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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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2004年11月
2004年10月
3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
Hotwired / Blog / 高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
いつだったか、横浜港近くの由緒あるバーでロケをした。
撮影終了後、成り行きでささやかなお疲れ会となり、スタッフは仕事の緊張から解放されたひと時をバーのカウンターで過ごした。
カメラマンの十文字さんの脇には若い女性スタッフが座り、私もそばの席に連なった。


彼女は「十文字さんて、どうやって写真の修行をしたんですか?」と単刀直入な質問をした。
仕事の後のぽかっとリラックスしたい時間に、かなり真面目でシリアスになりそうな質問をして大丈夫なんだろうか、と私は密かに気をもんだ。
十文字さんは、にっこり笑って、「僕はね、実は役所に勤めていたんだよ」とことの始まりから丁寧に話し始めた。
その話は、若い女の子が独り占めにするにはもったいないことがいっぱい詰まっていて、私は聞き耳を立て続けた。
話が六本木スタジオのスタジオマンになった頃になると、女の子といっしょに相槌を打っていた。(あ、突然思い出したけど、その頃は私もやや若い女の子だったんじゃないかしら)
当時のスタジオマンには、仕事の獲得の仕方があった。
いかに一番乗りしてスタジオを掃除するか、そんなことにも必死だった。
十文字さんは遂にスタジオに寝起きして、一番を確保した。あの白くて硬いスタジオは地面より冷えたのではないだろうか。そこで一番になるのがどういうことにつながるのか、今ではその細かい話までは思いだせないが、そうやってコツコツと並外れた努力をして、何かしらのチャンスをつかんでいったのだ。
当時はスタジオの数も少なくて、私もしょっちゅう六本木スタジオに出入りしていたから、いっしょの時もあったろう。
でも残念ながらスタジオマンのときの十文字さんは記憶にない。
それから、彼はカメラマンのアシスタントになったが、優秀なアシスタントとしての伝説は何度かつたえ聞いている。

十文字さんがはじめてファッション写真を撮ったときのことは鮮明だ。
72年、ロンドンに行った時、ファッションデザイナーのザンドラローズと知り合った。


女の家でのパーティには、寛斎さんや、マガジンハウス(当時は平凡出版といった)の編集部の椎根大和さんなどと押しかけた。
そんな縁で、池袋西武でザンドラのファッションショーを開催し、アンアンでは、ザンドラの服を大々的に紹介することになった。
椎根さんが「若いカメラマンでやるよ」といって現れたのが十文字さんだった。
当日、十文字さんは相当緊張していたらしいが、私たちには全然それは感じられず、それよりも、撮影の素早さに驚いた。
あっという間に終ってしまったのだ。
椎根さんは、自分が起用した若い才能の仕事ぶりに編集者としての喜びを感じているようだった。
何しろ、十文字さんがフリーランスになって、3ヶ月目の仕事だったのだ。

それから数年間、十文字さんは、クライアントや広告代理店に見せる作品集には、ザンドラの写真が必ず入っていた。
パネルになったその写真を私がいっしょに見るときだけ「最初にすごいものに出会っちゃったんで、なかなかこの作品を引っ込められないんだ」と言って笑った。
その記念すべき時に、スタイリストとして参加できたことをラッキーだと思った。
十文字さんが、ムービーに挑戦する時がきた。
スチールフォトグラファーとムービーカメラマンの職域が分かれていた時代から、両方をトライする人たちが出てきたのだ。
多分同じ六本木スタジオだったと思う。
加藤和彦さん、ミカさんが、スタジオの床に腰を下ろして、カメラを見上げる。お菓子メーカーのコマーシャルだった。
技術的なサポートをするスタッフがさりげなく十文字さんを囲んでいる。
この撮影は、仕掛けもなく、シンプルでかっこいいものだった。
広告界には才能ある人たちをうまく引き立ててゆく体質が自然にある。
みんな好奇心が強い、新たらし物好きの集団なのだ。

