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日本のスタイリストの草分け的存在。現在も、広告、CMなど第一線で活躍中。71年、ロンドンで山本寛斎氏とファッションショーを成功させ、その後、「ジギー・スターダスト」期のデヴィッド・ボウイの衣装を担当。鋤田正義氏によるデヴィッド・ボウイやT・レックスの撮影をアレンジしたことでも知られる。エッセイ『家族の回転扉』(『小さな小さなあなたを産んで』読売新聞社所収)で第19回読売「ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞を受賞。
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2004年12月
2004年11月
2004年10月
3月24日 ローリング・ストーンズのファッションチェック
3月19日 ことの始まり
3月6日 読売新聞「本よみうり堂」著者来店に
2月12日 フラワートラベリングバンド
2月11日 表参道ヒルズ
1月22日 「表参道のヤッコさん」
1月11日 ホームレス
12月12日 原宿表参道エコ・パーティ、そして、、、
12月18日 雪の名古屋へ
12月16日 Pretty Things
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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」
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28日
午前1時に寝て、2時に起きる。
長年、撮影の前日とロケ出発前は、遠足前の小学生のように眠れない。本番当日は決まって寝不足だけど、現場の高揚感で長い一日を乗り切るのだ。
4時半、おなじみの女性ドライバー、上野さんのワゴンタクシーで現場に向かう。(荷物が多いので常にワゴンなのです)早朝ながらまだ真っ暗、高速道路の上に満月がある。前夜から泊り込みのアシスタントの悠子ちゃんは目を閉じ、私は上野さんと地震やイラクで捉えられた青年のはなしをする。

静かな住宅街に近いあるお店のまえで、人通りが少ないうちに撮影がはじまる。ロケでお天気が良い日はみんなの顔がほころぶ。ここのところ天候不順が続いたので、ことのほかうれしい。真っ青な空、理想的な光が出演者に降りそそぐ。
この近所に黒澤明監督の片腕だった野上照代さんが住んでいて出演者の女優さんと親しいので、現場に現れた。野上さんは黒澤監督のほとんどの作品のスクリプターをつとめ、後半はプロデューサーとしても腕をふるった人。監督亡き後も世界中、日本中の映画の催しに出席したり、各国の若い監督の面倒を見たり、と忙しい日々を送っている。もう80歳をとっくに越していらっしゃるとおもう。
明るい若草色の車が何度も現場付近を通過した。なかに白髪の女性をみとめて私はそのたびに手を振った。あとできいたら、住宅地でなかなか車を留める場所がみつからなかったらしい。
「きれいな色の車ね」といったら
「そーお、私、嫌いなのよ。でも、5万円で買ったんで贅沢いえないの」とのことだった。
いつまでたっても撮影現場は楽しいといって、小さなカメラを向けていた。

午後、スタジオのセットに移って撮影が続き、8時半ごろ終了。迎えに来てもらった上野さんのワゴンタクシーで帰る。9時過ぎ、空にはまん丸の月が私たちを見守っていた。

29日
今日も快晴。昨日女優さんに降りそそいだ光は、庭に干した布団と洗濯物に。送られてきたファックスなどをチェックして、午後はリースした衣装や小道具を返却に行く悠子ちゃんと近所に昼ごはんを食べに出る。
鳩森神社に寄ってお賽銭を入れて何となく拝む。境内は一休みしているサラリーマン、鳩森幼稚園帰りの園児、日向ぼっこの老人などがちらほら。
樹齢百年以上であろう大木、能舞台などがあるこの神社には宮澤賢治が滞在していたこともあると聞いている。こうして、私は時たま地元の氏神さまにおまいりする。昼ごはんは「ジャマイカうどん」で、私はトムヤンヌードル、悠子ちゃんはサケのちゃんちゃん焼き定食を食べた。(こういうの無国籍料理というのかも)「ジャマイカうどん」は最近潰れた喫茶店「白馬」の上にあり、若いお客(近所のアパレルで働く男女だと思う)で賑わっている。昔、村上春樹さんがバー「ピーター・キャット」をやってらした、そのあとにある店。バーだった頃はまた別な、いい雰囲気だったことだろうが、その頃の私は全然夜遊びをしなかった。今とは別の時間が流れていたのだ。

