高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

初めてのロケ

2005-02-28 | Weblog
60年代の半ば過ぎ、フリーランスになった私に最初に来た仕事のひとつが、化粧品のプレゼンテーション用のものだった。カメラマンはデザインセンターからフリーになったばかりの沢渡朔さん。モデルは四谷シモンさんとマドモアゼル・ノンノンのフーチだった。スタッフのほとんどはセントラルアパートのクリエーターたちだから、レオンに集合して出発した。
シモン(さん抜きにさせてもらいます)は、レオンに着くなり、「カネがないから、ここまで歩いてきたんだ。すぐにギャラください」といった。そのころ彼はもちろん人形づくりをしていたけど、状況劇場(紅テント)の俳優でもあった。その頃のアングラの人たちといったら、お金がないのは群をぬいていて、こうして堂々とまっさきにお金を請求しても、何の不思議もなかった。
(話がわき道にそれるが、その後状況劇場に入ったことがある小林薫さんからも、当時の金欠生活の話を聞いたことがある。それは大笑いするくらいダイナミックな貧乏さだった)
シモンは私に向かって「ジョセフイン・ベーカーの人形を16体つくったの。20万円だからあなたも買いなさい」と命令した。(心がうごいて、即、命令に従いたかったけど、私だって堂々たる貧乏生活を送っていたのでそれは無理というものだった) 電車賃に事欠いていても、シモンの自前の服はマントっぽくて素敵だった。
対するフーチも自前で、仕立てのいい白いシャツに短くて太いネクタイ、紺の水兵パンツに紺の帽子だった。いつもどおりのボーイッシュなスタイリングだったが、どこが育ちのよい、お嬢さんぽさがにじみ出ていた。
冬木立の井の頭公園は寒くて、私は近所の家に頼んで、アルミのやかんで牛乳を沸かせてもらった。スタッフにホットミルクを配っていたら、沢渡さんが「それにしても、こんなに食い物がいっぱいの撮影ははじめてだよ」と言った。
私はフランスパンのサンドイッチ、おにぎり、果物と山ほど食べ物を用意していた。まだロケーション・コーディネイターもいなかったから、ぜんぶ手作りだった。こういうときでも、私はよく言えば限りなく気がきき、悪く言えばトゥー・マッチだった。その後の人生がそうであったように。

写真 (撮影・Yacco) ルーフのうえで撮影しているのは沢渡朔さん。井の頭公園で。

ポートベロー・ロードのフリー・マーケット

2005-02-20 | Weblog
定宿のポートベロー・ホテルのすぐそばのポートベロー・ロードは、週末になるとフリーマーケットがたち、どっと賑やかになる。この日は午前中から夕方まで歩き続けて、くたくたに疲れてホテルに戻る、というのが定石だった。道端や、一休みのカフェで、思いがけない日本人グループに会うことも多かった。パリ在住組の人たちはパリのクリニャンクールよりもずっと安いとか、色合いの違うものがみつかる、といって時々遠征してきた。

鋤田さんのお手伝いで滞在していた時は、ミュージシャンとのフォトセッションのためだったから、別の方法でお金を稼いだり、チケットを手配したりすることがあった。
あるとき、チキータ・バナナのカレンダーの仕事をやることになった。
毎朝、私は新鮮なバナナを仕入れに行く。それにスポンサーから預かった「チキータバナナ」とロゴの入った青いシールを貼り付けて鋤田さんとロンドンを歩く。
ハイドパークの昼下がり、木漏れ日の下に布を敷き、バスケットに入れてきたお茶とサンドイッチを食べている老夫婦がいた。平和で美しい老後の日々の風景だ。
私は彼らに近づき、「今、日本向けのチキータバナナのカレンダーの撮影をしています。そのおいしそうなサンドイッチの代わりに、5分間だけバナナをもっていただけますか?」と頼む。ふたりは微笑みつつ引き受けてくれた。
ポートベローの蚤の市の路上では、たくさんのひとが撮れた。
ギターを持ったミュージシャンふうの男の子達はちょっとエッチな冗談を言いながら気軽にもってくれた。
写真の、手作りの帽子を売る女の子も、こんな風にバナナを食べかけにしてもってくれた。
隣の男の子は素焼きのオカリナを吹いている。私は彼から数個買って、友達にあげたりした。自分のために残しておいたオカリナは、今でも奇跡的に、私の本箱の片隅に飾ってある。私はオカリナの穴を探って、ポートベローホテルのロビーにある大きなアンティックのオルゴールの曲を吹いたりしていた。
鋤田さんの写真はとてもステキだったのになぜかカレンダーにはならなかった。鋤田さんはフイルムをクライアントに渡してしまい、残ってないそうで、私のスナップが一枚だけ残っている。

