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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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MATRIX

Vol.33 Web2.0的信頼の構築

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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
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4時半にココに起こされ、7時ぐらいまで雑事をする。
それから、週間ブックレビューと新日曜美術館を見るのが楽しみなのだが、昨日の地震騒ぎで疲れたのか、2度寝をしてしまった。

新日曜美術館の「イサム・ノグチ」を観つつ、まだまだ心の中に日曜日の朝の静寂が残っているのを確認する。
植田正治写真展「HOMAGEー植田正治に捧ぐー(福山雅治、菊地武夫、堀内誠一)」を鳥取でやっているのを知った。
こういうとき、ふらりと観に行きたい。せめて、パンフレットとか図版を手に入れられたら、、、と思う。
家が写真館だったので、私は小学生の頃、「写真ニュース」みたいな業界誌で、徳島の立木写真館、鳥取の植田写真館、茨城の山中写真館といった存在を知っていた。
立木写真館は、写真家の立木義浩さんの実家だったし、植田さんの作品は「朝日カメラ」でも観ていた。
子供の頃の我が家には、私が読んだり観たりしたい本の量が、絶対的に少なかったから、印刷されているものは何でも眺めていたのだ。
80年代に菊地武夫さんが植田さんに依頼して「砂丘モード」と言うパンフレットを作ったときは、永久保存版だと思ったんだけど、いつの間にか失くしてしまった。
鳥取に行きたいな。

日曜日の心の静寂は、簡単に消えてしまうものだから、なるべくそっとキープする。それは、夏なのに秋の朝のような涼しさを含んだ風、もう少し時間が経つと賑やかさを求めて街に出かけてしまうから、その一瞬前のちょっとした孤独感。心の中では、ルー・リードの「サンデー・モーニング」が鳴っている。

写真 (撮影・Yacco) 誕生日にもらった蘭と、北欧土産にもらった鈴蘭の手刺繍のクロス。 
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ココとめぐりあったとき、ペットショップの店員さんは、「おとなしくて、頭が良くて、丈夫な、とっても飼いやすい犬種です」といった。
おとなしい、というのは大ハズレ。頭が良いというのは、何を基準にするのか、わからない。
そして、こういう単純な言葉ではわからなかったこの犬種(イングリッシュ・スプリンガー・スパニエル)のさまざまな大変さと付き合ってきたが、唯一、丈夫というのはアタリだった。

そのココも、盛夏に突入したとたん、一日お腹をこわしてヘロヘロになった。
野生が強い犬なので、どんなことがあっても室内ではオシッコ関係はしないのだが、留守中粗相をして、私が帰宅して始末をしているあいだ深く恥じて、うなだれている。
あんまり具合が悪そうだったので、私はその夜に行くはずだった松尾スズキの「キレイ」をやめた。

ココの天国だった大家さんの庭で猫が出産をして、猫親子に庭を乗っ取られてしまった。

母親の猫は、のらの苦労を一身に背負って、ものすごく猫相が悪い。子猫は2匹とも、愛らしいけど、片方の猫は、すでに片目がつぶれている。
庭に入るときはココに、「猫ちゃんが可哀想だから」と一応の説明をしてリードをつけたまま入る。いつもは自由に走り回っていたココもそこらへんに存在する猫の匂いをくんくん嗅いで、おとなしくひとまわりする。
ある日、私はうっかりリードをはずしてしまった。
駆け出したココとベランダにいた子猫が至近距離で対面した。背中を丸めて必死にフーっと威嚇する子猫をじっとみて、ココはすーっと方向転換した。
ココが何かを察して譲歩するのをみたのは、こちらとしては初めてだったので、すごくほめたたえたら、「いやー、それほどのことでも、、」と照れている様子。
あれっ、ココって頭よかったのかも、と思った。

写真(撮影・Yacco) 9日頃、調子が悪かった時のココ
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1960年代のどこか(多分まんなかあたり)で、いつの間にかスタイリストになってしまった私だったが、最初は何もかもひとりでがんばっていた。
アシスタントなどという概念はほんのちょっぴりもなかった。
ある日気がついたら、大竹さんという、目がくりくりと輝いている女の子がやってきて「ヤッコさんには私が必要です」とはっきりと言って、そのままアシスタント第一号となった。
彼女はインテリアや雑貨が好きで、まもなく才能を発揮し始めた。
私はいつも彼女といっしょに行動をしていたが、私の先輩のデザイン事務所に遊びに行った時、そこにすてきな建築家がいたらしい。
彼女はあっという間に彼と結婚して、彼の赴任地である中近東へ行ってしまった。

