高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

73年の原稿発見!「素顔のTレックス」

2005-04-30 | Weblog
グラムロック全集を編集中の熊谷朋哉さんから、私が当時書いた原稿が見つかったとメールがあった。以下がそれです。

素顔のT・レックス

TEXT:高橋靖子(スタイリスト)
初出:ミュージックライフ 1973年1月号

11月26日
早起きして一行を出迎えるために羽田へ。鋤田さん(カメラマン)は空港内へ入る許可をとったのでひとあし先にタラップ前まで出迎えている。私はファンのひとたちといっしょにロビーで待つ。マークが現れると大騒ぎになってもみくちゃ。マークもミッキーもまっ青な顔をしてどうにかハイヤーに乗り込む。ヒルトンのロビーにつくと、「いやー、びっくりしたよ。トニー(ロードマネージャーのトニー・ハワード)が、日本人はとっても静かで礼儀正しいっていうから、まさか死ぬほどの歓迎をうけるとはね……」などとメンバーがしきりに話している。マークは髪の毛を引き抜かれ、ミッキーは帽子を失くす。ピンク・フロイドのマネージャーとして日本通のつもりだったトニーも予想外のことに驚いている。でもマークはにっこり笑ってひとこと、「これがロックン・ロールというもんさ」。

11月27日
記者会見のまえに、マーク、ミッキー、ジューン(マークの奥さん)、トニー、東芝の石坂さん、鋤田さんたちと昼食。マークは上機嫌。ゆうべはさっそく何曲か作ったという。記者会見のあと部屋にいくとトニーとマークはむらさき色のヨーヨーで遊んでいた。そしてミッキーはケン玉がすごくうまいなどと話をしている。
ジューンと原宿へ行く、マークのためにお寺で使う組みひも(黒、ブルー、茶)を買う。ベルトにするそうだ。日本でどんな買物がしたいの? ときくと、ウェールズに寝室が13ある家を買ったばかりで、そのインテリアに使う置物が欲しいとのこと。それからリンゴ・スター夫妻への着物(どんなに高くても良い)、トニー・ヴィスコンティ、メリー・ホプキン夫妻に男の赤ちゃんが生まれたのでお祝いに日本刀一組、とのこと。ミルクやノンノン、ビギなどのブティックを覗いて、マークの写真が飾ってあるDJストーンを教える。

11月28日
鋤田さんがロンドン、ニューヨークで撮った写真を中心とした「T・レックス展」を見に西武にきてくれる。メンバー全員ここでももみくちゃ。
夜はいよいよコンサートの初日。楽屋へ行くとみんなシャンペンを飲んでいるが緊張はかくせない。マークは鏡のまえで5~6分でお化粧をすます。ミッキーの方はジューンに手伝ってもらっている。
マークが、鋤田さんと組んで本を出そうなどと言い出す。彼の写真に、僕が詩を書くとすごい本ができるよ、などと。

11月29日~12月2日
名古屋、大阪のコンサート。私は行かなかったが、マークはとても良かったといっていた。コンサートで、ガードマンがきびしくないので、聴きにきてくれたお客と一体になれたそうだ。

12月4日
最後のコンサート。みんな大分疲れてきたようで、突然地震が起こり、天井からさげておいた舞台衣装が揺れだした。これに一同びっくりし、特にデリケートな神経をもっているマークは窓をあけて外の様子をじっとうかがっている。ジューンは床に寝て地鳴りはしないかと耳を押しつけている。CCRのコンサートのときも地震があって、お客はかえってノッたのだというと一同いっそう興奮したようだ。

12月5日
マークの部屋に、原宿のキディランドの包みがいっぱい。仮面ライダー、ウルトラマン、改造人間、いろんな怪獣、回転汽車ポッポなど30~40種類。みんなマークが選んだのだそうだ。DJストーンにも寄ってきたよ、などといっている。

12月6日
あさ8時半チェックアウト。10時45分のJALでロンドンへ。
「またくるよ」「いつ?」「4月ごろ」。
これがマークの最後のコトバ。本当かな?

