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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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Vol.33 Web2.0的信頼の構築

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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
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浅井慎平さんの小説、「セントラルアパート物語」を読み終わる。
10年ぐらい前に読んだものだけど、私自身が「表参道のヤッコさん」でセントラルアパートのことを書いているので、久々に取り出して読み直した。
まるで新しく読むような新鮮さと切なさを感じた。
私自身が存じ上げている方々がつぎつぎと出てくるので、あまり客観的になれないことが多少はあったかもしれない。
文章の進行とともに、私の中にある原宿や青山のマップをとぼとぼととたどる。
主人公とともに、スーパーマーケットの「ユアーズ」あたりから、交差点を右に曲がり、同潤会アパートを通りすぎて、冷たい雪のなかを、セントラルアパートに戻る、、、それらは、みんな消えてしまった風景なのだけど、雪で真っ白に覆われたあの風景、あの時間がページのなかから痛いほどくっきりと立ち上がり、広がった。
あの時代、あの場所で繰り広げられた人生が、本の中でいきいきと呼吸している。

私が以前住んでいたマンションが取り壊され目下工事中だ。
近所なので、時々通る。
私は一階に住んでいたので、引っ越した当時、伊勢丹の屋上で千円ぐらいの杏の苗木を買ってきて、部屋の裏側にある小さな庭に植えた。
数年後、か細い枝に数十個の実をつけ、その後、杏の数は年々増えていった。
夏はその広くない裏庭にテーブルを置いて、家族で日曜のブランチを食べたこともあった。
引越しの時、杏の木を引き抜くことがはばかれて残してきた。
時々、寄り道してどんどん大きくなる杏の木を見上げて、話をした。
言葉にすると照れくさいけど、木は私の友だちだ。私は中国の星占いで、「樹の星」の生まれなのだ。
工事が始まって、杏の木が心配だったけど、無事生き残っていた。
春、工事の囲いの中で、今までにみたこともないぐらい見事なピンクの花が満開になった。
きっと枝もたわわに杏の実がなるだろう。「すっごくきれいだよ」と私は話しかけた。

それからしばらくして現場を通ると、囲いスレスレにあった木々は一本を残して、みんな消えていた。
きっと工事に支障が生じたのだろう。
あの満開の杏の花は、ずっと前にそれを察していて、ありったけの命を ピンク色に燃やしたのかなー、と思った。
でもあんまり感傷的になっちゃいけない、街は刻々と変わってゆくのだ。
写真 (撮影・Yacco)
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私の家にはイギリスの農家からやってきた大きなテーブルがある。
26年ぐらい前、サザビーで購入したもので、サザビーの社長さんである鈴木さんが直接もってきてくださった。いくら26年前とはいえ、私はびっくりして大いに恐縮したものだった。
イギリスの田舎で、何百年か生きつづけた農家具は、ここ数十年なんて時間はなんのその、がっちりした4本の足で、どんと居間の中央に存在している。

このテーブルでたくさんの「みんなでご飯」があった。
15年前、神宮前から千駄ヶ谷に引越してきて、ある夜6、7人のご飯に作家の宮内勝典さんご夫妻がいらした。
宮内さんは部屋に入るなり、このテーブルに歓声をあげた。それから壁にあるアフリカのカマンテのクレヨンで描いた象の絵に再び歓声をあげた。(宮内さんは声の大きいかたなので、ご本人はそういう意識はなかったかもしれないが)
人生で、このふたつのセレクションをしたということで、私を尊敬すると、たいそうほめてくださった。
ご本人はもうお忘れかもしれないが、私はすごく嬉しかったので忘れられない。
私にとっても、今でも、きっとこれからも、テーブルと象の絵は人生で最良の道連れに違いないものだ。
この大きなテーブルで、毎朝いっしょに朝ごはんを食べる人(連れ合い)がいなくなってからも、私の周りにはさりげなく私を心配してくれる人たちで溢れた。
誕生日などには、このテーブルひとつでは足りなくて、ピクニック用のテーブルを組み立てて繋ぎ合わせて賑やかに食事をした。

