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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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Vol.33 Web2.0的信頼の構築

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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
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原宿のセントラルアパートという、内側も外側も外国のような風景の中で私は人生を自分自身で歩み始めた。そこには会社と呼ぶ以上の、私が無意識に求めていた文化があったと思う。私にとって、生きる場所として、こんな居心地のいいところはなかった。確かに、こんなおしゃれな仕事場は、当時(そして今も)少なかったろう。

私は同じような空気を、学生時代にすでに味わっていた。
大学生並みの家庭教師のアルバイト、新聞を見て応募した「学生重役」というアルバイト(1ヶ月1回のレポートで、当時のおかねで1万円
いただいた)、そのお金で、夜は久保田宣伝研究所のコピーライター養成所にかよっていた。その上、夏休みのバイトが必要だった。
誰かが、「コピーライター志望ならアドセンターという会社がいいよ」と
紹介してくれた。

アドセンターは渋谷の南平台のお屋敷を仕事場として使っていた。
門をはいると樹々が茂った庭があり、芝生もあった。こげ茶色の洋館は、広々とした2階建てだった。写真スタジオやデザイン室などに分かれて、それぞれが自由に仕事をしていた。
わたしは、2階の奥の和室(ここだけが和室だった)に置いてある大きなコピー機で、さまざまな資料をコピーしたり、それを整理しながら、ここに生きる人たちの姿を眺めていた。

いちばんびっくりしたのは、カメラマンの立木義浩さんのかっこよさだった。浅黒い彫りの深い顔、白いシャツや、サマーセーターをさりげなく着た姿で撮影したり、バトミントンで遊んだり。
「去年マリエンバートで」という映画でしかみたことがないドミノというゲームに興じる姿を遠くから眺めるだけでも、どきどきした。
当時彼は「平凡パンチ」にファンキーなファッション写真を掲載していた。
モデルは、河野しお美、立川ユリ、マリ姉妹などがきていた。
撮影時、マリちゃんが強いライトで貧血を起こし、コカコーラを飲んで休んでいたりする。私はまだ、新種の飲み物であるコーラの味を知らなかった。撮影時にバタバタと忙しい女の子がいた。山ほどの服にアイロンをかけている彼女に「あなたは何してるの?」と聞いてみた。
「スタイリストよ」という答えが返ってきた。後に、日本で始めてのブテイック「マドモアゼルノンノン」を開いたフーチだった。
もうひとり、先輩がいた。立木さんの奥さんがある日、アドセンターに
やってきた。彼女はもともとはアドセンターでスタイリストをしていたということだった。
数年後、自分がスタイリストになるなんて夢にも考えていなかったので、世の中にはそういう仕事もあるんだな、とぼんやり思った。
デザイン室には、花井幸子さん、金子功さん、荒牧太郎さんがいた。
みんなそのあと自分のブランドをもつファッションデザイナーになった人たちだ。
アートディレクターの堀内誠一さんは特別の雰囲気をもつ人だった。
一介のアルバイト学生では、彼の目にとまることはないだろうと思ったが、私はブラッドベリの「華氏451度」の話を知ったかぶりしてしゃべった。
彼は私のことを「生意気な子だね」といったそうだけど、ちゃんと広告文案のほうのコピーの仕事をやらせてくれた。
帝人のファッショナブルな仕事がアドセンターの主流だったが、私に与えられたのは、「テイジンふとん綿」と「テイジン学生服」のコピーだった。
「軽井沢でやるファッションショーを手伝ってくれない?」とフーチから言われていたけど、未練いっぱいなまま断わった。
そして、布団綿と学生服の新聞広告のコピーを書かせてもらった。といっても、「未来からきたふとん綿」といった程度のキャッチ・フレーズだったが。
そのときのスタッフに仲間にいれてもらい、別のテーマで広告をつくって、「朝日広告賞」に応募した。それはかろうじて佳作にはいった。
たとえ小さな活字でも、自分の名前が新聞に載ったのはうれしくて、密かに何度も何度も確かめた。
お世話になった堀内さんは、「アンアン」の創刊とともに、「アンアン」のアートディレクターとして活躍した。