写真 (撮影・鋤田正義) マークの奥さん、ジューンと。多分武道館楽屋だと思う。時計が8時37分ぐらいうを指しているが、この時間は何の時間だったのだろう。

4月19日 透明感

2005-04-26 | 千駄ヶ谷日記
ここのところ印象深い日々がつづいている。あれもこれも日記に書こうと思っているうちに、時間に追いつていけない。
これからちょっと前のことを記すことがあるかもしれないけど、まず、
この日の、このことから。

鳥居ユキさんのパリコレ30周年の一大イベントをかねたコレクションが、代々木第二体育館でおこなわれた。
アシスタントの悠子ちゃんと、もとアシスタントのキシちゃんと千駄ヶ谷を出発。時間も早いし、お天気も穏やかなので、体育館まで歩くことにする。
神宮前2丁目ぐらいのところで、「ヤッコさーん」という大きな声。西田ひかるちゃんが車の窓から手を振っている。
「わたしたち、ユキさんのショウに歩いていくのよ」
「えらーい」といって車は走りすぎた。
私たちは早めに行ってよい席を確保しなければならない。
ひかるちゃんはVIPだから、もっとあとに来るだろう。
原宿の駅の辺りにはもう雑誌社のひとや新聞社のひとたちが、誰かを待って佇んでいる。あ、みんな今回は早いな、と思っていたら、携帯が鳴って、待ち合わせしていた友だちが、
「たいへーん、もうすごい列よ」とあわてている。
「大丈夫。私たちはその列とは違うのよ」と私は通ぶってこたえた。
それでも、人並みが続々と会場に向かっているので、足早になる。
中に入ると、広い会場が刻々と人で埋まってゆく。
私はいろんな人に挨拶したり、隣同士でおしゃべりをしたりして、スタートするのを待った。

ユキさんは、30年間一度のお休みもなく年2回のパリコレに参加してきた。
これはファッション業界でユキさんたったひとりなのだ。
大抵はそのときの事情や主義みたいのがあって、何回かはお休みしているのだそうだ。

ユキさんは迷うことなく、ひたすら美しい服をつくり続けてきた。
今回のコレクションでも、「ユキさんの服の、あの変わらない透明感はすごいわ」と、あるファッション誌の編集長が言っていた。
ユキさんの創りだす服の変わらない若々しさ、愛らしさ、そして何よりもだいじな透明感。ステージに現れる服を楽しみながら、さまざまな時のことがちらちらと脳裏をかすめた。

モデルさんたちがすべてひっこんだあと、大きなサプライズがあった。
大きな幕が引き落とされると、ステージに110名の男性が並んでいた。その壮観な眺めに、観客から「ウオッ」と声があがる。
男性達は10名ぐらいずつステージを歩く。顔ぶれは各界の名士だ。皆さん忙しい方ばかりが、この日、この時間、このステージによくぞ揃ったものだ、と感嘆するばかり。
ユキさんはある時期メンズのコレクションもしていて、それがニュース・キャスター、スポーツ選手、俳優さん、料理人、と書ききれないぐらいの意表をつく人たちが出演して、名物になっていた。その方々が、万障繰り合わせて、ここに集まったのだ。これぞ、男の友情と言う感じだ。
みんな楽しそうにウォーキングをし、観客もスタンディングして拍手する。私もステージ傍までいって、手を振ったり、声をかけたり、握手をしたり。
時の人、テリー伊藤さんが、ユキさんをエスコートする。
「テリーさん、おいしすぎるよ!」と声をかけたけど、聞こえたかしら。
 

ミスター・モリタ!

