心のハンドル操作方法 幸せに生きるための教習所

旧精神科医療は思想警察なのか?

強迫性神経障害、摂食障害が精神科、心療内科で治療できない理由。

2019年12月07日 | 精神科看護

精神看護学の過去問を状況設定問題を見ていると、「あーなるほどなぁ」「確かに面白いなぁ」などというような状況設定問題があります。

それは「摂食障害を持つ患者への看護」についての状況設定問題です。

 

「ボディイメージが弱い」ため、極度のやせ願望、体重コントロールに執着するため、過食と嘔吐を繰り返すのが摂食障害と言われていますが、ではなぜ、「ボディイメージが弱いのか?」という視点でみると、その理由は明確ではありません。

多くのセラピストは「母子関係が歪んでいた」「愛着形成不全がある」と説明しますが、「歪んだ愛情の元に育った」ということは事実だと思います。

しかしながら、突き詰めていくと、「人生の目標をどこにおいて生活しているか?」

といった目標設定が間違っているため、このような摂食障害が起こってしまうのではないか?

という「目標の低さ」に問題であるのではないか?といった視点はありません。

つまり、「考え方」「価値観が狂っている」ということで生じる問題をあたかも「心の問題」であるかのようにすり替えてしまっているのです。

現代人は「一人一人個性があって、信条・思想の自由がある」と幼少期から学校教育で学んできます。

しかし、実際社会に出てどうでしょうか?

個性は潰され、会社の言いなり、政府の言いなりまさに、会社や組織のために滅私奉公、最低30分前出社、1時間残業は仕事のうちなどといったサービス残業当たり前ちうった「部活社会」ではないでしょうか?

 

学生時代は「個性を大事」にしてもらっているにも関わらず、社会に出ると、「企業収益を上げるためのいち労働力」とみなされ「単なる駒使い」にされてしまう。

「食べていくためだけに、仕方なく会社に出社して仕事をする」これでは「人生に救いがない」そう感じるのは当然なのです。

 

「自分みたいな人間に給料を支払ってくれる会社があるだけマシ。」

そういった奴隷根性が身についてしまうのが日本社会なのです。

 そして「いつも誰かに必要とされたい」という不安定で、歪んだ他者評価に依存してしまうのです。

 

しかし、実際の日本はというと、ろくに仕事もせず、国民の税金を山分けしている上級国民と呼ばれる人たちが存在します。

 

彼らは庶民は日々競争に晒され、数字と向き合う日々で忙殺されている最中、税金という財源を湯水の如く使いまくり、まともに仕事もせず濡れ手に粟のような生活をしているのです。

庶民の給料は下がるのに、税金はあがる現状。

どんどん課徴されていく税金は一体どこに消えているのでしょうか?

ある意味において、これだけ不正や不平等がまかり通る現状を大人たちが知らない、見て見ぬふりをし続けるのが日本社会なのです。

日本において、大人の定義とは、

「疑問に思ったら負けだ」

「考える事を止めたら大人だ」

「大人の考えとは食べていければいいやと高望みしないこと」

といった「長い物には巻かれろ」「見て見ぬふりをしろ」「臭い物に蓋をする」を実践できる人のことを指すのです。

「悪を放置する、看過する社会」「矛盾を平然と受け入れる社会」それが日本社会でいう大人なのかもしれません。

 

ですから、世の中のサラリーマンや主婦を見ても、悩む事を止め、目の前の生活に日々忙殺されるのが大人だという考えが主流です。

 

しかし仮に、これが大人の考え方だとしたら、「子供たちは大人になりたい」と考えるでしょうか?

答えはノー。

人生が奴隷への片道切符だと気付いたら、大人になんかなりたくない、社会に出たくないと考えるのが自然なのです。

 

では、「奴隷になりたくない」と思う人はどのように生きればいいのでしょうか?

