TOP ABOUT SITEMAP POLICY HELP
日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
2005年3月
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
前月 翌月
2006年03月
2006年02月
2006年01月
2005年12月
2005年11月
2005年10月
2005年09月
2005年08月
2005年07月
2005年06月
2005年05月
2005年04月
2005年03月
2005年02月
2005年01月
2004年12月
2004年11月
2004年10月
3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
BLOG


MATRIX

Vol.33 Web2.0的信頼の構築

URLをメールで送信する URLをメールで送信する
(for PC & MOBILE)

XML

Powerd by gooBLOG


※ご意見・ご要望は編集部へ
高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
Hotwired / Blog / 高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
なんだか世の中、70年代の風が吹いているようで、「流行通信」5月号が 70年代ファッションの大特集をしている。(今、本屋さんに)
その中に私は70s MUSICでグラムロックについて書かせていただいた。(90p)
見開きの片方は町田康さんが、パンクについて書いている。
私のブログも、シャレで、お正月休みに約10日間ぐらいのつもりで70年代の旅に出て、春休みだというのにまだ旅は続行中だ。
そんななか、この間はシンコーミュージックでTレックスに関しての取材があった。リンゴスター監督、マークボラン主演のライブ映画「BORN TO BOOIE」をデヴィッド・ボイとトニー・ヴィスコンテイがあらたに未編集フィイルムや当時の関係の証言を加えて、追加収録したDVDが出るのだそうだ。デヴィッドたち、このDVDをマークの忘れ形見であるローラン・ボランへのプレゼントと考えているようだ。(リンゴスターやエルトンジョンも出ている)
これから打ち合わせに出るので、今晩はブログにこの映画の72年当時の試写会のこと書こうっと。流行通信では鋤田さんが撮ってくれたマークとミッキーとのメモリアル・ショットが小さいからここにデカデカと。

という具合にひょっこり2005年に戻りました。これからは、縄跳びみたいにときどき、あっちこっちと時代を飛び跳ねようと思うんですが、、

写真(撮影・鋤田正義)
Comment (8) | Trackback (0)


はじめてニューヨークに行ったとき、街の雑踏の中で、自分が日本人であることを自
覚するより、私の血には南米のメスティーソ(インディオとスペイン人の混血)と同
じような血が入っているんじゃないかと、感じた。(それから数十年経ってから、現
実的には、私に八分の一ほどのロシアの血があるらしいことを知ったが)
多くの人が行き来する人種の坩堝(るつぼ)と呼ばれるなかにいると、私がこの世に存在しなかったはるかな昔が自分のなかでよみがえるような瞬間がある。トルファンで撮影していたときは、ウイーグル族の踊りを見ながら私は祖先とつながった。彼らの住まいの中庭には、干しふどうやお菓子の類がテーブルにならべられ、時間が止まったような午後の陽射しに満ちていた。いつの日かここにいたことがある(デジャブ)という感覚こそ、旅が与えてくれるかけがえのない宝物だ。

「地球風俗曼陀羅」の浜野安宏さんのプロデュースで、ファッションデザイナーの新人達のファッション・ショーがあった。
そのなかの菱沼良樹さんのショーはどこか異国の言葉が交錯する音ではじまった。その音がまず私をどこかの国の街角に佇ませた。ステージにはいつも旅先で感じる「地球感」があった。服は具体的にどこの国の影響というようなものではなく、むしろ現代的で、抽象的な形態をしていた。その服が、チベットの山岳地帯でなびく旗のように、大海を渡る帆船のように、風を含んでふくらみ、揺れるのだった。肉体が着ている一枚の服によって、ステージのうえに地球そのものが大きく出現するのを観て私は感動し、涙を流した。(そのとき、バックステージでは、会場の様子を見ていた菱沼さんが「僕の服を見て泣いてるひとがいる!」と感動してくれたとか)ファッション・ショーはただ服に関する新しい情報を伝えるだけではない。ときとして、映画やお芝居と同じような深い感動や共感をなげかけてくれる。

写真 (撮影・謎のひと) モロッコのマラケシュにて。ロンドンから足を伸ばして、スペインや北アフリカへ行った。
ブラウスは蟹の柄のゆかた地。山口小夜子さんから竹の柄のゆかた地のブラウスをいただいて、愛用したが、同じパターンで柄違いの2枚目を自分でつくった。赤いサボ(サンダル状の履物)は当時大流行したもの。
Comment (8) | Trackback (0)