今、テーブルはパソコン台と隣あわせになっていて、放っておくとプリンターや紙で本来の食事やお茶のスペースをどんどん犯してゆく。
最初は、「おじゃまします」だった文房具がいっぱいで、ご飯スペースの方が小さくなっている。世の中、個食の時代というが、私は私なりに、いや応なしに個食なわけだ。
土曜日、東大久保のポレポレ坐で、収穫祭のバザーがあるというので、事務所をシェアしているきよみさんと出かけた。
お米、リンゴ、チーズ、野菜、とふたつの袋いっぱいに担いで帰ってきてさっそく台所に立つ。
キャベツが山盛りに入ったスープ。(昔パリでかった少女趣味なピンクのホウロウ鍋で)

あとは紅玉一個をハチミツとキッチンワインで煮たジャム。
キャベツや大根を煮てつくるココの餌。
この頃は、長いこと使ったアムウエイのステンレスの(ナサで開発されたという)鍋類はやめにして、土鍋とホウロウの小鍋を使っている。
スープは土、日、と2回いただいてから、3回目は秘密のご飯。
冷ご飯を入れてオジヤランチに。(リゾットという言い逃れもできるが、、)
バザーで買った300円の生わさびは、丁寧にすって、普通にかまぼこやお茶漬けでいただいてたけど、このオジヤにのせていただく「わさびオジヤ」も超おいしかった。
個食では、こういうやんちゃな秘密のご飯が、実はとってもおいしい。

写真 (撮影・Yacco) 左下のホウロウ鍋はもやっとしたアンテイックなピンクで
パリのプランタンで、20年ぐらい前に)
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日曜日の快楽のひとつに、午前8時から始まる「週間ブックレビュー」がある。
「すべてを失くして」(内藤ルネ)と「夏の家、その後」(ユーティット・ヘルマン)

を買いに行かねば、と思う。
でも、この3連休は、「東京タワー」と「楽園のシッポ」(村上由佳)と「細野晴臣インタビュー」(細野晴臣・北中正和)を抱えてるし、前に紹介された「告白」(町田康)、「ポーの話」(石井しんじ)もまだ読んでないし、、、

ベッドサイドには「楽園のシッポ」と「インタビュー」、居間には「東京タワー」を設置する。
まず、「東京タワー」の追憶の時間に飛び込む。
リリー・フランキーと、オカンとオトン、家族の物語。
人は誰でも、自分の人生という一大小説のテーマを抱えているというが、彼の生い立ちの話にどんどん引き込まれてゆく。
彼の幼少の頃の九州、筑豊の炭鉱町の話は、ピンクドラゴンのヤマちゃんが育った北海道、赤平炭鉱の話を彷彿とさせる。
端々に現れる生きてゆくうえでの価値観にも共鳴した。
たとえば「ポケットの中に納められた百円は貧しくないが、ローンで買ったルイ・ヴィトンの札入れにある千円の全財産は悲しいほどに貧しい」

後半の後半、オカンがガンの末期になったあたりを読みながら、私はしばしば、ソファーに本をガバッとうち捨てた。
どうしても、自分の介護体験とだぶり、息が苦しくなって読み進むことができなくなる。

10分ぐらいしてから、また本を取り上げ、そこにある世界に入ってゆく。
私なんてさ、どれだけの肉親と長い過程の別れ、そして予期せぬ突然の別れがあったことか。
その時その時の光りを放ちながらも、ジワジワと消えていったた命も、いっしょに生きてきたのに、あれよっというまに目の前から消えていった生きている人間同志の絆の脆さもふくめて、さ。
読んでいて、うなずいたり、チクチクしたけど、号泣はしなかった。
そして読み終わったら、なんだかさっぱりした。
最後のほうに渋谷のスクランブル交差点をみる著者の心境の記述があった。

