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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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2004年11月
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3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
Hotwired / Blog / 高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
「ベルサイユのばら」を資生堂がスポンサーとなって映画化した。
公開は1979年となっている。
もともとは、池田理代子さん原作の漫画で、フランス革命を舞台に、男装のオスカルが主人公だ。これがまず宝塚で舞台化されて、大人気となった。
私はテレビマン・ユニオンが制作したベルばらのCM制作に参加した。
これ以前にディレクターの重延浩さんとはファッションとロックンロールがジョイントしたショーのお手伝いをしている。
山本寛斎さん、内田裕也さん、ジョー山中、秋川リサさん、山口小夜子さん
など顔ぶれは最高だった。
重延さんとは、仕事以外でも、お茶を飲みながらお話をすることがあった。多くは私が電話をしてテレビマン・ユニオンがある赤坂を訪ねた。たまには重延さんがレオンまで出てくることもあった。
私にはクリエイティブな刺激を与えてくれる何人かの大切なひとがいた。
マガジンハウスの椎根大和さん、伊丹十三さん、鋤田正義さん、そして重延さんなど。独りで仕事をしている私にはよい指針を与えてくれる人たちが大切だった。

重延さんとは刺激的な話ばかりではなく、日常生活のなかでの心のおき場所の話などもした。
家族に囲まれている時、お正月のように賑やかなときに、孤独とも 断言できない、微妙で、不可思議な心の動きがあることを話すと、
「そうなんだ、僕もまったく同じだよ。そいいうときは、困っちゃうよね」と、ふわっと温かい声で答えてくれる。
私たちは学校も違うし、普段の仕事の分野もちょっと違う。お茶を飲む機会だってそんなに多くはなかった。
でも、私からすれば、なんだかいつもなつかしい、同級生のような感じを抱いていた。


パリでは、ベルサイユ宮殿で撮影したような気がする。
今にしてみれば、30数年後、フィレンツエの由緒あるヴァザーリの回廊の撮影許可を10年がかりでとった重延さんの、一貫性のようなものを感じる。
撮影が終ると、みんなでパリの街に繰り出した。
ちょうど生牡蠣が食べられる季節で、私たちは大衆的な店でせっせと食べまくった。
重延さんは「大きいのより、このへんの、ほどほどのものがうまいよ」
と言い、中粒のものを選んでいた。
翌日、仕事がオフだったので、私はひとりモンマルトルを歩いた。
私の前方に、不自然な歩き方をしている日本人とおぼしき男性がいる。
よくみると、日頃よく仕事をしている博報堂の方だった。
「どうしたんですか?」と訊くと、
「いやー、昨夜生牡蠣を食べ過ぎて、当たっちゃったんですよ。でも、せっかくのパリだから、無理して歩いてるんです」
と言いつつお腹を押さえている。
私は胃と腸が強靭なスタッフの一員でよかった、と思った。

写真 (撮影者・不明) オスカル役のカトリオーナ・マッコール。左がディレクター時代の重延さん。
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伝説の喫茶店といわれている原宿の「レオン」は、「入るのには勇気が要った」という人がけっこう多い。10時過ぎて、クリエイターが出たり入ったりし始める。そこは打ち合わせの場所になったり、事務所での作業に疲れた人の息抜きや気分転換の場所になったりした。その雰囲気に気後れする人たちがいたのだろう。
でも、朝8時くらいに開店してからの数時間は、どこにでもある街の喫茶店だった。仕事前のスーツ姿のサラリーマンなどもここでコーヒーを飲んで職場に向かっていた。
私は一児の母親になっていたが、開店したばかりのレオンで、よく親子3人で過ごした。喫茶店のトーストを離乳食代わりに子供の口に突っ込んでいる父親の楽しそうな姿のスナップがある。子供がいて海外ロケに出かけると、気になるのはそのスケジュールだった。お天気次第の撮影になるが、どんなことをしても、予定通りに帰ってきたい。そのためにいつも、心の中で良い天気を祈った。