2005-04-26 | Weblog
最初のロンドンが、寛斎さんのショウのプロデュースという夢にも思わなかったことをするはめになってしまったために、旅行では味わえない経験の連続だった。
ところが、モデルのオーディションも終わり、会場もほぼ決まったところで、ロンドンはイースターの休暇に入ってしまった。そうなると、あんなに親切だった人たちが、マイケルをはじめとして私の目前からすっといなくなった。まるっきり日本のお正月と同じで、家族の休日なのだった。
シーンとしたロンドンの街で、ひとり取り残された私は急に日本が(実はある人が)恋しくなってしまった。
せっかく格安のエジプト航空(これは、寛斎さんの会社で出してくれた。ひとのお金を使う訳だから、私自身がなるべく安いチケットを探したのだった)で来たのに、お小遣いの全てをはたいて、ほとんど衝動的に日本航空の切符を買って東京に向かった。
ヒースロー空港で、ミスター・モリタという免税品らしき紙袋をもった非常にハンサムな紳士を見かけたが、その方はすぐに私の視角から消えた。多分ファーストクラスに乗ったのだろう。
トランジットのためにモスクワ空港に降りたとき、再びその紳士を見かけた。
私は迷うことなくその紳士に近づいて、「ソニーの盛田さんでいらっしゃいますか?」と話しかけた。
「そうですよ」という答えを聞くと、「私はロンドンで、ソニーの電話番号を調べたんですけど、電話帳にありませんでした」と言った。
「あなたはロンドン市内で調べましたね。ソニーは郊外のサセックスというところにあるんですよ」と教えてくれた。
それから5分ぐらい話をして、盛田さんは「じゃ、そのショウの音響に協力するよう部下に言っておきますよ」と約束してくれた。

私の恋心の発作がもたらした無駄使いのおかげで、ソニーの社長の盛田さんに 出会うことができた。
もしも私が辛抱強くエジプト航空で、3日間かけて帰ったら、再びカイロでピラミッドを見れたかもしれないが、グッドタイミングで偶然、盛田さんに出会うことはなかっただろう。

東京に帰れば帰ったで、いろんなことが待ち受けていた。
寛斎さんとの打ち合わせ、ショウ用の音楽テープの作成などなど。特に音楽は衣装の展開とのタイミングを計りながら、一秒の狂いも許さないテープを作り上げた。(この音楽テープは名作です)

再びロンドンに取って返し、マイケルと最終準備に励んだ。
盛田さんはきちんと約束を守ってくださり、ショウの3日前から3人の技術者を送り込んでくれた。この3人のギャランティと、会場の音響設備もすべて無償だった。
完璧に作り上げたはずの音楽テープだったが、衣装が増えてどうしてももう一箇所バージョンが増えてしまった。
いちばん若い音響技師が、「これ、ヤッコの好みだと思うけど」ともってきてくれたのが、初めて聴くサンタナだった。
私は即座に気に入って「私が手を叩くところから、次に手を叩くとこまでを、ここのところに、こういう風にいれて」と稚拙な指示を出して、テープは完成した。

この話はビジネスマンにも格好な話題だったのだろう。のちに日本経済新聞にかなり大きく取り上げられた。

写真(撮影・Yacco) 「KANSAI IN LONDON」の会場になったキングスロードのスーベニール・ショップ「THE GREAT GEAR TRADING COMPANY」
営業時間が終了した午後6時過ぎから、すばやく売り場を整理してスペースを作り、ステージにした。 多分ショウは8時とか、9時ぐらいから行われた。