夕方からはカフェとらばーゆで「番台セミナー」。今日はヘアメイクアップアーティストの藤原美智子さん。
ここに登場するゲストは各界で活躍中の超多忙な方々ばかり。一時間半の時間の中で、オーデアンスが聞きたいことを敏感に察知して、みんなそれぞれ惜しみなく話してくれる。
藤原さんも貴重な経験談をいっぱいしてくれたけど、私にとって心に残ったのはつぎの言葉。
「人生はらせん階段。毎日休まずに一段一段上ってゆくと、あるところに踊り場が現れる。そこで脚光を浴びたり、楽しんだり、休んだりするけど、それが終わりじゃない。またそこから階段を一段づつのぼって行かなくてはならない」
きっとこれは、日々仕事をし、脚光を浴び、努力をしつづけている藤原さんの実感なのだろう。
よっしゃ、私もこつこつがんばって、あと3、4回は踊り場で踊りましょう。無限のらせん階段をのぼりながら、無限の踊り場をめざしましょう。そう決心しました。
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平均年齢が72歳という南の島の長寿バンド「白百合クラブ」のライブが、原宿ラフォーレで開催された。58年前(終戦の翌年)、沖縄県の石垣島に住む当時の若者が結成したバンドで、ずっと活動を続けてきたという。結成当時は物も娯楽もない時代、ひょうたんでつくったマンドリンや、戦闘機のワイヤーを弦にしたバイオリンなどの手作り楽器、パラシュートの生地でつくったスカート(これ、ずっと後だけど、ある時代、ファッションとしても確かに存在しました)や、タバコの銀紙のリボンで、歌い、踊り、敗戦でうちひしがれた人たちを楽しませていたという。むかし青年だった彼らも、いまやオジイ、オバアとなり、癒し系ハイカラ楽団として東京に緊急上陸した。キャッチフレーズは「冥土の土産の東京ライブ」このライブは、普段コマーシャル・フイルムの制作をしているプロダクションが企画したもの。私も15枚ばかりチケットを引き受けた。強制的友情であちこちチケットを押し付けようと思ったのに、不思議なことに、予定をちょっと超えて18枚完売した。それでも、私も含めてみんながどのくらいのレベルで楽しめるものなのだろうか、それがうっすらと心配だった。
結果は、とても楽しい、忘れがたいとさえいえるものとなった。

ラフォーレの会場は、赤提灯が並び、桟敷席と椅子の席があって、NHKの地方での公開生放送とか、島の公会堂を彷彿とさせていた。これはなかよしの若手美術のKさんによるもの。(彼女はCMの仕事でも、いつも奇妙なアイデアをポンポンと出す)ライブが始まったとたん、手拍子がはじまった。娯楽の原点というか、ライブの原点がぎゅっとつまっていて、えっ、ここまで楽しいの?と思う。オジイたちは白髪で何となくナチュラルなんだけど、オバアは全員髪を真っ黒に染め、眉毛も真っ黒、顔のファンデーションは真っ白で、なかにはフリーダ・カーロにせまる感じのオバアもいた。(女の人って、私も含めてだけど、70歳でも、80歳でも、若さの原点に無意識に固執するものなのね)ライブが終わって、出口ではオジイ・オバアがサイン攻めに会っていた。沖縄の撮影から帰ったばかりの映画監督の本橋成一さんと先に楽屋を訪ねておいて正解だった。このライブのナビゲーターをした中江裕司監督も「皆さん、メンバーはつぎの回が控えてます。私はいつでも大丈夫なのでまずはメンバーに!」と叫んでいる。写真家の広川泰士さんも「あー、よかったなー、感動したよ」とサインの列に並んだけど、あまりのすごさにあきらめたみたい。私は82歳の母と親友の紫織さんといっしょだった。母は会場で頂いたサービスのサッポロ生搾りと私が休憩時間に近所の八竹でかってきた茶巾寿司をお土産に「楽しかったよ」と上機嫌で原宿の駅から帰っていった。

夜の回はみんな涙ぐんだり、笑ったり、踊ったりと、さらに盛り上がったという。チケットを3枚買ってくれた友人からメールが来た。それをここに。

「感動しちゃいました。
最初の何曲めかの時、はずかしながら涙が出てきちゃって、いっしょに来た友達に気づかれないようにこらえるのが大変でした。けっしてうまくない、宴会芸の延長にあるような陽気なじいさんばあさんの音楽に、なぜこうも心を動かされるのか・・。
人の魂を揺さぶる歌とか音楽とか、もっと言えば文化ってなんだろうって、あとで考えちゃいました。
白百合クラブの音楽は、どんな状況でも、救ってくれる音楽や歌の根源的なパワーをもっているように感じました。
というか、
こんなグダグダ言ってもしょうがないくらい、あのじいさん、ばあさんたち、最高だぜ!」