写真(撮影・Yacco) 女の子のファッションが可愛い。

表参道の午後

2005-02-17 | Weblog
地下鉄ができて、表参道駅が青山通りに、JR原宿駅近くが明治神宮前駅となる前、表参道は何となく明治通りとの交差点あたりのことだった。自分がセントラルアパートの住民だったから、勝手にそう思っていたのかもしれないけど。この写真を見ると、若々しいのは私ばかりじゃない、欅(けやき)の木そのものも若く、しなやかで幹が細い。そして道が広くて、オシャレっぽさと、田舎っぽさが程よく混ざり合っている。
セントラルアパートのまん前、多分この風景の右あたりは焼肉レストラン「八角亭」だった。
ランチ時、私はよく「コムタン」を食べた。どんぶりのなかには、白濁したスープにご飯、よく煮込んだ骨付きの牛肉が浮かんでいる。この味覚も、原宿に来てから知った。沢田研二がじゅう、じゅうと焼肉を焼いている姿を遠めに眺め「ジュリーわ!」とひそひそ声で騒いだり、大地喜和子が色っぽくうなずきながら、連れの男性と食べているのと隣同士になったりした。「大地さんは聞き上手の女性なのね」などと感心したりして。

セントラルアパートから、明治通りを新宿方向に歩く。
誰かにおごってもらわなければ入れない「金寿司」を過ぎて、最初の信号のところに「増田屋」があり、その向かいに喫茶店「マロン」があった。竹下通りは泣きたいぐらい淋しい通りで、お年寄りの夫婦が経営する自然食品の店があった。
その手前は「ろじーな」という喫茶店で、ここのママが自らつくる薔薇の花のジャムはおいしかった。その向かいには、ここもお年寄りの夫婦が開いている喫茶店があった。タクシーの運転手さんの溜まり場で、手作りのケーキとコーヒーが、ドトールもびっくりの50円ぐらいの安さだったろうか。

静かで、淋しい竹下通りが、目を覚ます。
原宿全体の鼓動のもうひとつの核として、若者達が集まり始める。私は竹下通りの真ん中付近にできた「カウント・ダウン」というお店が好きだった。そこには、ペルーやグアテラマのカラフルな布や雑貨が溢れていた。後にこの店をやっていた後藤さんは、浜野安宏さんと結婚する。浜野さんの「地球風俗曼陀羅」というすばらしい本とこの店の品々が共鳴しあっていたのは、そんなわけだった。
この通りの、どこかの店で、若き日の大久保篤志さん(スタイリスト)はバイトをしていたことがあるという。(いつだったか、「そのころ、よくやっこさんを見かけたよ」といわれたことがある) いろんな才能がここに芽吹いていた。

写真 (撮影・染吾郎) セントラル・アパートまえで。着ている服は三宅一生さん。表参道にはまだ中央分離帯がなくて、広々としている。建物も高層のものはすくなかった。

DJしてた

2005-02-16 | Weblog
何でそういうことになったのか、思い出せないが、ある時期ラジオ東京でDJをやった。黒田征太郎さんとペアで、もちろん黒田さんがメインだったけど。それで、どのくらいの時期か忘れたが、私は赤坂のTBSに毎週通った。