ある日、私は十文字さんに、こんなことを報告した。
私は子供を生んで3年経っていた。
産後は、それ以前より何倍かの仕事が押し寄せてきた。
私はそれらの仕事に以前にも増して情熱を注いでいたし、自分の感覚もそれなりに光っていると思っていた。
その日、世界に降りそそぐ光りがいつもと違って見えた。
世界がクリアな鋭角さをもって存在していた。
それまで、見えないへその緒が私と子供のあいだにあったのだろう。
今、母性に包まれて柔らんでいた私の感覚が、そのやわらかい膜を脱いだのだ。
その瞬間は、空から降ってきたような感じで、へその緒が切れた私は、今新しい時を刻み始めたような気がする、、、と。
十文字さんは、目を輝かせて私の話を聞いてくれた。
そして「やっこさん、素晴らしいよ。よかったね」といってくれた。

写真 (撮影・十文字美信、モデル・グレタ スタイリスト・Yacco アンアン 1973年11月5日号より) 
ザンドラのドレスは、シフォンにアメーバ状の柄がったやわらかいものから、フエルト状のものまで、芸術品といっていいものばりだった。私は彼女からシフォンのドレスを一着プレゼントされた。
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うちの近所はノラ猫が多い。
特に近所にお屋敷があって、そこには一族が生息しているようだ。
うちの大家さんが元気だったときも、猫たちの季節の恋愛の組み合わせや、子猫の様子など、よくしゃべりあったものだ。
猫たちにも、それなりの節操があって、塀の上とか、庭を横切るとかは
しょっちゅうだったが、こちらの領域にどっしり入り込むことはなかった。
今年、大家さんがいなくなった庭に、猫の親子が住み着いた。
それで、今はココのリードを放すことができなくなった。
子猫たちも日に日に成長してきて、時々滑り落ちながらも、紅い花をつけている百日紅(さるすべり)に上れるようになってきた。昨日は、高い木のマタに落ち着いて、こちらを見下ろしていた。
もうすぐココのリードを放せるかも、というところなのだが、この猫たちに餌付けをしている人がいるのか、それは謎なのだ。
近所の鳩森神社の猫は、確かにそういうことがあるらしく、「地域猫」と呼べる存在だと思う。

いつもより激しい台風が来て、ピークは午前3時だとテレビが報じている。
いったんベッドに横たわろうとしたが、猫たちのことが気になる。
夜10時ごろ、ココを連れて行った時は、軒のエアコンの室外機の上に親子三匹でうずくまっていた。
今夜、彼らは生きながらえるのだろうか、死なないまでも、極端に弱ってしまうのではないか。
軒下などでは、これからのピーク時の猛風雨にさらされるだろう。
午前一時、隣人をさそって、事務所にダンボールにタオルを敷き、バスタオルを持って大家さんの庭に行ってみた。
案の定、室外機の上に親子三匹うずくまっている。
三匹はキッと敵意を持って私たちを見つめて、三方にちらばった。無理もない、私はいつも彼らの天敵、ココを連れているのだから。これじゃ、追い散らかしているだけになる、としばらく佇んでから諦めた。
結局ずぶ濡れになってしまい、お風呂に入って寝た。

次の朝、さっそく庭に行ってみたら、室外機には無事親子三匹がいて、母猫は子猫をなめていた。私をみとめると、三匹揃って、キッとにらんだ。
おせっかいの私は、ほっとしつつ失礼した。

写真 (撮影・Yacco)
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20日 青山を歩く。明日は撮影があり、もうほぼ大丈夫なんだけど、もしかしたら、とんでもない発見があるかもしれない、みたいな気持ちにかられて、その気持ちを収めるためもあって、めぼしいところをのぞいて歩く。
先端の店はもうすっかり秋だ。
クラクラっとしそうな眩しさに包まれた灼熱の歩道から店内に入ると、そこに新しい秋がある。
こういう瞬間、いつもながら心が動く。
「LOVELESS」という店で、私の秋を見つけた。
赤いタータンチェックのシャツジャケット。背中に小さいスカル(ガイコツ)がある。黒っぽいチェックの厚手のニットの裾にゴールドの鋲が並ぶ。
うーん、この上等なパンクの味付け、私にとっては究極ですよ。