PS
一日おいた25日、「五代目 柳家小さん生誕90年落語会」に行った。小三治の「うどん屋」では無形文化財を眺めているような、まあなんともいえない時間を味わった。白百合クラブも小三治も、ライブだからこそ、というところが魅力なのだ。仕事のほうもここのところはそうヒマじゃないのに、夜のライブ三昧がたたってか、私はバテ気味。
ところがもっと上手がいて、わが友紫織さんは白百合クラブと落語の間にサントリーホールの「ヨーヨーマとギドンフレーメル」のコンサートに行っていたのだそうだ。落語のチケットを手配してくれたもうひとりの女友達、シンコちゃんと別れたあと、うどん屋がみつからないので、ふたりでラーメンをすすっていた時、彼女の3連チャンが判明。それにしても、原始的な音楽と最高の洗練の音楽という振幅はすごい。

PPSS
23日の昼のライブが終わったのが5時半すぎ。そのあと、会場がグラリと揺れた。そのあと何度も波状に揺れがきた。
それでも、こんなに平和に暮らしている。なんでもない日常がなんとありがたいこと。とりあえず義援金を送った。
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スタイリストを始めたころから好きでたまらなかったのは、生活雑器類で、デパートを回るときは、まず服を見て、そのあと食器売り場を回るのは、お楽しみのひとつだった。
和食器は、服ほどではないけれど、季節ごとに微妙に変わる。売り場には、長年そこにいて和食器を愛し、とても詳しい年配の店員さんとかがいて、いろいろ教えてくれたものだ。(この頃はどうかしら)
あるときは背伸びをして、京都のてっさい堂で古伊万里を買ったりしたこともある。息子が兎年なので、兎の柄のものを頼んで、ほどよく揃った頃京都まで出かけたりした。
職業柄、物がいつのまにか集まることが多いが、私は、コレクターではない。系統立てて好きなものをきちんと集めるようなことはしたことがなくて、そのときの気分と財力次第。
海外ロケでは、ニュージーランドやオーストラリアで、イギリス製のアンティークの食器を安く手にいれるのがこれまたお楽しみだった。
だが、今の暮らしの中では、食器は集めるよりも、好きなものを大事に使って行くことの方が大事という段階だ。
私の友人が時々「金繕い」の教室を開く。これは、割れたり、角が欠けたりした食器を、金と漆で繕う(つくろう)もの。おおざっぱに言うと、欠けたところにパテをつめ、ヤスリで磨く。そこに金粉を漆(うるし)で溶いて塗ってゆく。
細かい仕事なので、一点に集中するのが心地よい。

