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何かを始める時が、何かが始まる時。それをやるとどのくらいお金が入るか、ということを先に考えたことはない。エキサイティングな予感が波のようにひろがって、いつのまにか、漕ぎ出しているのだった。(70年代も、そして今もできる限りは、、)そうはいっても、自費ばかりで、海外を往復するのはむずかしかった。鋤田さんは業界のカメラ雑誌ばかりでなく、当時新しいカルチャーに向かっていた「アンアン」にTレックスやデヴィッド・ボウイの作品を発表したいと考えた。そのアイデアをアンアン編集部に持っていったときのシーンをくっきりと思い浮かべることができる。編集長の木滑さんはきっぱりと即座に「おもしろい!やりましょう!」と言った。そして、アンアンの誌上を飾るということで、往復のエア・チケットをタイアップで手配してくれた。
あるときは、加納典明さん、沢渡朔さん、鋤田正義さんの超豪華なフォトグラファー 3人をアンアンが引き受け、それぞれにアシスタントや私のような役目のものがついてロンドンに渡った。その集団を仕切ったのはエディターの石川ジローさんだ。アーティストやミュージシャンが定宿としているポートベロー・ホテルから、毎朝ロンドンの街に飛び出し、それぞれのテーマで撮影をした。それ以外にモノクロページのロンドンのお店紹介のマップ作りのために、細々とした写真も3人が分担して撮った。
十文字美信さんが若いフォトグラファーとして登場したときも、エディターの椎根大和さんが大胆に十文字さんを起用した。十文字さんは当時来日中のザンドラ・ローズのシフォンのドレスを、スタジオでシンプルに力強く撮った。フリーランスの私は仕事をしていると、時々ひとりぽっち感にとらわれた。
何かを確かめたい時、楽しい仕事が出来た時、自分を元気づけたい時、漠然とした不安を感じる時、椎根さんに電話した。彼は喫茶店で何時間も話をしてくれた。
アンアンは金子功さんの服、モデルは立川ユリ、マリ姉妹、フォトグラファーは立木義浩さんが毎号大きく活躍していた。
私は時々変わった企画の時、ちょっとだけ参加出来ただけだが、今でも、そのとき関わったページはすべて頭の中でめくることができる。 10年目に「さよならアンアン号」が出て、アンアンは大きく変わった。最初の3年間、アートディレクターをした堀内誠一さんはその号で、「アンアンは僕の”空飛ぶ魔法の絨毯”だった」と語っている。
写真(アンアン創刊号)
1970年3月20日に創刊。ページをめくるとその新しさ、楽しさに驚く。立川ユリさんがパリとロンドンを駆け巡って24ページもカラー・グラビアを飾っている。アンアンはパリのファッション誌「エル」とタイアップしていて誌名(アンアン)のそばに、エル・ジャポンと記されている。中ほどにはエル直送のパリ・コレの写真。ウンガロやクレージュの前衛的な服に、長澤節さんが、「手をどこから出すんだろう?なんて言わないこと。美はときどき人間が生き物であることを否定する。人の集まるところに、突然まるで彫刻のような自分を見せたいという欲望を、モードが果たしてくれる」と解説している。わかるような、わからないような、なんだかワクワクする解説だ。
あるときは、加納典明さん、沢渡朔さん、鋤田正義さんの超豪華なフォトグラファー 3人をアンアンが引き受け、それぞれにアシスタントや私のような役目のものがついてロンドンに渡った。その集団を仕切ったのはエディターの石川ジローさんだ。アーティストやミュージシャンが定宿としているポートベロー・ホテルから、毎朝ロンドンの街に飛び出し、それぞれのテーマで撮影をした。それ以外にモノクロページのロンドンのお店紹介のマップ作りのために、細々とした写真も3人が分担して撮った。
十文字美信さんが若いフォトグラファーとして登場したときも、エディターの椎根大和さんが大胆に十文字さんを起用した。十文字さんは当時来日中のザンドラ・ローズのシフォンのドレスを、スタジオでシンプルに力強く撮った。フリーランスの私は仕事をしていると、時々ひとりぽっち感にとらわれた。
何かを確かめたい時、楽しい仕事が出来た時、自分を元気づけたい時、漠然とした不安を感じる時、椎根さんに電話した。彼は喫茶店で何時間も話をしてくれた。
アンアンは金子功さんの服、モデルは立川ユリ、マリ姉妹、フォトグラファーは立木義浩さんが毎号大きく活躍していた。