写真(撮影・アラーキー? あるいは高橋国太郎さん?) 原宿のレマンに転職する前に「不法滞在」していた電通にて。トンボ眼鏡と呼ばれたサングラス(度入り)を職場でかけている恥ずかしい写真。
上司からは、私の将来に関して、いろいろな約束をいただいたが、わがままにも1年満たないで辞めました。
写真部と同フロアだったが、アラーキーさんも写真部に在籍中で、今は伝説になっている「ラーメン屋さんで個展」をひらいていた。
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文化屋雑貨店が、渋谷の消防署近くに出現した。初期のころの商品は、買い占めておけばよかったというものがたくさんあった。食器もおもちゃも服もインテリアの雑貨も、今だったら到底見つからない貴重なものばかり。
若い店主の長谷川義太郎さんが、日本中の各地の蔵や、店じまいしたところを訪ねて、集めまくったもので選択眼がすばらしかった。その上信じられないくらい安いのだ。
当時のアシスタントののんちゃん(スタイリストの中村のん)は、私が支給する薄給のなかで、いつもドキっとするほどチャーミングなもコーディネイトをしていた。私はいちいち、「そのブラウスは?」「そのブローチは?」と出所を聞いたが、文化屋のものがずいぶんあった。彼女のオシャレは、若さとセンスとある種の才能があれば、お金をかけなくても、じゅうぶんに魅力を発するという見本みたいなものだった。文化屋はそういう若者のために意味ある存在感を今も持ち続けている。

私にとって忘れられないのは、喜一のぬり絵があったこと。蔦谷喜一は昭和20年代から30年代にかけて一世を風靡したぬり絵作家だ。幼い頃の私はぬりえが好きだったが、一方、田舎ながら「国際児童水絵展」などにも入賞するお絵かき少女でもあった。絵の先生は一般的にぬり絵には厳しく、こっそりとはまっていた。後で聞くと蔦谷喜一さんもそういう風潮にずいぶんと苦労をなさったみたいだ。
私は久しぶりにぬりえを見つけ、懐かしさに1袋か2袋買った。(あとで、もっと買っておけばよかった、とさんざん後悔した)

その後、長谷川さんの尽力もあって、資生堂の「ザ・ギンザ」のギャラリーで「喜一のぬりえ展」が開催された。
年を召してもダンデイな蔦谷さんは奥さまとともに会場に現れ、「こんな年になってから、こんなうれしいことがあるとは思ってもいなかった」と感涙していた。新聞やテレビにも紹介され、蔦谷さんの後年のハイライトになったことは、傍目でみていてもうれしかった。

写真(撮影・染吾郎) 文化屋雑貨店店主の長谷川義太郎さんと。写真を撮ってくれた染吾郎さんと長谷川さんは、武蔵野美術大学の同級生。文化屋は現在原宿の「ユナイテッド・アローズ」の近くにある。
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青山の現在のブルックス・ブラザーズあたりに、深夜営業のスーパー・マーケット「ユアーズ」があった。夜パーティをやっていて、追加の買い物がでた時、徹夜の作業がつづいた時など、よく行った。時間に不定期な同業の方とか、どこかで見知ったひとたち(芸能界のひとたちなど)をみかけた。

青山3丁目の「青山レオン」を過ぎ、角のヴァンジャケットを千駄ヶ谷方面に向かって歩く。つぎの交差点、月星製靴の前のパズルビルにブティック「ニコル」があり、好きな店だった。
松田光弘さんの服はほんの少しアンティックな香りのする優しいものが多かったが、あるとき、アルファベットを自由に並べてシルク印刷するオリジナルTシャツを出した。私は胸にYACCOと入れたTシャツをたくさんつくってもらって、来る日も来る日も、愛用した。
アートディレクターが、フランスの雑誌「エル」のページを破って、「こんな服用意して」などという時、私はニコルの服を思い浮かべた。お店にないときは、夜、確か練馬にあった自宅まで訪ねて、白い木綿のワンピースをお借りしたこともある。一点の服を探すのにも、ずいぶんと時間がかかった。