金繕いをするのは高級な食器とは限らない。
70年代にロスの「ヘブン」という店で1ドル99セントで買ったマグ。子供用のバニキンズのお皿。ウサギの一家が記念写真を撮っている絵柄。写真やさんは黒い布を被り、そこからのぞいている三脚は、懐かしい木製。1954年、バーバラ バーノンと署名入りだ。長い間何気なく使われてきた食器たちが、天国行き寸前に、繋ぎ合わされ、金色の模様入りとなって、命を吹き返す。
教室での作業にはそれぞれの性格がモロ発揮される。
パテ(昔はご飯粒だったそうだが)をつけて、丁寧にヤスリで磨き、他の面と違和感がないように専念する人。彼女はそのことに終始して、パテを何度も付け直して、次の作業は、次回に。
私は注ぎ口をなくした土瓶の口をあっという間にパテで複製する。そのうえ、B型の美意識を炸裂させ、茶色の土瓶に金色のドットをやたらとつける。村の庄屋さまみたいだった土瓶を、キンキラのお殿さまにして悦にいる。
ロイヤルコペンハーゲンとおぼしきカモメが立体的についている小皿。ポキッと取れてしまったくちばしは金色のワンポイントに。
いい訳をすれば、長いレンジでは私はコツコツと努力型です。だけど目の前の作業には、とんでもなくせっかちで、はやく、はやくと気がせいてしまうのだ。その上、先生が教えてくれたことと反対なことをしてみたいという、子供の頃の性癖まで、むくむくとでてきてしまって、良い生徒でいることがむずかしい。
金繕いには、日常の家事に似た作業と、クリエイティブな作業がほどよく混じっている。頭を空っぽにして、無心にできる楽しい時間をつくってくれる。そろそろ、欠けた食器がたまってきている。お正月までには金の衣装を着せてあげよう。
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ちょっとまえ、「こんな夜更けにバナナかよ」(北海道新聞社)という本を買い、熱心に読んだ。それから少しして芥川賞の「介護入門」を買い、これもきちんと読んだ。
夜更けにバナナは、筋ジストロフィーの患者とそのボランティアたちの日々を克明に記録したもので、講談社ノンフィクション賞受賞。タイトルの由来は筋ジスの鹿野さんが、真夜中に介助者を起こしバナナをむいてもらい、食べさせてもらう。そのうえ、「もう一本」とねだったとき、介助者が心に中でつぶやいた言葉からきている。鹿野さんは介助されることに引け目や卑屈さを見せず、堂々と注文し、文句をいい、自分の存在をきっちりみせて生き抜いたうえで、人生の幕を引いたひとなのだ。
「介護入門」はモブ・ノリオ氏の作品で、マリファナ吸いながら祖母を介護する若者の話。今、本屋さんに平積みされている。
落合恵子さんや安藤和津さんも介護の本を出しているし、私の周りにも、親を介護している人が増えている。和津さんは、ある集まりで「遂に私も介護の日々よ」といい、私は「ど真ん中にいるときは夢中だけど、ある日、すっと明けるのよ」といった覚えがある。

私は30代から、断続的に親族たちの看病をしてきた。父を3年間看てからもう9年経つ。偶然の一致か、神がくれた試練か、時を同じくして家庭も崩壊し、私はひとりになった。そんなわけで、介護に関する本があると、思わず読んでしまう。そして、そのたびに私の胸に生々しく去来するものがある。
かくいう私も、「家族の回転扉」という介護に関するものを7年前ぐらいに書いた。これは賞を頂いたが、かさんだ借金の返済のために、賞金の一千万円を狙ったということも大いにあった。最初にメチャクチャ書いて、やっと250枚に縮めて、100枚以内という規定にあわせて、最終的に92枚にした。あの忙しい中で、よくも書いたと思うが、まだダンボールいっぱいぐらいの記録が残っている。(もう一度書くことはないだろうが、まだ捨てられないのだ)
在宅介護と家庭崩壊を一気に経験したときの経済的破綻、精神的なダメージはいまだに私の生活に痕跡を残している。

父が脳梗塞、心筋梗塞で倒れた時、医師が「数時間以内に死亡する」と、ベッドに横臥している父の前で言った。私はその言葉は父に聞こえていると信じて怒った。私は、父に夜中になんどか話しかけた。「いままで、茨城と東京に離れて暮らしてたけど、いっしょに暮らそう。寝たきりでも、何でもかまわない、千駄ヶ谷の家でいっしょに暮らして『お互いに、もうこの辺でいいね』と思ったときまで、楽しく暮らそう」と。翌朝、父はまだ生きていて、私には父が生きようと決心してくれたように感じた。それから父は3年生きた。
父が逝ったとき、私は笑っていた。
よくやったね、じゅうぶんがんばったからこれでいいね、という了解がお互いにあったと思う。不思議だけど、葬式の最中もにこにこしていて、この笑いを抑えることが出来なかった。
だが、最近は、父にとってあの3年は何だったんだろう、と思うことがある。遮二無二がんばる娘につられて、それまでの誇り高い生活を断念して人に頼りきって生きた3年間。やっと200歩あるけるようになったり、おはよう、ありがとう、と言えるようになって、その時、介護者としての私には大きな喜びだった。その結果、父には不自由な3年間に、家庭崩壊まで目撃させてしまった。他者に対しての、私の一生懸命さの押し付けだったのではないだろうか。
「おじいちゃんの生涯の最後の日にいっしょにいられて良かったと思う」といった孫の言葉だけは救いだったかも、と思う。
そんな風に、月日が経つと、今まで気づかなかった自己の押し付けがましい生き方にまで、思いが及ぶ。

