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あの本は読まれているか 翌日、『ドクトル・ジバゴ』は西ベルリンへ向かった

2020年07月20日 | もう一冊読んでみた
あの本は読まれているか/ラーラ・プレスコット  2020.7.20

ラーラ・プレスコットが、 『あの本は読まれているか』 を書くきっかけになったのは、

 「二〇一四年、CIAはドクトル・ジバゴ作戦に関する九十九の書類を機密解除した」 

からです。 「あの本」とは、小説 『ドクトル・ジバゴ』 のこと。

年配の方には、ドクトル・ジバゴは、青春時代の懐かしい小説であり、映画かも知れません。
時々、耳にする「ララのテーマ」は、過ぎ去りし昔の甘い思い出。
暫し時の流れを忘れる楽しい時間です。

動画を検索(ララのテーマ曲)してみました。

いろいろ有ります。
短い動画の内容ですが、ラブロマンスだけでないものを選んでみました。

    ドクトル・ジバゴ

短い動画でも、少しはストーリーを重視したい向きには。

   Best scene of Docteur Jivago with Lara's Theme - Maurice Jarre 


ラーラ・プレスコットは、小説の中で 『ドクトル・ジバゴ』 について、次のように書いています。

『ドクトル・ジバゴ』は、ソ連でもつとも有名な存命の作家ボリス・パステルナークによって書かれ、十月革命批判と、いわゆる破壊活動的な内容のために、共産圏において禁書となっていた。
 一見したところ、ユーリー・ジバゴとラーラ・アンティボワの悲恋についての壮大な物語が、どのようにして武器として利用しうるのかは明らかではなかったけれど、CIAは常に建設的だった。

 初期の内部資料には、『ドクトル・ジバゴ』は「スターリンの死後、ソ連の作家によるもつとも異端な文学作品」で、「傷つきやすく知的な市民の人生に取って、ソ連の体制がどれほどの影響を持っているかについて、控えめながら非常に鋭敏に示されている」ため、「素晴らしい戦略的価値」がある、と書かれている。言い換えれば、完璧だということだ。

 翌日、『ドクトル・ジバゴ』は西ベルリンへ向かった。セルジオはそこで原稿をフェルトリネッリに手渡し、フェルトリネッリがそれをミラノまで持っていくことになっていた。

 「文学のほうが戦車の製造より大切だ」スターリンはよくそう口にしたそうだ。

もう少し詳しく解説すると。

 『ドクトル・ジバゴ』(Доктор Живаго, 英語: Doctor Zhivago)は、ソ連の作家ボリス・パステルナークの小説。 1957年出版。
ロシア革命の混乱に翻弄される、主人公で医師のユーリー・ジバゴと恋人ララの運命を描いた大河小説。
「戦争と革命の最中でも、人間は愛を失わない」内容でノーベル文学賞を授与された。

 パステルナークが住んでいたソ連では自国の社会像が赤裸々に込められた『ドクトル・ジバゴ』はロシア革命を批判する作品であると考えられたために発表・出版はできず、1957年、イタリアで刊行され、世界的に知られることになった。
18カ国に出版され、翌年にはノーベル文学賞がパステルナークに授与されることになったが、ソ連共産党がパステルナークをソ連の作家同盟から除名・追放すると宣告するなどして受賞の辞退を強制した。
受賞すれば亡命を余儀なくされると考えたパステルナークは「母国を去ることは、死に等しい」と言い受賞を辞退した。
これは、政治的な理由でノーベル賞の受賞を辞退された初の例になった。

 ソ連の共産党は「(『ドクトル・ジバゴ』は)革命が人類の進歩と幸福に必ずしも寄与しないことを証明しようとした無謀な試みである」と非難した。
当時「社会主義革命の輸出」をしていたソ連政府にとっては「ロシア革命は人類史の大きな進歩である」という政府の見解に疑問符をつけることは許しがたいことであった。

 ただし、ノーベル委員会はこの辞退を認めず、一方的に賞を贈った。
このため、パステルナークは辞退扱いにはなっておらず、公式に受賞者として扱われている。
ソ連国内での発行禁止が解けるのは、1988年である。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


    
ドクトル・ジバゴ 映画の解説


 『ドクトル・ジバゴ』(Doctor Zhivago)は、1965年のアメリカ合衆国・イタリアの恋愛ドラマ映画。
監督はイギリスのデヴィッド・リーン、出演はオマー・シャリフとジュリー・クリスティなど。
原作はロシアの作家、ボリス・パステルナークによる同名小説『ドクトル・ジバゴ』。
モーリス・ジャールによる挿入曲「ラーラのテーマ」が有名。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


レンタルビデオ店で、『ドクトル・ジバゴ』を借りてきました。
ラブロマンスのコーナには見当たらなかった。
洋画史劇スペルタクルで見つけました。
収録時間は、200分の大作です。

ぼくは、ラブロマンスが苦手ですが、『ドクトル・ジバゴ』は単なるラブロマンスではなく、美しい自然の風景描写、ロシア革命時の時代背景がよく表現されています。
感動的な映画でした。