ある時、こんなことがあった。香港の駐車場で、日本ではちょっと考えられないことだが、車を燃やしながら撮影することになった。それも、夜から明け方までの時間帯だ。闇夜にギラギラの照明の準備も整って、いざ撮影という時、大粒の雨が降り出し、とりあえず、カメラや危険な照明などを雨から護るため、現場は右往左往の状態になった。私は駐車場の隅っこにうずくまって祈った。
「今夜撮影ができないと困ります。雨は止んでください。そして朝まで決して降らないで。この願いを聞いてくれた証拠にこれから空を見上げるから、星を見せて。そのあとは朝まで、曇り空のままでいいから、雨だけは降らせないでください」
私はつぶっていた目を開けて、夜空を見上げた。雨が止んで、途切れた雲のあいだから、一瞬星空が見えた。それから肌寒い曇りがつづいたが、撮影は無事早朝に終った。

ロケ中は朝起きると、水の入ったコップをホテルのベランダや窓辺においてお天気を祈ることがあった。撮影中曇ってくると、目をぎゅっとつぶって、快晴の空をイメージした。なんだか効力があるような気がしたけど、そのことは他の人にはしゃべらなかった。
子供が大きくなるにつれ、そんなオマジナイも忘れ、そのせいか私のお天気力も、すっかりどこかに飛んでいってしまった。

写真 (撮影・なぞのひと) 外苑のいちょう並木で。
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76年にデビューしたピンク・レディーに関しては、カメラマンの小暮徹さんから、撮影時のはなしを時々聞いていた。
「撮影時間は平均5分。3分といわれることもあるよ」
私たちは「えー、ウソでしょー」などと相づちを打っていたが、この話が本当なのはわかっていた。
小暮さん自身が超売れっ子カメラマンで、そのころ数年間撮影がオフの日は一日もなかったらしいし、過密な撮影スケジュールにアシスタントもクタクタで、必死で従っているように見えた。
世の中には一握りの超・超売れっ子がいる。この業界にも。
それに比べれば、私はどちらかといえば地味派だわ、と思った。

テレビのスタジオからスタジオへと駆け巡り、ステージ活動もしていたピンク・レディーは、雑誌の取材や写真撮影に加えてCMや広告の撮影も目白押しだったから、誇張ではなく、特別な時を生きていたことだろう。
彼女たちを撮影するために与えられた3分とか、5分という時間は貴重なものだったと思う。
私の経験でも、アイドルのCM撮影で、一日かかることが普通なのを2時間と時間を決められたりする。スタッフはものぐごく緻密に撮影プランを練り、時間内に最大限に魅力的になリうる画面作りに励む。
それでも短い撮影時間には、あと30分、せめてあと10分あったらという悔いが残ったりするものだ。

ある日、ピンク・レディーの撮影が舞い込んだ。
デビューから4年たっているので、今までとは違うピンク・レディーを、ということだった。
撮影は鋤田正義さん、ヘア・メイクは渡辺サブローさんだ。
撮影時間も特に定められず、その日、一日中使っていいとの事だった。
私はいままでのピンク・レディーのグラビア・ページを全てカラーコピーした。それを一枚の大きな紙にして裁断し、紙の服を作った。(現在だったら、それをさらにインクジェットという方法で簡単に布に転写したと思うが)
今までのアイドルであるピンク・レディーだらけの紙の服を、新しいピンク・レディーが着る、というアイデアの服を、自分ではかなり気に入っていた。
そのほかにも、5、6点衣装を用意した。

スタジオに入ってきたふたりは私達の予想とは明らかに違っていた。
ケイちゃんには、撮影そのものに拒否反応があった。
誰かがピンク・レディーの、再生策を練っている。もうそのレールに乗りたくない、という様子が見て取れた。
ミーちゃんは、チャンスがあるなら、どんなことでもやってみたい、という感じだった。

