いわゆる神の存在証明がもたらす意味について

創造主である神の存在証明をして、この神が造ったこの世界の成り立ちと仕組みを説明し、人類史のリセットと再構築を試みる。

自然科学の定義の変更  自然法則、エネルギー、偶然の法則

2010-01-28 01:51:58 | 一口解説/一口メモ
○このブログを初めて読んでくださる方は次の文を先に読んで下さい
 「哲学の道具箱」という本で哲学的思考の大前提を再確認する 2009-07-02 05:01 掲載
 この文は、紙に印字して良く読んでくださることを、お願いいたします。

○一般法則論の世界観の図解
 以下のものを参考に、入れ子構造の図解を、まずしてください。
 入れ子構造の描き方や記号の意味は、このブログの2008年12月3日の文をお読みください。
 この文は、紙に印字してよく読んでくださることをお願いします。

世界Ⅰ 〔世界Ⅱ「魔境  (世界Ⅲ(世界Ⅳ  (世界Ⅴ (世界Ⅵ    (世界Ⅶ)))))」〕 世界Ⅰ
         妄想
Ω神= 〔A→   ∥Z→ (B→ (C→   (D→  (H→E→F→G→(M)))))∥〕    Ω=神の国
  ∥        ↑  理法  自然   物的   俗・人・子・文歴  記憶
(心的なD)    M(記憶)        Ω人   人・生・孫・化史  ↓
唯一絶対


○科学の定義を変更します
 自然科学という学問は、この世界の成り立ちと仕組み、特に物質で出来た世界を、自然法則とエネルギーの2語で説明し尽くせると考える学問、とこれまでここでは繰り返し述べてきました。
 しかし、この考え方は、不完全だと気付きました。
 そこで、自然科学について、新しい定義をします。

○私たちヒトと言う存在とヒトが生れ住むこの世界の成り立ちと仕組みを何語で説明できるか?
 一般法則論では、これまで、自然科学は、この世界の成り立ちと仕組みを、特に物質的な世界/物質界/物質世界の成り立ちと仕組みを、自然法則とエネルギーの2語で説明し尽くそうという学問的理論だ、と説明して来ました。
 これに対して、物質世界とヒトの心の世界(精神界/精神的な世界/精神世界)とを合わせて一つに総合化して統一的に説明するには、Ω神(オメガシン)=創造主である神(とその天地創造の目的)+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きで説明する必要がある、と一般法則論では説明して来ました。
 即ち、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)から成るこの世界の成り立ちと仕組みの全体を丸ごと説明するには、Ω神=創造主である神(とその天地創造の目的)、自然法則、エネルギーの3語が必要不可欠だ、ということです。
 この3語から論理必然的に派生する、例えば、創造主である神の天地創造の目的、自然法則の働き方の原理、自然法則とエネルギーとの間の一体不可分の関係とその働きなど、基本的な概念も必要とします。
 なお、これらは、一般法則論を正確に精密に説明するために必要な専門的な術語/専門語のつもりです。
 この点は無条件に受け入れ下さらないと、一般法則論の説明が分からなくなります。

○自然科学を再定義 自然法則+エネルギー+偶然の法則の3語
 これまで、自然科学は、この世界の成り立ちと仕組みを自然法則とエネルギーの2語で説明し尽くそうとする学問的な理論だ、と一般法則論では言ってきました。
 しかし、自然科学の実際に即して正確に言えばーーー、
 自然科学は、自然法則とエネルギーの2語に加えて、この世界の成り立ちと仕組みの創造主である神に当る存在を認めないことに端を発した「(確率的)偶然」という概念を持ち出してこの世界の成り立ちと仕組みを説明するもの、と定義すべきもののようです。
 例えば、137億年前のビック・バンに始まったとされる宇宙の創世は、量子論的な偶然の揺らぎに基づいて始まった、と天文物理学者は主張します。
 この結果、偶然に造られたこの世界の成り立ちと仕組みには、存在理由も存在目的も無い、と自然科学者は断言して憚りません。
 更に、この世界の成り立ちと仕組みの中に、偶然の積み重ねで行われた進化の過程を経て生れたヒトにも、最初から、何の存在理由も存在目的も無い!!! と生物学者は断定しています。
 これは、一般法則論者の私が勝手に決め付けている話では無いことは、常識に属する、と申し上げても良いでしょう。

○天然自然の存在の創造主である神を認めない不都合は自然科学者も直感的に知っているはず
 自然科学者が、天地創造の瞬間に、偶然の法則を持ち出さなければならなかったのは、創造主である神そのものか、これに代わる何かの存在抜きには、天地創造が行われなかった、と直感的に理解していたからでしょう。
 自然科学者も、自然法則とエネルギーの2つの概念のみでは天地創造の瞬間を説明するのは無理で、自然法則とエネルギーの他に、これらをいわば道具にして天地創造を行った存在、いわゆる創造主である神が必要だ、と気付いているでしょう
 しかし、自然科学者には、一般法則論で「慣性の法則」を自覚的な知識にすることによってその存在証明をしている天然自然の存在の創造主である神を思いつかなかったのでしょう。
 創造主である神と言えば、市井の人たちの常識と同じように、宗教学や社会学が学問の対象にしている文化・文明現象の宗教信仰の中のヒトがでっち上げた物と観念されている創造主である神しか、自然科学者も知らず、これが創造主である神の存在に関する全ての知識と勝手に思い込んでいることにあるのでしょう。
 それに、一般法則論で説明しているように、自然科学者も含めて、全てのヒトは、世界Ⅰ~世界Ⅴ~世界Ⅶ(+Z)から成るこの世界の成り立ちと仕組みの絶対的かつ宇宙大で普遍的な存在の天然自然の創造主であるΩ神の化身かつ分身の存在としてのヒトです。
 この情報は、自然科学者の無意識にも生得的に書き込まれています。
 ということは、この世界は物質のみで全て出来ている世界のみが唯一の実在という唯物論者の自然科学者も、一般法則論で言う意味の悟りの体験ができるということです。
 言い換えると、唯物論者の自然科学者にも、一般法則論が理解し受け入れることができる、ということです。