パルコ出版から、ビックリハウスという雑誌が出ていて、読者として楽しんでいたけど、ごくまれには書かせてもらうこともあった。編集長の萩原朔美さんはハンサムで素敵な人だった。(のちに編集長は高橋章子さんに)
表紙には「安くて美味い小銭雑誌 へぇーい、手巻き、いっちょあがり!」とある。(300円)
「ひとつの言葉から・フルーツポンチ」という特集で橋本治、中西俊夫、峰岸達、小松政夫さんなどに混じって、「フルーツポンチ娯楽食」なんて書いている。読み返してみると、何言ってるんだか、私も若かったなーと照れます。(いや、今もそれほど変わってないかも、、、) 以下がそれ。

わたしは、食べることや食べるものに割合真面目な方で、おいしいものを一生けんめい食べるのが好きです。
たとえば、皮ジャンにリーゼントで、オートバイを乗りまわしているようなお兄さんには、「あした死んでもいい」っていうセリフや、コークのラッパ飲みが似合うと思う。(人生の一瞬には、そんな時もある) でもわたしは道路を信号無視で渡るとしたら、左右五百メートル車がいない時じゃないと出来ないので、パッソルにすら乗れないし、コークは3年に一回しか飲まないひとなのです。でも、スタイリストという仕事は、突発事故の連続線のうえを歩くようなものだから、主義主張で三度三度食べるわけにもいきません。ある海外ロケのとき、自然食主義のディレクターが、自分はナチュラルヨーグルトを常食としているから、冷蔵庫付きのスィートの部屋でないとダメだと主張し、それが通りました。
わたしはそのかたよりも7、8年前から自然食もどきをしているけど、そんなこといえる権限もないし、自分の方法をそういうふうに主張するのはハズカシイと思っちゃうほうなので、ホテルの近くの安い朝食屋さんにみんなと通いました。毎朝通って、店の人と仲良くなったり、その国の味を知るのは、おもしろいことだから。
ヒコーキの機上食に、「ベジタリアン」っていうのがあっても、それを注文するのはハズカシイから、おにぎりとたくわんをもって乗ります。そして、機上食が油ゴテゴテのトリ肉焼きだったりすると(割引の某ヒコーキなんかそうですね)、おにぎりとたくわんで生き延びるのです。人間は正しい食べものだけを食べていると、清く正しく平和になりすぎちゃうときいたことがあります。わたしの知っている高名なヨガの先生は、抵抗力をつけるためには、ときには悪食(アクジキ)も必要といってます。この先生と焼肉とベトナム料理を食べまくったことがあります。わたしはワルイ食べ物と呼びたくないので、そういう食べ物は「娯楽食」と呼んでいます。都心をはなれたスタジオに詰め込まれ、仕出し弁当だけなどという日は、急に、「おはぎ」とか「シュークリーム」とかが食べたくなります。だから、わたしのアシスタントは、代々、田んぼの真ん中で、お菓子屋さんへ行くことを考えさせられたり、多摩川べりから、ダンキンドーナツへ走らされたり、、、、、そんな試練を乗りこえて、一人前になってゆくのです。
一日中、街を走りまわって仕事の手配をしているとき、キラキラと陽気に輝くフルーツパーラーは、夢の国の入り口のように見えます。そんなときはちゅうちょなく入って、けばけばしいフルーツポンチをおいしいなと思って食べるのです。
Comment (9) | Trackback (0)


青山3丁目を西麻布に向かった右側に「マリーズ・ショップ」というガラス張りの店があった。入り口の近くには大きなロリポップ(棒付きの飴、棒が1メートル近かった)や雑貨があって、中はカフェになっていた。
当時、宇野亜喜良さんの奥さまだった倉島真理さんの店で、真理さんはまさしく宇野さんの描くイラストそのものの不思議なお顔だちの方だった。色がちょっと浅黒くて、かぼそい身体に、そのころ大人の女性が着るの?というような超ミニのワンピースを着ていた。でも、そのワンピースは上等なウールで注意深く、良い縫製でつくられていたので、決してチープではない。
私のおしゃれを映えさせてくれる場所は少なかったから、私はこの店に正装して行った。白い襟付きで真っ赤な袖なしのワンピース。クニエダ・ヤスエさんのストローハットには、赤と白の縞の太いリボンが巻きついている。これで、白に赤い渦巻きのロリポップをもてば、私は完璧というわけだ。
真理さんに「可愛いわね。それどこの服?」と聞かれたらうれしさと誇らしさは頂点に達した。つぎの時は黄緑のワンピースで、袖は真理さんと同じように小さなちょうちん袖になっているので出かけた。
仲良しの鳥居ユキさんに作ってもらう服はいくらお友だち価格といっても、私の経済が追いつかなかった。それで、知恵をしぼって、お気に入りの服をつくった。