ギャルソンを眺め、イッセイに寄る。
一階では50代ぐらいのご夫婦であろうカップルが秋の服を選んでいる。男性が何着かジャケットを試着するのを椅子に腰を下ろした女性がじっと眺めている。この方々は、季節のごく初めにさっさとそのシーズンの服を選んでしまうのだろう。
地下では、外人のカップルで同じ光景があった。海外から来ているファッション関係者かも知れない。
ここで、明日の撮影用に別バージョンとなりそうなジャケットを見つけて購入。

ズッカの二階にあるカフェで昼食。
アシスタントの悠子ちゃんと窓際に席につきメニューを広げる。
悠子ちゃんの向こうにサロンのような部屋が見える。そこでブティックの店員さんたちがランチを取っている。
私はそのシーンから目が放せない。高い天井、広いガラスを通して入ってくる光りが20代であろう若い男女の姿をやわらかく輝かせている。
ご本人達は無心だが、そこにあるのは青春の光り。
私も嘗てああいうテイストの服を着て、無心に生きていた、、、
こうして街を移動していると、なんということもない光景に心を奪われることがある。

いつだったが、街を歩いているふたりの老女の姿に映画「八月の鯨」のシーンを連想した。
それは80代になった自分を見つめることでもあった。
今はこうして20代の自分を眺めている。
なんだかそれは小磯良平の絵を眺めているような、そんな感じだった。

24日
代官山で「KIMONO the ART」というパーティがあった。
もと博報堂にいらした丸山さんがプロデュースした催しで、大盛会だった。
山口小夜子さん、スタイリストの前田みのるさんとおしゃべりする。
パリ在住のイラストレイター、マリィ・カイユの振袖を着た野宮真貴さんのライブがはじまる。
彼女が歌い始めたとたん、たちまちみんながデジカメやケイタイをかざしはじめたけど、私は呆然と見つめるのみ。
大胆なヘア、メイク、スワロスキーがちりばめられた振袖、、、あー、いまやデジカメは必須用品だったわ。それで、一枚ポラをもらって帰ったけど、ホントはこれよりも100倍可愛かった。
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表参道の交差点、ギャップのちょっと青山通りに近い所に小さなビルがある。
その前の歩道は、同潤会アパートを経て青山通りまで続く欅(けやき)の並木道だ。ビルの前の欅の下のベンチには、毎日若者の行列ができる。2階の店「ゴローズ」のオープンを待つ列であり、時には、入店の人数をコントロールするための列だ。
「ゴローズ」は、オリジナルのインデアンジュエリーと、皮製品の店。
店主のゴローさんは、この店にいたりいなかったりだが、30年以上前から、ずっとここが彼の拠点だ。
彼は、日本で初めて、アメリカインデアンのラコタ(旧称スー)族によって「イエローイーグル」という名前を与えられ、正式にインデアンになった人だ。
その名前が与えられる直前、こんなことがあった。

70年代の後半に入った頃のこと。
私に「カウボーイとインデアン」のコマーシャルの仕事がきた。
カウボーイ役は人気男性タレント、インデアンは黒人モデルだった。カウボーイハットや、服はすぐ手配がついた。インデアンの衣装は、アメリカがらみの大きな行事が入っていてどこにもなかった。
私はゴローさんに相談に行った。
「俺が持っているのはさー、このほんものの服だけだな。これを着てインデアンになる儀式をうけるんだよ。だから、これは俺の命とおんなじだ。その儀式を受けるまで、汚(けが)したくないんだ」
まったくその通りだと思った。
何か別の方法を考えよう。私はそのとおりのことをディレクターに伝えてしまった。ディレクターの目がキラリと光った。
「僕はその本物の服を使いたい。」
「もっと、ポップでキュートなほうが可愛いいよ。」とかなんとか私は言ったと思う。(それは本当だ)
だが彼が急に固執した「そこだけ本物指向」は強かった。男性タレントがチューインガムを噛み、そのわきで、インデアンが「インデアン、ウソ、ツカナイ」というコマーシャルなのだ。ゴローさんには怒鳴られそうなアイデアだ。
いやだなー、と思ったけれど私はまたゴローさんのもとに走った。
ゴローさんは私の目をまっすぐ見て、こういった。
「いいよ、貸すよ。これはヤッコじゃなかったら、貸さないよ。ヤッコに貸すんだよ」
私は、その神聖であるべき、しなやかな鹿皮革の上着を借りた。そして、極彩色のインデアンメイクをしたモデルに用心深く着せた。照明が当たって、モデルが汗をかくと、皮革に汗がしみこむのが心配だった。ほんのちょっとの瞬間も目を離せない。私は一日中、緊張しきっていた。
夕方、やっと撮影が終わった。ディレクターの「OK!」の掛け声とともに、私に電話がはいった。たった30秒離れて駆け戻った瞬間、モデルがガバッと衣装を脱いだ。
私は、悲鳴をあげた。
胸元には、グリーンやオレンジのメイクがべったりついていた。
私はことの重大さを周囲に訴えたが、そんなことは、何の解決にもならなかった。気がつくと、スタッフはいなくなっていた。

