城名 |
矢田城 |
読み |
やたじょう |
住所 |
多気町矢田 |
築城者 |
2説あり(以下参照) |
形式 |
山城(独立山頂) |
遺構 |
曲輪、土塁、堀切、虎口、櫓台 |
規模 |
150×90m(主郭50×40m) |
標高 129m 比高 77m |
経緯 |
以下は笠木館にある説明板の記述内容。おおむね各資料はこのような論調である。 |
①阪内氏の居館跡として断定されている。「神宮文庫」、寛正年間(約1460)頃より。平時には笠木御所に居住をして、有時(事)には1km離れた矢田城に立籠りの砦としていた。 |
②永禄12年(1569)10月4日、以降、具教・具房父子はこの笠木阪内の御所に退城したと「信長公記」に記されている。 |
③天正4年(1576)11月、北畠具教は三瀬の館にて謀殺され、当時の笠木城主阪内兵庫頭具義(国司の聟・むこ)も田丸城で鏖殺(おうさつ)された。 |
書籍 |
『伊勢の中世/第75号(文責 成瀬匡章)』の築城に関する見解は異なるものがあるので要旨を記す。 |
「矢田城の虎口は中勢地方ないしは、北畠氏配下の諸城にはない縄張である。 |
割合発達した立岡城でも平入り虎口である。北畠氏の重要拠点であった阿坂城でもこのような虎口は見られない。 |
一番類似したものとして、阿坂城の出城・高城が挙げられる。但し高城は織田氏の南伊勢侵攻時に織田方によって構築された可能性が指摘されている。(注1) |
虎口の形態を見る限り高城同様、築城に織田氏が関与した可能性が考えられる。 |
そう仮定すると笠木館の詰城というよりは笠木館に対するもので、その時期は永禄12年から天正4年と限定することができ、南伊勢の政情をみるとき貴重な遺構である。」 |
感想 |
この城の一番の見所は主郭虎口である。狭い山頂ながら虎口関係に占める面積比率は比較的大きい。 |
気になるのは虎口の方位である。成瀬氏が指摘の笠木館に対するものだとすると、それよりほぼ正反対の方向に虎口及び虎口に付随する防御施設が備わっている点である。 |
注1 |
山本浩之「阿坂城・大河内城と周辺城館について」『中世城館研究』第13号 中世城郭研究会 1999 |
地図 |
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