渋谷の道玄坂にある巨大な生地屋「東亜」で生地を探した。5階か6階あるフロアを上がったり降りたりして、安くてきれいな色をみつけた。私のウエストはすばらしくくびれているわけじゃないけど、若い女性としては、夏は海で、肉体を誇示しなければならない。それであんまり市販されていないビキニも自分でつくった。
私は生地とフランスのファッション誌「エル」の切り抜きをもって、日暮里の縫製工場へむかった。
渋谷発、日暮里経由の服たちは青山や表参道でよく活躍してくれた。

マリーズ・ショップでは、ときどきパーティがあり、宇野さんをはじめとしてユニークなアーティストが集まった。
金子国義さんや四谷シモンさんが抜群の存在感で踊りまくった。パーティのラストにスリップ一枚で踊るシモンさんは圧倒的にセクシーで、私たち女性のこじんまりとしたがんばりなどかすんでしまって、どこかに飛んでいってしまうのがオチだった。

真理さんは月刊だった「婦人公論」に「いいものみつけた」というコラムをもっていた。毎月そのページを開いて真理さんの美意識や価値観をながめて楽しんでいたけど、ある時彼女がやめることになった。
そして後継者として私が指名され、びっくりしつつも、ひきうけることになった。小さなみっけものに当時アシスタントだった中村のんちゃんの親友の中澤寿美子さんがイラストを描いてくれた。通称キーの中澤さんはのちに画家になる。私よりさらに若いジェネレーションの才能が走り出していた。

写真 婦人公論の私のコラム「いいものみつけた」はかなり長く続いた。
Comment (8) | Trackback (0)


68年、始めてニューヨークに行ったのは、スタイリストの修行のためだったが、そこで、フラワー・リボリューションの洗礼を受けた。それは私の価値観のベースになり、一生私の中のどこかで生きつづけている。と、同時にどんなものであれ、何かを見つけるのが大好きなので、マンハッタンの中を歩き回ることに夢中だった。

まだ着たことのないものに毛皮があった。何としても着てみたかった。
6週間のニューヨーク滞在の半分ぐらいを泊まらせてもらった広告代理店の副社長のお宅で、3日間の沈黙(英語が出て来なかった)を破って、最初にしゃべった英語が「何処に行ったら、毛皮のコートがあるかしら?」だったかもしれない。
6週間の間に、ニューヨークのスタイリストにくっついて、撮影現場や、雑誌の編集部や、お店まわりをしつつ、私は同じ質問をくりかえしていたらしい。
そして「ロード・アンド・テイラー」というデパートでこれぞ!と思うものにめぐり合うまで、いつもの精いっぱい精神はずっと目を覚ましつづけていた。
ウィーズル(いたち)の滑らかな光沢を、フサフサした狐が取り囲むコートで、どちらの感触も、私の好みだった。私の全財産はこのすばらしいコートに注がれ、帰国する時は、空港から家までの交通費を残すのみとなった。

当時は1ドル360円で、お金の持ち出しに規制があり、そんなコートを買ったら、基準を超えているのは明白だった。税関で「そのコートは?」と聞かれたらアウトだ。でも、その質問の上手な答えを考えつかないまま、当時国際線だった羽田空港に着いた。私はジーンズにTシャツ姿にお宝のコートをはおって税関の列に並んだ。
私のコートにちらっと目を向けた税関の人がまさしく「そのコートは?」と地獄の質問を私に向けた。私は映画「ミッドナイト・エクスプレス」の主人公みたいに絶体絶命だった。とっさに答えられない私は顔を赤くして、もじもじしたに違いない。意外なことに、質問した税関のひと自身が大きな助け舟を出してくれた。
「日本から持ち出したものですね」という彼の言葉に、私は「はい」と蚊の泣くような小さな声で答えた。彼はにっこり笑いポン!とハンコを押して、私は無事税関を通過した。

