60年代の半ば過ぎ、フリーランスになった私に最初に来た仕事のひとつが、化粧品のプレゼンテーション用のものだった。カメラマンはデザインセンターからフリーになったばかりの沢渡朔さん。モデルは四谷シモンさんとマドモアゼル・ノンノンのフーチだった。スタッフのほとんどはセントラルアパートのクリエーターたちだから、レオンに集合して出発した。
シモン(さん抜きにさせてもらいます)は、レオンに着くなり、「カネがないから、ここまで歩いてきたんだ。すぐにギャラください」といった。そのころ彼はもちろん人形づくりをしていたけど、状況劇場(紅テント)の俳優でもあった。その頃のアングラの人たちといったら、お金がないのは群をぬいていて、こうして堂々とまっさきにお金を請求しても、何の不思議もなかった。
(話がわき道にそれるが、その後状況劇場に入ったことがある小林薫さんからも、当時の金欠生活の話を聞いたことがある。それは大笑いするくらいダイナミックな貧乏さだった)
シモンは私に向かって「ジョセフイン・ベーカーの人形を16体つくったの。20万円だからあなたも買いなさい」と命令した。(心がうごいて、即、命令に従いたかったけど、私だって堂々たる貧乏生活を送っていたのでそれは無理というものだった) 電車賃に事欠いていても、シモンの自前の服はマントっぽくて素敵だった。
対するフーチも自前で、仕立てのいい白いシャツに短くて太いネクタイ、紺の水兵パンツに紺の帽子だった。いつもどおりのボーイッシュなスタイリングだったが、どこが育ちのよい、お嬢さんぽさがにじみ出ていた。
冬木立の井の頭公園は寒くて、私は近所の家に頼んで、アルミのやかんで牛乳を沸かせてもらった。スタッフにホットミルクを配っていたら、沢渡さんが「それにしても、こんなに食い物がいっぱいの撮影ははじめてだよ」と言った。
私はフランスパンのサンドイッチ、おにぎり、果物と山ほど食べ物を用意していた。まだロケーション・コーディネイターもいなかったから、ぜんぶ手作りだった。こういうときでも、私はよく言えば限りなく気がきき、悪く言えばトゥー・マッチだった。その後の人生がそうであったように。
写真 (撮影・Yacco) ルーフのうえで撮影しているのは沢渡朔さん。井の頭公園で。
シモン(さん抜きにさせてもらいます)は、レオンに着くなり、「カネがないから、ここまで歩いてきたんだ。すぐにギャラください」といった。そのころ彼はもちろん人形づくりをしていたけど、状況劇場(紅テント)の俳優でもあった。その頃のアングラの人たちといったら、お金がないのは群をぬいていて、こうして堂々とまっさきにお金を請求しても、何の不思議もなかった。
(話がわき道にそれるが、その後状況劇場に入ったことがある小林薫さんからも、当時の金欠生活の話を聞いたことがある。それは大笑いするくらいダイナミックな貧乏さだった)
シモンは私に向かって「ジョセフイン・ベーカーの人形を16体つくったの。20万円だからあなたも買いなさい」と命令した。(心がうごいて、即、命令に従いたかったけど、私だって堂々たる貧乏生活を送っていたのでそれは無理というものだった) 電車賃に事欠いていても、シモンの自前の服はマントっぽくて素敵だった。
対するフーチも自前で、仕立てのいい白いシャツに短くて太いネクタイ、紺の水兵パンツに紺の帽子だった。いつもどおりのボーイッシュなスタイリングだったが、どこが育ちのよい、お嬢さんぽさがにじみ出ていた。
冬木立の井の頭公園は寒くて、私は近所の家に頼んで、アルミのやかんで牛乳を沸かせてもらった。スタッフにホットミルクを配っていたら、沢渡さんが「それにしても、こんなに食い物がいっぱいの撮影ははじめてだよ」と言った。
私はフランスパンのサンドイッチ、おにぎり、果物と山ほど食べ物を用意していた。まだロケーション・コーディネイターもいなかったから、ぜんぶ手作りだった。こういうときでも、私はよく言えば限りなく気がきき、悪く言えばトゥー・マッチだった。その後の人生がそうであったように。
写真 (撮影・Yacco) ルーフのうえで撮影しているのは沢渡朔さん。井の頭公園で。