黒田さんはまっすぐな方で、忘れられないエピソードがある。
あるとき、あるゲストが「世の中がどうなったってかまわない。僕はいつも自分自身のサバイバル用に冷蔵庫と冷凍庫を何台か持ち、米と粉は倉庫に積んであって、、、」と得意気に話し始めた。
そのエゴイスティックな発言は若気の至りとも言うべき、一種の気取りだったのかもしれないし、35年以上経った今となっては、その方もそんなことで生き延びられるとは思ってもいないだろう。
ところが、その発言にナマの本番中の黒田さんは激怒した。
「君、そんな自分だけ生きられればいいなんて、本気で考えているのか!世界中の子供たちのことはどう思っているんだ!」
「そんなキレイ事はナンセンス!自分で自分のこと考えるのは当たり前じゃなか!」黒田さんの顔は真っ赤になり、ゲストの顔はそれに反比例して真っ青になる。
もう台本も何もあったもんじゃない、ふたりは怒鳴りあって対決し続けた。番組はケンカ状態のまま時間がきて突然終わり、ふたりのはげしい論争はそのままずっと続いた。周囲の人たちはどうおさめるか、などと考える余裕もなく、呆然と二人を見守った。
ゲストが帰ることになり、ふたりの言葉は激しく絡みあったまま、一方がエレベーターに乗っても終わらなかった。
ゲストの罵声を残して、エレベーターのドアは閉まった。私は興奮し、感動していた。
マイクがあろうと、なかろうと、真正面から語るひとがいることに。


写真 (撮影者不明、多分東京放送のスタッフが番組用に) 専門の人が観ると、マイクとか年代物なのだろう。
服はこの時点ですでに年代物で、古着屋で見つけたボーイスカウトのユニフォームを着用している。
それと、このときの若いディレクターは「はっぴいえんど」のファンで、私に大事なレコードを貸してくれた。私はそれを返したんだったろうか。ディレクターのお名前は忘れたけど確か、神楽坂に住んでいる方だった。

70年代の100人

2005-02-11 | Weblog
スタイリストが新しい職業ということで、私を取材したいという申し込みは仕事をスタートさせた時からけっこうあった。
私がスタイリスト第一号というわけではなく、私が知る範囲では、写真家の立木さんの奥さまやマドモアゼル・ノンノンをはじめたフーチがいたが、アドセンターという組織の中では、彼女たちは会社員だったのだろう。
私が60年代の半ばごろ、渋谷税務署にスタイリストという職業で納税した時、税務署のかたから、「この職業で納税するのは、日本であなたが初めてです。これから続く人のためにしっかりがんばるように」といわれた。でも、ひとのことを考える余裕など全然なくて、ひたすら目の前のことを必死でやっていたにすぎない。

元来、スタイリストはクリエイティブなチームの一員だ。
アートディレクターや写真家が描くイメージをよりよく具体化し、俳優さんやタレントさんにより魅力的な輝きを与えるのが、広告における役目の大部分だった。
縁の下の力持ちなのだから、あんまり人目を引くような取材に応じるべきではないと思っていた。
テレコムという会社の女性ディレクターは、周期的に辛抱強く取材の申し込みを何年間もしてくれた。でも、撮影の現場にもう一台、私のためのムービーのカメラチームが入るなんて、私には考えられないことだった。
一生のうちで一回ぐらいはいいだろうと思って引き受けたのは、それから35年後、 TBSの番組の「スタイリスト列伝」というコーナーで、スポンサー、代理店、プロダクション、監督、タレントさんのOKを取らなければならなかった。意外とみんなすんなりOKしてくれた。ハウス食品の現場ではお嫁入り前の西田ひかるちゃん、トヨタの現場ではビビアン・スーちゃんが私を引き立ててくれた。(と、わき道にそれました)

69年のある日、静かな声の男性から取材の申し込みがあり、なんだかとても魅力的に感じられて、直感的にOKしてしまった。
レオンでお会いすると、初老の優しい方で、朝日新聞の疋田圭一郎さんだった。彼が新聞史に残る高名な論説委員だということを知ったのは、ずっとあとのことだ。
何度かお会いして、それは「70年代の100人」という連載記事になった。
70年代を代表して生きてゆくであろう99名のひとが各分野から取材され、100人目はあなたです、という企画でこれは新聞に掲載された後、同名の本として出版された。横尾忠則さんがいたことだけ覚えているが、横尾さんと同じ企画で掲載されたとは、名誉なことだった。
この記事以後、疋田さんとは何度かお会いして、別件の記事になったこともある。