そのあと、ニューヨークで知り合った人たちから、手紙やカードをもらったが、どれも「ファー・コートのご機嫌はいかが?」というようなジョークにあふれていた。私はよほど大騒ぎをして買ったのだろう。これは、一生に一度の買い物だった。(注・現在、3年後ぐらいにお金持ちになる予感がするが、毛皮のコートを買う予定はない)

写真 (撮影・染吾郎) レオンにて。向かって左に見えるのが毛皮のコート。ミッキーマウスのTシャツの上に着ているのはマドモアゼルノンノンの皮のジャケットか。どんな服の時も大活躍したコートは、最終的にこの写真の撮影者、染吾郎さんに。
Comment (9) | Trackback (0)


表参道の同潤会アパートは原宿を拠点としていた私にとっては、いつも見慣れた風景だった。
枯れたまま壁にしがみついていた蔦も、季節が春になるといきいきとした緑が芽吹きはじめる。そしていつの間にか濃い緑の葉が建物をぎっしりと包み込む。欅の緑と蔦の緑は田園の緑ではない。でも私は都会の酸素の供給源(精神的にもね)でもあるこの緑をとても愛していた。
代々木公園も、まだ木々はまばらで、ゆっくりと成長していた。明治神宮は緑の杜として、ある種の風格を備えていたがこの神宮も、私にはなんだか若々しく感じられた。
同潤会アパートの前には歩道に沿って、住んでいるかたがたのつくった家庭的な花壇が細長くつづき、そこに咲いている小さな花を、見るともなしに見ながら歩いていた。
原宿の街自体がおしゃれさと下町っぽさをもっていて、同潤会の裏には銭湯があった。この時代、銭湯は3軒あって、キディランド裏(ここには神宮橋旅館もあった)と、明治通り、現在のラフォーレの斜め裏あたりにもあった。表参道の変貌の中で、ある日銭湯が取り壊され、湯船の背景の富士山の絵が明治通りに突然出現した。まるで、寺山修司の舞台のようにシュールなあの風景を何故撮っておかなかったんだろうと、悔やまれる。

同潤会に初めてお店が入ったとき、入居者による管理組合がよく許可したものだと、みんなでうわさした。
そのうちポツポツとお店が増えて、ファーマーぽい雰囲気のある雑貨屋さん、ギャラリー、眼鏡屋さん、、、と、古い階段を登り降りしながら、回った。

私はある日一児の母となったが、仕事は増え続けていた。それで、子供との散歩は仕事前の早朝にすることが多かった。朝6時まえから7時にかけて、同潤会から、東郷神社の境内まで、乳母車で長い散歩をした。現在のピアザビルのわきのお豆腐屋さんで出来たての暖かいお豆腐を買ったり、東郷神社の池のまわりで遊んだりした。早起きのお年寄りや新聞配達のおにいさん、競歩に励むおじさんなど、言葉をかけあう早起きの仲間が出来た。息子が二歳に満たないある夏の終わりの朝、その日初めて吹いた秋風に、「お風涼しいね。もう暑いないね」と目を細めて言った。私は朝の散歩の成果あり!とうれしかった。私には息子の単純な言葉が
「秋来ぬと目にはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる」という有名な短歌に聞こえた。

写真(撮影・Yacco)  この時代、スタイリストの仕事に、撮影場所を探すロケハン(ロケーション・ハンティング)というのもあった。カメラのサイズで切り取ると、どこかちらっと外国風という一角を探すことが多かった。これは原宿じゃなくて、代官山の同潤会だと思っていたがそれも違うみたいだ。六本木のスペイン村でもないし、霞町(西麻布)付近だったかもしれない。家電の豪華カタログのために、おしゃれなインテリアの部屋、格調ある和室を探すこともあった。雨の中、一軒一軒訪ね歩いて、泣きそうだったこともある。まだ、ハウス・スタジオなんてなかったので。
Comment (6) | Trackback (0)


