原宿のセントラルアパートという、内側も外側も外国のような風景の中で私は人生を自分自身で歩み始めた。そこには会社と呼ぶ以上の、私が無意識に求めていた文化があったと思う。私にとって、生きる場所として、こんな居心地のいいところはなかった。確かに、こんなおしゃれな仕事場は、当時(そして今も)少なかったろう。
私は同じような空気を、学生時代にすでに味わっていた。
大学生並みの家庭教師のアルバイト、新聞を見て応募した「学生重役」というアルバイト(1ヶ月1回のレポートで、当時のおかねで1万円
いただいた)、そのお金で、夜は久保田宣伝研究所のコピーライター養成所にかよっていた。その上、夏休みのバイトが必要だった。
誰かが、「コピーライター志望ならアドセンターという会社がいいよ」と
紹介してくれた。
アドセンターは渋谷の南平台のお屋敷を仕事場として使っていた。
門をはいると樹々が茂った庭があり、芝生もあった。こげ茶色の洋館は、広々とした2階建てだった。写真スタジオやデザイン室などに分かれて、それぞれが自由に仕事をしていた。
わたしは、2階の奥の和室(ここだけが和室だった)に置いてある大きなコピー機で、さまざまな資料をコピーしたり、それを整理しながら、ここに生きる人たちの姿を眺めていた。
いちばんびっくりしたのは、カメラマンの立木義浩さんのかっこよさだった。浅黒い彫りの深い顔、白いシャツや、サマーセーターをさりげなく着た姿で撮影したり、バトミントンで遊んだり。
「去年マリエンバートで」という映画でしかみたことがないドミノというゲームに興じる姿を遠くから眺めるだけでも、どきどきした。
当時彼は「平凡パンチ」にファンキーなファッション写真を掲載していた。
モデルは、河野しお美、立川ユリ、マリ姉妹などがきていた。
撮影時、マリちゃんが強いライトで貧血を起こし、コカコーラを飲んで休んでいたりする。私はまだ、新種の飲み物であるコーラの味を知らなかった。撮影時にバタバタと忙しい女の子がいた。山ほどの服にアイロンをかけている彼女に「あなたは何してるの?」と聞いてみた。
「スタイリストよ」という答えが返ってきた。後に、日本で始めてのブテイック「マドモアゼルノンノン」を開いたフーチだった。
もうひとり、先輩がいた。立木さんの奥さんがある日、アドセンターに
やってきた。彼女はもともとはアドセンターでスタイリストをしていたということだった。
数年後、自分がスタイリストになるなんて夢にも考えていなかったので、世の中にはそういう仕事もあるんだな、とぼんやり思った。
デザイン室には、花井幸子さん、金子功さん、荒牧太郎さんがいた。
みんなそのあと自分のブランドをもつファッションデザイナーになった人たちだ。
アートディレクターの堀内誠一さんは特別の雰囲気をもつ人だった。
一介のアルバイト学生では、彼の目にとまることはないだろうと思ったが、私はブラッドベリの「華氏451度」の話を知ったかぶりしてしゃべった。
彼は私のことを「生意気な子だね」といったそうだけど、ちゃんと広告文案のほうのコピーの仕事をやらせてくれた。
帝人のファッショナブルな仕事がアドセンターの主流だったが、私に与えられたのは、「テイジンふとん綿」と「テイジン学生服」のコピーだった。
「軽井沢でやるファッションショーを手伝ってくれない?」とフーチから言われていたけど、未練いっぱいなまま断わった。
そして、布団綿と学生服の新聞広告のコピーを書かせてもらった。といっても、「未来からきたふとん綿」といった程度のキャッチ・フレーズだったが。
そのときのスタッフに仲間にいれてもらい、別のテーマで広告をつくって、「朝日広告賞」に応募した。それはかろうじて佳作にはいった。
たとえ小さな活字でも、自分の名前が新聞に載ったのはうれしくて、密かに何度も何度も確かめた。
お世話になった堀内さんは、「アンアン」の創刊とともに、「アンアン」のアートディレクターとして活躍した。
写真(撮影・アラーキー? あるいは高橋国太郎さん?) 原宿のレマンに転職する前に「不法滞在」していた電通にて。トンボ眼鏡と呼ばれたサングラス(度入り)を職場でかけている恥ずかしい写真。
上司からは、私の将来に関して、いろいろな約束をいただいたが、わがままにも1年満たないで辞めました。
