高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

9月26日 70年代の本

2005-09-29 | 千駄ヶ谷日記
 今朝、ココの受け渡しのために現れた坂上みきさんが、まーなんといったらいいか、70年代のロック歌手、あるいはロック歌手の恋人みたいなスタイルで現れた。
 おへそスレスレの白いTシャツ、ジーンズにブーツ、大きなバックルのついたベルト、フェイクの毛皮の黄色いベスト、、、「昔の、キース・エマーソンの奥さんみたいだよー」といって、FM東京に向かう彼女を送り出したあと、写真を取り出して確認したんですけど、雰囲気は合ってました。

  ここのところの70年代の流れが、こんなふうなところにも、と確認しつつ、お知らせです。
 ブログに書いていた70年代の部分をピックアップした本が出版されることになりました。オマケも必要かな、ということで、30個ぐらいは新しいお話が付いています。このオマケの部分を書くのに労力を費やしてしまい、肝心のブログがまばらになってしまいました。これからまた気を入れて書きますので、お許しください。
 本のタイトルは「表参道のヤッコさん」(仮題)。単刀直入でしょう?詳しいことは、またね。

 写真 (撮影・鋤田正義) 後楽園球場でのELP(エマーソン・レイク・アンド・パ w[マー)日本公演の楽屋にて。寛斎さんとキース・エマーソンの奥さん、そして私。72年?

カフェ・ド・ロペ

2005-09-27 | Weblog
喫茶店は私にとって大切な生きる場所のひとつであり、サロン、書斎、そて愛や友情を語る場所として機能していた。
私がいたのはレオンばかりではない。
原宿に散らばっていたさまざまな喫茶店を毎日、何度も出たり入ったりしながら、その時その時の人生を綴っていた。

キディランドの隣に「カフェ・ド・ロペ」があった。
オープンカフェの走りといおうか、カフェ・ド・マーゴとか、パリのカフェを思い起こさせた。
冬になると寒さ対策で、テント地の屋根と周りをぐるっと囲む簡易ドアのようなものがついた。
レオンのように業界のひとでいっぱいというわけではなく、キディランドやオリエンタル・バザー(東洋調のものを置いた外人向けのスーベニール・ショップ)に来た外人が立ち寄ったり、表参道を目指した若者がいたり、一時はクールスのメンバーがレオンから移動してこちらを根城にしていた。
ファッションメーカーのロペが経営していたこともあって、ロペの大型看板が店の屋根の上にかかっていた。とてもファッショナブルなものだったので、原宿の景観のひとつになっていた。

明治通りをはさんで、100メートルぐらい原宿駅に近いところには、道に沿って全面ガラス張りの喫茶店「コロンバン」があった(私はガラス張りの喫茶店が好きだ)。こちらはコープ・オリンピアに隣接していたこともあって、そこの住民や地下にあるスーパーや、コインランドリー帰りのひとも立ち寄っていた。
コーポオリンピアには伊丹十三さんの小さな書斎もあり、セントラルアパートにあるレオンや浅井慎平さんのバーズスタジオばかりではなく、コロンバンで打ち合わせすることもあった。
フランス直伝のばっちりお砂糖の効いたケーキはどこかを訪ねる時お土産によく買った。

私はここの灰皿が大好きで、わけてもらったが、後に多分あまりにリクエストが多かったせいだろう、いくらかで買えるようになった。
「ヴレヴ パセ オ サロン?」(サロンにどうぞ)というようなフランス語が皿の周りに書かれていて、真ん中には赤・緑・青のエスニックっぽい服をきた男女が踊っている絵が描かれていた。 トリコロールの灰皿はなん
ともかわいらしくて、タバコは吸わないけれど家でもテーブルに飾って楽しんていた。


写真 (撮影・染吾郎) 着ているのはロウシルクのワンピース(ヨーガンレール)。

フランセ

2005-09-26 | Weblog
写真は70年代のはじめのある初夏の日だろう。
若葉をいっぱい広げているけやきの枝はか細くて、まだまだ若々しかったのだ、とわかる。
フランセはセントラルアパートの隣にあった。
レオンができる前からあって、セントラルアパートの住民はここによく通った。
フランセは一階が洋菓子売り場で、二階が喫茶店になっていた。
ケーキのケースを左に見ながら右側の階段を上がって席についたものだった。
ケーキやクッキーの包装紙は、幻想的な東郷青児の絵が使われていた。

当時、お菓子屋さんの包装紙で好きなものが2つあった。
淡い紫をベースにエレガントな女性が描かれていたフランセのものと、黄色に黒で、可愛い子供達の姿が影絵になっているジャーマンベーカリー(これは六本木にあった)のもの。
フランセの壁面には包装紙に使われた東郷青児の絵が額に入って飾られていたと記憶する。