NHKの「新日本紀行・原宿編」で私はミルクの白い服を着てちらっと写った。これは「誰も気がつかないだろうからいいかな」ぐらいの気持ちだった。
70年、ラジオでスタイリストの番組を作りたいという話が来た。
私はストレートにお断りする代わりにたくさんの条件を出してみた。
「番組のスタッフは取材に一切関与しない。すべて私が小型のテープレコーダーを持ち歩き、必要な音をとる。私は広告の仕事をしているので、指定のコマーシャルソングを2曲入れる。(一曲は、加藤和彦さんが自ら歌う資生堂の『ラブリー・ユー』)番組全体のテーマ曲として、CCR(クリーデンス・クリアウオーター・リバイバル)の『Have you ever seen the rain?』を使う」という相当生意気なものだった。
ところが、意外にもすべて受け入れられ、私は調子に乗って、勝手に番組のラフな素材を渡したが、これは超かっこよいものだった。(と、記憶する)
私はそのままロンドンへ行ってしまってオンエアを聴かなかったが、NHKではじめてコマーシャルソングが流れたということで、記者会見があったと、後に番組のディレクターから聴いた。(私はその後25年間、そのディレクターと人生をともにした)


写真 (撮影・染吾郎) レオンにて。決してオシャレとはいえない喫茶店だが、黒い壁が懐かしい。実際にはテカッと黒光りしていた。私がつけているアクセサリーはすべて夜店で買った子供用のおもちゃ。Tシャツの袖のカラフルなボタンも自分でつけたのかもしれない。

ロンドンポップ

2005-02-09 | Weblog
71年にはロンドンポップ真っ盛りのロンドンへ行った。
この年は、寛斎さんのショウの準備や開催、それに私的なことも含め、8回ぐらい往復しているので、私の中で、表参道とロンドンは自然に同化していった。
「ビバ」や「ローラ・アシュレイ」にもよく通った。
「ビバ」はイギリス伝統のホラーっぽさ、というか魔女風というか、黒い口紅や黒いネイル・エナメルなどのビバ独特の化粧品や、黒やワインカラーの服が溢れていた。(マリー・クアントの化粧品が画材のクレヨンとそっくりにつくられてかわいらしく、洋服たちはいわずと知れたミニやパンタロンなのと、対照的)
青山3丁目のベルコモンズが出来た時、ビバに似ていると思ったのは、私だけではない。現在ベルコモはリニューアルされて外観は白いパネル張りになって今風だが、建物のなかのレイアウトは嘗てのビバふうだ。
私たちはビバの中二階や二階、三階を、あがったり降りたりして買い物をしたり、洋服を眺めたりした。
ローラ・アシュレイの店の前はいつも行列が出来ていた。
小花模様の服は伝統のリバティ・プリントよりは一般的で、そのうえ値段が安かった。お客はお目当ての服をつかむと、試着室に飛び込む。それも、日本みたいに個室になっているわけではない。かなり広いスペースのなかにどっと女の子達がいて、他人の眼など気にせず、あれこれ着たり脱いだりするのだ。
私はブルー地に小花模様のマキシのスカートを愛用していた。

ブテイック「ミスター・フリーダム」のメリハリの効いた服は、まさにロンドン・ポップを代表するものだった。
この時代のエルトン・ジョンの華やかな衣装のほとんどはミスター・フリーダムだったと思う。
私に関して言えば、値段が高くて、さんざん迷って買った紫色のサテンのロングコートには、襟からまえたてにかけて、プロペラの付いた飛行機の刺繍がいくつも付いていた。それはチャーミングなコートで、今でも「アート」としてとって置けばよかったと思う。
そういうメインのギラギラコーナーばかりではなくて、原宿ミルクにありそうな可憐なポップもあった。ギンガムチェックのカラフルな組み合わせの、胸当て付きホットパンツは、何枚かもっていた。