それからしばらくひとりでがんばっていたら、メッツメ(光枝の愛称)さんという女の子が現れた。
彼女はセツモードセミナーやサンデザイン・スタイリスト科に通って自分の居場所を探している少女だった。
彼女もある日、私の前に現れてアシスタントになった。
そのころ私は寛斎さんのロンドンのショーの準備で、ロンドンに行っていることが多くて、お留守番をしているときの彼女の気持ちを考える余裕が私にあったかどうかは、疑問だ。
ロンドンのショーが成功して、東京で凱旋公演ということになり、日生劇場でショーが開催された。
東京のショーも無事成功して、観客の拍手がしばらく鳴り響いた。
ふとメッツメさんの姿をみると、カーテンの陰で、ひっそりと泣いている。
実はロンドンのショーで、スタンディング・オベーションが30分以上つづいた時、私もメッツメさんとまったく同じ場所で泣いたのだった。
置いてきぼりにしていた彼女が、私と同じ場所で同じようにすすり泣いている。
私たちはおなじ感動を共有している、ということを発見して、私はとてもうれしかった。

繊細な都会っ子の彼女は、抜群にセンスが良かったが、自分の美意識に対しては度胸があった。
ある日、彼女は色のきれいなアラン編みのセーターとカーデガンのツインニット、その頃は希少価値だった直輸入のものを、ソニービルで発見した。
(ソニービルは今でいうセレクトショップ的な役割もはたしていた)
アイルランドのアラン島でつくられるアラン編みは、北欧のフィッシャーマンと同じく立体的な模様編みの、温かいニットだ。
素朴ながらモダンな色合いのアラン編みのセーターを、その頃ポール・マッカートニーが着ている写真をみたことがある。
丸ごと一ヶ月の月給をはたいて、そのツインニットを買ったとき、彼女は「一生着るからいいんです」と、きっぱり言った。
それから30年後、恵比寿の写真美術館でメッツメさんに会った。
彼女はあの頃とちっとも変わらない快活さで、私のところにとんできた。
その時の彼女はダンガリーのシャツにチノパンだった。
それこそ、少女のメッツメさんがいつもしていたスタイルのひとつだった。
その姿をみた時、あのアランのニットもまだ元気に生きつづけているんだろう、私は確信した。

2年ほどいっしょに仕事をしたメッツメさんが去って、私はまた孤軍奮闘していた。
「服装」に掲載されている私のエッセイを読んで、分厚い手紙を、一冊の本ができるぐらい送ってくれる少女がいた。返事は書いていたけれど、本人に会うのはなんだか気恥ずかしくてなかなか「お会いしましょう」と言えなかった。
ある日、アパートの私の部屋に大勢の友達を呼んだとき、思い切って彼女にも声をかけた。
オカッパの、日本人形のような顔に、木綿の少女服を着たのんちゃんが現れた。彼女は桑沢デザイン研究所の生徒だったが、この瞬間から、一生のお付き合いが始まったのだ。
いつからともなく仕事を手伝ってもらうようになり、緊急の時は、桑沢デザインの学生ホールに呼び出しをかけたりするようになった。
ようやく彼女が卒業して、二人三脚が始まった。
私の記憶では、それまでの大竹さんや、メッツメさんも含めて、アシスタントとの関係はセンス、嗜好、いい物を探すこと、コーディネイトすること、すべてふたりの間でキャッチボール出来ることが大事だった。

私とのんちゃんは昼も夜もよくしゃべりあった。
しゃべっても、しゃべってもたりないくらい、好きな人、好きな本、好きなものについて、歩きながら、お茶を飲みながら、電話をしあいながら、しゃべった。
仕事以外でも、いっしょに洋服を見て歩いたり、アンティックの店を覗いたりした。のんちゃんの着ているもの、もっているもので何か新しいものがあると「どこで買ったの?」と問いたださずにはいられなかった。
生成りのシャツは渋谷の「文化屋雑貨店」、プードルやスコッチ・テリアのブロウチは青山の「パリ・スキャンダル」、ブリキのおもちゃは骨董通りの 「ビリケン」と言う具合に。
海外ロケに行くと、10回ぐらい店に通って最後に決心して買ったものを思わずのんちゃんにおみやげで渡してしまうことがしばしばあった。そのくらい欲しいものの趣味がいっしょだと感じていた。