私もまったく同様のことを、こんなふうに日記に記したことがある。
渋谷のスクランブル交差点を、人々がかき回されながら渡る。
その中の一人である私は、たったひとり、大きな苦悩を背負った糞ころがしのようだ。そう感じると、明るい陽射しのなかで、突然どっと涙が出てきた。
でも、ここにいる人たち、実はみんな何かを背負った糞ころがしなのだ。
誰でもいつか経験することなのだ。

写真 (撮影・ガリバー) ヤマちゃんたちの故郷、赤平炭鉱で。71年。
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1日 突発的に映画「メゾンドヒミコ」を友だちと観に行く。
土曜日の第一回目だから、座れないことはないだろうと思ったら、甘かった。整理券が出ていて、最終ぐらいだったので、辛うじて前から2番目の席が空いていた。
「ジョゼと虎と魚たち」の監督で、あの時同様、臭覚を効かせた人たちで、混んでいるのかしら。
オダギリジョーと柴崎コウはすごく魅力的だった。

でもちょっと冷静になると、あの物語の中のゲイの方々はどうなんだろう。
たとえば、反射的に思い起こすのは、オーストラリアの映画で、ゲイのロードムービー「プリシラ」。
ファッションが素敵で、いつも画面の中に、お祭り騒ぎがあった。あの度外れの賑やかさと、ゲイとして生きることの悲しさ、そしてオーストラリアの雄大な自然。
いろんな要素がてんこ盛りの中に、毅然とした品格があった。
今回の田中ミンさんは、「蜘蛛女のキス」のモリーナや「プリシラ」の誇り高いゲイを連想させたけど、、、うーん、、、、
ダンスシーンでは、友だちも私も泣いてしまった。あの踊りのなかには、CMでいっしょになるカオルコさんのお弟子さんがいっぱいいたはず。
ともあれ、これからも千円の快楽(シルバーなので)を忘れないようにしようと思った。

このあと伊勢丹会館の「あえん」で、自然食の定食を食べ、ゲルマニウム温浴(足湯)に行き、残っていた風邪を吹き飛ばした。

4日
劇団新感線の「吉原御免状」を観た。
堤真一、松雪泰子ともに素晴らしかった。
特に松雪さん、実は九の一で、花魁(おいらん)の身とあっては壮絶な死は約束されたようなもの。この世にこんな色っぽいひとがいるのだろうか、というぐらい美しかった。
数年前、テレビで昔の女流作家を演じたとき、「あれ、こんなに地味な役なのにステキ」と驚いたけど、彼女って才能ある。

6日
東京駅南口のドームのなかにある「精養軒」で、約40十年ぶりに編集者の椎根和(やまと)さんと会う。
実は書き終わった「表参道のヤッコさん」に椎根さんのことを書かせてもらったし、60年代、70年代をいろいろチェックしていただくため。
あらかじめ送っておいた原稿を、たんねんに読んでいただいていたことに、恐縮する。

それとあの時代の写真で、撮影者不明としていたもの、主にロンドンの写真には、椎根さんに撮ってもらったものが多いことが判明。
そのあと、私の原稿からはみだしたいろんなことを教えていただいた。
たとえば、写真家の十文字美信さんの六本木スタジオのアシスタント時代のこと(ブログ8月28日「六本木スタジオで」を参照して)は、平凡パンチに「六本木スタジオのブリリアントなアシスタントたち」というタイトルで見開きで特集したことがあるとか、、、お宝のエピソードを いっぱい聴いて興奮した。(椎根さん、いつか、書かせてね)

椎根さん自身は、平凡パンチ時代に担当していた三島由紀夫に関して執筆中とのこと。
世間にあまた出ている三島由紀夫論があまりに椎根さんが接していた三島由紀夫とかけ離れているためだそうだ。椎根さんは紅いシャツを着て、短髪で、若々しかった。
私は40年前と同じように、目をきらめかせながら、椎根さんの話を聴いていたことだろう。