私は時々変わった企画の時、ちょっとだけ参加出来ただけだが、今でも、そのとき関わったページはすべて頭の中でめくることができる。 10年目に「さよならアンアン号」が出て、アンアンは大きく変わった。最初の3年間、アートディレクターをした堀内誠一さんはその号で、「アンアンは僕の”空飛ぶ魔法の絨毯”だった」と語っている。
写真(アンアン創刊号)
1970年3月20日に創刊。ページをめくるとその新しさ、楽しさに驚く。立川ユリさんがパリとロンドンを駆け巡って24ページもカラー・グラビアを飾っている。アンアンはパリのファッション誌「エル」とタイアップしていて誌名(アンアン)のそばに、エル・ジャポンと記されている。中ほどにはエル直送のパリ・コレの写真。ウンガロやクレージュの前衛的な服に、長澤節さんが、「手をどこから出すんだろう?なんて言わないこと。美はときどき人間が生き物であることを否定する。人の集まるところに、突然まるで彫刻のような自分を見せたいという欲望を、モードが果たしてくれる」と解説している。わかるような、わからないような、なんだかワクワクする解説だ。
当時のアンアンはあまり俗っぽくなく、とてもアーティスティックな雑誌だったんですね。キラ星のようなクリエイティブなフラグメントがいっぱい散りばめられていて、Yaccoさんの説明を読むだけでドキドキします。
こうやって名立たる写真家やデザイナー、ミュージシャンが世に出て行ったのかと思うと、才能や新しいものを見極める目がいかに重要だったかを感じます。今のカタログ化した雑誌にはなくなってしまったけれど、センスの磨き方というか、美意識のレッスンが雑誌で可能になっていたなんて素敵です。
アンアン⇒ノンノン
コムデ⇒コムサ
ビトン⇒サザビ
・・・ETC・・・
でも、アンアン創刊号はごく最近買いました。青山のズッカ(ブティックの上にカフェがあって小さな本屋もあるんです。そこにこのお宝がおいてありました。
いっしょに宇野千代さんの「刺す}という北原武夫さんとの別れのいきさつを書いた本も買いました。
大昔は神田の古本屋さんにもいってたんですが。装丁のすてきな吉屋信子の少女小説、何度も手にとって買わなかったのを、長い間後悔したことがあります。思いだしたら、また後悔、、、。
おげんきですか?
3つもUPしていて、どれから拝見しようか
わくわくしました。ありがとうございます!
時代の証言者っていうことばが脳裏に。
アンアン族?ノンノ族?って友達と言い合った言葉がもどってきました。
長澤節さんの言葉がもう、とっても、フレキシブルで、感動しています。一生忘れない
言葉になりそうです!!興奮。
やっぱり、生きるシーンに楽しいことをみつける天才でらっしゃいますね。Yaccoさんも。
立川さんはどこをめくってもでていらっしゃいました。神戸の鈴屋や三愛のバーゲンは
ビッグで、なんだか、お給料の半分を
服に。今考えると、両紙から学んだことは
いっぱいありました。憧れも。
ドラマをしていて、本当に毎日かかさず
みていました。「君は一人でも生きて行けるから」あの言葉、きついなああ、、て。
もんどりうって、泣き叫んでいる姿をご本人に重ねて。梶井基次郎さんとの、やりとりも
あまじょっぱい、、胸キュンなものでした。
でも、自立した女の先駆者で、尊敬しています。その人に愛されたYaccoさんもまた。
吉屋信子さんは、今、お昼の「冬の輪舞」
というドラマの原作じゃなかったでしょうか
母性愛をうたってるみたいですが。
懐かしいですね。
ネットは世界への窓になりましたが、幼くローカルに生活する当方にとって、当時のアンアンはまさに世界に広がる窓でした。
創刊号、160円の記憶がありますが、違ったかな?。エル・ジャポン・アンアン~そう、いまよりフレンチな響きでした。
この号では公募で名前が決まったので、その当選者、ま、名付け親というか青年が登場していたと思います。黒柳徹子さんのパンダ好き、それもここには登場していました。石坂浩二のコントもあった・・・後半モノクロページ下段だったかな~曖昧になってきたぞ~記憶(苦笑)。
モノクロ1/3縦型広告面に、今は亡きティナ・チャウ(ラッツ)が不二家のショコラ・オ・レの広告に出てましたか・・・。ファッションページの見開き写真には圧倒されたものでした。パリも良かったし、次号でしたっけ?もう虚ろ(苦笑)、ベニスも美しかったな~。
おどろきました。星占いの各星座のきりえのようなカットは、今と同じです。
記憶力もすごいな、、サプライ!
阿木曜子さんて、モデルだったなんて!!
それもはじめて知りました。
綺麗な作詞家さんで時々、ドラマに出ていた
人だと。恐れ入りました。