交差点をはさんで、斜め前の秀和レジデンスには「プレイメイト」の隣に「マリアテレサ」があった。
当時としてはめずらしく、ビバのえんじ色のパンタロンや、フィオルッチのエンジェ
ル柄のTシャツがそろっていた。
この店には、今はプレスの大御所である三崎商事の白川すみれさんがいた。チビエマ(寛斎さんのブランド)の職人さんのパターンの腹巻風ビスチエ、ジーンズを繋ぎ合わせて作ったエスカルゴのスカート。ジョワジョワの髪に、ビバの黒のマニュキアというスタイルだったが、フランス人形のような美貌はピカピカに輝いていた。創刊間もないアンアンにも紹介され、彼女の美しさは話題を呼んだ。

ニコルから少し行ったところに、熊野神社がある。
その敷地の中に、三宅一生さんのアトリエというか、スタジオがあった。私が一生さんの「健康に気をつけましょう」というショウをお手伝いしたのはこのころだったと思う。(ショウはカーペンターズの曲、黒白のチェックの服ではじまった、、)西武百貨店は「ウオーク」がキャンペーンテーマだった。ほんとに新たな光が差し込むように、今までと違う波がやってきた。仕事の中に、生きていることの実感が次々と現れてくるのを感じた。

写真(撮影者・不明) 二コル店内にて。額に入っているのは、ブランドの由来でもあり松田さんのイマジネーションのもとであるモデルの二コル。
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セントラル・アパートは、ほぼクリエイターで占められていた。初期には、小澤征爾さん、画家の岩田専太郎さんが住んでいらしたそうだ。私はヤマハの仕事で、中村紘子さんのお部屋を訪ねたことがある。上手な歯医者さんもいたが、彼も歯の芸術家で、気分が乗るまでは、1時間でも2時間でも、患者の前に現れない。予約の時間があるはずなのに、実際には何の役にも立たなかった。
待っている間に眠ってしまうと、いつの間にか毛布が掛けられていた。ある人が、先生の好きなケーキを持参したら、「ありがとう」といったまま、また部屋に引っ込んでしまい、30分ぐらい経ってから、ひげに白いクリームをつけて現れたそうだ。それでも、患者たちはへこたれず、彼の腕前を賞賛して通った。

カメラマンの事務所はたくさんあった。
杉木直也さん、吉田大朋さん、林宏樹さん、小西海彦さん、浅井慎平さん、操上和美さん、鋤田正義さん、などなど。
私は、あちこちの部屋に遊びに行き、仕事もいただいた。

一階には個性的な食べ物屋が軒を連ねていた。
明治通り沿いの「フランクス」のことは以前書いたが、その奥はフィリピン料理だった。私はスジ肉を柔らかく煮て、スープとともにごはんにザーッとかけていただく一皿料理ばかり食べていた。多分それがいちばん安かったのだろう。
入り口をはさんでフランクスの向いには、「ネスパ」という、おいしいハンバーグの店、その奥が「杉の子」だった。
「杉の子」は宝塚出身の姉妹のお店で、私が「優し・おばさん」「忙し・おばさん」というニックネームで呼んでいた女性たちが切り盛りしていた。
「杉の子」はスタンドだけの席で、鉄板料理がメインだが、お魚も煮物もおいしかった。宇野亜喜良さんはよくオカズを残した。私が隣に座った場合は私が頂いた。静かに食べている渥美清さんのオカズを頂戴したこともある。
表参道側には、「レオン」の隣に「福禄寿」があった。坦々麺が私のご馳走で、ときどき杏仁豆腐がオマケについてきた。そんなとき、店を見回すと、中国語のアクセントが残った日本語の社長さんが、笑顔で合図してくれた。
素朴な「うちのごはん」か「学食」しか知らなかったわたしの食生活は一気に国際的になった。そんなに高いものを食べられるはずはないから、ずいぶんとご馳走にもなっていたのだろう。

写真 (撮影者・不明) セントラル・アパートのエレベーター。
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寛斎さんのロンドンのショウは彼の希望通り、キングスロードの「GREAT TRADING CAMPANY」という大きなスーベニール・ショップで行われたが、その翌年、写真家の鋤田さんとTレックスの撮影に来たときも、ここで働いている若い店員さんたちとは友情が持続していた。