○偶然と言う概念は偶然を否定する因果必然の自然法則の概念と絶対的に矛盾します
 この世界の成り立ちと仕組みを、自然法則+エネルギー+偶然の法則の3語で説明する。
 しかし、偶然という概念は、自然法則が「偶然を否定する」因果必然の法則であるという科学者一般の理解と本質的に矛盾します。
 この点に関して、天文物理学者の説明はありません。
 なお、自然法則とは、原因と結果の間を客観的にかつ一義的/一意的に明確にかつ確定的に結び付けている因果必然の天然自然の法則です。
 天然自然の法則とは、法律やゲームの規則のような、ヒトが人工的に作ったもの、では無い、という意味です。

○偶然という概念と因果必然の天然自然の法則である自然法則とが矛盾する理論的な根拠の説明
 自然科学の常識では、137億年前の天地創造の瞬間にも、自然法則が存在し働いていたことを認めています。
 その自然法則は、今も少しも変わらずにそのままの形で働いていることも、自然科学者は知っています。
 その自然法則は、今も少しも変わらずにそのままの形で働いていることも、自然科学者は知っています。
 この根拠は、自然法則は「時間という属性」を全く知らず、今と昔の区別を自然法則は知らないことにあります。そこで、例えばVTRに録画した映像を逆回しに再生することができるわけです。なお、時間と言う属性を担っているのは、エネルギーの専売特許的な役割です。
 そして、自然法則は、偶然の出来事を絶対的に否定する天然自然の法則です。
 自然科学者もこのことは知っています。
 そこで、それがたとえ天地創造の最初の瞬間だろうと、因果必然の天然自然の法則とこれを否定する偶然の法則が同時に存在して一緒に、或いは因果必然の法則と偶然の法則とが順次に働いた、というのは無理のある考え方/理論です。

○正しい考え方
 ヒトの存在を含むこの世界の成り立ちと仕組みを説明するのに、自然法則+エネルギー+偶然の法則の3語では、不都合で具合が悪いのは明らかです。 
 正しくは、物質世界だけでなく、精神世界も丸ごと説明できる、Ω神=創造主である神(とその天地創造の目的)+自然法則+エネルギーの三位一体不可分の存在とその働きでこの世界の成り立ちと仕組みを説明するのが正解でしょう。
 これにより、天然自然の存在の創造主である神の存在証明も、ヒトの持つ意識のある心の起源とその役割も、ヒトとヒトの住む世界の存在目的等も無理なく自然に説明できることになります。

○偶然の法則を認める不都合な真実
 自然科学者/科学的技術者/科学哲学者までが偶然の法則の存在を常識にしています。
 こう申し上げても、決して事実には反しないでしょう。
 しかし、この常識がもたらす弊害は少なくはありません。
 つまり、例えば、欠陥商品/欠陥製品に基づく事故等を、技術者等が、偶然の所為にして対応が遅れたり、責任逃れをしたりすることです。
 このことに関する詳しい考察は、別の文にします。


 例により、誤記・誤字・脱字等がありましたら、気付き次第訂正します。
 書き込み後、二日くらいは、訂正や加筆を繰り返すのが習慣になりましたので、よろしくお願いいたします。

3 コメント

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【哲】科学の始め (ガイア)
2010-01-28 06:46:51
【点と線と面】

私は疑問だ。面に点は無限にとれると言うが, それはどうだろうか。

そもそも点は可視的でないし, 分けることも出来ない。にも拘わらず, 面から無限に捉えられると言うのはおかしくないか。いや, おかしい。何故, 分けることが可能なのか。

それは紛れもなく, 0(点)を偽装した1(存在)だからである。

【0∞1】

0は質であり事だ。つまり存在の1とて切り離すことの出来ない事であり, 1ですら質的な変化の前には絶対に保存出来ない。

ならば, 面から捉えられる疑惑つきの点とは, 質的な変化の中に絶対に保存できない粒(物)のことではなかろうか。

因果とは, 粒と無数の軌道を表す法則性。中道とは, 因果の破綻に伴う己意志の解放と, 俯瞰者としての自我の確立, 物に対する執着の終焉と柔軟な捉え方(認識), そして, これらを機軸とする物事の確立である。

結局, 私は点が膨張した不可分の面を観ているのだ。



《‥ああ‥物語は美しい。酷く滑稽なほどに‥》


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【哲】真理 (ガイア)
2010-01-28 06:47:23
【因果の壊れと中道のみち】

【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。

原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。

ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。

即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。


《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』‐中道のみち‐》


【知・法の根本】

如何なるものも信じているから成り立っている。私自身は宗教が大嫌いで, 哲学とこれを基礎とする科学さえあれば, 人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが, あくまで信じているからこそ相手が物か人か, はたまた両方をもつ対象なのである。

宗教こそが最も有害である為, 哲人はこれを粉砕し, 想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に, 如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり, 当然, 己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪である。これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし, 偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。

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Unknown (一般法則論者)
2010-01-30 01:17:46
 私と言う存在を造った創造主である神に、私は支配されないという考え方は、私の理解を超えます。
・・・・・
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