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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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MATRIX

Vol.33 Web2.0的信頼の構築

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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
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1977年ごろ、デヴィッド・ボウイとイギー・ポップは、ベルリンに滞在していた。その頃のベルリンは、アーティストたちにとって、20世紀初頭に起こった「ドイツ表現主義」が見直されていた時期だと聞いている。
この年の2月、3月、デヴィッドはベルリンのスタジオでイギーの「イディオット」のレコーディングに協力して、イギリス・ツアーにも同行した。
そして、4月22日、イギーのプロモーションのため、イギーとともに来日した。
彼らが滞在した2週間は、私にとっても、すばらしく楽しいものだった。

鋤田さんが、デヴィッドとイギーの撮影をすることになった。
前日、私はデヴィッドに電話をして、「明日の撮影の衣装はどうする?」と訊ねた。
「とにかく、黒の革のブルゾンを何着か集めておいて」
「それだけでいいの?」
「いいよ」とのことだった。
次の日、ホテルに迎えにいった私は、道順に関してちょっぴり、工夫した。
彼らが目につけそうなところを、回り道にならない程度に入れよう。
デヴィッド、イギー、そしてパーソナル・マネージャーのココさんを乗せて、ホテル(多分、ニューオータニ)を出発した。
原宿スタジオに着くちょっと前、タクシーに現在のウラハラを通ってもらった。
案の定、デヴィッドがイギーに「ここらへんて、何か風情があるね」などと話しかけ、イギーも頷いた。
その辺は、下町風の住宅街で、私が住んでいる静雲アパートもあった。ごくまれに若者の店がぽつんとあったりして、私の好きな場所でもあり、きっとふたりも好きだろうな、という空気感があった。
こんなエピソードは彼らの記憶には決して留まっていないだろうが、私にとっては、キラキラと輝き続ける小さな一粒、一粒なのだ。

スタジオではふたりともリラックスしていた。
私はおやつに有機栽培の不ぞろいな苺を篭にいれて用意していた。デヴィッドは篭ごとそれを持って、イギーに「ワイルド・ストロベリーだよ。うまいよ、これ」と勧めた。
アシスタントの中村のんがデヴィッドにサインを頼んだ。
「名前は?」
「のん」
デヴィッドは、レコード・ジャケットに咄嗟に「to Oui or Non?」とユーモラスに書いてから、サインした。


撮影が始まる前に、デヴィッドは上半身裸になり、革のブルゾンを面白い具合に、2着重ねて着た。
「ヤッコ、これどう?」
「かっこいい!」
「じゃ、これは?」
ブルゾンを素肌に後ろ前に着る。それも超かっこいい。5、6着用意したブルゾンだけで、楽しそうにいろんな着方をしてみせてくれた。
そして最後にきめてあたりまえのブルゾンをあたりまえに着て、撮影に入った。
デヴィッドは、連続していろんなポーズをとった。
そのなかの一枚が、後に有名な「ヒーローズ」のレコード・ジャケットになり、批評家の方々がそれを「ドイツ表現主義」の影響の現われ」などと評しているのを読んで、はじめてそういう意図があったのかと思った。私は何も知らなかったのだ。
イギーの番になった。
鋤田さんは、丸い穴の開いたボードを用意していた。イギーはそこから顔を出して撮影した。
これは後に「パーティ」のレコード・ジャケットになった。

それから約20年後の96年に来日した時、このスタジオの隣にある「樅の木ハウス」というレストランで食事をした。
ココさんから電話があり、「メンバーにべジタリアンが多いの」というので、ここを手配して待っていたのだった。
タクシー2台に分乗して道路を挟んだ向こう側にタクシーは止まった。
いちばん最初に元気に降りてきたのは、デヴィッドだった。
彼が来るとは聞いてなかったので、私ははしゃいだ。
「デヴィッド!ここよ!ほら、このスタジオでヒーローズを撮ったのよ!」
私はレストランに入る前に、彼にスタジオの入り口を指し示した。
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1971年8月に箱根、芦ノ湖で「箱根アフロディーテ」という野外コンサートがあった。