ある日、チケット売り場の女の子に声をかけられた。「ヤッコ、こんどアリス・クーパーのパーフォーマンスがあるから、ぜひ観た方がいいわよ」
彼女はチケット2枚のほか、プレス・パスも2枚手配してくれた。後で、鋤田さんに「アリス・クーパーって知ってますか?」と聞くと、「もちろん!」とのことで、大変な愚問であることもわかった。本当に、私は何も知らずにお手伝いをしていたのだ。

当日、鋤田さんと私は、ギグ(会場)に向かった。私もカメラマンのパスではいったので、ヤシカエレクトロ35で1本だけ撮った。そのなかのブレブレの1枚が残っている。(これしか残っていないということは、他の写真はもっとひどかったのだろう)
鋤田さんは、夢中でシャッターを押し続けていた。きっとこのときのものは鋤田さんの未発表の膨大なミュージシャンの写真とともに、いつか展覧会で発表されるか、写真集になることを期待している。私はといえば、びっくりしたまま、パーフォーマンスを観続けた。断頭台がでてきたり、首を吊ったり、大蛇を身体に這わせたり、なんとも前衛演劇っぽくて、寺山修司の世界を連想した。
マーク・ボランもデヴィッド・ボウイも、アリス・クーパーのパーフォーマンスから、たくさんのインスピレーションを受けたことだろう、と感じた。

いちばん前のポジションだったので、彼が観客席に投げるものは、一番先に私にぶつかってきた。
背後にいる女の子たちの嬌声のなか、彼のニット帽をゲットした。彼の頭髪つきのニット帽は、日本に帰ってきてから、ファンだという「ニュー・ミュージック・マガジン」の編集のかたに差し上げた。

写真 (撮影 Yacco) 1973年 ロンドン
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セントラルアパートは仕事場である以上に、生きる場所そのものだったけど、ある日、もうひとつ、自分の場所をみつけた。
3階建て、6部屋のこじんまりしたアパートには、深いグリーンの階段と同じくグリーンのドアがあった。玄関のほんの小さなスペースには、ちょっとした和風の庭の香りがあり、そのほどほどの味付けが気分いい。部屋を見つけようと思って、ふらっと歩き始めて最初に眼に入ったアパートだ。 1階の左側のドアのベルを鳴らし、「空いている部屋はありますか?」ときくと、ドアを開けた初老の男性が、即刻「あります」と答えてくれた。このアパートの大家さんだった。

カルチエやシャルル・ジョルダンが入っているファッションビル、パレ・フランスが間近なのに、静雲アパートの近所は下町風だった。夏の夕方は、縁台に腰かける畳屋さんや、看板屋さん、おばあさんなどがウチワをあおぎながら、私に声をかけてくれた。
とんちゃん通り(現ウラハラ)には「弥生」という飲み屋さんがあって、電気屋のおじさんなどが夕刻から、一杯をはじめる。私は勝手にここをツケのきく定食やさんにしていた。おじさんの話を小耳に挟みながら、小さいテレビで「アルプスの少女ハイジ」を一心に観ていた。

ロックショップ「キングコング」は私にとっては夜の喫茶店のようなものだった。近所に住んでいるコピーライターの親友とよく待ち合わせをした。彼女は酒豪で、ウイスキーをボトルキープしていたが、お酒が飲めない私はカルピスをボトルキープして粋がっていた。
その後、「ビームス」ができて、毎日のように通った。私のアパートを説明する時は、「ビームス」の裏というようになった。

写真(撮影・染吾郎) 部屋の割には広めのバス・トイレの窓からは空が見えた。ポートベローの蚤の市でみつけた看護婦さんが宿舎で着ていたという寝巻きを愛用していた。寝巻きの値段は1ポンド(当時700円)。壁に張ってあるのはロンドンのピカデリー・サーカスの観光用お土産屋さんでつくった「お尋ねもの(WANTED)」のポスター。マーク・ボラン、鋤田さんのポスターといっ しょにつくったもの。
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60年代の半ば過ぎから(それは学校を卒業し、必然的に一人で生きてゆく頃)、一人暮らしをしていた私は、経済的には(今も!)キチキチだった。でも、スタイリストという職種があるんだったら試してみようという業界の人たちが多くて、驚異的な忙しさがつづいた。
(そういう好奇心と偏見のなさ、早い者勝ちの精神が業界には満ちていた。それは現在もですが)