それは、4年間スーパーアイドルとして同じ道を歩みながら、それぞれが見出した未来への志向だったろう。その両極の志向は、両方とも正しい。

ケイちゃんがサブローさんのメイクを承知するまでに午前中いっぱいかかった。ケイちゃんは「なるべくナチュラルなメイクに」と注文してメイクが始まった。
衣装は一点だけ、ミーちゃんがブルー、ケイちゃんがグリーンのサテンのパンツスーツということになった。
鋤田さんがカメラマンで、私がスタイリストということは、多分スタッフの気持の中には、イギリスのグラム・ロックのアーテイストをやっているのだから、その方向で、、、みたいなこともあったと思う。
それは、この場ではちょっと無理なことだった。
ふたりの撮影が終ってから、ミーちゃんが、せっかくだからつくった衣装を着てみたいといい、いつくかを撮影した。ポラロイドで残っているこの写真が紙でつくった服だ。

ピンク・レディーが解散して25年。期限付きで再結成した様子をテレビで見たときは、びっくりした。ふたりとも、時を突き抜けて、明るく輝いている。
踊っている彼女たちの筋肉のみごとさ。歌も格段とうまくなっている。
2年間のあいだに一度はステージを観てみよう、と思った。
だが、気がついたら、もうファイナル・コンサートだ。
コンサートの数日前から、私はジタバタし始めた。
チケットはもう売り切れだったけど、芝居やコンサートは、当日必ずキャンセルが出る。並んで買うか、関係者に頼むか。
当日のお昼ごろ、メイクをしている友人から電話が入った。
「たった今、2枚キャンセルが出たそうよ」
そのうちの一枚を買って、私はその晩会場にいた。

会場にはピカピカの衣装をきた女の子や、新宿2丁目界隈の女の子じゃない女の子などで溢れていた。母親とおそろいのピカピカ服の子供も、スーツ姿のオジサン達もいた。歌って、踊っている時は完璧にピンク・レディーの彼女たちも、その合間のMCでは息を切らせ、47歳であることを隠さなかった。
もうこれが最後だ、と言っていたけれど、60代の私に言わせれば、50代もコワクないよ。5年後は当然、10年後だって、OKですよ。
でも、もちろんピンク・レディーとしてはこれが最後っていうのがいいんでしょうけど。

家に帰ってパンフレットを眺めた。シングルのレコードのジャケット写真の中に、25年前に撮ったグリーンとブルーのサテンの衣装のものを見つけた。「うたかた」というシングル版だ。(肩パットが大きくて、服があの頃のボリューム感なので、今みると恥ずかしいけど)あの時、B全のポスターを20枚ぐらいもらって、それはまだ、物置のどこかに眠っているはずだ、ということも思い出した。70年代と2005年が一気につながる日々だけど、今日もそうだった。

写真 (撮影・鋤田正義)
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75年、また新しい時代の風が吹きはじめていた。私にとって刺激的な仕事が次々と入ってきたが、それは不思議とその2年くらいのあいだ、コツコツと自分が生きてきたことが反映されていた。
資生堂は「インウイ」というブランドを開発し、キャリアウーマンをターゲットに、初めて外人モデルを起用した。
私はそのキャンペーンのネーミングあたりから関与し、キャスティングと撮影のために大勢のスタッフとニューヨークに行った。
モデルのヘロイーズはセントラル・パークで汗をかいてジョギングしたり、ロフトで、ヨガをしたりしたが、それも彼女の生活の実態に近いことだった。
私は撮影のあいだ、彼女と毎日話しをし、その内容をコピーライターの土屋耕一さんに報告した。
そのなかには、彼女の言葉がキャッチ・フレーズとして採用されたものもある。
「彼女が美しいのではない。彼女の生き方が美しいのだ」
化粧品の広告で、汗をかいているのを使ったのも画期的といわれた。
そのお披露目のパーティにまもなく創刊するクロワッサンの編集の方がいらして「実は私たちも、ジョギングしてる女性を創刊号の表紙にしたかったのよ」といっていた。

三宅一生さんは「健康に気をつけましょう」というテーマでショーをやり、私も参加した。(ショーはカーペンターズの曲で、はじまった)スタッフではなかったが、西武百貨店は「ウオーク」(Walk)がキャンペーンのテーマだった。伊勢丹が、新しいブランド、カルバン・クラインで、毎月新聞広告を打った。私はそのスタイリストとして「キャリア・ウーマン」のスタイリングをした。担当者と定期的に店内の商品を観て回るのはためになったし、この広告をつくる「スタジオ・ユニ」というプロダクションに通い、生涯の仲間が増えていった。新しい風のなかで、化粧品と百貨店の仕事をレギュラーで持てたのは、ラッキーだったし、ありがたいことに私の生活の基盤も以前よりはしっかりとしてきた。