ロンドンの服と、東京の服は同じ時代の波のなかで輝いていた。ちょっとでもお金が入ると、私は120パーセントのエナジーを使って自分のものにしていった。


写真(撮影者不明) 会食者はシルエットになっているが、壁のホットドッグの絵がまさしくロンドンポップしているので、これを選んだ。右の席の奥は寛斎さん、その隣が私、左(寛斎さんの前)は、ミスター・フリーダムのオーナー(デザイナー)。この頃は、寛斎さんは、ロンドンのファッション界の人たちと食事をする機会が多かった。マリー・クアント夫妻との食事にも同席させてもらった。

原宿騎士団

2005-02-08 | Weblog
私が住んでいた静雲アパートから100メートルと離れていない遊歩道に、若者達が集団で暮すコンミューンめいた建物があった。ここは現在の「Another Edition」(ユナィテッド・アローズ)の近くで、今でもどういうわけか、ヨシズのようなもので囲われて無人のまま残存している。
そこには、カメラマン、コピーライター、デザイナーの卵などフリーランスの若者がいっしょに暮していて、松山猛(たけし)さんもそのひとりだった。松山さんはお料理が上手で、私の部屋に「晩御飯のオカズに、、」と一皿届けてくれたこともあった。
みんなで食べる晩御飯に呼ばれていったことも一度や二度のことではない。

猛くん(と、当時と同じに呼ばせていただく)はフォーク・クルセーダーズの「帰っ てきたヨッパライ」や、「イムジン河」の作詞をしていた。(アグネス・チャンの「妖精の詩」も) 映画「パッチギ!」で話題の「イムジン河」も、当時は放送禁止だった。
ここにはいろんな若者が居候をしたり、出たり入ったりしていたが、京都からのミュージシャンも多かった。村八分のメンバーなどのこ とは、以前書いたとおりだ。

その頃、「装苑」とならんで秋川リサがよく表紙に登場した「服装」というファッション誌があった。
その編集長が二川昭子さんだったとき、彼女が「何か書いてみない?」といってくれた。すでにいろいろ書いていた猛くんと「レオン」のちょっと離れた席で、締め切りの原稿を書きあったりした。
「僕、もう出来たよ」「うわっ、はやーい」などと言って、まるで学校の宿題をやるみたいだった。この「服装」という雑誌はまもなく廃刊になったが、そこに載った私のつたない文章をみて、本にしてくれたのが、「大和書房」の大石さんという青年編集者だ。恥ずかしながら本のタイトルは「表参道のアリスより」で、写真は染吾郎さんが撮ってくれた。
二川昭子さんはその後「流行通信」の編集長をして、「流通」を活気づけたが、現在はサンフランシスコで自然食のレストランをしていると聞いている。

話をコンミューンにもどすと、私は彼らにとてもお世話になった。私は、青春の残酷さ、というかバカ正直さ、といいなおそうか、ある人を単刀直入な方法で裏切ってしまった。(何十年か後には、私がシコタマやられたからおあいこです)
そのバチが当たって、私は高熱をだした。私は彼らの部屋(コンミューン)で面倒をみてもらった。コピーライターのおえいちゃん(女性)は、深夜「ユアーズ」にアイスクリームや氷を買いに走ってくれた。男性陣は「原宿騎士団」なるものを結成して (ジョークもあったけど)私を護ってくれた。 3日ぐらい、高熱にうなされて、熱が38度台に下がった時、ユアーズのアイスクリームがすごくおいしく感じられた。と、同時に「生き返った!」という想いがあふれて、「そうだ、逃げる人生はよくない!」と心底思った。私は彼に会いに行き、もう一回、話をした。それがどうだったのかは今となってはわからないが、その当時は自分の気持ちにウソはないと思うだけで精いっぱいだった。

写真(撮影・染吾郎) 松山猛さんと。コンミューンの隣の建物前で。私がジーンズにつけているのは子供用サスペンダー。小さなスパンコールを自分でつけて、デヴィッド・ボウイにほめられたもの。Tシャツは男性誌「GORO」創刊の特集ページのために、約一ヶ月、西インド諸島をロケしたとき、プエルト・リコのお土産屋で買った。PUERTO RICOと読める。