私は汚してしまった服をもって、ゴローさんのアトリエに向かった。
私が借り、私が返しにいくのだ。
アトリエは、青山3丁目から西麻布に向かってすぐのところにあるコシノジュンコさんのブティックの2階だった。
私はなんと言ったらいいのだ。
何の整理もつかないまま、私はアトリエのドアを開けた。
ゴローさんが立っていた。私は、ゴローさんが命と同じだと言っていた服を捧げもって、絶句した。
「ゴローさん」 それだけ言うと、どっと涙がでてきた。
うなだれている私に、思いがけない言葉が降りそそいだ。
「ヤッコさん、泣くなよ。俺はヤッコさんが泣くのをみたくないよ。こんなもん、どうってことないよ。これは、貫禄ついたほうがいいんだ。俺、これから、どんどん汚すよ。ふんずけて、もっとカッコよくするよ」
ゴローさんは、この間と正反対のことを、懸命にいいつづけた。

付け加えるなら、このとき、私は、ヨチヨチ歩きの息子を連れて行っていた。(仕事の領域に子連れで行くことは、きわめてまれなことだった)
ものめずらしげにアトリエをうろつく息子には、私にとってどんな時間が流れているかを、知る由もなかったろう。何故かこのときの幼い息子の姿がれられないので、ここに記しておく。
私の絶体絶命を救ってくれたのは、誰でもない被害者のゴローさん自身だった。百の言い分があったに違いないのに、一瞬のうちに人を咎めたり、責めたりしないと決めてしまえるなんて。
静かで、平和な気持ちに満たされて、家に帰れるとは予想もしていなかったことだった。

その後、ゴローズの店で、コーヒーを飲みながら、ゴローさんからイエローイーグルになるまでの、不思議なセレモニーの話を何度も聞いた。
4、5人で彼を囲むテーブルの後ろの壁にはいつも、儀式に着た鹿皮革のジャケットが掛かっていた。
私が汚してしまった胸の染みのあたりには、幾重にもインデアンジュエリーの首飾りがかかっていた。
私はその後、何度ゴローズに行っても、何年たっても、その首飾りの後ろ側を覗くことはできなかった。

写真 (本人所蔵のもの)
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12日 代官山近く、旧山手通りのプロダクションで、毎年恒例のバーベキューパーティ。
代官山を散歩した後、広いテラスでジュウジュウいっている焼肉に突進。口のなかでとろけるレアなお肉を前後みさかいなくいただく。
アシスタントの悠子ちゃんには、胃の調子がイマイチだから今夜は無理かも、、、なんて言ってたはずでした。
ある代理店の若きコピーライターから、「ブログ読んでます」と。
実は昼間、夜はバーベキューだからざる蕎麦にしようと、
鳩森神社前の「ほそじまや」というお蕎麦屋さんにいったが、そこでも、若い男性に同じことを言われて気を良くしてたところ。
夜11時ごろまで日頃の仲間やなかなか会えない人たちとおしゃべりして帰宅。ドアを閉めたとたん、どっと大粒の雨が降り出した。