写真 (撮影・Yacco) ニューヨークのロフトの屋上で、資生堂インウイの撮影。モデルのヘロイーズはヨガのポーズをしたり、シャワーを浴びたり、健康的な生活感をねらった。カメラは横須賀功光さん。(上半身裸の後姿)
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1973年、私は毎日信じられないくらい忙しかった。寛斎さんのロンドンでのショーをお手伝いしたことがきっかけで、Tレックスや、デヴィッド・ボウイなど、グラムな世界が広がっていたけれど、それは純粋にクリエイティブな世界で、私の経済生活には関係なかった。
私が存在している広告業界では新しい試みがあるたびに、好奇心に溢れた人たちからお呼びがかかった。
もちろん、私はどんなことにもよろこんで参加した。
でも、エキサイティングな出来事の裏には必ず地道な準備が必要だ。
ひとつの肉体が引き受けるには不可能といいたいぐらいの作業の量と質が私に覆いかぶさっていた。(まだ、分業もはっきりしていなかった)
新しいことは、仕事の範囲のみならず、お金のルートが確立されないままスタートすることも多く、まだ、世間ではスタイリストにどのぐらい支払うべきかもあやふやだった。
というわけで、私は貧乏だったが、それにめげた記憶はほとんどない。

ある巨大な繊維メーカーからお声がかかって、中近東で行われるファッションショーのツアーをお手伝いすることになった。
ファッションショーが開催されること自体が画期的なことだから、あちらではステージにモデルが立っているだけでも、じゅうぶんセンセーショナルなのだ、と説明された。
だからモデルは健康で性格がよいことを第一で選んで欲しいとのことだった。
(当時、それと同じ言葉を別の仕事で浅井慎平さんから聞いたことがある。浅井さんはロケが多く、世界中で撮影をしていた。それで浅井さんの仕事に、健康で、性格もよく、売れっ子だったモデルを推薦したが、その長い撮影の旅の終わりには、そんな彼女に恋をした若いスタッフの男性がいて、ついにふたりは結婚することになった、、、)

中近東でのショーは私には想像もできない金額(たしか億に近い単位だった)で、とりあえず私は指示されるまま、走り回っていた。
金沢には輸出用の生地を生産している工場があリ、そこで生まれる中近東向けの生地は、信じがたくきらびやかな独特なセンスのもので、国内では決して見ることのない輸出用生地に私はびっくりし続けていた。

ある朝、テレビで中東戦争のニュースが流れた。
あ、と思った瞬間、担当者から電話が入った。
「ちょっと大変なことが起こっていて、ショーは大幅に縮小されるかもしれません、たとえば2千万ぐらいに」
夕方にはショーが中止される電話があった。
「とりあえず、今までのことは全てキャンセルです。またいつかいい仕事をしましょう」

この日がオイルショックの始まりの日であり、その後、電話はなかった。

世の中は不景気になり、順調に仕事をしているのは、業界でも一部の人たちだけになった。
私の仕事は激減した。
お金もなく、ぼろぼろに疲れきった私自身の健康を考える時間だけが与えられた。
とりあえず街を歩こう。今まで忙しさにまぎれてタクシーにばかり乗っていた。歩いて、社員食堂にでもまぎれこんで、安いものでも食べよう。

「朝日カルチャーセンター」開設というニュースを知って、早速ヨガ教室の第一期生になった。
そこで行われたヨガの沖先生は実はとても偉い先生だったが、こういう生涯教育の試みは、はじめてのことだったからだろう、一ヶ月に一回ぐらいはお弟子さんだけではなく、直接先生が現れた。
最初の日、生徒は床に寝かされ、身体のゆがみを指摘された。
先生は私を見下ろして、大声で「子宮後屈!」と叫んだ。