ある時、撮影の小道具にトランプが必要になった。手配の途中で、のんちゃんから電話がかかってきた。「いま私、松戸にいるんですけど、、、」
気に入ったトランプがなくて遂にトランプ工場まで行ってしまったのだ。
現在のように、スタイリストご用達のリース屋さんがあるわけでなく、それぞれの才覚とセンスで物を見つけなければならない。
私と彼女は大雑把に打ち合わせをして、仕事の分担を決める。それから先は、自分で開拓してゆくのだ。こうして、私ものんちゃんも、新しいルートを開拓していった。

そんなのんちゃんも、4年後に、フリーランスとして出発する時が来た。
私が一番先に考えたのは、彼女がいなくて仕事がやっていけるだろうか、ということだった。
のんちゃんはのんちゃんで、「もうじゅうぶん一人でやっていけると思ったけど、全責任を負ってやるのと、アシスタントとしてやるのでは、まったく違うということがわかった。今はこういうとき、ヤッコさんはどう判断しただろう、と思いながらやってるの」と言った。

それから、いろんなアシスタントが現れて人生のある時期いっしょに過ごしてきている。彼女たちはひとりひとり、それぞれまったく違うタイプなのに、うまくフル回転しているときは、おもしろいことに、「ヤッコさんに似てますね」と異口同音に言われる。

写真 (撮影者・不明) 仕事中の私とのんちゃん。
私はマドモアゼル・ノンノンのBMWと刺繍がしてある紺色セーター。のんちゃんは花の刺繍がついているアイボリーのモヘアのセーターで、50年代の古着。
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5日は誕生日だった。
実はこんな写真も撮っていたのだけど、やっぱり気恥ずかしいな、
と思って、、、ちょっと時期をはずして出しました。
生まれてから60年以上経っているけど、誕生日はイヤじゃない。
やっぱり、人生のおまつりの日だもの。
十年ぐらい前、人生上のショックにやられていたときの誕生日は友だちという友だちから、いっぱい花がとどいて、家じゅうが女優さんか、タレントさんの楽屋みたいに美しい花で溢れた。
徐々に私も心の異常事態から抜け出して、友人達も手綱をゆるめてくれている。(それでも毎年贈ってくださる湯川さん、稲木さん、後藤さん、今後も歓迎です、、、)
私の妹は2年前に亡くなったが、その娘である姪が今日、女の子を産んだ。
それで私は、母親代わりに立ち会ったうえ、赤ちゃんと誕生日を共有することになった。

15日。
今日は浜野安宏さんの起業40周年記念のお祝いの会。
キヨシローさんも35年記念だったし、テレビマンユニオンも重延さんの受賞と35周年のお祝いをしたところ。
考えてみれば、私も40周年に近いな、と思うけど、はじめはいつだっけ?
と考えても、そこのところはあいまいだし、いつの間にか、、、だしね。

お祝いの会に行く前に、表参道のアンデルセンで、評論家でアート・ディレクターの河添剛さんと会う。
河添さんは「Tレックス・ファイル」(シンコー・ミュージック)のなかで、私のTレックス体験をシンパシーをこめて書いてくださった。
今日は、川添さんデザインのTレックスのオリジナル・ポスターをいただき、触発される話をいっぱい聴いて、別れた。
30日からリンゴ・スター監督の「Born to Boogie」が吉祥寺のバウスシアターで上映されるが、初日の30日には鋤田正義さんと河添さんのトーク・ライヴがある。