 

それは「考え続けること」です。

 

「人生は死ぬまで勉強」といいますが、これは何も、死ぬまで暗記試験の勉強とか資格試験をしたり学歴を積み重ね続ける努力をしなくてはならないということではありません。

 

「人生の最期まで努力し、成長することが幸せなんですよ」

 

という意味だと思います。

 

逆に人生は「金稼ぐためだけに、生活のためだけに会社に行って仕事をする」だけであったり、「定年退職して毎日暇。どうやって年金を食いつぶさない程度に暇つぶししようか?」と考えていきることほど詰まらない生き方はありません。

(「他人の顔色だけを伺って生きることが美徳」「他人から批判されないように生きる事が幸せ」ではないのです。)

 

努力し続けるには原動力となるモチベーションが必要になってきます。

そのように考えると、結局人生には「モチベーションを維持し続けられるような目標設定が必要」になってくるのです。

目標とは言い換えれば「生き甲斐」かもしれません。

 

それを、多くの大人や社会人たちは

「週末のサウナ」

「雑誌に載っていた有名なお店へ美味しい料理を食べに行く」

「海外旅行に行く」

「買い物をする」

「恋人とデートする」

「徹夜でゲームする、ギャンブルする」

「オシャレなカフェに友達とお茶しに行く」

といった、物質的な消費、かつお金のかかる娯楽でストレスを解消することを「人生の生き甲斐」「短期目標」として生活しているだけなのです。

では、そのような目標や生き甲斐をもって日々生活している人が、突然交通事故や、不慮の事故にあい、四肢切断されたり、半身不随となって寝たきり、車椅子生活になったらどうなるでしょうか?

多くの大人は、五体満足な状態で得られる娯楽によってでしか、幸せや喜びを感じることができません。

つまり、「考える事」「頭を使う事」で幸せや喜びを感じる習慣がないのです。

 

ですから、もし五体満足でなくなったら、「絶望」しかないのです。

日本人にとって、それが「死ぬとき」「死ぬこと」なのかもしれません。

 

日本人は物質的な富や名誉、人脈、快楽だけを追い求めて人生を生きているため死ぬ間際になって、それらの物があの世に持って行けない、全ておいて行かなくてはならない事に気付きます。

必死にかき集めてきたものが、役に立たない、実は価値がないと、人生の最期の最期に気付くのです。

霊はこの世に存在している。しかし、人々は霊的なものにどう対処すればいいか分かっていない。

適切な目標設定をせずに生きてきた人は、最期このようになるのです。

 

これは「アリとキリギリスの話」に似ています。

来る冬支度に備えて毎日せっせと餌を運び準備するアリと、「楽しければいい」と快楽主義に陥って本能の赴くままに生きるキリギリス。

結局、何も準備していないキリギリスは越冬できず凍え死ぬことになってしまう。

 

「老後生活する資金を貯金しておけばいいのか?」「社畜になって馬車馬のようにあ働く事が勤勉なのか?」

こう考える人がいるかもしれません。

 

私はそんな話はしていません。

人間の最期の時は、いつ来るかわかりません。

「来るべき、最期の時がいつ来ても良いように、人生を生きているか?」

ということなのです。

「今日一日、ただ忙しさに忙殺されて、あっという間に過ぎてしまった。取り敢えず、一日終わった。人生って一体何なんだろう。

休日まであと一日だから、難しいことは考えず取り敢えず、頑張ろう」

これはある意味において、キリギリスと同じ生き方です。

「今日一日終わればいい」目の前のことで一杯一杯で生きている人のことです。

 

「仕事しなければ食べていけないかもしれないから、やりたい事では食べていけないから、我慢して取り敢えず、会社へ行こう」

「特にやりたいこともないから、食べていくためにお金が必要、だから会社に行こう」

こんな生き方をしていて良いのか?という話です。

 

人生に目的を持って、その目的を果たすために、日々目標を立てて生活する。

 

会社や親や学校に目標を管理されて生きるのでなく、自分で目標を立てて日々努力して生きる。

これが正しい生き方ではないでしょうか?

 

会社のために、会社から課せられるノルマ達成のためには必死に働くのが日本人。

しかし、人生の目的を知らず、日々の目標もなく生きていることに、何の不安や危機感を感じないのです。

 

摂食障害、拒食症、過食症がもたらすものは、結局のところ、「自尊心を満たす」「他人から賞賛されたい」「他人から認められ、親から認められたら幸せだろう」といった、本当に小さな目標を持ってしか生きていない証拠なのです。

まるでかごの中で生きる鳥のような生活をしているのです。

籠の中の乙女 - Dogtooth -■2009年/ギリシャ/96分

 

目標が小さいのです。世界が小さいのです。価値観が狭いのです。

 

それはなぜか?