アンアンの後援があったロンドンでのフォト・セッションから帰って、アンアンのグラビアをTレックスのマーク・ボランとミッキーフィンが飾った。そのグラビア最後のページは、モノクロの顔のアップで「マークにお化粧をしよう」というメッセージになっていた。。
このアンアンへの掲載とあわせて、渋谷西武百貨店B館地下で、「Tレックス展」が開催された。ふつうの写真展とちょっと違うアイデアがいろいろあった。
ほぼ等身大のマーク・ボランの写真を切り抜いた人形が、何十体か店内各所に飾られた。会場には、特別なブースがあり、そこには全国のアンアン読者から送られてきたマークのメイクアップ写真が貼られていた。会期中送られてくるお化粧をしたマークの写真の数はうなぎのぼりになり、ついに壁から天井まで覆いつくした。鋤田さんの友人でもあり、いつもレオンで元気な声を発していた糸井重里さんも参加していたと記憶する。
さらにツアーで来日していたマーク・ボランとミッキー・フィンが会場に現れた。会場は若いファンですし詰め状態になり、興奮は頂点に達した。そう、ふたりはアーティスト同士として鋤田さんに深い信頼をよせていてた。さらにここでロックスターとして、自分達がなにをすればいいかもわかっていた。押し寄せたファンのうねりの中、彼らはゆっくりと作品を見て周り、サインをし、鋤田さんやファンと握手をした。
そんなふうに、展示方法にも、イベントにも時代のホップな風が吹いて、楽しい写真展になり、その集客記録は長い間破られなかった。

・その後マークは昔自分で予言したとおりに交通事故でなくなり、数年前、六本木の「スイート・ベィジル」でパーフォーマンスをしたミッキー・フィンもこの世を去っている。
・展覧会の様子(アンアンにでた作品、アメリカ、日本ツアーetc)は「T-REXPHOTOGRAPHS BY SUKITA」 (カラーフィールド・3500円)に。

写真 (撮影者・不明) Tレックス写真展まえで。会場を訪れたマークとミッキーフィンのサインが見える。
Comment (11) | Trackback (0)


何かを始める時が、何かが始まる時。それをやるとどのくらいお金が入るか、ということを先に考えたことはない。エキサイティングな予感が波のようにひろがって、いつのまにか、漕ぎ出しているのだった。(70年代も、そして今もできる限りは、、)そうはいっても、自費ばかりで、海外を往復するのはむずかしかった。鋤田さんは業界のカメラ雑誌ばかりでなく、当時新しいカルチャーに向かっていた「アンアン」にTレックスやデヴィッド・ボウイの作品を発表したいと考えた。そのアイデアをアンアン編集部に持っていったときのシーンをくっきりと思い浮かべることができる。編集長の木滑さんはきっぱりと即座に「おもしろい!やりましょう!」と言った。そして、アンアンの誌上を飾るということで、往復のエア・チケットをタイアップで手配してくれた。
あるときは、加納典明さん、沢渡朔さん、鋤田正義さんの超豪華なフォトグラファー 3人をアンアンが引き受け、それぞれにアシスタントや私のような役目のものがついてロンドンに渡った。その集団を仕切ったのはエディターの石川ジローさんだ。アーティストやミュージシャンが定宿としているポートベロー・ホテルから、毎朝ロンドンの街に飛び出し、それぞれのテーマで撮影をした。それ以外にモノクロページのロンドンのお店紹介のマップ作りのために、細々とした写真も3人が分担して撮った。

十文字美信さんが若いフォトグラファーとして登場したときも、エディターの椎根大和さんが大胆に十文字さんを起用した。十文字さんは当時来日中のザンドラ・ローズのシフォンのドレスを、スタジオでシンプルに力強く撮った。フリーランスの私は仕事をしていると、時々ひとりぽっち感にとらわれた。
何かを確かめたい時、楽しい仕事が出来た時、自分を元気づけたい時、漠然とした不安を感じる時、椎根さんに電話した。彼は喫茶店で何時間も話をしてくれた。

アンアンは金子功さんの服、モデルは立川ユリ、マリ姉妹、フォトグラファーは立木義浩さんが毎号大きく活躍していた。
私は時々変わった企画の時、ちょっとだけ参加出来ただけだが、今でも、そのとき関わったページはすべて頭の中でめくることができる。 10年目に「さよならアンアン号」が出て、アンアンは大きく変わった。最初の3年間、アートディレクターをした堀内誠一さんはその号で、「アンアンは僕の”空飛ぶ魔法の絨毯”だった」と語っている。