浜野さんの会は大盛況で、講演会場が人で溢れているのをいいことに、はみ出した場所で、「レマン」の創始者、勝見茂さんと思いっきりおしゃべりをした。
パーティ会場ではガリバー(現在は絵描き)、サンペイさん(現在は西麻布で「アムリタ」という店をやっている)と同窓会。ふたりとも70年代の仲間だ。
というわけで、授業そっちのけで騒いでいるもとワルガキという感じでした。
浜野さんはエナジーいっぱいで、新しいプロジェクトに挑戦している。
近い将来、青山通りが美しくなるということだ。
それと、美しい女性カメラマンに声をかけられた。
同じ千駄ヶ谷住人で、うれしいことに私のブログをよく観てくださっている
とのことだった。
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私は豆類が好きで、年間を通して黒豆や花豆を煮たりしているが、ある日、粟(あわ)ぜんざいが食べたくなって、小豆(あずき)と粟を炊いて作ってみた。
そしたら、これがおいしい!
それで、せっせとつくることになった。
粟も、もち粟というのや、アンデス系のアラマンサスやキヌアでも試してみたら、
キヌアぜんざいなども、おつなものなのです。
我が家には2合炊きの土釜がふたつ(姪の結婚式の引き出物、つかわない人のもいただいて)と、5合炊きの重たい土釜がひとつ、1合炊きと1升炊きの電気釜が各1個ある。
最近は、2合炊きの土釜が大活躍していたんだけど、これに新たにもう1個、手作りの土鍋が加わった。
スタイリストの中村のんちゃんは陶芸歴3年で、ちょっとまえの私の誕生日にプレゼントしてくれた。
蓋がぴっちりと合う技術というのが、けっこう難しいそうなのだが、鉄瓶の下に写っている鍋がそれ。キヌアとお米のおかゆ、うまく炊けました。
右上は炊いている最中の粟、その下が、小豆。
テレビで見た老舗のお饅頭やさんでは、煮だったら、いちど煮汁を捨てていたけど、それじゃ、小豆のポリフェノールを捨てることになる、と思って、健康オタクの私は、アクのあるまま放っておく。
適当に煮て、適当にお砂糖(沖縄の茶色いやつ)をいれてるだけなのに、少しずつ上手になってるみたい。

写真 (撮影・Yacco) 鉄瓶は20年以上前、原宿の「Zakka」で購入したもの。
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ハワイでの記憶は仕事のことだけではない。
私には実父と養父とふたりいたが、ふたりとも戦争体験の話をよくした。
実父はもと最年少の共産党員だったので、徴用されたときは、南方のほぼ生きては帰れない所(パラオ諸島らしい)に送られた。
そしてあっという間に機銃掃射で、後頭部をやられ、鼓膜はすっ飛び、ある期間は記憶喪失症になったという。
それで、母には自分が死んだら、ほぼ絶滅した隊の戦友たちが眠る南方の海に骨を撒いて欲しいと常々言っていたそうだ。
私はその父の言葉をいつか実現しよう、と思っていたが、母と幼い息子を連れて、嘗ての戦地に行くのは気がひけた。
同じ海続きだから、親孝行と休養をかねて、ハワイはどうだろう。
もちろん母は大喜びで、パスポートをとった。

そんなわけで、私としては空前絶後かもしれないハワイ観光ツアーに参加したのだった。

ロケでもない、ひとり旅でもないパック旅行は、私には初体験だった。
まず空港からホテルに到着する前に、業者とタイアップしているらしいお土産屋さんに引きずり込まれた。
早くも目を輝かす母に、私は「お母さん、やめときなさい。ほかにもっといいものがあるよ」と忠告した。
(30年近く前の話です。今はこういうことはないでしょうね)

30代半ばの私は、もちろん今より若さの馬力はあっけど、常に疲れていた。
仕事はありがたいことに、いっぱいあったが、育児と生活の維持のほうもいっぱいいっぱい、だった。
がむしゃらに働き、必要とするところに、得たお金を気前よく注入していた。
ハワイは格安ツアーの季節で、湿気が多く、東京にいたときよりもずっと腰が痛かった。

(あの頃よりも、実際今のほうが、肉体的には健康だと感じている)
母と息子とアラモアナ・ショッピング・センターを歩く。母はムームーを買い、珊瑚の指輪を買う。ハワイの歴史やハワイアン・キルトが展示されているミュージアムを覗く。
そんななかで、父の遺言を果たす時が来た。

もとより家族の小さなセレモニーのために船をチャーターする、という考えはなかった。

母にとっては神聖なセレモニーだったが、私が選んだのは、オプションで付いている「サンセット・クルーズ」だった。
夕暮れ時、観光客を乗せた船はホノルルの港を出航する。バンドが入っていて、それを聴きながら食事をしたり、踊ったりの数時間にわたる海上散歩だ。
私たちはほかの観光客と同様に食事をし、バンド演奏を聴きつつ美しい夕焼けを楽しんだ。
そして、他の人たちが賑やかに踊っている船の片隅で、私たちだけのささやかなクライマックスを迎えた。
母は分骨した小さな壺と花束を持って、「お父さん、お友だちのところにお還りなさーい」と叫んだ。息子は「じーじ、バイバイ」と手を振る。
その声は即、陽気なバンドの音にかき消された。
父の骨と花束はあっという間に波間に吸い込まれていった。
母は少しのあいだハンカチで目を覆って涙を拭いた。