日本ではじめての大型野外コンサートで、沢山のバンドが参加したが、お目当てはピンクフロイドだった。
それまで彼らの曲は繰り返し聴いていた。
こんな重厚な、すばらしいものを野外などで、再現できるのだろうか、と思ったけど、ウッドストックのニュースがあったせいだろう、何人かで出かけた。
もう記憶はきれぎれだけど、会場に向かう若者の群れの中に、独り黙々と歩く植草甚一さんの姿があった。若者にとって教祖的存在だった評論家の植草さんは相当なおじいさんに見えた。
(調べてみると、当時71歳だ。えらいなー)
ラフでおしゃれなジャケットに、バックパックという姿だったように思う。
一番最後のピンクフロイドが始まる頃はもう夕方で、あたり一面に霧が立ち込めてきた。


その霧の中で、「原子心母」がはじまった。
富士山のふもとの雄大な風景を包む霧。そのまんなかで聴くピンクフロイドは一生忘れがたいものがあった。

その後、ロケでロスアンジェルスに滞在中、「ザ・ウオール」のコンサートがあった。


私はそれには行かず、ウイスキー・ア・ゴーゴー(ライブ・ハウス)の「ゴー・ゴーズ」(女の子ばかりのポップなロックバンド)のライブに行った。
その時は、心に滲みる感動より、やたら楽しいほうがいいかな、ぐらいの軽い気持ちで、ちょっと粋がっていたのだ。
それで、ピンク・フロイドを聴いたのは、箱根の一回きりになってしまった。

写真 (撮影・ガリバー) 71年、箱根アフロディーテにて。
古着っぽいセーラー服や帽子にバッジがついていて、まさに70年代。セーラー服の色は確か黄色だった。
これ以外にも、ロンドンのフリーマーケットで、水兵さんが着た放出品を沢山買った覚えがある。
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セントラルアパートが手狭になって、引っ越すことになった。
大手の銀行にいち早く「ハートの銀行」というキャッチフレーズを考えたりして、クリエイティブな実績をあげ、会社としての意気込みがどんどんあがっていった。
それにつれてスタッフも10人ぐらいのこじんまりしたものから、30人を超えるようになっていった。(一般的にはこれでもこじんまり、だと思うが)

引越し先(新社屋というべきか)は、一軒家だった。
学生の時、アルバイトで通ったアドセンターは、南平台のお屋敷だったが、ここもそれにせまるものがあった。
場所は現在のキャットストリートのピンクドラゴンなどにほど近い静かな住宅地のなか。

ちょっと歩けば、セントラルアパートも近いし、2、3軒先には「浜野商品研究所」があって、浜野さんや、堀切ミロさんの姿を見かけたりした。
三池炭鉱のお金もちの東京の邸宅だったということで、門の階段をあがって、ドアをあけると広い居間があり、その向こうに中庭がみえた。
ヤマハのアップライトピアノもセントラルアパートから移されて、無事ベストポジションにおさまった。
2階建ての、洋間あり和室ありの空間を、のびのびと使って仕事をした。
私自身の会社への貢献度といったら、本当に微々たるもので、相変わらず面倒を見てもらっているという程度だった。

みんなよく働いたけど、よく遊びもした。
セントラルアパート時代にも名物だったパーティは、ここに移ってからも開かれた。
いろんなジャンルのクリエィターたちがあつまって、時には仮装パーティもあった。そんなときは金子国義さんや、四谷シモンさんが圧倒的な衣装と踊りを披露して、燦然とした輝きを放った。
セントラルアパート時代、「表参道のヤッコ」などと称してパーティを主催していたあの時期のことを考えると、ちょっと手伝いながら参加するパーティほど、気楽なものはなかった。
お祭り騒ぎの主をはやばやとリタイアし、みんなとわいわい騒ぐほうにもどったけど、やっぱり賑やかなことが大好きな私だった。