ミスター・チャオ

2005-04-24 | Weblog
1971年の早め春の日、私はこの店の前に立っていた。南回りのエジプト航空で、最終の地、ロンドンに着くにはアジアからアフリカを経て、10箇所ぐらいのエアポートに止まり、エジプトでは一泊しなければならなかった。おかげで夜のピラミッドを見ることが出来たが、ピラミッドを照らす照明のようなものはなくて、乗客を乗せた小型バスのライトをわずかにピラミッドに向けるだけだった。(今はちゃんとライトアップされているのだろうが)
超格安のチケットの旅は、なんとも怪しく、ジェラルミンのスーツケースに入っている寛斎さんの2点の作品が無事かどうか絶えず心配していた。
まだ寒いであろうロンドンに、前の年にニューヨークで買った毛皮のコートを
持参していた。エジプトのむんむんする暑さの中で、盗られないよう、私はずっとそのむさくるしいコートを手放さなかった。
3日がかりでロンドンに着き、空港のホテル案内所で手配してくれたアールスコートの学生用ホテルに荷物を下ろして、とにかくこの店の前までやってきた。
私のノートには正真正銘、たった一つのアドレスとマイケル・チャオと言う名前しか書いてなかった。マイケルは日本を発つ前に、伊丹十三さんから聞いた彼の友だちだった。
薄暗闇の中にぼーっと佇んでいると、2階から若い男性が降りてきた。
私は「マイケルっていう人いますか?」と聞いた。その人は不審そうに、しかし即座に「僕だけど」と答えた。

この瞬間、私のロンドンでの全てのドア、全ての窓が開かれた。
マイケルの手配により、翌日から私の宿はロレーヌという、もとモデルのフラット(アパート)の広々としたゲストルームになった。ロンドンのめぐまれた若い女性が住んでいるおしゃれなフラットでの共同生活は楽しくて、意味のあるものだった。
食事は、マイケルが経営するこの「MR.CHOW 'S MONTPELIER」で食べる限り、お金は要らない。ここはチャイニーズと言うより、イタリアンのような、フレンチのような、ヌーベル・シノワの超はしりのようなのような店だった。
私はマイケルに言われたとおり、ほとんどの食事をここで無料で摂った。そのことに関して特に卑屈にもならず、ウエイターのひとたちとも仲良しになって、毎日せっせと食べていた。
ウエイターはほとんどがスペイン人で、私がテーブルに座ると、まず、ゆでたてのアスパラガスに溶かしたバターがたっぷりかかったものを運んできてくれた。(これは私がはじめて知った簡単でおいしいオードブルなのだ)
こんな全てがタダの生活をしながら、私がめざしたのはファッションショウを
ほとんどタダで手配することだった。
こういうこと全てが「東洋人はお金のためにだけは仕事をしない。時には友情のために仕事をするのだ」という、つたない英語で伝えた言葉にマイケルが共鳴してくれたおかげだった。

ミスター・チャオは、一階はレストランで、二階は事務所となっている。
入り口は狭いけれど、一階は奥が広くて明るかった。ロンドン中のファッショナブルな人たち、アーティストたちが集まって食事をし、語り合う場所で、私はマイケルに紹介されながら人々の中に入っていった。私には原宿のレオンと変わることのない居心地の良い場所だった。

写真 (撮影・鋤田正義) これは72年。タダ食いの時代は終わって、Tレックスやデヴィッド・ボウイの撮影のためにロンドンに滞在していた頃。とはいえ、このときの食事代も鋤田さんのおごりだったと思う。アート・ディレクターの片山さんと私を鋤田さんが通りの向こう側から撮ってくれた。