現在私はじゅうぶんすぎるぐらいの時間の中でたゆたうことができる。仕事をしながら、たくさんの時間を、観たり、聞いたり、人にあったりして過ごしている。これが今の私に与えられた時間なのだ。
今日は日曜日で、空は晴れ、風が冷たい。家のまえの道を落ち葉がカラカラと音を立てて風に運ばれている。これから、生地屋さんに行って、そのあとデパートでものを物色しなければならない。
千駄ヶ谷の駅までは自分の息使いやスニーカーの音がよく聞こえる。電車に乗るとその静けさがすっとんで、今日も都会の喧騒に巻き込まれることだろう。
ひとりの私は、いっぱいの人に囲まれて、今日も生きている。
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台風が去った日曜日の朝、「週間ブックレビュー」が、写真家・横木安良夫さんの「ロバート・キャパ最後の日」を今週の一冊にあげている。
古い借家であるわが家は、ベランダとの境目にあるガラス戸の雨漏りがまだ止まらない。大家さんからいただいた「金つば」でお抹茶を飲み、ほっこりと身体を温めた私が今ここにいる。

明け方、夢を見た。
海外ロケが終わって、無事帰りのバスに乗り込んだ。途中の街で休息をして、空港に向けて、また出発する。そのとき、私は不思議な若い女の子と話をしていて、バスに乗り遅れた。ひとりになった私は、パスポートも、財布も無い。私は一体何処の国のなんていう街で、仕事をしていたのだろう。みんなは何処に出発してしまったのだろう。
女の子は私に自分の作品に一万円払えと言っている。「高いなー」と思ったのは、その国が物価の安い、途上国なのかもしれない。
それよりここはどこなの?
これから私はどうしたらいい?
深い不安感のなかで、私は目覚めた。
こんな意味深の夢も、こうして書かなければすぐに消えてしまうものだけど、現在の私の何かを象徴しているんだろうな。

11日
5時ちょっと前、愛犬ココの散歩をして、台所に立つ。
この秋2度目のスープは、ほんの少しだけ材料も、味付けも複雑になり、私はスープ感を取り戻しつつある。それと、玉葱、人参、茸、ベーコンを細かく刻んで味付けした具がはいっている昔っぽいオムレツ。
新豆を買うまえに処分しなければ、と去年の花豆も煮る。
朝7時、大家さんの寝室のカーテンが開くのを見て、(大家さんは81歳)、まずそれを届け、自家用を残してそれぞれ保存容器に移し紙袋にいれる。
ココが2度目の眠りに入ったのを見届けて、電車に乗る。千駄ヶ谷から大塚へ。7時台の電車だけど、さすが新宿はもう人が出ている。大塚の母のマンションまで徒歩もふくめて片道40分。スープがさめる距離だけど、まだ暖かい。母も同じく81歳、とても元気で、介護のために訪れるのではなく、ちょっとしたコミュニケーションのためなのは、幸いだ。
往復の電車の中でF.O.B COOP 、益永みつ枝さんの「VIVA!LIVE!よくぞ女に生まれけり」(新潮社)を読みふける。

昨日は午後から夜にかけて、親しい友達の引越し祝いに出かけた。友人4人で、お料理上手の主の接待に酔いつつ、賑やかに楽しく過ごした。
今日は、午後から昔のアシスタントのイラスト展にいくのと、カフェで久しぶりに星占いをしてもらう予定がある。

午後の青山は、東京デザイナーズブロック最終日でごった返していた。私が欲しかった「風とロック」のTシャツは、紀伊国屋跡地でも、スパイラルでも売り切れ。イデーで、やっとレディスを手に入れた。(若くて細い女の子がメンズを着るのはかわいい。おばさんが着ると、単にダサい張り切りオバサンになってしまうから)
星占いはエキサイティングで、自分の人生のイマジネーションが広がって超おもしろい。今は30年ぶりの修行の時。新しもの好きで、徹底的に掘り下げるハードな性格がモロになりそう。それなら掘ったら、掘ったもん勝ち!と思って修行せよ、とのこと。
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毎年秋に催されるこの催しを私の言葉で説明するのが難しいので、フライヤーに頼ります。
「2000年にはじまったデザインイベント。東京のストリートを舞台に、家具、プロダクト、ファッション、音楽、映画にわたり作品を発表する。今年のキーワードは1968年革命の年。36年前と2004年の重なりと違いを感じて欲しい」
68年、私は20代後半で、確かに生きてゆくうえでの価値観がひっくり返った革命的な年だった。(そのハナシは相当長くなるのでやめるけど)
ずばり、そう生きてしまった私は、逆にあんまり意味深にとらえないで、デザインのお祭りとして楽しんでいる。