その頃、青山の草月会館で若手のアーテイストによる映像のフェスティバルがあった。
オノ・ヨーコさんなども参加していたと思う。
日曜日に、宇野亜喜良さんとカメラマンの池田伝さんが会社をスタジオがわりにして、このフェスティバル用のショートフイルムをつくるのをお手伝いした。
身体のいろんな部分に宇野さんがイラストを描いて動かすという手法だったが、私の腕や手も参加した。
それともう一か所、豊かで見事なバストも参加したような記憶があるのだが、去年、ギャラリー360の宇野さんの展覧会でお会いした時、「大げさだなあ、首から胸にかけて、だよ」と笑われた。
私っていつでも、オーバーに考えちゃうからね。
歴史的作品に残された、私のあまり差し支えない場所の記録は、ほっとしたような、残念だったような、、

写真 (撮影者・レマンの同僚) 我が家と呼びたいような、会社の前。
実際、我が家と呼びたいぐらい、生きるメインの場所だった。
この頃は、渋谷にあった東亜という生地のデパートみたいなところで、安い生地をみつけて服を作ることも多かった。これもそのひとつで、ブルゾンとミニスカートの組み合わせ。色はグリーンと紺。
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スタイリストの仕事には、イメージを具体化する段階で探し物という作業が付きまとう。

それは、けっこう地味な作業で、とにかくコツコツと歩き回るのだ。
今日はオリジナルの衣装のための生地とクール・ビズのYシャツ。
アシスタントの悠子ちゃんは神田の輸入生地屋さんへ。私は馬喰町の「孝富」と銀座の「カワムラシルク」へ。
それと平行して昨日の撮影の衣装や小道具を返却する。
団扇(ウチワ)を探す。旬のものをその時期に探すことはめずらしい。
大抵、夏には秋物や冬物を手配するのだが、団扇の季節に団扇を探す。
銀座の「くのや」、「鳩居堂(きゅうきょどう)」、松屋や三越。鳩居堂で、手刷りの素敵なのを見つけた。明日は恵比寿の「遊」で麻の団扇探そう。
世の中、クールビズでしょう。
ばちっとしたYシャツが要るんだけど、いっそのこと作っちゃおうかな。
神田の老舗のYシャツ生地問屋さんへ行く。
デパートのオーダーシャツとか、テイラーのオーダーシャツ用の生地を置いているところ。
この頃、神田の問屋さんも、少なくなった。だんだん風景が変わってゆく。私なんか、ほんの小口の客に過ぎないけど、ある日、とんでもない生地を探しに出かけると、消えうせていることが多い。
今日はいろいろうまくいった、そしていっぱい歩いた。

そんなことして40年。疲れませんか?厭きませんか?
ぜーんぜん!

写真 (撮影・飯島悠子) 神田のYシャツ生地専門の問屋さんで。
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10年位前になるだろうか、アフリカ、ケニアの動物孤児院で、親を殺された子象を育て、野生に返す運動をしていたダフニー・シェルドリックさんと、草津温泉に行ったことがある。
そのとき、ダフニーさんは親愛の情を示した象との思わぬ接触で怪我をしていた。
日本滞在の多忙なスケジュールを縫って行った温泉旅行に、彼女の娘さん、ホリスティック医学の上野圭一さん、セラピストの菅原はるみさん、そして私が同行した。
ダフニーさんは温泉の効能と上野さんの治療で驚異的な勢いで治癒していった。
その短い旅が終る頃、ダフニーさんが私に向かって、忘れられないことを言った。
「ヤッコ、あなたは象と通じ合えるテレパシーを持っているわ。都会に住んでいながら、あなたのように人間以外の生き物と話ができる人に、はじめて逢ったわ」
彼女はそう言って、娘さんの方を振り返り、娘さんもうなずいた。

先月テレビ番組で、その孤児院が映り、織田裕二さんが幸せそうに子象と戯れている様子を見た。
ダフニーさんはもうリタイアしたのだろう、娘さんが孤児院を運営しているようだった。

私のテレパシーがダフニーさんが言った通りなのか、あのとき、特殊な事情で、そうなっていたのかいまだにわからない。

動物とのコミュニケーションに関して、共感できる一冊の本が届いた。
あの時ダフニーさんに同行した上野圭一さんの翻訳で、「動物は全てを知っている」という本だ。
私はこの本を読み終わるまで肌身離さず持ち歩いた。
「ヒトと動物のあいだには『沈黙の言葉』がある。口にだそうがだすまいが、思ったことはすぐに跳ね返ってくる」ということ、その多くの部分がストロングハートという犬から学んだコミュニケーションだが、蛇やスカンクやアリ、ハエとまで通じ合えるという。