写真 (撮影・椎根 和) 71年ロンドン。椎根さんもいっしょに滞在していたイレブン・カドガン・ガーデンという、実はかなり格の高いプライベート・ホテルの前で。「KANSAI IN LONDON」の準備中の寛斎さん、ヘアメイクの鈴木輝雄さん、私。ここはキングスロードにも近かった。
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青山に菊池武夫さんのお店「forty carats and five hundred twenty five」が誕生した。
最高の素材をカジュアルなデザインに仕立て、大人の着崩しの醍醐味をさりげなく提案する、というのがコンセプト。
これからは、50代、60代の人たちが底力をみせて、かっこいいことする時代だと思っているので、菊池さんがまた新しい提案をしてくれたのは、うれしい!

彼のお弟子さんである横森美奈子さん、編集者の寺田邦子さんといろんな話をする。
横森さんが尊敬と親愛の情をこめて菊池さんをタケ先生!と呼ぶので、人を先生と呼ぶことにけっこう抵抗感を持つ私も、いっしょになってタケ先生と呼んでしまった。
そういえば、故景山民夫さんも、撮影のとき、
「僕の服はタケ先生のものから選んでね」とおっしゃったっけ。
大久保篤志さんをはじめとする今やベテランの男性スタイリストやミーハーなことをいえば、村上ファンドの村上さんもいらしてにぎやかななか、横森さん、寺田さんと介護の話に熱中する。
3人とも介護の経験者なのだ。
横森さんは10年にわたってご両親の介護をして、今度本を出版するそうだ。
「今までおしゃれに関する本は出版社の求めに応じて出したけど、介護の本は絶対に出したいと使命感を持ったの」とのこと。
ファッションと介護が混在する日々、、、私は血縁関係だけじゃなく、NHKの番組「ご近所の底力」的な介護が、地域社会で行われたらいいと思う。
こういうご近所付き合いは、ちょっと前までは、日本中どこにでもあったのだから。

写真 (撮影・会場のどなたか) この夜、タケ先生の足元は、もちろんスニーカーです!
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去年の今頃、「カフェとらばーゆ」をやった紀伊国屋跡地でブルース・ウェーバー展をやっている。
こじんまりした展覧会と感じたけど、それは以前ロケでロスなどに行った折、カルバンクラインのアンダーウエアの巨大な看板などを眼にしてきたせいかもしれない。
ブルース・ウェーバー自身が、展示した写真のわきや、空白のスペースに、いろんなことを落書きっぽく書き込んでいる。
それが、昔、ユージン・スミスさんが部屋の壁にいろんなことを書き込んでいたのと類似していて、面白い。
(このブログの1月12日 「ユージンスミスさんの落書き」をご覧ください)

ブルース・ウェーバーの壁の言葉のひとつを私流に訳してみた。
「みんな僕に『あなたの写真やフィルムってたとえば、何みたい?』って聞くけど、えーと、それはこんなもんですよ。
ニーナ・シモンがいつか、僕に『ステージに立っているとき、聴衆は立ち上がったり、わーっと叫んでくれたりする。でも家に帰ったら、着てたものをぜーんぶぬいで、たったひとりでベッドにもぐりこむのよ』といっていた」
アーティストの、いや、人間の孤独感をかたっているのか、名声というものについて語っているのか、、、

片方の建物は関連商品を売っていて、ポール・スミスとコラボの3万円のTシャツなどもあったけど、買えませんでした。
ドッグランにもなっている中庭で、ラタトーユ系の野菜の温かいサンドイッチとコーヒーのランチをアシスタントの悠子ちゃんと。
良いひとときだった。

写真 (撮影・飯島悠子) 会場には銀色のバス型厨房があって、軽い食事と飲み物がとれる。はやめのお昼に食べたサンドイッチはハーブの香りがした。(食べ物に関しては、いつもくどい説明になってしまいます、、)
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