その頃、外苑の銀杏並木のまん前(青山通り)に、「サンローラン・リヴ・ゴーシュ」がオープンした。
オートクチュールではなく、パリ左岸(リヴ・ゴーシュ)の店の服はそんなに手が届かないものではないとされていた。私はガラス張りの広い店にモダンに並べられた服が着てみたかった。
ベージュのサファリスーツが頭から離れない。編み上げブーツとあわせて、カジュアルに着れるのも私むきだ。私は迷わず、しかし経済的には大決心をして購入した。こういう服はわたしの静雲アパートの家賃の2倍か3倍はしていたと思う。でも、美しくて、機能的で、今まで着たことがないものが私を待っているとしたら、試さなくちゃ!
季節が変わると、コートが私を魅了した。
ファッションというものを体感するため、おもいきり背伸びして買った。そしてこれは同時に仕事への投資でもあった。プレスのシステムもまだ無く、ファッション誌のようにクレジットを入れられる仕事をしているわけではない。たったひとりで、つぎからつぎへと押し寄せてくる新聞広告や雑誌広告、ポスターやコマーシャルフイルムの撮影のために、何が何でも衣装を手配し、用意しなければならないのだ。そのなかで、お店の方に協力してもらったり、なにかと都合をつけてもらうために、自腹で服を買うことも多かったのだ。

忙しいと数ヶ月で、一気に6キロは痩せた(今だったら大歓迎の激ヤセだが)。過労は私から笑うこと、楽しむことを奪っていった。みんなが笑っている時も、私は頭の中はこれから手配しなければならないことでいっ ぱいだった。喜怒哀楽の感情をなくした中で、無理やりみんなに合わせて、笑ったりしていた。疲れすぎると、何処が病院に入院してただ眠りたいと思う。でもそのときは、バストイレ付きでご飯がおいしいという、青山の山王病院がいいな、などと、お金も無いのに、あくまでもイメージにこだわっていた。そんなことがあっても、ひと波、ふた波、波をかぶってゆくうちに、たちまち元気を取り戻すのが常だった。

青山のサンローランではときどきパーティーもあった。美容界では神さまのようだったヴィダル・サスーンが来日した時も、ここでパーティーがあり、彼のカットさばきが披露された。
当時、サスーンカットというアシメントリーで絵画的なカットが一大旋風をまきおこしていた。美容界の人たちは争って、彼が使用しているヘアカット用のハサミを買っていた。

旅をすること、服を着ること、新しいものに触れ、知らなかった空気を吸うこと、体感すること、それは大きな消費だけど、人生の投資でもあると思う。

写真 (撮影・染吾郎) 渋谷、NHK付近で。サンローラン・リヴ・ゴーシュのケープつきマキシ・コートは深いワイン色だった。
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ピンクドラゴンの山崎真行さんのことは、友人の森永博志さんの著書、「原宿ゴールドラッシュ(宝が埋まっている街)」にくわしい。でもでも、「私も!」とひと声あげて、私なりの山崎さんとの出来事をちょこっとだけ書かせていただこう。

