![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/d9/c6871d4d7c3da4567311965add1ce753.jpg)
1971年の早め春の日、私はこの店の前に立っていた。南回りのエジプト航空で、最終の地、ロンドンに着くにはアジアからアフリカを経て、10箇所ぐらいのエアポートに止まり、エジプトでは一泊しなければならなかった。おかげで夜のピラミッドを見ることが出来たが、ピラミッドを照らす照明のようなものはなくて、乗客を乗せた小型バスのライトをわずかにピラミッドに向けるだけだった。(今はちゃんとライトアップされているのだろうが)
超格安のチケットの旅は、なんとも怪しく、ジェラルミンのスーツケースに入っている寛斎さんの2点の作品が無事かどうか絶えず心配していた。
まだ寒いであろうロンドンに、前の年にニューヨークで買った毛皮のコートを
持参していた。エジプトのむんむんする暑さの中で、盗られないよう、私はずっとそのむさくるしいコートを手放さなかった。
3日がかりでロンドンに着き、空港のホテル案内所で手配してくれたアールスコートの学生用ホテルに荷物を下ろして、とにかくこの店の前までやってきた。
私のノートには正真正銘、たった一つのアドレスとマイケル・チャオと言う名前しか書いてなかった。マイケルは日本を発つ前に、伊丹十三さんから聞いた彼の友だちだった。
薄暗闇の中にぼーっと佇んでいると、2階から若い男性が降りてきた。
私は「マイケルっていう人いますか?」と聞いた。その人は不審そうに、しかし即座に「僕だけど」と答えた。
この瞬間、私のロンドンでの全てのドア、全ての窓が開かれた。
マイケルの手配により、翌日から私の宿はロレーヌという、もとモデルのフラット(アパート)の広々としたゲストルームになった。ロンドンのめぐまれた若い女性が住んでいるおしゃれなフラットでの共同生活は楽しくて、意味のあるものだった。
食事は、マイケルが経営するこの「MR.CHOW 'S MONTPELIER」で食べる限り、お金は要らない。ここはチャイニーズと言うより、イタリアンのような、フレンチのような、ヌーベル・シノワの超はしりのようなのような店だった。
私はマイケルに言われたとおり、ほとんどの食事をここで無料で摂った。そのことに関して特に卑屈にもならず、ウエイターのひとたちとも仲良しになって、毎日せっせと食べていた。
ウエイターはほとんどがスペイン人で、私がテーブルに座ると、まず、ゆでたてのアスパラガスに溶かしたバターがたっぷりかかったものを運んできてくれた。(これは私がはじめて知った簡単でおいしいオードブルなのだ)
こんな全てがタダの生活をしながら、私がめざしたのはファッションショウを
ほとんどタダで手配することだった。
こういうこと全てが「東洋人はお金のためにだけは仕事をしない。時には友情のために仕事をするのだ」という、つたない英語で伝えた言葉にマイケルが共鳴してくれたおかげだった。
ミスター・チャオは、一階はレストランで、二階は事務所となっている。
入り口は狭いけれど、一階は奥が広くて明るかった。ロンドン中のファッショナブルな人たち、アーティストたちが集まって食事をし、語り合う場所で、私はマイケルに紹介されながら人々の中に入っていった。私には原宿のレオンと変わることのない居心地の良い場所だった。
写真 (撮影・鋤田正義) これは72年。タダ食いの時代は終わって、Tレックスやデヴィッド・ボウイの撮影のためにロンドンに滞在していた頃。とはいえ、このときの食事代も鋤田さんのおごりだったと思う。アート・ディレクターの片山さんと私を鋤田さんが通りの向こう側から撮ってくれた。
超格安のチケットの旅は、なんとも怪しく、ジェラルミンのスーツケースに入っている寛斎さんの2点の作品が無事かどうか絶えず心配していた。
まだ寒いであろうロンドンに、前の年にニューヨークで買った毛皮のコートを
持参していた。エジプトのむんむんする暑さの中で、盗られないよう、私はずっとそのむさくるしいコートを手放さなかった。
3日がかりでロンドンに着き、空港のホテル案内所で手配してくれたアールスコートの学生用ホテルに荷物を下ろして、とにかくこの店の前までやってきた。
私のノートには正真正銘、たった一つのアドレスとマイケル・チャオと言う名前しか書いてなかった。マイケルは日本を発つ前に、伊丹十三さんから聞いた彼の友だちだった。
薄暗闇の中にぼーっと佇んでいると、2階から若い男性が降りてきた。
私は「マイケルっていう人いますか?」と聞いた。その人は不審そうに、しかし即座に「僕だけど」と答えた。
この瞬間、私のロンドンでの全てのドア、全ての窓が開かれた。
マイケルの手配により、翌日から私の宿はロレーヌという、もとモデルのフラット(アパート)の広々としたゲストルームになった。ロンドンのめぐまれた若い女性が住んでいるおしゃれなフラットでの共同生活は楽しくて、意味のあるものだった。
食事は、マイケルが経営するこの「MR.CHOW 'S MONTPELIER」で食べる限り、お金は要らない。ここはチャイニーズと言うより、イタリアンのような、フレンチのような、ヌーベル・シノワの超はしりのようなのような店だった。
私はマイケルに言われたとおり、ほとんどの食事をここで無料で摂った。そのことに関して特に卑屈にもならず、ウエイターのひとたちとも仲良しになって、毎日せっせと食べていた。