13日
横浜ランドマークプラザでシェイクスピアの「夏の夜の夢」を観た。
野外でやるので、ここのところの激烈なにわか雨がどうかな、と思ったけど、友人ととにかく行ってみた。
場所はこんなところがあったのか、うなるほど何かギリシャの野外劇を思わせる階段状の広く深い空間。
ウールーチンさんの京胡の演奏の後芝居が始まるはずだったが、あっという間に土砂降りの雨になってしまった。
駆け込んだところの目の前が無国籍料理の店で、さっそくあれこれとって食べる。
デザートまで食べて外の様子を見ると、雨が上がって、スタッフが広い会場を養生している。特に舞台になる階段を一段一段拭いて、出演者が滑らないようにする作業がつづく。
私たちがのんきにご飯を食べているあいだに、開演保留のまま、それでも、開演に向かって動いているスタッフがいたわけだ。
その間にも、決定は、30分後とか、電気系統のチェックにさらに30分かかるとか、2時間ぐらい遅れて開演することになったが、その場合の帰りの電車はこうなる、、、とインフォメーションもしっかりしていた。

さて、ドラマチックな雷雨の後のお芝居はどうだったかというと、これがとってもよかった。シェークスピアの「真夏の夜の夢」だから、面白いにきまっているのだが、去年は、有名な演出家によるものが、どうしても私の体温に合わなくて、途中で逃げました。(自慢しちゃうと、「真夏の夜の夢」はけっこう観てます)
リンゼイケンプ、野田秀樹さん、劇団忘れちゃったけど、ランドセルしょった妖精たちが出た小劇団のもの、東京乾電池の日本語と英語のセリフがならんでたもの、みーんな面白かった。
今回は山口馬木也さんと坂本美雨ちゃんをうっすらと知っているだけだったけど、きっと驚くほど練習と訓練を重ねたのだろう、ひとりひとりすごく活きていた。
妖精パックの青年は地底の客席から夜空につながる階段のてっぺんまで縦横無尽に駆け上がり、駆け下りていた。
昔、もう相当のおトシのリンゼイケンプが、ぷっくらとしたお腹をだしてパックを演じたのを観た。役者としての自己愛を捨てきれず、演出家に徹しきれないでいるみたいで、なんだかもの悲しくも、ほほえましかったっけ。
そういう、ベテランぽいひとは一切ない今回の役者さんたちは、せいいっぱい透明なエナジーを発していた。
帰りの電車で友人と「突然いいものみせてもらって得したねー」と語りあった。
あの雷雨までよかった。そのうえ入場無料の催しだったのだ。

14日
忌野清志郎さんの日比谷野外公会堂のコンサートに行く。
夕方から打ち合わせが入りそうだったのを、4時に変えてもらってどうにか済ませて、野音へ。5時30分、一曲目がすでに始まっていて緑の日比谷公園を聴きながら走って、会場へ駆け込む。
びっしりとうずめた観衆が清志郎さんに向かっているなかで、一番後ろの少し空き地になっているところで、ひとり無心に踊っている女の子がいたりする。
6時半ぐらいになると、少し夕暮になってきて、何十羽のカラスがゆっくり中空を舞って家路へ帰る。
夏の野音では、この時間のこの風景が大好きだ。
途中、突然サブステージなるものが現れて、清志郎さんは後方で歌いはじめる。後ろで観ていた私は真近に彼を観れることになった。
終戦記念日を控え、彼の「Love and Peace」の言葉が響く。
それからメインステージに戻り、そろそろ終わりかな、と思ったら、どんどんエネルギッシュになって、3時間のステージが終ったのでした。

この3日間のお祭り騒ぎが老後まで(まだまだですよ)続きますように。

写真(撮影・Yacco) 日比谷野外音楽堂。この明るさが、3時間かけて宵闇に輝く場所となる。 
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朝5時から、梅干作りの最終作業をする。
梅を壺から出して、並べる。梅酢も壺ごと日光にあてる。使わなくなった重石やふたを洗って干す。家の周りを掃いて、水を打つ。ベランダの植物に水をやる。一日に何度かこの梅たちを直射日光の下でひっくり返す。小さいざるは、自家製の干し椎茸。
梅ジュースは好評で、今年のは甘くなくさっぱりしてて、我ながらうまくできたとおもう。
このお天気、それだけじゃもったいない。またまた家中の布団を干し洗濯に精を出す。
と、ここまでは、去年のこの時期の私とまったく同じ一日だった。