 

人生の目的を持っていないため、「自分に近しい人からの評価を得られれば、人生は幸せになれる」と思い込んでいるからです。

「親から認められたい」「友達から、同級生から一目置かれる存在になりたい」

では親が認めてくれました、友達が認めてくれました。

その後の人生はどうしますか?

親は一生認め続けてくれません。友達も同様です。

社会や価値観は日々変化していきます。

要求される能力、スキルも変化していきます。

外見的な物ばかり求めていても、人間の肉体はいずれ老います。

そして、親や友達の価値観も所詮は「籠の中で生きる鳥」のレベルなのです。

人生とは何たるや?という明確な答えもなく刹那的に生きているに過ぎないのです。

そんな人達から認められることがどれだけの価値があるのでしょうか?

 

「摂食障害」の人は、目標が低いのです。

「テストで良い点数を取る、親から褒められる」といった子供っぽい目標しか持っていないのです。

つまり、勉強ができても、どれだけ高学歴だとしても、「思考能力、考える能力そのものが低い」のです。

「学校で良い成績を取る」「有名大学に進学する」「有名企業に就職する」といった

「親を喜ばせる程度の能力、思考力しか身に着けてきていない」のです。

またその程度の能力で世の中が渡っていけると思っているのです。

 

それは摂食障害の人に限ったことではありません。

目的を持たず生きている人、正しい目的を知らない人は、目標設定ができません。

ですから、「日々何となく、楽しければいいや、今日一日平穏無事に終わればいいや」と心が死んでしまうのです。

(「食べていければ幸せだ」と本気で考えているのです)

 

人間は猿から進化したわけではありません。

私たち人間がどうして他の動物と違って、発達した脳を与えられたのでしょうか?

どうして、高度な思考ができるような、抽象的思考ができるような脳を与えられたのでしょうか?

 

「それをフルに使って生きることが幸せですよ」ということを言っているのではないでしょうか?

 

「宝の持ち腐れ」という言葉があります。

多くの人は、人生において、時速300kmでるスポーツカーに乗っているのにも関わらず、60km/hしか出さずに運転している。

ただ闇雲にスピードを出して走る、アクセルを踏みっぱなしで走ることが良いわけではありません。

それこそ、交通事故にあってしまいます。

ハンドル操作、状況判断、ブレーキング、スポーツカーには乗りこなすのに必要なスキルを沢山身に着ける必要があります。

 

しかし多くの人は「事故なく会社の往復通勤できればいいや」と思い、高性能エンジンを持つ車を運転しているのです。

 

「人生というレースで世界1位となって輝くんだ!」という人生を目標に持たなくてはならないのです。

 

しかし、世界一位になる目的がなくてはいけません。

 

「世界一になって沢山金をもらって、仕事もせず一生遊んで暮らす」ことが目的、幸せだと思っていてはいけないのです。

それこそ、途中で事故にあったりしたらお金や暇だけがあっても虚しい人生になってしまいますから。

 

人生の目的を知ってください。

 RAPT有料記事298(2018年7月30日)この世に楽して成功できる方法は一つも存在しない。真の実力を身につけた者だけが成功できる。

RAPT有料記事284(2018年6月11日)我々人間がこの世に生まれてきた目的は、霊魂の救いと成長のためだ。

 

そして、摂食障害に限らず、心の問題とは人生の目的を知って、自分にしかできない人生を生きるのだと決心して目標を設定することで解決するのです。

障害者年金に頼る、福祉手帳に頼る、そんな不確実な生き方をしていては、人生は暇つぶしで終わってしまい、最期は絶望しかありません。

今を生きるとは、快楽享楽を追究することではありません。

「目標を持って24時間365日生きること」これが「今を生きる」ことなのです。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自殺した人は一体どこへいく... | トップ | 精神病は文化が生み出すもの »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

精神科看護」カテゴリの最新記事