ウエイターはほとんどがスペイン人で、私がテーブルに座ると、まず、ゆでたてのアスパラガスに溶かしたバターがたっぷりかかったものを運んできてくれた。(これは私がはじめて知った簡単でおいしいオードブルなのだ)
こんな全てがタダの生活をしながら、私がめざしたのはファッションショウを
ほとんどタダで手配することだった。
こういうこと全てが「東洋人はお金のためにだけは仕事をしない。時には友情のために仕事をするのだ」という、つたない英語で伝えた言葉にマイケルが共鳴してくれたおかげだった。
ミスター・チャオは、一階はレストランで、二階は事務所となっている。
入り口は狭いけれど、一階は奥が広くて明るかった。ロンドン中のファッショナブルな人たち、アーティストたちが集まって食事をし、語り合う場所で、私はマイケルに紹介されながら人々の中に入っていった。私には原宿のレオンと変わることのない居心地の良い場所だった。
写真 (撮影・鋤田正義) これは72年。タダ食いの時代は終わって、Tレックスやデヴィッド・ボウイの撮影のためにロンドンに滞在していた頃。とはいえ、このときの食事代も鋤田さんのおごりだったと思う。アート・ディレクターの片山さんと私を鋤田さんが通りの向こう側から撮ってくれた。
小さなことも大きなことも、成し遂げるのに必要なのは、人との出会いの積み重ねや、信頼なんですね。
ニューヨークで手に入れた毛皮のコートはロンドンの空の下も闊歩したのですね。「ファーコートのご機嫌」の日記とリンクしてて面白いです。
Yaccoさんのblogを拝見しておりますと情景まで浮かび取れそれはまるで映画の様に楽しませて頂いております。
映画『フェステバルエクスプレス』『ライトニング・イン・ア・ボトル』など見ても改めて感じましたが60~70年代はファッション&音楽などの融合、そのカルチャーは人々に多大な影響を与えた時代で日本においてもパワー溢れる人々が数多く活躍してました。
是非そんなムーブメントを記録した邦画がもっと出来る事を期待しているのですが。
常に時代の先端を歩んでいるYaccoさんの足跡は日本においても大切な証です。いずれ是非映画や写真展などでも拝見させて頂きたいものです。そんな企画出来るといいなぁ。。。
http://www.onemoretime.jp/index.html
http://www.festivalexpress.jp/
http://www.nikkatsu.com/movie/lightning/
鋤田さんが写真集とともに、映画まで作ってくれる時がきたら、またせっせとお手伝いしたいと思っています。
その鋤田さんは、たった今、ロンドンで、Tレックスの「BORN TO BOOGIE」のDVDの完成イベントに出席しているはずです。美術評論家で、Tレックスの理解者である川添剛さんとともに。
はたして、監督のリンゴスターも出席しているのかどうか、、、
その頃、私は、高校生で、フォークソングに
熱狂し、アルバイトをしながら、、東の都へ
行くことを夢見ていました。
春休みに上京。原宿のブティックの正札の
何桁も違うのに、目をまるくしていました。
ミックジャガーとロッドスチアートの差異も
解からない小娘でした。笑。
リンゴスターの絵は素敵ですね!
KOBE在住の画家ジーチさんは、イギリス生まれ。お部屋には、ビートルズのレリーフが。
スタイリストに憧れて、、思いをめぐらせて
おりました。
この建物からイギリスが開いていかれたので
すね。アリスがドアをノックするところが、
目にうかぶようです!
>鋤田さんが写真集とともに、映画まで作ってくれる時がきたら、またせっせとお手伝いしたいと思っています。
そのあかつきには、Yaccoさんの助手として、いやいや、恐れ多いので、雑用係として馳せ参じますので、どうそよろしく!
当時わたしは、世界漫遊の旅の途中で、ほかのイタリア人やスペイン人のウエイターたちに紛れて働き、お客さまであるセレブたちや、ファッションウィークがはねた後のおしゃれな人たちを眺めながら仕事をするのはとても刺激的でした。
その頃には2階もレストランに開放していて螺旋階段を登ると奥様だったモデルのティナのPOPなポートレイトが飾ってあって(彼女は日本人とアメリカ人のハーフ)毎日、憧憬のまなざしを一人秘かにおくっていました。
彼女が亡くなった後、96年に主人の仕事でロンドンに滞在することになり、訪れてみると、その絵ははずされていて「想い出も何もかも、わたしの心の中でだけ永遠なんだ。」と思ったのを思いだしました。
長くなりました。スミマセン語ってしまって。(笑)
オーナーのマイケルさんとの会食に一時間も遅れて到着、人生が狂った瞬間とか、MR.CHOW時代はわたしの中でずっと青春してます。
BLOG楽しく読ませていただいています。
ではでは
マイケルの奥さまだったティナはなくなり、彼女のお
姉さんのバニー・ラッツは、日本でティナと姉妹モデルとして活躍したあと、デヴィッド・バーンと結婚しています。
日本でザンドラ・ローズのショウをやったとき、来日したマイケルと出演したティナは知りあいました。
みんなで、六本木の皇妃苑で、丸いテーブルを囲んで中華をたべたことがありました。マイケルがどんどん
ティナに魅かれてゆくのをみていました。
MR CHOWで日本の方が働いていたんですね。今度お話を聞かせてください。