さて、「あの本は読まれているか」に戻りましょう。

厳しい東西冷戦時代の話です。

 「悲劇を美化することができるのは、恵まれた人間だけです」

 「人間関係はすべてちょっとした省略の上に成り立ってるのさ」

登場人物の話を抜き出してみました。

※イリーナ

 けっして思わず見つめずにはいられないような女ではないと思っていた。母はいつも言っていた。おまえはじっくり見て初めてその真価がわかるタイプだよ、と。それに、正直言って、わたしは目立つのが苦手だ。人から注目されないほうが、人生は楽だった。たとえば男達たちから口笛を吹かれたり、バッグで胸を隠さずにはいられないような言葉をかけられたり、どこえ行っても視線を向けられたりしないほうが。

 人から気づかれないという彼女の才能は、人に気づかれずにはすまなかった。

 これまで一度も母なる国に行ったことのないわたしであったが、彼らはわたしの知らないロシア人だった。彼らはあまりにも母と違っており、そう思うとせつなさを感じた。


※イリーナの母

 アンダーソンはわたしたちひとりひとりと目を合わせたが、わたしはいつも母から教えられているように、相手の目を真っすぐに見つめ返した。「ちゃんと目を合わせないと、相手に見くびられてしまうよ、イリーナ」母はいつもそう言った。「とりわけ、男からね」

 あるとき、店のウィンドウに映った自分の横顔を見ているあたしに気づいた母は足を止め、きれいな女は美しさが色あせたとき何か頼りにできるものを持っていなければ、いまに何も手元に残らなくなるのよと告げた。「そして、美しさは必ず色あせるの」と続けた。あたしには何も頼るものがなくなるの? それを思い知らされるまでに、あとどれくらいの時間が残されている?


※サリー

 その最初のパーティーであたしはツバメになった。神から与えられた、情報収集の才能を発揮する女のことだ。この才能を、あたしは思春期のころから身につけはじめており、二十代で磨きをかけ、三十代で完璧なものに研ぎ澄ました。権力者たちはあたしを利用していると思っていたが、常にその反対だった。あたしの才能が、彼らにそうと気づかせていなかったのである。

 あたしもそうだけれど、一部の者にとって、権力はどんな麻薬やセックスよりも、または心臓の鼓動を速めるそれ以外のいかなる手段よりも、中毒性がある。

 あたしは二重スパイを見つけ出すよう訓練された。脅迫を受けても冷静さを保ち、諜報活動においてはすぐれた能力を持ち、流れ者で、すぐに退屈する。野心はあるものの、対象は短期的な目標のみ。永続的な人間関係を築くことができない。二重スパイは、自身の利益----金、権力、イデオロギー、復讐のために、しばしば裏切る。あたしはこうした素質に通じているし、それを見抜くよう訓練された。ならば、自分にそうした素質があることに気づくのに、なぜこれほど時間がかかったのだろう?

 あたしはヘンリー・レネットの身に何があったのかは尋ねなかったし、知りたくなかった。一年間、あたしは何よりも復讐を望んでいた。ヘンリーのせいで解雇に追いこまれてからというもの、あいつを破滅させたかったばかりか、何もかも焼きつくしたかった。でも、結局は、ヘンリーの破滅を確認してかすかに慰められたにすぎない。怒りのあとに虚しく残るのは、悲しみなのだ。綿あめのように、復讐の甘さはただちに消滅する。

 サリーはわたしの肩を小突いた。「あたしが何を言っているか、わかる?」
 「変化は内側から始まる」わたしは言った。
 「そのとおり」



※オリガ

 尋問者であるあなたは、記憶がどれほどあてにならないかよくご存じのはずです。人の心はけっして一部始終をありのままに記憶することができないのです。


※ボリス

 ボリスは、車で連れ去られたティツィアンにどんなことが起こったのだろうと幾度も想像してきた。自分がティツィアンの運命について想像しなければ、友はひとりきりで苦しむことになると信じているからだ。ボリスはよく自分に言い聞かせる。友が生きている可能性はまだあると。

 「当時は作曲家になりたかったんだ、若いころは、多少の才能はあったが、自分が望むほどの才能はなかった。若者の夢というものは、そういうものだろう? だいたい常に情熱が才能を上まわっているんだよ」


※テディ

 ドストエフスキーは霧のなかでぼくに縄を投げ、引っ張り上げようとしてくれた。彼が書いた文章、「人間の存在の神秘は、単に生きていることにあるのではなく、なんのために生きるかを見つけることにある」を読んだとき、ぼくは思った。そうだ! ぼくは若者ならでは感覚で確信した。心の奥底に、自分はロシア人の魂を持っていると。


※CIAのタイピストたちのたわいのない話

 「それにしても、スプートニクって何の名前?」
 「ジャガイモかしらね」ジュディが言った。
 「旅の仲間、という意味よ」イリーナが言った。「すごく詩的な名前だと思う」
 「とんでもない」ノーマが異を唱えた。「ゾッとするわ」
 「十五回」
 「え?」わたしたちは声をあげた。
 「その速さで回っているんなら、日に十五回わたしたちの頭上を通過する」
 わたしたちは全員、上を見た。


人類が、宇宙に第一歩を踏みだし始めた頃の話です。


   『 あの本は読まれているか/ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳/東京創元社 』





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