写真(アンアン創刊号)
1970年3月20日に創刊。ページをめくるとその新しさ、楽しさに驚く。立川ユリさんがパリとロンドンを駆け巡って24ページもカラー・グラビアを飾っている。アンアンはパリのファッション誌「エル」とタイアップしていて誌名(アンアン)のそばに、エル・ジャポンと記されている。中ほどにはエル直送のパリ・コレの写真。ウンガロやクレージュの前衛的な服に、長澤節さんが、「手をどこから出すんだろう?なんて言わないこと。美はときどき人間が生き物であることを否定する。人の集まるところに、突然まるで彫刻のような自分を見せたいという欲望を、モードが果たしてくれる」と解説している。わかるような、わからないような、なんだかワクワクする解説だ。
Comment (8) | Trackback (0)


寺山修司さんが出演した後、ウイスキーのコマーシャルの美術の担当が劇団四季の舞台美術をやっている金森馨さんとなった。(広告界は、才能のある人をいち早くとりこむ)
ところが金森さんは絵と設計図をかくだげだったので、衣装のほかに私がトラックに乗って、大道具もあつめることになった。
撮影用の大道具は映画などでは、高津という大道具屋さんで手配するが、それだけだと金森さんの意向に副わない気がした。
青山の骨董どおりにある「阿藤ギャラリー」という骨董屋さんとか、銀座の「サンモトヤマ」とか、知恵をしぼって借りて回った。ある時、青山学院の並びにある「ゆかわさるん」という北欧家具の店で大きなパインのテーブルと革のソファを借りた。撮影後にチェックしたら誰がつけたかタバコの焼け焦げ跡がくっきりと残っていた。困り果てながら、返却の時お店の方に告白すると、「大丈夫、ちょっと削ってパテをつめれば元どおりになるからね」と優しく言ってもらった。
スタイリストが何処までやるのか、なんてまだ誰もわからなかった。私を使う人たちも、スタイリストというより、「ヤッコならこういうことをやってくれるだろう」ぐらいの気持ちでいたのだと思う。
きついことも多かったけれど、金森さんのような歴史に残る方のお手伝いが短期間でも出来たのは、ラッキーだった。

よくよく考えてみると、寺山さんとはコマーシャルの仕事をする以前に何度かお会いしていた。
コピーライターを目指していた頃、「ヤマハキャンパス」という音楽大学の学生向けの小冊子を定期的につくるのをまかされていたが、そこの巻頭エッセイをお願いしたことがある。
締め切りの日、待ち合わせの喫茶店に現れた寺山さんは、お茶を飲みながら「あ、原稿、クルマのトランクに入れてきちゃったよ。今日は取りに戻れないから、明日ね」とおっしゃった。
次の日、また待ち合わせをしたが、今度は「上着のポケットに入れておいたんだけど、違う上着を着てきちゃったから、また明日」ということだった。三度目の正直で、あるパーテイ会場に呼ばれた。今度は無事原稿をもらうことが出来た。
「君、せっかくだからこのパーテイに出て、うまいもの食べて帰りなさい」と言われ、私は何のパーテイかもわからないまま、ごちそうをいただいて帰ってきたのだった。

その話を仕事仲間に克明に話すと、しばらくの間は締め切りに間に合わなくて言い逃れをするのを、「寺山修司する」というのが流行った。それにしてもどんな理由であれ、寺山さんに3度もお会いできたのは貴重なことだったと思う。

写真 斉藤秀一 (芸術生活グラビア) スタイリスト・Yacco 友人の國分さんに借りたこの人形は、昭和2年に青い目の人形使節としてアメリカから日本におくられたものと同じものだと聞いている。
Comment (11) | Trackback (0)


その頃、コマーシャル・フィルムの撮影は、大抵、映画の撮影所で行われていた。大道具、小道具はそれまでの映画界のひとたちでほぼ占められていたし、衣装さんと呼ばれていた分野の一角に出現したスタイリストという女の子のやることをみてやろうじゃないの、という視線を感じることも多々あった。
(ま、私の場合、そういう方々ともいつのまにか仲良くなっていたけれど)