「頭の中にあった人間と動物との関係についてのあらゆる先入観念を捨て去り、当然だと思っていた『ヒトがイヌを訓練する』という慣習そのものをひっくりかえす」
そうした日々のなかで、ストロングハートと筆者は、カルフォルニアの自然のなかで、のどかな美しい時間をともに過ごす。
海や、小高い山で、まるで聖地の巡礼達が味わったような、深い、満ち足りた意識を共有するのだ。
私は読み進みながら、他の人には貸すことができないぐらいこれぞというページを折リつづけた。

私はよくココと大家さんの庭で過ごす。
ココがひとしきり走り回ったあとで、雑草化しつつある芝生にお互いにゴロンとからだを預ける。
私はスニーカーを脱ぎ、はだしになって身体に溜まったであろう電磁波を地面に放出する。
筆者とストロングハートのような、崇高で広大な自然ではないけれどこの小さなスペースが宇宙に繋がっていることを感じる。
ココは心地よく吹いてくる風にうっすらと目を瞬かせたり、ほんの少し口を開けたまま、リラックスしてながながと座っている。
この瞬間、間違いなく、私たちもなにかを共有していると思う。
ただ、私自身がせせこましい時間の中で暮らしているために、その時間に終止符の言葉をかけるのは決まって私だ。物分りの良いココはさっと起き上がる。

ココと暮らしながら、体力的に、もうこれが動物と暮す最後の経験
だろう、としばしば考える。
都会で猟犬と暮らすことの矛盾はいっぱいある。
でもこの本を読んで、教えられること、共感することが沢山あった。ココとの意識も、ほんの少し新しいものになりそうだ。

「動物はすべてを知っている」  J・アレン・ブーン著 上野圭一訳
SB文庫 ¥638E( 6月18日より発行です)
(この本は1998年4月、講談社より刊行された「ヒトはイヌとハエにきけ」を改題し、文庫化したものです)

写真 (撮影・Yacco) ココ、大家さんの庭にて。
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世田谷文学館で、4月30日から開催されていた「宇野千代展」の最終日だった。
開館10周年企画展で、観覧者数はダントツの新記録だったそう。オフィス宇野千代の藤江さん、企画協力の樋口さんたちは「世の中が宇野千代を忘れてないということを知って、幸せ」と 喜んでいた。
4月のオープニングの時は「あなたはスタイリスト界の宇野千代と名乗っているんだから(昔シャレで、ですよ)、どんな事情があっても来なくちゃダメ」と言われて行った。
「そのうちもう一度来ます」と藤江さんと約束したのを、ギリギリ最終日に果たす。
思いがけず良いお天気で、喫茶室でみんなでお茶を飲んだり、おしゃべりしたり、等身大の宇野さんと記念撮影したり、楽しい午後を過ごした。

写真 (撮影・樋口友康) 宇野さんの秘書だった藤江淳子さんと。
だれかが私を「スタイリスト界のシーラカンス」と言ったので、それではあまりにも色気がないので「スタイリスト界の宇野千代」と自称したところ、藤江さんやご存命だったご本人の知るところとなる。
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紫蘇を苗床から、植木鉢に移した。
それでも植えきれないので、ベランダの隙間や、ちょっとだけの空き地
に植える。精いっぱい芽を出しているので、捨てられない。
この場所でがんばってね、あなたたちは、地面に繋がっているんだから、なんて言いつつ。
そうしているうちに、しとしとと雨が降りだして、ちょうどいいお湿りになった。
今日から梅雨入りだ。