新宿伊勢丹脇、今も郵便局があるビルのてっぺんに、「怪人二十面相」と言うロックショップがあった。
私のデイトの場所は朝から夕方までは原宿レオン、夜は二十面相ときまっていた。
ある日、私が高熱を出して寝ているとき、私のアパートに、二十面相のスタッフ全員がお見舞いに来てくれた。
当時の私の住まいは現在のビームス裏の「静雲アパート」(現存)。見舞いの帰り、明治通りの、まさしくビームスあたりに、貸し店舗のビラをみた山崎さんは、即決でそのスペースを確保した。ここにあっという間にロックショップ「キングコング」が出現し、その後、彼は新宿から原宿へと拠点を移すことになる。(私の高熱がきっかけとは、私だけの思い込みだろうか)
ガレッジパラダイス(遊歩道)、シンガポールナイト(青山トンネル)、クリームソーダ(宮下公園)とつづき、ついにピンクドラゴンというビルに結晶する。山崎さんは、その頃まだブティックなどがポツポツとしかなかった原宿の外れといってもいい渋谷に近いところにピンクドラゴンを建てた。「きっとこの辺はすごく賑やかになるよ」といい、数年後にはそのとおりになった。そのピンクドラゴンの屋上には、山崎さん専用のロフトと、プールがあった。ある日、ひょうたん型のプールに私の息子と姪をつれていった。幼いふたりが遊んでいる姿を近所のマンションの窓から眺めていた男の子がいたらしい。ある日、その子は浮き袋を持参して「僕にも泳がせて」といってきたそうだ。山崎さんのビルにプールがあったことは、今にしてみれば、原宿ラフォーレが教会だった、というぐらいのニュースじゃないかと思う。いつか、膨大な息子の成長記録スナップの中から証拠写真をみつけだすつもりだ。

キングコングが出来た頃、山崎さんはロンドンから来たモデルのビビアンにあこがれていた。(ビビアンは日英のハーフで、資生堂などのコマーシャルで活躍していた)カメラマンの鋤田さんは山崎さんにビビアンのポートレイトをプレゼントし、彼はそれを店に飾っていた。ある夜、多分私がビビアンをキングコングにつれて行き、そこで山崎さんの世紀の恋は成就したのだった。

写真(撮影・山崎陽一) 原宿・クリームソーダにて。左が山崎真行さん。私、女王さまみたいで恐縮だけど、たしか「アンアン」の取材で、みんなは「この場ではヤッコを引き立ててあげよう」と思ってくれたのだと思う。この頃、山崎さんは、これ以外にも、彼のことがアンアンに4ページぐらい特集されて、「念願のアンアンにでられた」と言っていた。
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原宿の話をしていると、ついついニューヨークやロンドンに話が飛んでしまう。何もわからずにスタイリストを始めた頃、いつも、スタッフに言われることは、「ニューヨークのスタイリストは、、」「パリのスティリストは、、、」ということだった。
そんなに海外のスタイリストはすごいのだろうか。じゃ、勉強に行きたいわ。というわけで、身を粉にして貯めたお金で、まずニューヨークに行った。帰ってくると、「一生に一回ぐらいなら、誰でもいける。一年以内に自力でいけるかどうかが実力の分かれ目」といわれた。

ことスタイリストの勉強ということに関しては、「思うことを一生懸命やっていればどこであろうとOK」と即、確認していた。
ニューヨークとロンドン。このふたつの都市には私にとって、理屈じゃない居心地のよさがあった。
何かが違う。
それは人々のユーモアのセンスだったかもしれない。

山本寛斎さんのロンドンのショウが終わったあと、彼はプレッシャーから解放されて予定外だったスペインに行ってしまった。
その間、現地の協力者マイケルと私は祝賀会の準備をした。ところが、当日パーティの時間になっても、寛斎さんはスペインから戻ってこない。人々は集まり、関係者は気をもむ。会場がざわめき始めたので、急遽、私が挨拶をすることになった。
「皆さま、本日は偉大な寛斎のために、ではなく、若くて頭が良くて、そのうえ美しい私ヤッコのために、こんなに盛大なパーティを開いてくれてありがとう!」どっと笑い声があがり、パーティは無事はじまった。寛斎さんは、宴が終わりかけた頃、空港から駆けつけた。彼が最後にどんな挨拶をしたかは覚えていない。

東京だったらヒンシュクものになりがちな若い私の言動も、ある種のユーモアと受け取ってもらえることを私は発見した。
なにか安心して私のキャラを露出できる雰囲気をしばしば感じた。どこかの土地で、人と交わる時の一種の懐かしさ。それがピンとくるユーモアのセンスからくるのは今も同じだ。