定期的に、沖先生を囲んで食事会があった。
これが全て有機農法でつくられた自然食だった。
がぶりとかじるトマトは、普段食べているものと全然違ったなつかしい香りとおいしさに溢れていた。
漬物に一滴たらしたお醤油の旨みに感動した。
でも、沖先生は「正しい食事」とともに「悪食」(アクジキ)の大切さも教えてくれた。

カルチャーセンターは新宿の住友ビルにあったが、階下の住友系の社員食堂で、豚肉のしょうが焼き定食を食べたり、ときには焼肉屋に行ったりした。

先生のヨガは、若い頃、中国でスパイ活動をして投獄された時、そこにいたラマ僧から教えを受けたものだそうだ。その冒険談はドキドキするほど、おもしろかった。
先生は腸癌をかかえていて、自分は癌と共生しているのだとも言っていた。今考えると、走りだったカルチャーセンターで、健康法ばかりではなく、一方方向に行きがちな精神世界の入り口に私は立っていた。
そこで、広範囲な視点が大事だという、基本中の基本を教えられたのだった。

この時期の経験をある時、ロケット博士といわれていた糸川英夫さんと話したことがある。
「オイルショックの時、あなたがヨガを勉強したのは、正しい。私はその時期、チェロを学んでいた」とおっしゃった。
そして、オイルショックはお互い大事な経験だったはずだ、と続けた。
糸川さんとお話したのは、何か雑誌の企画でのことだったと思うが、糸川さんはとても印象的な話をしてくれた。

ある時、団体旅行でインドに行った。バスである観光地に行き、ちょうど峠の茶屋のようなところで、大勢降りて一休みした。その茶屋には手伝いの子供がいて、ゾロゾロと入ってきたお客にグッド・タイミングでお茶を出した。その男の子は一瞬にして男女のお客の人数を数え、まず男性客にお茶を供する。そのあと、女性客にお茶を振舞ったと言うのだ。
それは男尊女卑ではなく、きわめて合理的な判断だった。
男性が全員 トイレに行く時間を計算して、さっとお茶を用意する。トイレに時間かかる女性客の計算も自然にできて、そのタイミングにあわせてお茶を出す。
糸川さんは、その少年にゲーム器を渡した。彼は何の説明も聞かずにそのゲーム器を上手に操った。
ゼロと言う数学的概念はインド人が発見したものだが、こんな山奥の少年でも、自然に数学的判断ができる。インド人は、数学に非常に優れた民族なのだ、ということだった。
私はたった一度だけ仕事でインドに行ったことがあるが、そのとき通訳だった中年の女性が「私の息子も娘もアメリカの学校で コンピューターを学んでいる」と言っていた。
現在のアメリカのITビジネスを支えているのがインド人だときいて、私はこのふたつのことを思い出している。

写真 (データ思い出せません) 話がカタイので写真はこれにしてみました。
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17日 ベルリン生まれの「異形の歌姫」クラウス・ノミは世界最初の有名人の患者としてエイズで亡くなったひとだ。その彼のドキュメンタリー 「ノミ・ソング」のマスコミ試写が、2月ぐらいから断続 的に行われていた。
試写会の案内を最初の頃と最終段階に入ってからと、2回ももらっていたのに、結局、今日の最終試写もいけなかった。
公開されたら、必ず行こう。

18日
サントリー・ホールでホール・オペラ、プッチーニ「ラ・ボエーム」を観る。
2年前の「カルメン」は舞台裏でドキドキしながら衣装の着付けをしていた。
今回はシートにうずまって、ゆったりと美しい歌声に包まれる。この快楽もまたすばらしい。

19日
東中野のポレポレ坐に喫茶店がオープンした。アシスタントの悠子ちゃんと出かけてカレーのランチをとる。
ケーキを食べ、悠子ちゃんはアイスコーヒー、私はホットを何気に頼んだのだが、アイスコーヒーが8時間かけて水出しした限定ものだとあとで知った。この次はなにがなんでもオーダーしよう。
そのあと、田口ランディさんと、本橋成一さんとお茶する。
ランディさんが現れることは前もってきいていたので、持参したランディさんの著書「光のメリーゴーラウンド」にサインして いただく。
日曜日の「週間ブックレビュー」で、ランディさんの「ドリームタイム」を
紹介しているのを観て、悠子ちゃんに「ランディさんの最新作を買ってきて」と乱暴な頼み方をしたのだった。
「光の・・」は、中学生向けの小説だが、私は間違って手にいれたこの小説がとっても気に入ってしまった。
主人公が15歳の少女だったけど、全然違和感なし!
と、私はまたまた自分の若さ自慢をしてるんだけど。

