三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

新城発見か!? 大阿坂城(仮称)

2018-06-03 22:24:41 | 松阪の城

 

 

城名
 大阿坂城(仮称)
読み
 おおあざかじょう
別名(候補)
 鳥丘城(とりおかじょう)
住所
 松阪市大阿坂町
築城年代
 南北朝時代(グループ内他説あり)
築城者 城主
 大宮氏か
形式
 丘城
遺構
 曲輪、竪堀、見張台
規模
 城域全体 東西200m×南北200m
 主郭 東西80m×南北70m
一族
  大宮氏は阿坂城城主である。(北畠大老)・大宮入道含忍斎、以下武蔵守(*1)、伯耆守、兵部少輔(*2)、大之丞(*3)、更に数名の名が北畠家臣帳に載る。
家臣
 北畠家臣
標高 60~90m 比高 30~60m
歴史
 この地は古くから中勢及び南勢を守る前衛地として重要視されてきた。それを証明するように歴史上の大きな戦いが何度も起きている。
経緯
  ① 1352年、南北朝争乱に初めて登場する。9月5日、細川元氏、伊勢国に入り南朝軍と戦う。10月4日、土岐頼康もこれに参陣し、阿坂城中村口に戦い南朝軍はこれを撃破する。
  ② 1415年、5月16日、室町(足利)幕府軍、北畠満雅が籠城する阿坂城を陥落させる。満雅が幕府軍を迎え撃った戦いで、兵糧を絶たれた北畠軍が山頂で馬の背に白米を流すようにして馬を洗う姿を演じて幕府軍を欺き撃退したことで白米城の異名を残す。後、和解が成立。
  ③ 1425年-1428年 満雅2回目の戦い 阿坂城で足利軍(室町幕府)に反旗をひるがえし、再び挙兵するが壮絶な岩田川の戦いで満雅討死。
  ④ 1569年、北畠具教のとき永禄12年の戦い。戦国時代、織田信長伊勢侵攻の攻撃により落城した。このとき大宮入道含忍斎、羽柴秀吉に討たれる。阿坂城は以後廃城となる。 
書籍
 周辺にある阿坂城、高城、枳城は市の発掘調査などによりたくさんの資料がのこるが、大阿坂城についての史料、資料はいまだ見つけていない。
 唯一、 「阿坂史跡マップ」(阿坂まちづくり協議会)の中に「鳥岡観音」とあり、それによると『明治地誌によると、、(永禄12年の戦いで亡くなった)大宮入道含忍斉の遺体を埋めた所で、鳥岡墓と称す』という一文がかすかなヒントを与えてくれている。
環境
  伊勢平野がくびれて細くなっている中勢部に位置し、南進する敵勢を迎え撃つにふさわしく、また多気に向かう中村川の入り口を守るに好都合な地勢である。三渡川の源流部でもあり西から東の伊勢湾に流れる川が堀となって守りを固めている。
 この大阿坂城の西1.4Kmに阿坂城(白米城、椎ノ木城)、南西1.2Kmに枳城、北0.5Kmに高城を見る。ちょうど枳城と高城の中間に位置し、これら三つの出城が連携して本城である阿坂城を守っている位置関係にある。
 枡形山から東に派生する主尾根の先端部舌状丘陵地にある。枡形山に登る南登城道の入り口を抑えているようである。
考察
 本城の阿坂城、出城としてすでに認定されている高城と枳城、そしてこの大阿坂城はそれぞれがみな形を同じくしていないことが特徴とも言える。
 先述したように200年の間に歴史上の戦いが幾度か行われたことによって都度、増改築されたかも知れない時間差による異なりなのか、あるいは大宮氏の多数の親族が北畠氏を守るためにそれぞれの特色を生かして親族ネットワークにより築城した結果なのだろうか。
 まったくの逆説として、本城の阿坂城を攻めるための羅城、つまり織田軍の陣城であるかも知れない、緊急的に造られた城かも知れない。そんな守りには強くなさそうな駐屯地としてだけの城なのかもしれない。
感想
 「高城」は大きく平らな曲輪を中心に周囲を高土塁で防御する居館形式であり、「枳城」は単郭プリン型で標高とその位置を生かした見張台的山城形式である。
 本城である「阿坂城」はその標高を生かした山城形式である。白米城の単郭プリン形と一方虎口や土塁を持つ椎ノ木城とは築城時期が異なるという説もあり、本城としての威厳を保つ。
 そしてこの「大阿坂城」はそれらとはまた違った形式で造られていると思う。城と決定づけるに必要な山城の必須オプション「堀切」「土塁」の姿は薄い。標高の低さもあって、とても守りに固いとは言い難い造りである。にわか造りの気配さえ感じる。
 また単郭プリン形のように単純明快ではなく、あちらこちらに施設が分散し、防御を集中させる意向は希薄でその点からも守りが固いとは言い難い造りである。
 東西に延びる丘陵の西側と東側の2か所に何段かの削平地を連ねた曲輪群を持ち、それがまるで人間が両腕で間の谷を抱えるようなロケーションとなっている。
 その城域は曲輪の配置から北に向かって防御をしているようにも見受けられる。
結論
 限りなく城に近い構造物であるが、とても素人の手に負える案件ではない。
追記
 平成30年6月5日 ある造園業の方にご同伴を願いこの城に入った。
 北の竪堀の途中にある大木の樹齢を推定していただくためである。
 結果は、樹種;椎木 樹齢200年から250年 実生 状態;肥沃な土壌で現在も健康な樹勢である。
 思惑の樹齢450年などの推定には至らなかった。竪堀が造られてから200年~250年後に実生で生えた椎木であると考えられる。
*1 下図、樋田清砂氏作成の「北畠氏家臣団配置図」によると、「阿坂政所・大宮武蔵守」と表示され、居城所在地不明となっている点、研究のヒントになりそうである。政所の表現からは居館風の施設が想像される。大宮武蔵守は家臣帳では大宮氏の2番目の位置付けである。これらのことと、周辺4城、阿坂城・枳城・高城・本城との関係付けの整理ができればと期待する。
*2 大宮兵部少輔;軍奉行
*3 大宮大之丞は大弓を引かせたらこの上なく達者で力持ちで、秀吉が阿坂城を攻めるとき矢で太ももを射抜かれたといわれている。
 最終章
 ここが山城と仮定した場合、山城の研究材料として格好の物件ではないだろうか。阿坂城館群として、中南勢の歴史観が塗り替えられるかもしれない魅力的な物件と思われる。

 これが平成30年6月6日現在の状況と心境である。

 

 



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