6日夜は六本木アマンドの脇の芋洗い坂を降りていったところにある一見、スクラップ寸前のビルでの前夜祭に、ジャーナリスト(新聞記者、ライター)の女友達と訪れた。
7階建のこのビルは、来春にはかっこいいロフトアパートに生まれ変わるのだそうだ。
そのリノベーションが進行する中でデザイナー達が無邪気に暴れているのを観るのは楽しい。特にアジールデザインのフロアは、混沌と作業が進行中で、「いつ頃カタチになりそう?」と聞いたら、「最終日かな」とのこと。
この催しの首謀者の一人、イデーの黒崎さんにもばったりお会いした。
3回ほど1階から7階まで上下してから、女3人で、香妃苑でとりそばを食べた。

7日、青山紀伊国屋跡地にはニョキニョキとさまざまな仮設展示場が出現し、隅っこのカフェとらばーゆは、ますますこじんまりとみえた。
久しぶりにカフェでさすらいのPA・ヤッチャンと待ち合わせ、某ミュージシャンの東南アジアツアーにPA(音響)として参加していた話を聞く。
そのあと、お隣のTDBの会場をひとつひとつ観て歩く。「あ、今日は浜野安宏さんの講演があるな、と思ったけど、私は東中野のポレポレ座で「アレクセイと泉」の監督トークショウにゲストで呼ばれているので聞けなかった。(「アレクセイと泉」のトークショウは40人ぐらいのお客さんで、私は不思議とリラックスしてしゃべれた。自分のことをしゃべるのと、良い映画のお手伝いとしてしゃべるのでは違うんですね)

これから撮影のCMの打ち合わせや、カフェでの栗原はるみさんのトーク(番台セミナー。彼女のお話、ステキでした)などで、飛び回っているうちに、台風到来。
8日の夜、TDBの会場の前を通ると、強い雨の中、インディアンのテント(ティピ)を片付けたりしてて、大変そうだった。天気は時には無常なもの。あの数日前の抜けるような秋の空は何処へ行っちゃったのか。
台風が早く去って、にぎわって欲しいと思う。

東京デザイナーズブロック
2004年10月7日ー11日
主要会場 国連大学・スパイラル・紀伊国屋跡地・池尻中学校跡地
URL http://www.tokyodesignersblock.com/2004/

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思いっきり秋になったら、とたんにスープが欲しくなった。
鶏がらスープを水で薄めて、キャベツ、玉葱、人参をザクザクと大きめに切って放り込んだあと、しばらく煮る。最後に、ソーセージを入れて、黒胡椒と塩をふっておしまい。(ダシはまろやかな野菜で。ソーセージは最後に入れて、ソーセージのうまみが抜けないようにネ)
このスープを大家さんに届けたら、特別栽培の舞茸をもらった。
アゴ(飛び魚)でダシをとって、そこに新鮮な舞茸と日付が過ぎてしまった生湯葉をいれてお味噌汁。舞茸の歯ごたえが抜群で、おいしくておいしくて2杯でやめるのが大変だった。
これからは茸の季節。春先まで、茸のスープは欠かせない。
スーパーで、何種類かの茸を買って、バサッと入れてつくる。2週間に一回来てくれる整体の先生も、これからはうちのきのこ蕎麦(うどん)がお目当てだとおっしゃる。

