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三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

小牧長久手の戦い その①

2017-08-06 08:09:21 | 古里の歴史

 小牧・長久手の戦いはその名の示す通り愛知県

が主戦場であった。しかし、羽柴秀吉と織田信雄

・徳川方の戦いは南は三重県の中勢から北は北陸

まで広範囲に影響した。

 三重県教育委員会・竹田憲治氏の時系列データ

ベースから抜粋して三重県に関係の深い事柄と小

牧長久手周辺の事柄をを列記する。

その①

天正12年(1584)
 3月9日 秀吉軍の先手が3月11日には関に到着する予定となり、秀吉本隊も11日に坂本を出立予定であることを報じると共に、5~6日間は堅固に松ヶ島城を守備するよう指示。(秀吉→津川弥太郎・神田・中村
 3月12日 亀山城へ織田信雄家臣・林与五郎が攻撃してきたが防戦したことを了承。援軍として蒲生氏郷らを派遣することを通達した。(秀吉→関一政
 3月13日 各方面へ兵力の動員予定を伝える。先手 蒲生氏郷 甲賀から伊勢の間に三か所を「通路城」として普請を申し付ける。(秀吉→丹羽長秀
 3月13日 家康が清州に到着するので対面のため信雄も清州に入る。(信雄→吉村氏吉
 3月13日 水野勝成(家康家臣)が桑名に着陣したので神戸城の加勢として行くよう申し聞かせた。(信雄→土方雄久)
 3月15日 前日の峯城攻撃において秀吉軍の関一政の奮戦により勝利したことを賞する。(秀吉→関一政
 3月17日 信雄軍の松ヶ島城の包囲について、堀・柵を付けて一人も逃さないよう指示。船手については九鬼嘉隆と田丸直息の手勢で松ヶ島城の近くまで船を寄せて兵が海路で逃げないように対応するよう指示。(秀吉→田丸直息
 3月17日 水野勝成の神戸城が油断しているようなので早期に完成させるよう指示。(信雄→水野勝成)
 3月17日 本日、秀吉軍・森長可の陣である羽黒砦を松平家忠が攻撃して破ったことを賞する。(家康→関係者)
 3月19日 小牧城は「構」を堅固にして在城していることを伝え、各要害では夜は「かき」を出し「遠煹」を焼くことを指示。変事があれば急いで小牧城まで注進するよう指示。(家康→本多広孝・穂坂君吉)
 3月20日 信雄軍は松ヶ島城に滝川雄利が籠城、これに対して市場、惣城を破り、天守へ追いつめ兵2万余りで包囲中であることを報じる。
 神戸城には秀吉軍の滝川一益父子2千から3千が入城したと報じる。
 峯城は修築して浅野弥太夫と岡本良勝の両名(1,600~1,700)を留守居として残すことを報じる。
 明日21日に秀吉は美濃池尻に着陣予定なので池田恒興は森長可を同道しては池尻に来るよう指示。(秀吉→池田恒興
 3月22日 信雄が長島城に籠っていること、家康が一両日中に清州城へ寄ることを報じる。(渡辺清忠→某元行)
 3月23日 池田恒興の犬山城攻略を賞し、尾張一国を与えることを約束する。(秀吉→大御ち様・おゝちさま・養徳院・恒興の母)
 3月23日 明智城奪還について了承。夜討ちにより森長可の兵力を多く打ち取ったことを賞する。(家康→遠山半左衛門尉、遠山与助・遠山佐渡守)
 3月26日 信雄軍の峯城・神戸城・楠城などの城々を攻略して「一国平均」に申し付けことを報じる。
 家康は清州に居陣しているので27日には秀吉が渡河して清州近辺まで出兵する予定を報じる。(秀吉→佐竹義重)
 3月29日 昨日、秀吉は木曽川を渡河したこと、家康が小牧山城に在陣していることを報じる。
 秀吉が楽田城に到着したことを報じる。(秀吉→木曽義昌)
 4月2日 長浜の町人に対して尾張・針床まで鍬200挺を運ぶよう命じる。(秀吉→長浜町人中
 4月7日 信雄軍の松ヶ島城が落城したので松ヶ島城を受け取ったあとは留守居として富田一白と八重羽左衛門尉が在城し、津田盛月は秀吉の所(楽田城)へ来るよう指示。(秀吉→津田盛月・富田一白・八重羽左衛門尉