私の生涯のカフェ通いは、まず銀座のウエストからはじまったが、原宿に移ってからはこのフランセだった。
表参道の並木道の光を受け入れた明るい店内。
日常的な仕事の打ち合わせもしただろうが、覚えているのは自分たちの未来について飽きることなく語り合ったことだ。
まだ、何にもできないという不安といっしょに、自分たちがなにか素敵な世界を作っていくんじゃないかという、途方もなく楽天的な夢を語り合うために、ここでたくさんの時間を過ごした。

写真 (撮影者・不明) フランセにて。

9月3日、4日 正直者はバカをみない

2005-09-11 | 千駄ヶ谷日記
この2日間、千駄ヶ谷付近は朝から夜まで、いつもと違った熱気に溢れていた。
国立競技場でスマップのコンサートがあったのだ。
サッカーの歓声のように要所、要所でワーッと来るんじゃなくて、
3時間半ずっと歌と6万人の歓声に溢れた超お祭り騒ぎ。
デビュー当時からすべてのコンサートに行っている知り合いがいて、スマップのコンサートを目撃し続けることが、人生の確認事項のひとつになっている。彼女はこの日も、高揚して帰ってきた。坩堝(るつぼ)にいると、そうなるんでしょうね。
私も、ピンクレディーのコンサートで騒いだ方だから、その気持ちもわかる。

でも私はこの2日間、6万人の六百分の一(100人)の集まりを噛みしめていた。

3日
青山のマンダラで、ある女優さんのマネージャーをしていた人のCDデビューのコンサートがあった。
たぶん40歳近いデビュー。歌も素敵だったけど、その志に、ジンときた。
ピアノ、チェロ、マリンバ、ギター、、バックについたミュージシャンたちが本格派揃いで、うまくて、あったかくて、いい音がライブハウスを丸く包んでいた。
人生のどんな段階の、どんなところにも、出発がある。
私もがんばろう、と素直に誓った。

4日
フリーランスのアナウンサー、今泉清保さんが企画した「正直者はバカを見ない」というイベントで、東中野のポレポレ坐に行った。
内容を高く評価され、沢山の賞を総なめにしながら、テレビ局の系列の事情で、東京では放送されないドキュメンタリー番組「小さな町の大きな挑戦、ダイオキシンと向き合った川辺町の6年」を紹介するというものだった。
こういうテーマの番組というと、どーんと重くなりそうだけど、なんかほのぼのとしていて、小さな町の正直な人たちが、みんなで努力することで、必然的に奇跡の連鎖が起きてゆく、その素直な、粘り強い記録なのだ。
上映後のトークで、MBC(南日本放送)キャスター・ディレクターの山縣由美子さんが、集まった100人のお客さんに向かって、
「東京で、しかもこんなに沢山の人たちにこの番組を観ていただいて夢のようです」と語った。
私など「よっしゃー、もっともっとたくさんの人に、観てもらいましょうね」と思わずにはいられなかった。
川辺町からも、ダイオキシン問題の解決に関わった方々がいらしていて、めずらしいくらい笑いの絶えない中で、大きな公害問題に関して語り合ったのだった。

写真 (撮影・Yacco) 国立競技場近く。スマップのコンサートが終ったとたん、嵐が到来した。

9月8日  清志郎さんの自転車

2005-09-09 | 千駄ヶ谷日記
清志郎さんの自転車がなくなったニュースが流れたと思っていたら、ほどなく新宿の街に忽然と現れた。
清志郎さんの「返してください」というメッセージに応えるように、ふたたび地球上に出現し、彼の「ありがとう」というメッセージが流れた。
あー、よかった、よかった。
これでハワイの自転車レース「Century Ride」に間に合いますね。
私、どっちかというと、清志郎さんの追っかけです。
それで、うれしさのあまり、秘蔵のスナップを公開することをお許しください。

ひとそれぞれ、自分にとって大切なものがある。
それは日常当たり前みたいに思ってるけど、大切なものって、失った時、その存在の大きかったこと、深かったことに、気付くのよね。(意味深デス)
そんなわけで、日常のほんの片隅で、密かに息づいていたものが、迷子になった時のことを、唐突に思い出したので、、、

息子が生まれたとき、沢山の誕生祝いをいただいた。
そのなかのひとつに、木の枠のなかに紐でちっぽけな木の小鳥たちがぶら下がっている額があった。
それはその後、いつも玄関の横の目立たない壁面を飾っていたが、ある時、撮影の小道具としてスタジオに持っていった。
撮影後、その小鳥たちが戻ってないことに気がついたとき、それがいかに大切なものであったか思い知った。
スタジオマンに探してもらったり、プロダクションの制作の若者に、後片付けをしたときの様子を聞いたりしたけど、みつからなかった。
あきらめかけた時、その若者が、もしかしたら、、、ということで、会社からちょっと遠方にある倉庫に探しに行ってくれた。
果たして、山のような機材や撮影後の衣装のなかに、小鳥達は埋もれていたのだった。

私はその若者の親切に深く感謝した。
それから2度ほど引越しをしているけれど、今の家でも、小鳥たちは玄関でひっそり生きている。

写真 (撮影・飯島悠子) 初夏の頃、羽田飛行場で。