いつも小三治さんのチケットを手配してくれる伊藤信子さんの「しんこ日記」を読んでいたら、彼女は梅シロップ(私は梅ジュースと 呼んでいる)を作っている。
久しぶりに姪からも「今年は梅ジュース作って」とリクエストがあり、とりあえず南高梅を3キロ買った。
でもジュースは青梅はいいとのこと。ちょっと熟れたのを買ってしまったので、例年通り梅干にする。毎年、10キロぐらい作っていたが、ストックがあるから、このくらいにしておこう。
ここ10年ぐらい、佐藤初女さん方式で作っていたが、今年はNHKの「生活ホットモーニング」方式にしてみた。
今年は大家さんが亡くなってしまって、庭に干すときが淋しいだろうなと思う。
持病で外に出られない大家さんは私が作業をしていると、窓やベランダからいきいきとした声をかけてくれたっけ。
いちばんの、まだ青い匂いのする梅干は大家さんとわけあって食べたものだけど。

朝の家事は楽しい。
うっかりすると、そのまま午前中が過ぎてしまう。
いけない、いけない仕事しなきゃ、と思いつつ、そちらに引っ張られてしまうのだ。

写真 (撮影・Yacco) 鳩森神社の菖蒲
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自宅の上空で、ヘリコプターの音が絶え間なく聞こえるなか、テレビでサッカーのワールドカップアジア最終予選がはじまった。
ベランダのガラス戸を空けておくと、お隣の国立競技場から、大型映像を観ながら応援しているサポーターたちの歓声が聞こえる。
タイのバンコクでやっているはずだけど、まるでここでやっているみたいだ。
ココがせがむので、散歩に出ると、競技場の歓声が一段と高くなった。「あ、点が入ったな」と思う。
千駄ヶ谷の駅近くに住んでいて最高にいい事のひとつは、この賑わいだ。
いろんなスポーツの試合があるたびに、駅前がわっと人でいっぱいになり、競技場からはナマの歓声が聞こえる。
競技場の中に観客として入ったことは一度もないんだけど、テレビの画面とこの歓声をミックスさせて、いつも満足している。
日本が勝利したあとは、興奮で顔を上気させた幸せなサポーターたちが、続々と駅に向かっていた。

ワールドカップでオマケの話。1982年の大会はイタリアが優勝したが、そのとき私は丸井のCMロケでピサの斜塔にいた。
街中が大騒ぎで、車のクラクションや人々の歓声にあふれて、いつ果てることもない。真夜中続いて、ホテルにいても眠るどころのさわぎじゃなかった。
よそのお宅の出来事だけど、そんなにうれしいんなら眠れなくてもいい、と思った。

千駄ヶ谷は、緑が濃い。
明治神宮、新宿御苑、外苑に囲まれているからだろう。
そして、駅前にファッション・ビルや映画館やパチンコやさんなどが一切ない。
この頃は、どこの駅も画一的な近代建築で、どこが似ているけど、千駄ヶ谷の、都会の中の田舎っぽさが大好きだ。
駅前に並ぶタクシーの運転手さんたちが、交代でお掃除してたりするしね。
これが私の千駄ヶ谷自慢。

写真 (撮影・Yacco) ご近所の氏神様、鳩森神社
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ページをパラパラとめくってゆくと、秋川リサ、ローズマリー、ハニー・ レイヌ、結城アンナ、モニックとキュートなモデルたちがいっぱい。
彼女たち、レオンなんかでよくおしゃべりしてたけど、そんな時、店の前にバイクを止めてブーツの靴音をたてて入ってくるのはクールスのメンバーだった。革ジャン姿の舘ひろしさんや岩城滉一さんとモデルたちがおしゃべりをしている光景は超すてきだった。
原宿ミルク、鳥居ユキ、コム・ド・ギャルソン(表記はコムデではなかった)、ニコル、コシノジュンコ、花井幸子の服、クニエダヤスエの帽子が彩るグラビアページが終ったあたりに連載第二回目の私のページがある。