付・Tレックスを追って

2005-04-19 | Weblog
私があるロック・コンサートのチラシを鋤田さんに渡し、カメラマンの鋤田さんに「ヤッコさん、ロック好き?」と声をかけられたのは、喫茶店レオンの前だった。
鋤田さんも私もそのときまでレオンでお茶を飲み、時を過ごしていたのだが、私はガラス張りの道路側、鋤田さんは奥のほうと、何となく席は決まっていた。お互いを認識しながら、遠めで見るというスタイルが2、3年つづいていただろうか。それが声を掛け合った瞬間から、お互いを遠めで見るという関係から、ロック・ミュージシャンを追う仲間となったのだ。
それまでに鋤田さんも、この界隈のニュースとして、私がロンドンでファッション・ショーの仕事をしてきたことを知っていたのだろう。私はロックには詳しくなかったけれど、ロンドンに滞在すると言うことは、ブリテッシュ・ロックの洗礼を受けることでもあったし、そうして聴くともなしに聞こえてくる音の世界は私の志向にぴったりだった。
鋤田さんは「Tレックスって知ってる?僕、T レックス撮りたいんだけど」とつづけた。
そういえば、ロンドンのあるパーティで、「今度T レックスのマネージメントをする」と言ってたひとがいたっけ。たったそれだけの根拠で、私は「はい」と答えてしまった。
そして数日後には、ロンドンに出発した。ちょっとした紆余曲折があったけど、パーソナル・マネージャーのチリタとめぐり合った。彼女とあっというまに仲良くなれたのもその後、女同士のいろんな話ができるようになったのも、全て最初の一瞥によるものだったと思っている。
私自身の経験から、精神世界っぽいことには用心深いところがあるのだけれど、ひとが発するオーラや呼び合う何か、のようなものはあるんじゃないか、と思う。チリタは最初から、彼女の人生の価値観のようなものを、ドンと私に投げかけてきた。「ヤッコ、私のこのイヤリングみて! 何の変哲もないゴールドの塊みたいなものでしょう?」
確かにそのイヤリングはそれほど洗練されているとも思えないゴツイもので鈍いゴールドの光を放っていた。
「このあいだ、これを外のトイレに忘れちゃったのよ。しばらくしてから思い出して取りに行ったんだけど、まだそこに転がっていたわ。だって、誰が見てもそんなたいしたものにはみえないでしょ。でもこれって、このあいだエジプトに旅行したとき買ったものなの。このイヤリングは紀元前に作られたのよ。紀元前て、キリストが生まれるまえよ。素敵だとおもわない?」確かに素敵だ。
私は「すごいストーリーね!」と答えた。
チリタはそのエジプト旅行にミッキー・フィンと行ったと教えてくれた。そしてずっと以前はマーク・ボランのガールフレンドだったとも。 私は優秀なインタビュアーじゃないので、その一言を、しっかりと胸に受け止めつつも、ふーんと聞き流した。「へー、それで、それで、、?」とその人のなかに踏み込んでゆくことが、私って意外と苦手なのだ。
「今はマークの奥さんのジューンと、とても仲良しなの」と彼女は言った。話をイヤリングに戻して、「ニューヨークにザンドラ・ローズと行ったとき、5番街のティファニーに行って、そこにあるダイアモンドをコケにしてふたり笑いあったわ。お店の人たちは私達が出て行くのをじっと待っていたみたい。いたずらが過ぎたかもしれないけど、私にしかわからない、私にとって大切なものが、本当の宝物なのよ」
彼女と街を歩いていた時、ちょっと待ってね、と私に言ってある男性と立ち話をした。
「あのひとと結婚してたことがあるの。今思うと、ほんとに結婚してたのかな、と自分でも思うくらい実感がないけど。彼はいまや、有名な音楽プロデューサーよ。パーセンテージで稼いでいるから、とてもお金持ち」と言った。
業界に疎い私にはその彼が誰なのかは知らなかったし、チリタに聞くこともなかった。そんなふうに、彼女には仕事以外のいくつかの場所やアーティストのアトリエなどに連れて行ってもらった記憶がある。チリタが着ていた服の感触、細い身体から発せられる鋭い声、こういう女同士のおしゃべり、、、みんな鮮やかに覚えている。それなのに、ここに登場する彼らはチリタのジューンもすべてこの世にはいないのが、私にはとても不思議に思える。

写真 (撮影・鋤田正義) Tレックスの事務所で。私にはたった一人で事務所をおそるおそる訪ねた最初の日の印象しかなかったが、この写真をみて、その後も鋤田さんと何度か訪ねているのを思い出した。