写真部と同フロアだったが、アラーキーさんも写真部に在籍中で、今は伝説になっている「ラーメン屋さんで個展」をひらいていた。
私は同じような空気を、学生時代にすでに味わっていた。
大学生並みの家庭教師のアルバイト、新聞を見て応募した「学生重役」というアルバイト(1ヶ月1回のレポートで、当時のおかねで1万円
いただいた)、そのお金で、夜は久保田宣伝研究所のコピーライター養成所にかよっていた。その上、夏休みのバイトが必要だった。
誰かが、「コピーライター志望ならアドセンターという会社がいいよ」と
紹介してくれた。
アドセンターは渋谷の南平台のお屋敷を仕事場として使っていた。
門をはいると樹々が茂った庭があり、芝生もあった。こげ茶色の洋館は、広々とした2階建てだった。写真スタジオやデザイン室などに分かれて、それぞれが自由に仕事をしていた。
わたしは、2階の奥の和室(ここだけが和室だった)に置いてある大きなコピー機で、さまざまな資料をコピーしたり、それを整理しながら、ここに生きる人たちの姿を眺めていた。
いちばんびっくりしたのは、カメラマンの立木義浩さんのかっこよさだった。浅黒い彫りの深い顔、白いシャツや、サマーセーターをさりげなく着た姿で撮影したり、バトミントンで遊んだり。
「去年マリエンバートで」という映画でしかみたことがないドミノというゲームに興じる姿を遠くから眺めるだけでも、どきどきした。
当時彼は「平凡パンチ」にファンキーなファッション写真を掲載していた。
モデルは、河野しお美、立川ユリ、マリ姉妹などがきていた。
撮影時、マリちゃんが強いライトで貧血を起こし、コカコーラを飲んで休んでいたりする。私はまだ、新種の飲み物であるコーラの味を知らなかった。撮影時にバタバタと忙しい女の子がいた。山ほどの服にアイロンをかけている彼女に「あなたは何してるの?」と聞いてみた。
「スタイリストよ」という答えが返ってきた。後に、日本で始めてのブテイック「マドモアゼルノンノン」を開いたフーチだった。
もうひとり、先輩がいた。立木さんの奥さんがある日、アドセンターに
やってきた。彼女はもともとはアドセンターでスタイリストをしていたということだった。
数年後、自分がスタイリストになるなんて夢にも考えていなかったので、世の中にはそういう仕事もあるんだな、とぼんやり思った。
デザイン室には、花井幸子さん、金子功さん、荒牧太郎さんがいた。
みんなそのあと自分のブランドをもつファッションデザイナーになった人たちだ。
アートディレクターの堀内誠一さんは特別の雰囲気をもつ人だった。
一介のアルバイト学生では、彼の目にとまることはないだろうと思ったが、私はブラッドベリの「華氏451度」の話を知ったかぶりしてしゃべった。
彼は私のことを「生意気な子だね」といったそうだけど、ちゃんと広告文案のほうのコピーの仕事をやらせてくれた。
帝人のファッショナブルな仕事がアドセンターの主流だったが、私に与えられたのは、「テイジンふとん綿」と「テイジン学生服」のコピーだった。
「軽井沢でやるファッションショーを手伝ってくれない?」とフーチから言われていたけど、未練いっぱいなまま断わった。
そして、布団綿と学生服の新聞広告のコピーを書かせてもらった。といっても、「未来からきたふとん綿」といった程度のキャッチ・フレーズだったが。
そのときのスタッフに仲間にいれてもらい、別のテーマで広告をつくって、「朝日広告賞」に応募した。それはかろうじて佳作にはいった。
たとえ小さな活字でも、自分の名前が新聞に載ったのはうれしくて、密かに何度も何度も確かめた。
お世話になった堀内さんは、「アンアン」の創刊とともに、「アンアン」のアートディレクターとして活躍した。
写真(撮影・アラーキー? あるいは高橋国太郎さん?) 原宿のレマンに転職する前に「不法滞在」していた電通にて。トンボ眼鏡と呼ばれたサングラス(度入り)を職場でかけている恥ずかしい写真。
上司からは、私の将来に関して、いろいろな約束をいただいたが、わがままにも1年満たないで辞めました。
写真部と同フロアだったが、アラーキーさんも写真部に在籍中で、今は伝説になっている「ラーメン屋さんで個展」をひらいていた。