一日中の農婦活動ののち、お風呂で汗を流して、お隣の星川さんと東中野のポレポレ坐へ。

8時より「チベットチベット」を観る。
在日3世の金森太郎(金昇龍)さんが、ビデオカメラを回しながら世界中を放浪しつつ捉えたチベット問題。ダライラマに何度も手紙を書き、10日間の同伴撮影、インタビューを許された。
どうやってこれだけの素材を無事日本に持ち帰れたのか、と思う貴重な映像がいっぱいだが、たった一人の青春の旅行者が旅のなかで、意識が変わって行く様がにじみ出てくる。素晴らしい映画だ。

上映の後、3回にわたって、トークショーがあり、最初は金森さんと、宮台真司さん(社会学者)、2回目は森達也さん(映画監督・作家)と。
そのなかで、私を驚かせたのは、金森さんの今どきの若者らしいボケッとした感じだった。
映画が素晴らしかったゆえに、その世間知らず的なボケ振りがかっこよく思えた。それぞれのゲストの話はとても面白く、金森さんをけなすでもなく、
たてるでもなく、話は進む。本人とゲスト、明らかに言語体系の違う人たちが話すおもしろさに私はひきこまれていった。

ゆったりとした休憩時間を経て、第3回目のトークは、田口ランディさん、
本橋誠一さんで、司会が今泉清保さん。
この中で、金森さんは、相変わらずのいまどきペースで「僕は本を読んだことがない。新潮文庫の百冊だって、まあ、そのうちの20冊ぐらいは読んだかなー」などといい、これからも本は読まないようなことをほのめかす。
そこで、ランディさんの、キビシイ一撃。
「あんたねえ、本を20冊しか読んだことがないって、自慢するな。それはもうそれで終わりってことよ。あんたがそれだけのことでいいんだったらそこに留まっていればいいよ。本を読むこと、世界を広げること、それは大事な事です。(私はそのことに、命かけてんだから、みたいなことも言ったような気がする)」
私は前2回の対談の快楽に、ざぶっと水をかけられて、(多分彼といっしょにと言いたいが)恐縮した。
それにしても、この映画のためにこのセッティングをして、ゲストを呼んで人々を集めたはランデイさんなのだ。
ランデイさんは熱い人だとつくづく思った。

朝4時になり、友人と私は、始発を待たずタクシーで帰った。
触発された精神活動の高揚はここまで。5時の終了までもうちょっとだったけど、昨日の昼間の労働生活の疲れに打ち負かされる時が来たわけでした。

写真 (撮影・飯島悠子) この写真、去年の今頃のもの。 風景は今年も変わらないけど、今年はこの庭の大家さんがいない。庭は少し荒れ、ノラ猫親子にのっとられた。
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2日 代官山のど真ん中で、一日中撮影。
お昼ご飯の後に20分の休みがあった。ちょこっと外に出て、近所の本屋さんで「アエラ イン ロックII」を買う。
「これが最後の一冊です」とのこと。アエラが出すロックの本は、40代と10代に超売れているそうだ。
終了後「アウトレット」で、1000円のサボを2足買う。

3日
そうだ、福岡行こう!と思い立ち、3時20分発の飛行機に乗った。
空港で宿を予約し、ちょっとした荷物を宿に置いて、Zepp Fukuokaへ「坂本龍一JAPAN TOUR 2005」の最終日。福岡ドームの野球と重なってウロウロしてしまい、始まったところに飛び込む。
そこに満ちている音楽、そのきらめきにすんなりとけこんだ。至福の2時間。
プロデューサーの空さんは、「ヤッコさん、狙って来たでしょ?今日はパーフェクトだったのよ」といってたけど、狙ったわけじゃない、たまたまですよ。
東京から会場まで、けっこう大汗かいてたどり着いたんだけど、そういわれてみると、なんか、運ばれてきたような気もする。
演奏を聴いていると、心地よさのいっぽうで、自分が引っ張りあげられるような、自分のなかのキャパが広がるような、そんな自分をみる。気恥ずかしいけど、「私はここにいる、ほら、私は大丈夫よ」っていうような。