今朝、燃えないゴミを捨てに行ったら、ご近所が金木犀の匂いがいっぱいだった。大家さんのクラークさんの庭にも大きな金木犀があって、ここ2、3日が満開みたい。
久しぶりの快晴。きょうは金木犀の朝。
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リクルート社の雑誌「とらばーゆ」がリニューアルするにあたって、「とらばー湯」にひっかけたコマーシャルが流れている。(森光子さんが番台にいるやつです)
この一連のキャンペーンのひとつとして、青山通り、紀伊国屋があったところで、期間限定のカフェ・とらばーゆがオープンしている。私は6月ぐらいから、このプロジェクトに参加させてもらっているが、これが、とてもエクサイティングな日々なのだ。
仕事カフェと銘打ったこの店は、暖簾がたなびき、オレンジ色の煙突もあるプレハブで、店内は脱衣所、洗い場、湯船に見立てたコーナーがあり、正面には都内に残存する3人の絵師のひとりが描いた富士山の絵もある。
9月の始めにオープンし、11月の20までの命だけど、連日にぎわっている。
150円のコーヒー牛乳、フルーツ牛乳から、有名店の日替わりのオリジナルランチボックスやスイーツもあるし、超人気なのが、ヘアメイクお直しつき履歴書用写真撮影。
イベントもほぼ毎日で、注目企業の採用説明会や、適職発見グループワークから、番台セミナー、映画会、トークショウ、、と目白押し。
ところが、間断なく行われている行事には、突如ぽっかりと穴があきそうになることがある。
「私はそんな時のスタンバイ要員ね」などといっていたら、事態はさっそくやってきた。スタイリストになりたいひとのためのセミナーということで、若いカリスマ・スタイリストの伊賀大介さんと連絡が取れ、急遽ふたりのトークショー。
若い彼にあこがれている予備軍がいっぱいいる文化服装へ、半日しか貼れないポスターとフライヤーを持ってゆき、文化の先生にお願いした。その成果があってか、若い男の子、女の子たちがカフェにあふれた。
伊賀さんのことは、その昔、スタイリストの熊谷隆志さんと私がお互い自宅兼事務所がお隣同士だったとき、なんとなく知っていた。彼が熊谷さんのアシスタントだった時代で、挨拶ぐらいしかしたことはない。フリーになってからはめきめき良い仕事をしていて、注目の若手男性スタイリストだ。
前夜、打ち合わせを兼ねて、自然食クーでいっしょに食べた。お互い確認したことは、仕事に関するスタンスだった。
何処にも属さず、微妙な隙間を見つけて自分を存在させる。天職はスタイリストだけど、あまりやることを決めないで、いろんなことを試す、など。 
伊賀さんは、27歳で、若い。この夜、自然体の伊賀さんをみて、いつか彼のように、、、と再確認した若者たちがたくさんいたことだろう。

私は、自分で自分の成果を語る「自分にとっての不毛さ」というか、「ゴメンネ、ゴメンネ、こんなエラソーなこと言っちゃってさ」みたいな気恥ずかしさと戦うのってけっこう大変だった。(この意識過剰さが、ますます恥ずかしい、伊賀さんは、もうとっくにケロッとしてるんだろうな)
このセミナーでさまざまなゲストの話を聞いて、「得したー」と思ったり、インスパイアーされている私が、いざ自分の番に、気恥ずかしい、などと言えたもんじゃないのはわかってる。
今日になっても、一向に疲れがとれないので、心身のスクリーンをリセットするために、表参道のエアー・プレスで高酸素のカプセルに入って、細胞に酸素をじゃんじゃん送り込んだ。
その帰り、カフェに立ち寄ったら、バイトの店員さんに
「昨日、やっこさんが仕事が長続きする理由をしゃべった時、僕、鳥肌がたちました」といわれた。私は実際、なにをしゃべったのかよく思い出せないが「じゃ、よかったんだ」と思うことにした。

カフェとらばーゆは入り口がふたつ。中は混浴です。とシャレのつもりでメールしたら、真面目に「混浴って、本当ですか?」と聞いてきた友人がいる。あくまでも、カフェなので、そこのところ心配はいりません。

仕事カフェとらばーゆ
東京都港区北青山3-11-7
東京メトロ銀座線・千代田線表参道駅B2出口より徒歩一分。青山通り沿い
Phone 03-3406-1791
月~木  11-12  
金    11-25
土、日、祝 11-25

<付>
1日、坂田栄一郎さんの写真展の話に、リチャード・アベドンのことを書き添えら、これをよんだかたから、同じ1日アベドンが亡くなったことを知らされた。
夕刊の記事を見ながら、感慨にふけった。
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ゆうべ、12時ごろ帰宅する時、空を見上げたら、中空にぽっかり丸い月が浮かんでいた。
けさ、6時に目覚めたが、空はかっちり晴れ渡っている。
9月から10月への境界線を、とりあえずぴょんと飛び越したのだ。
朝の気分をたっぷり味わいたいから、余計なことをしないように、
と自分に言い聞かせるのだが、例によって、隣の大家さんの広い庭に
布団を抱えて乾しに行く。
シーツも、枕カバーも、そこら辺にあるもの、みんな洗濯せずには
いられない。台所のスポンジや三角コーナーもベランダに乾す。
玄関を掃き、水を撒き、燃えるゴミを出して、東京都体育館へ出かける。
すでに高い位置に上ってしまった極上の太陽に手をあわせ、ロッキーが生玉子をゴクゴクと飲み込んだように、口を開けて飲み込む。
太陽はのど仏か胸のあたりにおさまった様子。