今日は初コンタックスの日。
うれしくて出してみせたら、ランディさん、「あ、それ私も持ってる。だんなさんに誕生日にもらったの」とのこと。
おそろいはうれしいけど、違いは、欲しいものはひたすら自分で買うのが私の人生というところか。
いちばん最初に撮ったのは、ポレポレ坐のキッチンで奮闘する4人の若者達。
ランディさんも、そのあと行った羽田では有名なロック歌手も撮ってますよ。
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14日、数ヶ月前から予定していた小三治さんの独演会は、体調の関係でドタキャンして、友人に譲った。
後で聞いたら、中野ZEROホールの前から2列目だったそうで、そんな幸運が今後あるはずもないだろう。
あの伝統的、かつクリエィティブな噺が頭の上に降ってきたわけか、、、
茂一さんの笑いの次の日に、小三治さんの笑いがつづいたら、これはもう、すごい贅沢だったろうに。
でも、独演会が終った後は、みんな始発まで飲みつつしゃべったそうなので、やっぱり自重してよかった。よいものを鑑賞するには、こちらにもそれ相当の体力が必要なのだ。
私は他界してしまったほかの名人達の話を聴いてないごく初心者だけど、こうなったらお願い、小三治さん、長生きしていいパーフォーマンスをつづけてね。私も長生きをこころがけますので。

今日は調布の撮影所でカメラマンの十文字美信さんといっしょ。
十文字さんもブログをなさっていて、日々の出来事はほぼ実名だそうだ。
「そこのところがむずかにいよね」などとはなしあう。久しぶりに同級生みたいに。(とはいえ、それでも私のほうが年上なんですけど)

スタジオと控え室(衣装・メイク)と、100メートルぐらいの所を往復する。
今日は陽射しが明るくて、風が強い。
衣装室の前のスタジオは先日火事になったばかりで、急場の塀に囲まれて
工事中だ。
隣の控え室はどうやら、サッカーの中山ゴン選手らしい。白いバスローブの姿が別のスタジオに入ってゆくのを遠目にちらっと見た。残念、あと3秒早かったら、すれ違うことができたのに。
私のほうは、と言えば、長年お付き合いのあるキュートな女優さん。 彼女が持っているデジカメがカッコイイ。裏側がキャメル色の革の コンタックスで、レンズはツアイスだ。
早速、欲しいな、と思う。
「いくら?」
「4万円か5万円だったかな」
「そんな値段じゃ、買えないよ、きっと」と十文字さん。
一瞬で結論が出た。私のデジカメは古くて、デカい。商売道具だもの、進化させたっていいでしょ。突発的に欲しくなったわけじゃない。
合間にそっとカメラ屋に電話をする。
いろんなところで「もうそれは一ヶ月前に終ってます」 「そのメーカーは撤退しています」などといわれて、いつものシツコサが頭をもたげる。
ついに千葉のヨドバシカメラで発見。値段は4万5千円だった。

写真 (撮影・熊谷朋哉) 撮影が終ったメイク室で。シンコー ミュージックから出る「グラムロック全集」のインタビューを受ける。 (近頃こういうの多いかも)