どういう経過か思い出せないけど、「服装」の編集長の二川昭子さんとお会いしたとたん「毎月4ページ書きなさい。何を書いても良いしどんなページにしてもいい」と言われた。
その頃、私はスタイリストとしてやっと食べていけるようになったばかり。
コピーライター志望だったが、生態からいったら、「コピーライターもどき」あるいは「コピーライターだまし」という段階で終了だったけど、とにかく、広告の文案を考えたり、書いたりすることから解放されて、快適で、うれしくてしかたがなかった。
そんな私は「えっ、また2Bの三菱鉛筆を持つの?」とつぶやきつつも、「なにを書いてもいい」という言葉に心がくすぐられて、けっこう素直に「はい」と答えていた。
それからが悪戦苦闘だったが、二川さんはとても辛抱強く原稿を待ってくれた。何でこんなことをひきうけてしまったんだろうと、時々悔やんだが、自分が選んだ写真とともに文章が載っているのをみると、幸せな気持ちになった。
今読んでみると、私のページはその頃愛していた人への精いっぱいのラブレターのようなものだ。信じられないことに、それに共感してくれる読者からいろいろな手紙を受け取った。
でも3回目か、4回目ぐらい、ちょっとだけエンジンがかかり始めた頃、突然「服装」が廃刊になった。
がくっとしているところに、大和書房の大石さんという青年編集者から連絡があり、「書く」という作業の監視役が二川さんから大石さんになった。
彼の叱咤激励のもと、2年間、ノロノロと書き続け、彼も二川さんと 同じくらい辛抱強くつきあってくれて、「表参道のアリスより」という本が生まれた。

人生にはいろんな出発がくりかえしやってくる。
この本を眺めていると、今がまた出発点なのだと教えられる。

写真 (表紙撮影・沢渡朔) 服装1973年11月号 モデル・秋川リサ ヘア・松村真佐子 メイク・マキシーン セーター・鳥居ユキ パンツ・ブティック寛斎 帽子・クニエダヤスエ
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まだ、プロモーション・ビデオなどというものがなかったとき、 鋤田さんは、それに匹敵するおもしろい試みをしていた。
私は鋤田さんから与えられるチャンスには興味津々(しんしん)で参加していた。
今野雄二さんがプロデュースした「ハッピーバースデイ」はマリリン・モンローを彷彿とさせる歌声の外人女性が歌ったシングル盤だったが、その曲で、サテンの布をかけた大きなソファーで、金髪の外人モデルがソファーに身体をあずけながら、歌い続ける、という撮影があった。
胸が大きくあいたシルクサテンのドレスを着たモデル、片手にシャンペン、ろうそくの火が揺れるケーキ、、、とセクシーでグラマラスな、一曲分の映像だった。
加藤和彦さんプロデュースのキュートな女性歌手の曲をお手伝いしたこともある。
パジャマ姿の女の子がトランポリンで空中に舞う。ミルク瓶、目覚まし時計、人形、ブラシ、など女の子の愛用品も次から次へと空中に舞った。
今みたいにCGはなかったし、床にへばりついた私たちが、頃合いをみて、カメラ位置を考えながら、いろんな場所に必死で放り投げつづけた。
スネークマンショーの撮影は、茂一さんの提案で、「『カッコーの巣の上で』みたいな、病院の設定でやろう」ということになった。
メイクはハリウッドの修行から帰ってきたばかりの若い特殊メイクのアーテイストに頼んだ。
一日、ゆっくりといろんなおしゃべりをしながら、遊びのような仕事(仕事のような遊び)に熱中した。

「カッコーの巣の上で」は、北海道ロケ中に、確か函館あたりの映画館で観ていた。天才肌だったカメラマンの横須賀さんが、何らかの理由で、「今日は撮影は止め!」と言って、みんなで街に出た。それでアカデミー賞総なめのこの映画を観ようということになった。ただひとり、「僕、ムツカシイ映画、クライ映画はいや」というヘア・メイクの吉名さんは隣の映画館の、その時すでに懐かしのリバイバルだった「赤胴鈴之介」のほうに行った。別のドアに入ってゆく彼を一同笑いながら見送ったが、「それもひとつの見識だわ」と思った。「カッコーの巣の上で」は、偉大な映画だったが、その頃の私には「お説ごもっとも」の立派すぎるもので、いまいち生理的には好きになれなかった。でもいいんだ。なんでも観ておきたかったし、つぎの撮影にも役立ってしまったんだから。
写真 (撮影・鋤田正義) 伊武雅刀さん、桑原茂一さん、小林克也さん。
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