 4月8日 尾張では秀吉方が各所にを築き陣取りしてすべて要害とし、土手を築き、柵を付けるよう指示した。
 松ヶ島城は信雄の家臣滝川雄利を助命して、明け渡された城を受け取るように指示した。(秀吉→丹羽長秀
 4月8日 伊勢・伊賀の両国は制圧したことを報じる。(秀吉→毛利輝元
 4月8日 岩村城へ遠山氏が攻撃したことを賞した。(当時岩村城森長可が領有していた。)(家康→遠山半左衛門尉)
 4月10日 松ヶ島城では滝川雄利が退城したことを報じる。(筒井順慶→某)
 4月10日 昨日(4月9日)岩崎において徳川軍が池田恒興・森長可などを討ったことを報じる。秀吉を楽田城に追い詰め今日明日中にも討ち果たす決意を報じる。(信雄→吉村氏吉
 4月10日 9日の長久手での徳川軍の大勝を報じる。(家康→赤井時直)
 4月11日 養徳院に対して長久手の戦いにおける池田恒興の戦死に関する訃報を述べる。(秀吉→養徳院)
 4月11日 9日、池田恒興・森長可が岩崎城を攻略した後長久手の戦いで敗北したことを報じる。松ヶ島城を落城させたので、その攻略にあたっていた羽柴秀長や筒井順慶の人数全て秀吉のいる尾張へ着陣したことを報じる。(秀吉→木曽義昌)
 4月11日 熱田において普請を行い堅固に守備している旨の注進に対して賞する。(家康→熱田宮惣中
 4月12日 信雄方の木造氏が籠城した戸木城を攻撃するための構築に関することについて、各自が相談して申し付けるよう指示。(秀吉→某)
 4月12日 戸木城がいまだ決着しないので小島民部少輔と相談して、戸木城攻撃のためのを四つ申し付けるよう指示。松ヶ島城に居る八重羽左衛門尉、富田一白、津田盛月は交代で構築の現場へ赴いて様子を見計らい申し付けるよう指示。構築のことは田丸直昌、榊原刑部少輔、小島民部少輔に申し付けるよう指示したので彼ら三人と相談するよう指示。(秀吉→八重羽左衛門尉、富田一白、津田盛月
 4月12日 二つは小島民部少輔一つは田丸直昌、もう一つは榊原刑部少輔が申し付けるよう指示。4か所のについては各自が相談して一人も逃さないよう普請を堅固にするよう指示。(秀吉→田丸直昌、榊原刑部少輔、小島民部少輔
 5月24日 萱生に砦を構えた事を了承。(秀吉→滝川雄利
 6月4日 伊勢方面では人数を遣わして城々を攻略し「一国平均」を申し付けた。及び伊賀国も平定したことを報じる。(秀吉→佐竹義重)
 7月5日 蟹江城の落により籠城していた滝川一益、一忠は、去る3日に楠まですべての人数を召し連れて退去した旨の注進があったことを報じる。(秀吉→前野儀右衛門尉)(秀吉→加藤清正・加須屋真雄)(秀吉→森寺清右衛門)
 7月7日 神戸城の守備について再度、滝川益重を神戸城派遣することを伝える。各自が油断せず様子を秀吉に報告するよう指示。(秀吉→小野木重次・大塩正貞・津田小八郎・富田一白・津田盛月)
 7月7日 蟹江城が落城、滝川一益・一忠が退城したので徳川方の蟹江城に対して神戸城に人数を遣わしたことを報じる。そなたの人数をすべて召し連れてこの書状が届き次第に神戸へ行き、大塩正貞、津田小八郎、小野木重次と相談して「番」等のことを堅固に申し付けることを指示。鉄砲などを持たせるよう指示。(秀吉→一柳直末
 7月7日 秀吉は大坂に帰っていること、各自はそれぞれの城に在陣していること、数日中に伊勢へ秀吉方が出兵する予定を報じる。(秀吉→分部光嘉
 7月9日 神戸方面に敵が出兵してきた旨の注進を受けたことを了承。安濃津城か、上野城かに敵が出陣してきた場合は秀吉が出馬して討ち果たすべきことを伝える。人数を引き続き遣わすことを伝えるとともに、安濃津城においても油断なきよう申し付けることを織田信包へ申し入れるよう依頼。(秀吉→分部光嘉

 

 



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