写真 (撮影・私のカメラで誰かが) 68年のニューヨーク。写真家ソコルスキーのスタジオのメイク室で。中央の美少年はヘア・スタイリストの須賀勇介さん。40年前だけど、今でも私の日常で見る風景。
須賀さんはヘアのセンスばかりではなく、あらゆるセンスに溢れていた人だったろう。私はこの場でおしゃべりをしただけだったが、スタッフやモデルさんに愛されているのが、よくわかった。
後年、ニューヨークでは、同じくヘア・スタイリストの宮崎定夫さんともお仕事をした。定夫さんは当時ではめずらしかった生成りのパシュミナをまとって現れた。「これってね、カシミアヤギの喉のところの柔らかい毛をあつめてつくったストールなのよ。こんなに軽くて、温かいの」と言って私をうらやましがらせた。定夫さんとは、60年代、セントラル・アパートのスタジオでカメラマンの林宏樹さん、イラストレイターの宇野亜喜良さんなどといっしょにやっていたので、旧知の仲だった。
(須賀さん、定夫さんともに故人となってしまった)
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私は人一倍レコードをたくさん聴いたり、ラジオの深夜放送を熱心に聴いたりしていたわけではなかった。(それは今も同じ)
ロンドンで、たくさんのミュージシャンと出会うのと同時に、東京でもいきなりロックと出会っていった。
私はよく日比谷の野外音楽堂に通っていたが、お目当てのひとつは、フラワー・トラ ベリング・バンドだった。山本寛斎さんのファッションとロックがジョイントした ショウをテレビマンユニオンの(若き日の)重延浩さんが演出した時、私はスタイリ ストとして参加していた。ここでも、スリリングなかたちでファッションと音楽が結びついてゆく過程の中にいることになってしまったのだ。
内田裕也さんのようなカリスマ的ロックンローラー、近田春夫さんのような才能溢れるミュージシャンも、何となく身近に目撃することになった。ジョー山中はエロスに溢れた声で「ウーマン」を熱唱していた。幸運な出来事だった。

そのフラワー・トラベリング・バンドがあっけなく解散することになった。私の体験が浅いだけで、バンドとしては長い歴史と紆余曲折があったのだろう。東京では野音がラストコンサートだったが、ほんとうのラストは京都の丸山公園で行われた。
70年代初めのある年の5月、連休とストライキが重なったある日、私はやっと手にした航空券で京都に向かった。ひとりのんびり、会場を出たり入ったりして、5つか6つのバンドを楽しんでいると、夕方フラワーの演奏が始まった。
会場にはつくりもののピンクの象がおみこしのように運び込まれ、その象に白いマントを羽織ったジョーが乗った。(この白いマントを私は東京から運んだのだ)クライマックスになると、ジョーはマントを脱ぎ捨て、ターザンのような姿になった。
「サンシャイン エブリデイ」というリフレィンをジョーも、オーディアンスも、私もいつまでも歌い続けた。

その後、ひとりになったジョーは、渋谷のパルコでコンサートをした。
そのときの西武百貨店の担当者は、ずっとあとで渋谷店の社長になり、国会議員にもなった水野誠一さんだった。水野さんとはこのコンサートや、ロンドンのファッションデザイナー、ザンドラ・ローズのショウをいっしょにお手伝いした。西武百貨店はこの時代のカルチャーをいち早く牽引しはじめていた。
ジョーのコンサートで、ひときわ響く声で「ジョー!」と叫んでいる女性がいて、思わず見ると、詩人の白石かずこさんだった。

PS 今こうして自分が書いているものをちらっと読んでみると、するすると時代の「動く道路」に乗っていたみたいだ。偉そうにきこえるとこわいけど、自分の場所、生き方は自分で選んだもの。誰のせいでもない。そこに人生のつらいことも、楽しいことも降りそそいでくる。今もその真っ最中なのだ。(と、唐突だけど、書きそえます)

写真(撮影Yacco) 京都円山公園で、ラストに登場したピンクの象をステージに移動させている途中。このうえでジョー山中が歌った。写真は全体に少し色あせていて、私の記憶ではもっと鮮やかなショッキングピンクだった。
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