
禹博士は、一九二四年二十六歳のとき、渡辺小春
(二十二歳)と結婚するが、小春の両親や兄たちが
こぞって反対した。
両家の保護者であった須永元に
小春との婚約を報告すると、彼は非常に喜び
「生まれてくる子供の将来のために、この際君たちは
須永家の夫婦養子となり、将来にわたって家族全員が
須永姓を名乗ってはどうか」と提案した。
両博士は
この提案を受け入れた。こうして彼の正式な日本名は
「須永長春」となつた。須永元は禹範善を尊敬し、
終生変わらず禹家の保護者となるほどの篤志家であった。
長女朝子は後に京セラ会長稲盛和夫氏と結婚する。
稲盛氏は自叙伝の中で次のように述べている。
「一九五八年十二月、松風工業を退社した。その翌日、
同じ特磁課にいた須永朝子と結婚した。朝子の父親・
須永長春(本名禹長春)は東京大学農業実科を出た
植物育種が専門の農学博士で、京都のタキイ種苗の
農場長などもしていた。
戦後、実父の故国、韓国へ
渡って疲弊していた農業を立て直し、“韓国近代
農業の父”と呼ばれた。私は一度しか会っていない。
研究者同士、大いに話が弾んでいたことを覚えている。」
禹博士は一九三六年五月四日、東大より農学博士の
学位を授与された。しかし彼は日本社会の差別に遭い、
博士になつても高等官技師になれなかった。
この時、長男禹長春はわずか五歳で、翌年弟が
生まれ、生活はますます苦しくなつた。それでも
禹博士は依然として、「禹」という実父の姓を
名乗って就職した。父の日本名北野一平から取った
「北野」や母の「酒井」でもなく終生「禹」姓を通した。
禹博士は農学者として比較的に誉れた
環境にありながら、五十二歳のとき、突如永住の
決意をもって言葉もわからない父の国へ渡った。
政情不安時代に、日本に妻と六人の子供を残して
渡韓するのであるから、凡人にできることではない。
禹博士の学者としての実直さと人間本来の正義感が
そうさせたのであろう。
渡韓後の禹博士は多くの困難を乗り越え、晩年には
輝かしい業績を残して、「韓国近代農業の父」とまで
呼ばれるに至った。
一九五九年八月七日、韓国政府は、
病床の雲呑に大韓民国文化褒賞を授与した。この褒賞は
国家が感謝を込めて愛国者に送るもので、国民にとつて
最高の名誉であった。
一九五八年八月十日、博士は妻の
小春に看誉れながら本国で息を引き取る。
享年六十二才であった。
父禹範善は韓国の近代史の中で、まだ相応の評価を
受けていない。しかし、長男・禹長春は歴史教科書に
残るほどの農学者として国民に広く知れわたつている。
この人が秀才中の秀才、朝鮮農業の父といわれる禹長春氏
【転載ここまで】
只者じゃないですよね?
この人たち裏で何やってるかわかりません。
盛和塾、稲盛和夫は一癖二癖ありますから、注意しなければなりませんね。
raptブログ 稲盛和夫
盛和塾の危険性
単なる通行人です。初めまして。熊本と申します。
スケール感で完結に申し上げるなら、盛和塾でも生長の家でも【人間として一生懸命・命をかけて生きてるだけ】。その差は、大なり小なりあるとして。
シンプルにただ、それだけではないでしょうか。
その結果、人が集まり(多種多様な一人ひとりの哲学・考え・理想・生き方・風習・文化・事情・精神・歴史・業・社会を診る力や人を熟知する力・闘う力)が科学反応を起こし、とてつもないスケール感となり集まった。
かなり面白い!!!
例えば、1憶2000万と言う数字、
皆さんどう思いますか。大きいですか小さいですか。
私は、大きくもあり小さくも感じます。主観的な基準を意識すると小さく感じ、基準を無くすと非常に大きく感じます。
生きてきた時代が違う、時代に合わせた生き方。
自身の基準・価値観を壊す事への快感。
それから始まる革命的進化と多様性。
何かを足して何かを引く、時には掛けてそして割る。
それらを一気に表現した結果でもあるのかも。
しかし、この記事も筆者の人となりが観えてくる事も参考になり鋭いのかもとも考える。
また、これらの表現を超える記事に出逢いたい。