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午前中、ビデオで、テレビマンユニオンの重延さんがつくった「ヴァザーリの回廊」を観た。
これはお正月に放送されたものだが、友だちに貸す約束をしたので、その前に改めて2時間のビデオを観たのだった。
イタリアのフィレンツエにあるヴァザーリの回廊を、10年がかりで許可を得て撮影したもので、案内役は奥田瑛二さん。1キロにわたる回廊は、ルネッサンス時代の絵画の宝庫で、そこを歩く奥田さんと絵画を延々とカメラが追ってゆく。ナレーションも、音楽も、奥田さんの言葉も誇張は一切ないが、その淡々としたなかの重みがジワジワと感動になってゆく。
重延さんの作品には、「尼門跡」という京都の尼寺のお正月を追ったものがある。これも10年がかりで許可を得て撮ったものだ。
テレビという媒体のおかげで、長い歴史とじっくりと向かい合う時間をもらった。
短いレンジで生きていると、余計にこの時間が新鮮で感動的だ。
その感動の余波を自分の中に取り入れて、じっくりクリエイティブな世界に浸れたら、私も、多少はアーティストの世界に生きられるだろう。
だけど、その充実した静寂さに耐えられなくなって、友だちに電話をしてしまう。
ビデオを持ってご近所のプロダクション(スプーン)に出かけてゆく。
長年の友だち(山田さん、向井さん)と賑やかに冷やし中華(辛涼麺)を食べて、作品の世界が私の心にもたらした透明感と寂寥感を蹴散らしてしまったのだった。

夕方から銀座の王子ホールに桑原茂一さんの「Comedy News Show」お披露目公演に行く。
70年代のスネークマンショーから、脈々とつづく茂一さんのコメデイ。
1年ぐらい前、MXテレビ UHF 「CHOCOLATE IN THE BOX」で鋤田正義さんと小林克也さん、桑原茂一さんのトークショーがあった。
茂一さんは克也さんとともに、当時いかにラジオ番組「スネークマンショー」をつくることに真剣勝負だったか、そのためにいかに戦ったかを語っていた。
それは茂一さんのなかで一貫している。
私はよく説明できないので「ぴあ」からでている「STYLE OF COMEDY」という本のなかで、茂木健一郎という方が書いていることを勝手に、ほんのすこしだけ引用させていただく。
「笑いは、暇つぶしや、エンタテイメントのためにあるんじゃない。笑いは本当は世界の真実を知るためにあるんだ。」
「桑原茂一が扱うネタは、タブーにまみれている。戦争、セックス、 ヴァイオレンス、警察、ドラッグ。こういうタブーを前にすると、人間の頭はこわばってしまう。だから、桑原茂一の笑いという太陽が必要なんだ。笑っているうちに、気がついてみると、こわばりがちょっと緩んで、世界の真実が見えてくる。どんな偉い社会評論家のもっともらしい理屈よりも、時には良質の笑いの方が有効なんだ」
出演者は、妥協しない茂一さんとやっている方々だけに、みんなものすごくうまかった。
年齢不詳のコシミハルさんの歌、ファッション、(そしてうらやましいことにその体型も)、素敵だった。

写真(撮影・鋤田正義) 70年代、当時のラジオ番組「スネークマンショー」を体現した小林克也さん、伊武雅刀さん、そして桑原茂一さん。スタイリストは私。
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4月29日は、ミック・ロンソンの命日。初めて観たデヴィッド・ボウイのコンサート(ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール、72年)で、ミック・ロンソン、デヴィッド・ボウイ、ルー・リードの3人がステージに並んだ時はひっくり返るほど素敵だった。
どの曲だったか、思い出せないけど、ステージの中央で、3人そろって前進と後退を繰り返すと、観衆は興奮して声を上げ、私自身もドキドキして立ち上がってしまった。
金髪のミックは膝までの白いソックスをはき、私には現代のモーツアルトのように見えた。

ミックを検索すると、
「デヴィッド・ボウイがもっとも華やかなグラム・ロック・スターだった頃、そばには常にレスポールをかき鳴らす儚げな佇まいの金髪のギタリストがいた」とある。
私の印象では、その頃ミックはピシッと筋肉質で、動作はきびきびしていたから、男性らしい優雅さはあっても、決して儚げではなかった。
身体のラインをぴったり包んだシャツを、第3ボタンぐらいまであけて着たりしていたと思う。
後に、ツアー中のある日、デヴィッドとミックがいっしょに曲作りをしているのを垣間見たことがある。
デヴィッドがソファに寝そべり、ミックは床に腰を下ろして、頭をくっつけるようにして、ふたりでなにやら紙に書き記していた。
その姿は小学生が仲良く宿題を考え合っているような感じだった。
誰かが、「ミックは学校でクラッシックの勉強をしていたから、デヴィッドにとって貴重なブレインなんだ」と言っていた(ような気がする)。