帰りのタクシーの運転手さんに教えてもらったうどんやさんで、750円の名物うどんを食べて、ホテルの窮屈なプラスティックのお風呂にはいって、それでも 心のなかで続いている豊かな音に包まれて、コトンと眠った。

Zeppは、自然エネルギーだけでコンサートができる会場で、照明も程よくほの暗かったり、明るかったり、そのバランスも好きだった。
一曲だけキャンドルの光で演奏したが、坂本さんは今年の夏至(6月21日)はたまたま東京にいらしたようで、「100万人のキャンドルナイト」の話をしてました。

写真 (撮影・Mami) 今年の夏至、代々木公園のキャンドルナイト。友人の紫織さんと私。
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27日 早朝、ワゴンタクシーで川崎のスタジオに向かう。
台風一過、進行方向に富士山がみえる。
冬だと、くっきり白い富士山がみえるが、夏は美しいシルエットのみ。
アシスタントの悠子ちゃんが夏休みなので、ひとりでがんばる。商品撮りで残るスタッフに盛大に「お先に!」なんて挨拶してから、忘れ物を思い出して、かっこ悪く、タクシーに戻ってもらう。やっぱり、ひとりだとね、、、
晩ご飯用の鳥メシ弁当をもらって帰り、家でガシガシ食べて、ぱたんと寝た。

28 日
田口ランディ+AKIRAの「オラ!メヒコ」を読む。
あちこち、アットランダムに好きなところを読んだりして、ひとわたり読みきる。ある編集者がいうには、そういう読み方は、今の若者の特徴らしい。私なんて小説でさえ、昔からそうやって読んでるもんね。
人も、本も、めぐり合うタイミングがある。
この本を読みつつ、自分自身のことをいっぱい考えた。
メキシコの旅のなかで、ランディさん、AKIRA、カメラマン、編集者達はシャーマンの導きによって、マジック・マッシュルームを体験する。そして心の旅をする。その旅は、まさしく、私自身の旅のようだ。
読みながら、自分の心の蓋をあけて、もう一度徹底的にのぞく作業が私にできるかどうか、今がその瀬戸際のような気がした。
心をざくろのように割ってみて、真っ赤なぷつぷつを一粒、一粒口に運ぶ。
全部の味をざくろっぽく、甘酸っぱいものと期待しても、苦かったり、しぶかったり、キリキリと尖がった味だったりするに違いない。
その味を今ひとつひとつ噛みしめることが、私のクリエティビティなのかもしれない。

そんな、刺激と共感をもたらしてくれた本だった。
ランディさんご本人からいただいたので、なおさら本から伝わるものが増幅されたのだろう。

メキシコは、10数年前にロケで行った。
メキシコシティの有名な帽子やさんで、タレントさん用の帽子をオーダーして、出来上がるまで、周囲をひとりで歩いた。
駅前では、昔の都市の発掘作業が行われていて、人の顔にたとえると、顔の皮膚をめくると、すぐその下にもうひとつの顔があるみたいな、不思議な風景だった。
ちょっと横の道に入ると、17世紀に建ったという古い教会がいくつもあって、ある時間が来ると、次から次へと鐘が鳴った。
その音は、いつかどこかで聞いたことがあるようななつかしい響きだった。

撮影現場では、せっかちな私たちと、「アスタ マニャーナ」(じゃ明日ぐらいにね)と
いう現地の人たちとの、調整不可能なズレがすごかった。
でも、監督やタレントさんの人間性が跳びぬけてよかったので、困難なことも珍道中となって、笑いが絶えなかった。
深夜、ひた走った道が、あとできくと麻薬地帯だったり、乗るべき飛行機がなくてチャーター機を手配するまで、4、5時間、ホテルのロビーでわけのわからない時間を過ごしたりした。
その時は、監督のアイデアで現地のエキストラの人たちに歌ったり、踊ったりしてもらった。
私たちはそれを仮想オーデションと言うことにして、「今のカップルは洗濯機のコマーシャルに使おう」とか、「この娘さんは、日本でアイドルデビューさせよう」なんて判定して遊びつつ、時を過ごした。
やっとロスの飛行場に着いた時は、「ほんとに、日本に帰れるんだね」と確かめ合ったのだった。
と、そんなことまで思い出しました。