※皆さまの書き込みにお答えして少し書き足しました。途中経過など、省略したり、ちょっとダブルところがあるかもしれません。

4月13日 不思議な文通 

2005-04-14 | 千駄ヶ谷日記
私の読書の時間は、たいてい寝る前で、新聞や雑誌といっしょにベッドのそばに置いてある本に、「よーし、今夜はこれにしよう」と手をのばすところからはじまる。
でも、睡魔が順調にやってきて、その前に眠りの階段を降りてゆくことも多い。
なかには、昼夜を問わず、その本が自分の人生と同時進行して、どうにも止まらなくなることがある。そういう時、自分が呼吸している間はその本にも呼吸していて欲しくなる。
往復の電車の中、撮影のあいだの ちょっとした待ち時間、私は寸暇を惜しんでその本を抱きしめ、ページをめくる。櫻井よしこ著「何があっても大丈夫」(新潮社)がそうだった。
こういうポジテイブな題名の有名人の本て、ちょっとだけ疑い心が起きるでしょ?(起きないか、、、)でも、この本は私の偏屈な疑念を吹き飛ばすどころか、なんとも言いがたい正統派の重厚感を感じさせた。櫻井さんの母親である以志さんの「なにがあっても大丈夫ですよ」という言葉にぴったりくっついた明るさと苦しみの両方がずしんとつたわってくる内容なのだ。
具体的に説明は出来ないけれど、 小説とか、エッセイとか、そんなカテゴリーは関係ない本当のドラマが描かれている。
たんなる癒し、たんなるポジティブさじゃない、とっても深い、因縁まで含めた人生のポジティブさを描ききった桜井さんの、家族や自分に対しての観察眼、正確な記憶力がすごい。
後半の、ぐんぐんと成長してゆく桜井さん自身の青春の日々に深く納得した。

私にとってアクセサリー、特にブローチは、単に襟元を飾るものだけじゃない。気に入ったチョコレートの箱や缶にそっとおさめておいて、何かの折に眺めたりする永遠の宝物といえる。
そういう心の部分にぴたっと寄り添う絵本がまさしく「ブローチ」(リトルモア・渡邉良重・絵 内田也哉子・文)この本は、心の箱の中に大切にしまっておこうと思う。

不思議な国のアリスのポップアップの絵本、その中でも最後のページのトランプがあふれ出てくるのが大好きだとはなしたら、友だちが「不思議な文通」という絵本を送ってくれた。
ページに封筒がくっついていて、そのなかには手書きふうの手紙がおさめられている。ピョンと飛び出したりはしないんだけど、立体的で素敵だ。
そんななか、渋谷のオーチャード・ホールで、マシュー・ボーンの「白鳥の湖」のリバイバル公演を観た。舞台を見たとたん、これはポップアップの絵本だ、と思った。その絵本からは男性のダンサーによる白鳥が飛び出してきてまさしく夢の舞台だった。

写真 (撮影・Yacco)