日本のツアーで、私はミックと結構仲良しになり、楽屋には「ミック・ロンソン ラブス ヤッコ」と落書きをされたりしたけど、 残念ながら何のマチガイも起こらなかった。
それどころか、すでにちゃんとあるストーリーが進行していたのかもしれない。
そのとき私といっしょに黒子となってステージ上でデヴィッドの衣装の引き抜きをしたヘアメイクの女性と後に結婚したと聞いている。

写真 (撮影・Yacco) 新幹線で移動中のミック・ロンソン(左)。4月29日は彼の命日(享年46)
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いつだったか、胸の中で、モンキーズじゃなくて清志郎さんの 「Day Dream Believer」が鳴り響いたまま、道玄坂を歩いていた。
そして何故か吸い寄せられるように立ち食いそばの「富士そば」に入ったのだ。そしたら、何たる奇跡、店の有線でその続きをやっていた。
その符合に、「うれしい、清志郎さんと私は見えない糸で結ばれて いる!」と思い込むことにした。
その後、その糸は、見えたり見えなかったりして、細々と繋がっている。
いくつかのCMの仕事もあったし、プロモーション・ビデオの仕事もあった。
いちばんすごい思い出は、私の誕生日(7月5日)と清志郎さんの日比谷の野音のコンサートが重なった時のこと。
事務所の方の配慮でステージ正面の真ん中あたりに「お誕生席」をつくっていただいて、私は10数人の友人達と誕生日コンサート(私だけの勝手な思い込みです)を楽しんだのだった。
野音のコンサートは始まりの時間が早い。夏のまだカンカン照りの余韻を残した時間から始まり、次第に夕方になってゆく。空が夕焼けに染まる頃は、公園からネグラに帰るカラスたちが、 ステージの上をかーかーと鳴
きながら飛んでゆく。
とっぷりと日が暮れてまもなくステージは終わったのだった。

さて、毎年行っている代々木のアースデイの野外コンサートに清志郎さんが初出演した。

私は相当ギリギリの時間に会場に入ったけど、満員にもめげず、後ろから徐々に前に進み、前から4、5番目ぐらいまで進出した。
ところが演奏が始まったとたん、みんなのウエーブでもみくちゃ。そこでトシを感じて(肋骨折ったりしかねない)右の方にずれた。
アースデイ初出演の清志郎さんも、オーディアンスもノリノリですっごく楽しい。
衣装のスーツも、誰が作ったのかしら?と、スタイリストとして、やきもちを焼きたいぐらい素敵だった。
演奏中、2度ぐらい、会場のいちばん前から、一番後ろまで往復する。こうしていろんなところで聴くのが好きなのだ。
私の印象では、清志郎さんはいつも自分自身のコンサートでは平和のメッセージをみんなに伝えている。でも、こういう誰かが企画 した催しに参加するのは、ほとんどはじめてなのではない
かと思う。
アースデイのステージで「Love and Peace 」、「愛し合ってるかい?」
という清志郎さんの言葉を聴くのはうれしいことだ。
最後の曲が終わりそうなころで、楽屋に向かって外にでた。
会場の中より、外で溢れたまま聴いている人たちのほうが何倍か多かった。こんなにひとがいっぱいなのに、外でそっと聴いている息子にばったり会う。
カメラマンの仲さん(知り合ったばかりの若い女性カメラマン)と目配せしてステージの裏に回る。 しばらくしたら、SUGIZOさんが出てきた。 「僕のステージは6時から」と
いうので、一度家に戻ってココ(犬)のえさと散歩をしてまた戻ることにした。
ところが夕方近く、急に風が冷たくなり、私の身体に潜在している風邪の症状もガッと現れ、SUGIZOさんを仕方なく断念した。

写真 (撮影・Yacco) 素敵なジャケットを脱ぎ捨ててからのスナップです。
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