写真 (撮影・Yacco) 「オラ!メヒコ」 角川文庫 590円
メキシコロケで買ったのは、こんなパナマ帽だったけれど、もっと極上品だった。
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日本を覆う変な気圧のせいか、イマイチ気合が入らない。
こんなでいいのかなと思うくらい、身体も心もピンとしてくれない状態なので、
「今日はおとなしく行こう」と決めて、吉祥寺のバウスシアターに向かう。エディターの城山さん、ボウイのファンクラブの一美さんと、劇場付近にいるであろう鋤田さんをケイタイで追跡して、いっしょにお茶する。
この辺から、私はロック・テンションになって行く。
鋤田さんとは、京都での是枝監督の最新作の撮影に入る前にお会いしたきりだったので、懐かしく、徐々に精神活動が活発になってゆく。

上映前に、鋤田さんと評論家の河添さんのトークがあった。
ふたりはロンドンでのプレミアショーに行って、その賑々しさを話しつつ、鋤田さんは、73年ニューヨークで観た時は小規模だった、と付け加えていた。
ここでさらに付け加えさせてもらうと、ツアーの最中に突然「明日、きわめて内輪で新しく作った映画の試写をやるから、、」と知らされたのだった。
内輪の集まり、、ということを、ファミリーだけで観るといっていたと思う。
リンゴ・スターとマークは階段状の席の一番後ろで観ていた。

「Born to Boogie」の最後は「GET IT ON!」だが、当時何度も実際の演奏を観ている私にとっても、観たことがない完璧なノリだった。
いつ果てるともなく続く演奏。マークの身体の揺れ。表情。柔らかく震えつづけるヘアの塊り。スクリーンのうえで、いきいきと生きているマーク。
このひとがこの世にいないなんて不思議すぎる。
その不思議さの渦の中で、いっぱいエナジーをもらって、私はそれを大事に抱えて家に帰ろうと思った。

会場の何人かのかたから、「ブログみてます」と声をかけられ、うれしかった。revoの中村さんから「Born to Boogie」Tシャツをいただく。
駅に向かいかけたけど、結局ファミレスに行くと言う鋤田さんたちの流れに加わる。
今日の映像は72年3月のウェンブリーで行われたコンサートのもの。
鋤田さんと私がフォトセッションをしたのがその3ヵ月後の6月だった。
「あと3ヶ月はやく知りあって、このコンサートも撮りたかった」と鋤田さん。
そのカメラマン魂を知って、もうちょっとはやく会うタイミングが作れなかったのかなー、と私は思った。
傍で聞いていた河添さんが「あの時でよかったんです」と助け舟を出してくれたけど、鋤田さんがそういったのはきわめて自然。そのぐらい神がかり的なパーフォーマンスが映像のなかにあった。

さて、今日は朝、ドトールでコーヒー、昼、アシスタントとモスバーガー、夕方、エクセシオールでサンドイッチ、夜、デニーズと、ぜーんぶファーストフード系。
これは私の人生で記録的なことだわ、と考えてたら、ふと、Tレックスのアメリカツアーを追いかけた時のことを思い出した。
作品をお手伝いする時は、全てカメラマンの自腹だから、いつも食事はつつましかった。

ボストンの大衆的なレストランで、鋤田さんがクラムチャウダーを「おいしい、おいしい」と食べたことが浮かんできた。
「おぼえてますか?」ときいたら、もちろんお忘れでした。
でも、「エレファントマン」でデヴィッド・ボウイの楽屋を訪ねた時、大きな鏡の隅にエレファントマン姿のデヴィッド・ボウイとデボラ・ハリーのポラが貼ってあった。それで自分もポラロイドカメラもって来れば良かった、と悔やんだそう。私は覚えてない。
クラムチャウダーと、デボラ・ハリーだったら、もちろん、デボラのほうが重要ですよね。

「Born to Boogie」爆音レイトショー 吉祥寺バウスシアター
0422-22-3555 8月12日まで。 (爆音とは良質なライヴ音ということ)

写真 (撮影・鋤田正義) 西武デパートのTレックス展で。ミッキー・
フィンの左にいるのは、当時私の写真をよく撮ってくれたソメゴローさん。
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