体育館の広場では、女子高校生の群れがボンボンや扇子をつかって、
応援の練習をくりかえしている。今日は何か試合があるらしい。
ぐるっとまわって商店街に入る。
昔からあってよく通った古典的な喫茶店「白馬」が潰れ、その向かい側にドトールが誕生。開店祝いの花が飾ってある。
いずれドトールに入ることになるだろうけど、すでに店内が真っ暗で廃墟化している白馬を見ながらコーヒーを飲むのもなー、と思い多少離れたところにある「モスバーガー」へ。
まだ、今日が始まったばかり。

千駄ヶ谷は私にとって、生きてゆくのに、ちょうどいい場所だ。
ここに仕事場と住居を併せ持つ私には、都会と田舎が混在している
千駄ヶ谷をベストな場所と思っている。 

PS ホンマタカシさん、本日は「きわめてよいふうけい」というタイトルを借用いたしました。許して。
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9月のはじめから東京都写真美術館で開かれている
坂田栄一郎さんの写真展にやっと行くことが出来た。
6日の特別鑑賞会のお誘いに伺えなくて、その後2度ほど
他のことで恵比寿に行ったけど、ついでに立ち寄っちゃいけない、
という気がしてやめていた。

その私の予感は当たっていた。
人と自然を対峙させた作品群はすばらしくて、静かな午後に、
広いスペースの中に浮かぶひとつひとつの宇宙に対面していたら、
予期しなかった涙がじわじわと滲み出た。
モンゴルの茶色い草原に咲く小さな花を見つめていた時だったろうか、
「高橋靖子さんいますか?」という低い声が聞こえてきた。
振り向くと入り口近くに黒いスリムな人影がみえた。
坂田さんだ。お互い近づいて手を握り合った。
私が入り口で渡した招待状をみて、声をかけてくれたらしい。
彼が静かに作品について語り始めると、自然と周りに人が集まった。
はじめはじっと確かめていた男性が
「坂田さんですね。私はテレビの日曜美術館を観て、ここにきたものです。写真館を営業しています」といった。
写真展は後半に入ったせいか、仕事仲間(業界)の人はいなくて
一般のお客が多かった。
坂田さんが会場から消えたあと、中年の女性が
「今日は思いがけず、ご本人からいいお話が聞けました」と私にささやいた。

彼の年表を見ていたら、1970年フリーランスとして独立、とあった。
68年のことだったと思うが、私はスタイリスト修行でニューヨークに滞在していた。
その頃、坂田さんはニューヨークでアベドンのアシスタントをしていた。
現地のスタイリストにつれられて、アベドンのスタジオに行った時、
はじめて坂田さんに会ったのだった。(もちろん、アベドンにも)
坂田さんはその頃もスリムで、黒いタートルネックのセーターを着ていた。
スタジオの一角にあった大きな白木のテーブルには、スタッフ用に
サンドイッチや果物などが豊かに置かれていた。
そのテーブルに寄りかかりながら「もう少ししたら、日本に帰ろうと思う」と彼は言った。
アベドンが手招きをしてくれて、夥しい数のモノクロのポートレイトをみせてくれた。それは無造作に床に広げられていた。
「こんど、メトロポリタン・ミュージアムで展覧会をやるんだよ」などと説明してくれた。アベドンは見学者を決してスタジオに入れないと聞いていたので、何と言う幸運だろう、と思ったことを覚えている。

エディー・プー(ハワイの自然保護活動家)のすばらしい顔、
それと並んでいた写真は打ち寄せられた波によって、
砂浜に一瞬だけ出来た水たまり。
その水の輝きに映っている雲の群れ。
一分後には消えたという美しい世界を、今、頂いた図録で
もう一度見直している。

「PIECING THE SKY 天を射る」 10月11日まで 
東京都写真美術館 2F
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