母ははじめての海外旅行にいたく満足したようだった。
「今度はアメリカ本土に行って、千恵子に会わなくちゃ」
母の妹はオハイオにすむ戦争花嫁だった。
私は本気でうなずいたけれど、その夢はかなえてあげられないまま、今日に至っている。


写真 (撮影・Yacco) ハワイの夕焼け
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私がスタイリストとして駆け出しの頃、 ハワイはすでにコマーシャル撮影のメッカだった。
ロケが集中するのは年末年始で、冬のあいだに春や夏の撮影をするため、青空や光を求めて撮影隊が訪れる。
常夏の島ハワイに対して、私は光きらめく夢の島的なイメージを持っていたが、この季節のハワイは雨季で、良いお天気の思い出と、頑固な曇天に悩まされた思い出と両方ある。
広告代理店のかたやプロデューサーがミーティング等を重ねるなか、
私たちは曇天や雨の時は大騒ぎせず、黙ってそれなりの時間を過ごした。
つまり、ショッピングモールなどに繰り出して、アロハやスニーカーをみつけたり、安いスーパーに出かけて、まだ日本にはないような生活雑貨を見つけたりしていたわけだ。
日本からのロケ組は、「アンバサダー」というホテルに滞在することが多かった。現地のコーディネーターのテリトリーみたいなものがあったからだろうか。
朝食の食堂、ロビーやエレベーターの中で、私たちはご近所さん同士のように、挨拶しあった。時には東京で出会うよりももっと沢山の仕事仲間とハワイで会い、会話を交わした。
ここの食堂のウエイターにはゲイのお兄さんがいて、モンローウォークで、料理を運んできた。私はこのお兄さんと仲が良かった。

ある時、ハワイで文化財クラスの、アーリー・アメリカン・スタイルの家で撮影をした。

大きな木々と広い芝生の庭の奥にその家はあった。
外観はオフホワイトのペンキが塗ってあったと思うが、各部屋は年季が入った木材がそのまま生かされており、床はこげ茶色に光っていた。
部屋の真ん中には白い綿レースの天蓋がさがり、その下に足の長い(背の高い)シンプルなシングルベッドがあった。
ベッドの脇にはちいさな階段状の椅子が置いてあってそれをトントンとのぼって、ベッドにあがるのだ。
ベッドのリネンも糊が利いた白い木綿だった。
「赤毛のアン」や「若草物語」で育った私は、その部屋の空気がオルゴールの音色のように懐かしく感じた。
その家の持ち主は、90歳近い老婦人だったが、こう話してくれた。
「あのベッドは、私が小学校の教師として、はじめてもらったお給料で買ったものなのよ。ホラ、あの電気スタンドも、筆入れも、お給料をもらうたびに揃えていったの」
そこにあるものは、彼女とともに、60年、70年と生き続けている。
買った当時は、何気ない生活用品だったのだろうが、月日が経って 別の価値も生まれていた。
何の撮影で彼女の家を借りたのかはすっかり忘れているが、その光景 だけはしっかり私の胸に刻み込まれている。

その後も、さまざまなシチュエーションで、家を借りて撮影をした。
豪華な家に備えつけられたプールで、可憐な少女が泳いでいる風景。
白壁のまえで、白いスーツの男性の撮影は、オーデションで選ばれた現地モデルで行われた。
もちろん、白い砂浜、青い海でも、さまざまな撮影があった。
砂浜を白い衣装をたなびかせて馬に乗って駆ける美女。そのあとを 素足で追いかけて衣装を直していたら、翌朝、足がバンバンに腫れてしまった、、、
人魚姫とカーニバルの子供達、、、人魚姫になった少女は、魚の下半身のまま、5時間も太陽にさらされた、、
寒い日本を遠く離れて、ある時間を太陽と潮の匂いの中で過ごす。
その撮影中、さまざまなドラマがあるの今も変わらない。