4月6日前後 日々のつながり

2005-04-09 | 千駄ヶ谷日記
夕方から、国立競技場で行われたコレクションにゆく。
実は昼間、大変エキサイティングなことがあって、張り詰めて空を飛んだ凧が陸によたよたと落っこちた時のように(といっても悪いことじゃなくて、たんに昼間の緊張感が解けたということなのだが)夕暮れの中でよれよれしていた。
でも、どこに属するわけでもなく、コツコツと独りで仕事をしている私にとって、わざわざコレクションに招待してくれること自体、うれしいこと。それに、サッカーの歓声が聞こえてくる距離に住んでいるわたしには
競技場はお散歩 コースだしね。10分程歩いて会場へ。
会場で、いつも何故か気になる、何故か親愛の情を感じるファッション評論家(といって良いのかどうかわからない方)に会う。
いつもは30秒か、1分ぐらいしか話をしないのに、10分間お話をした。そのかたの話のセンスが気分いい。私と業界とか、仲間うちとかの接点はとてもはかない。でも、そのはかなさで思い出したように繋がる人間関係を楽しく思う。
(そういえば5日にも、恵比寿 のリキッドルームで行われたコレクションで
懐かしい同業のひとに何年ぶりに、ばったり会った)こんな意味不明なことを書き綴りながら、ふと思う。
2005年と1970年代をブログで行き来しているように、一日の中でも異なった空間で異なった時間を過ごすことが私は好きなのだ、と。
めいっぱいひとつの世界で過ごした後、また違う空気の中にいる。それを面白がったり、必要としているのは間違いなく、私自身の選択によるものだろう。
一日の結末がつけがたいまま、夜が過ぎて、瞬 く間に新しい日になった。 1時間ほどベッドに横たわって、朝1時に起きて、2時半にワゴンタクシーに衣装を積んでロケの現場に向かう。
代官山の現場はそこばかりが異常にまばゆく目覚めている。
その煌々とした光の中に私は飛び込んでゆく。ここで7時間が過ぎて、朝の10時に撮影は終わった。
現場前の旧山手通りを雑誌「メイプル」の編集者が通り過ぎてゆく。
「コマーシャルってすごいのね」と声がかかった。(確かに雑誌の撮影より大げさだ)道の向こう側の「パントリー」でサンドイッチと山羊のチーズを買って家にもどった。寝不足だから、お昼寝をしよう。

写真 (撮影・Yacco) 家の近所の桜です。

BORN TO BOOGIE 2

2005-04-02 | Weblog
Tレックスのアメリカツアーに同行した時、ニューヨークのツアーメンバーの宿泊先はは「グラマシー・パーク・ホテル」だった。(デヴィッド・ボウイのときも同じホテル)
このホテルはレキシントンにあり、クラッシックでロンドンぽい。ホテルに隣接してガーデンがあり、ホテルの滞在客だけがその期間、鍵を所有して中を散策できる仕組みになっていた。ロンドンのポートベロー・ホテル同様、ここを利用するのは、かたや老人、かたやミュージシアンをはじめとするアーティストと、極端に違うふたつのジェネレーションのひとたちが多いと聞いた。
(またこの思い出深いホテルは70年代を舞台とした映画「あの日ペニー・レインで」の後半、ツアーが終わったミュージシャンたちがニューヨークに戻り、主人公の女の子がツアー妻としての役目を終える場所としても登場した)

ニューヨーク滞在中に、今夜はごく身内の試写会があるから来るように、といわれて、指定の場所に鋤田さんと出かけた。
そこにはなんとリンゴ・スターがいた。
マークとリンゴはゆるやかな階段状態になっている試写室の一番後ろの席に座って、親密そうにしゃべっている。鋤田さんは早速カメラを向けて撮り始めたが、私はその合間をぬって彼らの席までいった。
「リンゴ、私にサインちょうだい」というと
「うん、いいよ。でも一個だけね」といわれてしまった。あ、いけない、それじゃ鋤田さんのぶんがない、と思ったけど私は素直にうなずくしかなかった。
あとで、鋤田さんに「女の子はいいなー。さっさとサインを頼めるからなー」といわれたけれど、一個しかないものは私のものとばかり、自分のバッグにお宝をしまいこむのもさっさとやった。
そこで観たのが「BORN TO BOOGIE」だった。
鋤田さんに同行することは、いろんな未知との遭遇があることだった。この映画の試写会にめぐり合ったのも、そのひとつだ。

写真 (撮影・Yacco) ザンドラ・ローズのゴージャスなワンピースが似合うチリタ・セグンダ。彼女はTレックスのマネージャーをしていて、鋤田さんとTレックスのフォトセッションをOKしてくれたキーパーソンだった。(マーク、ミッキーだけではなく、チリタもこの世を去っている)