城名 |
北畠満雅陣地・大将陣山 |
住所 |
津市垂水 |
築城年 |
正長元年(1428) |
築城者 |
北畠満雅 |
形式 |
山頂平坦地 |
遺構 |
不明 |
規模 |
70m×70m程度 |
城主 |
北畠満雅 |
標高 |
42m |
比高 |
36m |
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満雅の挙兵Ⅰ 阿坂城合戦 |
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応永22年(1415)満雅は幕府問責のため蜂起した。この頃の北畠家は中南勢は元より北勢、大和まで勢力を保ち一大牙城を形成していた。 |
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四代将軍足利義持の5万の軍との初戦は雲出川を挟んだ戦いであったが北畠軍は押され最後に阿坂城に立てこもった。 |
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幕府軍は水を絶つ作戦に出、城兵は喉の渇きに悩んだ。満雅の案で城の端に並べた馬に一志白米をどんどんかけさせた。遥か遠くから見る敵陣からはその様子を見て「この城落とすのにいつまでかかる?}と困らせた。白米城(阿坂城)の伝承である。 |
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応永23年(1416) やがて足利方に内紛が起こり満雅と和睦を結ばざるを得なくなった。 |
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満雅の挙兵Ⅱ 正長の乱、岩田川合戦 |
歴史 |
正長元年(1428)、後小松上皇が北朝方彦仁親王を擁立することが確定的になると、満雅は小倉宮を奉じて同年8月再び挙兵した。幕府は慌てて土岐持頼を大将にして七千騎を伊勢に向かわせた。 |
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決戦の火ぶたは雲出川で切られた。一万の兵を率いた満雅は伊勢平原に出、雲出川を渡り敵に肉薄した。鎧には折れ矢がささくれ立ち、馬も何度も乗り換えた。北畠勢の気迫で幕府軍は一歩一歩後退した。満雅はこのまま岩田川に追い落とせと最後の突撃に移った。 |
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その時伏せていた赤松、山名の軍勢が横腹をついてなだれ込んできた。勢いを盛り返して反撃に出た敵は執拗で北畠軍は大混乱に陥った。 |
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夜陰に乗じて一旦引き体制を立て直してということもできたのに満雅はそれを嫌って野崎垣内篠田の森という場所で生長元年12月21日自害した。 |
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永享2年(1430)、満雅の弟顕雅は幕府との講和をはかり、伊勢国司職は満雅の子教具(のりとも)に安堵され、没収されていた所領(飯高・一志郡)が返還された。 |
書籍 |
三重国盗り物語(伊勢新聞社) |
環境 |
垂水の東雲寺裏手の丘陵端部に当たる、東端部の頂部が平坦であり、地元では岩田川合戦の時に満雅が陣を置いたとの伝承がある。 |
一族 |
北畠顕泰(父)---満雅(長男)---教具(長男) |
現地 |
平成28年8月現在現地は大規模工事中で草木が皆無なのでかえって土地の様子が分かる状態になっている。写真中央奥が伝承に伝わる場所・大将陣山と考えられる。 |
考察 |
垂水の陣地は満雅の挙兵Ⅱの時に使われたと思われる。理由① 挙兵Ⅰでは「雲出川を挟んだ戦い、、、北畠軍は押され最後に阿坂城に立てこもった。」 なので雲出川から北へは行っていない。 |
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理由② 挙兵Ⅱでは雲出川から岩田川まで攻勢に出ている。満雅は岩田川に追い落とせと考えるまで北側に幕府軍を追いつめている。 |
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理由③ そして満雅終焉の地と言われている場所が岩田川の手前数百mの所であり、激戦の地は垂水の陣地から岩田川の間と考えられる点である。 |
感想 |
垂水の陣地は満雅軍と幕府軍の壮絶な戦いの中の通過点であったと思われる。満雅はこの丘陵から幕府軍の様子を捉え更に決心を固め北に下ったと思われる。 |
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その後もこの辺りは在地領主から要衝の地として注目を注がれ続ける。 |
地図 |
https://www.google.co.jp/maps/@34.6922497,136.505176,441m/data=!3m1!1e3!4m2!6m1!1s1sE7i85-3qeA10HRT1ZDejbj3Ddw |
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