その日は、あるウイスキーのコマーシャルの撮影だった。
セットは、撮影所のなかの美術の方がデザインしていた。
設定は寺山さんの部屋に篠田正弘監督が訪れてウイスキーを飲み交わす、というものだ。
寺山さんが所有していると聞く、アンディ・ウォーホルのマリリン・モンローを借りる役目が、何故か私に回ってきて、プロダクションの制作の若者とともに事務所に伺った。
美術の方がどう解釈したのか、セットは寺山さんの部屋というより、不可思議なモノが重なりあった物置みたいだった。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の住まいのようなところに、シルク・スクリーンのマリリン・モンローだけがぽっかりと置かれていた。生意気ながら私は内心ひやりとした。これでだいじょうぶなの?
やはり寺山さんは、スタジオには入ってきてセットを見るなり「なんだこりゃ、これじゃ化け物屋敷じゃないか」と率直に驚きの第一声を発した。私の「内心ひやり」は的中したが、寺山さんはそれ以上は言及せず、また私は内心ほっとしたのだった。
寺山さんと篠田さんの会話は途切れることなく延々と続いた。このコマーシャルの監督は「薔薇の葬列」などの実験映画作家の松本俊夫さんだった。彼は、一定の時間が来ると、さりげなく話のテーマをメモしたカードを取り出して、「じゃ、こんどはこれについて話してみてください」とふたりの話題をうまくリードした。
もう話の内容は覚えていないが、互いに尊敬しあっている3人のその場の空気感は思い出すことができる。あの長い長い会話は、30秒、60秒の映像の世界だけじゃなくて、面白いショート・フィルムや、30分、1時間のテレビ番組もじゅうぶん出来たのではないかと思う。
ウイスキーの撮影だったが、長時間飲み続けつつ、しゃべらなければならないので、顔が赤くならないうちにウイスキーはやめにして、その後はノンアルコールのものが注がれた。
(それに寺山さんの持病はすでに密かに進行していた頃だったろうから)こんなラッキーな体験はめったにない、という貴重な時間は、夜半になってようやく終止符をうち、寺山さんはマリリン・モンローとともにスタジオから消えた。

現在だったら、人物関係が終わったスタイリストはそこで、出演者とともに、「お疲れさま」なのだが、そこではまだ帰ってはならないような、暗黙の空気があった。
これから先は商品のシズルの撮影が待っていた。
これは、コマーシャルの大切なシーンで、商品そのものを美しく、おいしそうに見せなければならない。
今はウイスキーにしろ、ビールにしろ、飲み物を扱う専門の方がいて、グラスの選択から、ビールの泡の具合まで、きっちりコントロールするプロ中のプロが存在する。そして、グラスの中の氷も、見た目も氷より氷らしい溶けない氷(シリコン製?)もある。そういうわけで、ウイスキーのシズルカットのノウハウはほぼ完成している。

その頃は、誰かの行きつけのバーのバーテンさんを頼んで、氷も本物を使って、こちらが望んでいるような演技をグラスのなかで、氷がしてくれるのをひたすら待つのだった。時間が経てば経つほど、氷は劣化してうまくいかない。深夜に氷を売っているところはない、と悪循環がつづくこともあった。
美術のおじさん(デザイナー)は失敗するたんびに捨てられるウイスキーをしこたま飲んでいた。
ご自分が作った魑魅魍魎(ちみもうりょう)のセットのように、本人自身がすっかり魑魅魍魎となってしまい、なかなか決まらない撮影に、監督をしのぐ大声で「用意、スタート!」 「カット!」と叫んでいた。そして演技ができない氷にむかって「なんどやったら出来るんだー」としかりとばした。
大根役者の氷が、クルンと可憐に回って、グラスの中でウインクするようにコトンと傾いたのは、一夜明けて、すっかり明るくなってからだった。

写真(撮影・斉藤秀一) 「芸術生活」のカラーグラビアシリーズ女の映像。テーマは「赤い靴の少女 野田ジュリー 」 企画・上村喜一 ヘアメイク 夢見人。スタイリストは私で、この少女をお人形のように、スタイリングしたものも、数ページある。夢見人(ムミト)さんのメイクがすばらしい。
Comment (5) | Trackback (0)


« 前ページ  
この他の先端人Web日記

佐々木俊尚の「ITジャーナル」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」
goo
Hotwired Japan