写真 (撮影・Yacco) 何のコマーシャルだったか覚えていないが、カメレオンの福田さんというクリエイティブ・ディレクターのロケだった。人魚は特殊メイクで身体と魚の部分をなじませるのに時間を要した。
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2年前の夏、友だちの森永博志さんが、ANAの機内誌「翼の王国」に70年代の私を書いてくれた。
そこに、若き日の山本寛斎さん、デヴィッド・ボウイ、私の3人が寛斎さんのアトリエでフィッティングをしている写真が載った。
その頃、私は長嶋茂雄さんのスタイリングをしていたのだが、長嶋さんからいきなり、「ヤッコさん、あなたはエライ人だったんですねー、みましたよー」といわれ、同じ時に、若い坂本美雨ちゃんにも「ヤッコさんて、すごいんだ」といわれた。
素直にうれしいと思ったけど、内心、「こんなふうに出ちゃって、いいのかなー」とも思った。
それから、去年、今年と70年代のロックとファッションの特集や本の出版が相次いで、私の世界でいうと、その度に、私はしゃべっている。
そして、その度に、こんなにしゃべっていいのかなー、とは思ってるんだけど。(いまやブログでこうしてしゃべりまくっているし)

寛斎さんを通じて、フリーライターの城山隆さんにお会いした。
この春、アエラが「AERA in ROCK」という臨時増刊号を出したが、これが好評で、新たな号が出るとのこと。アエラより依頼を受けた城山さんからデヴィッド・ボウイの初来日について取材を受けたのだ。
もちろん、鋤田さんは既に取材を受けていて、貴重な話がいっぱいあった、とのことだった。
私のコメントにも興味をもってもらえたらしく、私たちは3時間に渡って、しゃべりあった。
城山さんは「過去は未来のためにある。ロックが輝いていた60年代70年代
について、その素晴らしさを40代以上だけでなく若いジェネレーションにも伝えたい」と言った。
「人類史的に考えると、たかだか50年あまりのロックの歴史はぜんぜん若いですよね」とも。

そして、城山さんから彼の渾身の著書『僕らの「ヤング・ミュージック・ショー」』をいただいた。
「1971年、テレビの中にロックがやってきた」という言葉どおり、そこにはNHKが1971年から1986年まで発信し続けたロック番組「ヤング・ミュージック・ショー』を中心に600ページ以上に渡って ロックが語られている。
CCR、PINK FLOYD 、KISS、 ELP、、80以上のロックバンドが紹介されているなかで、城山さんにも話し忘れた、そして寛斎さん自身も忘れているかもしれないELP来日公演でのエピソードを思い出したので、ちょこっと記してみよう。

寛斎さんの服をTレックスやデヴィッド・ボウイが着用した、ということは、その時代のロック・アーティストも注目したことだろう。
そのひとりがキース・エマーソンだ。
「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」は72年7月に初来日した。
その時、我が家には「キセマソン様からお電話ありました」という初老のお手伝いさんのメモが残されていた。
キセマソン、キセマソンと10回ぐらい繰り返して、それがキース・エマーソンだとわかった次第。
彼は寛斎さんの服に非常に興味を持ち、寛斎さんのブティックやアトリエを訪れ、いろいろと購入したと思う。(記憶がとぎてとぎれで、、)私の元には寛斎さんとキース・エマーソンの奥さん、私の3人の、多分、後楽園球場(公演会場だった)で撮ったと思われるスナップがある。また、この本には、番組の担当者だった波田野さんが登場する。当時の波田野さんのことは「NHKでロックなひと」と、私は認識していた。去年、NHKアーカイブスで、この本の発端にもなっているヤング・ミュージック・ショーの「KISS」の放映を観たとき、そこに長髪の波田野さんがチラリと登場した。
あまりの懐かしさに、思わず電話をしてしまった。
この本の分厚さには、城山さんの情熱と、時代のパワーを感じる。
私は特にロックに詳しいわけではなく、たまたまある時代のある時期、局地的に、ある世界にどーんとぶつかってしまっただけ。
でも時代、時間の輪がいろんなかたちで流れ、未来に繋がっている今、私のおしゃべりもなんらかの役目を持つのだろうし、これだけデカイ世界だから、これから知っていくことも、多いんだな、と感じた。

写真 (撮影・Yacco) 僕らの「ヤング・ミュージック・ショー」 城山隆 2500円 情報センター出版  表誌は、「20世紀少年」の浦沢直樹さん
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