1960年代のどこか(多分まんなかあたり)で、いつの間にかスタイリストになってしまった私だったが、最初は何もかもひとりでがんばっていた。
アシスタントなどという概念はほんのちょっぴりもなかった。
ある日気がついたら、大竹さんという、目がくりくりと輝いている女の子がやってきて「ヤッコさんには私が必要です」とはっきりと言って、そのままアシスタント第一号となった。
彼女はインテリアや雑貨が好きで、まもなく才能を発揮し始めた。
私はいつも彼女といっしょに行動をしていたが、私の先輩のデザイン事務所に遊びに行った時、そこにすてきな建築家がいたらしい。
彼女はあっという間に彼と結婚して、彼の赴任地である中近東へ行ってしまった。
それからしばらくひとりでがんばっていたら、メッツメ(光枝の愛称)さんという女の子が現れた。
彼女はセツモードセミナーやサンデザイン・スタイリスト科に通って自分の居場所を探している少女だった。
彼女もある日、私の前に現れてアシスタントになった。
そのころ私は寛斎さんのロンドンのショーの準備で、ロンドンに行っていることが多くて、お留守番をしているときの彼女の気持ちを考える余裕が私にあったかどうかは、疑問だ。
ロンドンのショーが成功して、東京で凱旋公演ということになり、日生劇場でショーが開催された。
東京のショーも無事成功して、観客の拍手がしばらく鳴り響いた。
ふとメッツメさんの姿をみると、カーテンの陰で、ひっそりと泣いている。
実はロンドンのショーで、スタンディング・オベーションが30分以上つづいた時、私もメッツメさんとまったく同じ場所で泣いたのだった。
置いてきぼりにしていた彼女が、私と同じ場所で同じようにすすり泣いている。
私たちはおなじ感動を共有している、ということを発見して、私はとてもうれしかった。
繊細な都会っ子の彼女は、抜群にセンスが良かったが、自分の美意識に対しては度胸があった。
ある日、彼女は色のきれいなアラン編みのセーターとカーデガンのツインニット、その頃は希少価値だった直輸入のものを、ソニービルで発見した。
(ソニービルは今でいうセレクトショップ的な役割もはたしていた)
アイルランドのアラン島でつくられるアラン編みは、北欧のフィッシャーマンと同じく立体的な模様編みの、温かいニットだ。
素朴ながらモダンな色合いのアラン編みのセーターを、その頃ポール・マッカートニーが着ている写真をみたことがある。
丸ごと一ヶ月の月給をはたいて、そのツインニットを買ったとき、彼女は「一生着るからいいんです」と、きっぱり言った。
それから30年後、恵比寿の写真美術館でメッツメさんに会った。
彼女はあの頃とちっとも変わらない快活さで、私のところにとんできた。
その時の彼女はダンガリーのシャツにチノパンだった。
それこそ、少女のメッツメさんがいつもしていたスタイルのひとつだった。
その姿をみた時、あのアランのニットもまだ元気に生きつづけているんだろう、私は確信した。
2年ほどいっしょに仕事をしたメッツメさんが去って、私はまた孤軍奮闘していた。
「服装」に掲載されている私のエッセイを読んで、分厚い手紙を、一冊の本ができるぐらい送ってくれる少女がいた。返事は書いていたけれど、本人に会うのはなんだか気恥ずかしくてなかなか「お会いしましょう」と言えなかった。
ある日、アパートの私の部屋に大勢の友達を呼んだとき、思い切って彼女にも声をかけた。
オカッパの、日本人形のような顔に、木綿の少女服を着たのんちゃんが現れた。彼女は桑沢デザイン研究所の生徒だったが、この瞬間から、一生のお付き合いが始まったのだ。
いつからともなく仕事を手伝ってもらうようになり、緊急の時は、桑沢デザインの学生ホールに呼び出しをかけたりするようになった。
ようやく彼女が卒業して、二人三脚が始まった。
私の記憶では、それまでの大竹さんや、メッツメさんも含めて、アシスタントとの関係はセンス、嗜好、いい物を探すこと、コーディネイトすること、すべてふたりの間でキャッチボール出来ることが大事だった。
私とのんちゃんは昼も夜もよくしゃべりあった。
しゃべっても、しゃべってもたりないくらい、好きな人、好きな本、好きなものについて、歩きながら、お茶を飲みながら、電話をしあいながら、しゃべった。
仕事以外でも、いっしょに洋服を見て歩いたり、アンティックの店を覗いたりした。のんちゃんの着ているもの、もっているもので何か新しいものがあると「どこで買ったの?」と問いたださずにはいられなかった。
生成りのシャツは渋谷の「文化屋雑貨店」、プードルやスコッチ・テリアのブロウチは青山の「パリ・スキャンダル」、ブリキのおもちゃは骨董通りの 「ビリケン」と言う具合に。
海外ロケに行くと、10回ぐらい店に通って最後に決心して買ったものを思わずのんちゃんにおみやげで渡してしまうことがしばしばあった。そのくらい欲しいものの趣味がいっしょだと感じていた。
ある時、撮影の小道具にトランプが必要になった。手配の途中で、のんちゃんから電話がかかってきた。「いま私、松戸にいるんですけど、、、」
気に入ったトランプがなくて遂にトランプ工場まで行ってしまったのだ。
現在のように、スタイリストご用達のリース屋さんがあるわけでなく、それぞれの才覚とセンスで物を見つけなければならない。
私と彼女は大雑把に打ち合わせをして、仕事の分担を決める。それから先は、自分で開拓してゆくのだ。こうして、私ものんちゃんも、新しいルートを開拓していった。
そんなのんちゃんも、4年後に、フリーランスとして出発する時が来た。
私が一番先に考えたのは、彼女がいなくて仕事がやっていけるだろうか、ということだった。
のんちゃんはのんちゃんで、「もうじゅうぶん一人でやっていけると思ったけど、全責任を負ってやるのと、アシスタントとしてやるのでは、まったく違うということがわかった。今はこういうとき、ヤッコさんはどう判断しただろう、と思いながらやってるの」と言った。
それから、いろんなアシスタントが現れて人生のある時期いっしょに過ごしてきている。彼女たちはひとりひとり、それぞれまったく違うタイプなのに、うまくフル回転しているときは、おもしろいことに、「ヤッコさんに似てますね」と異口同音に言われる。
写真 (撮影者・不明) 仕事中の私とのんちゃん。
私はマドモアゼル・ノンノンのBMWと刺繍がしてある紺色セーター。のんちゃんは花の刺繍がついているアイボリーのモヘアのセーターで、50年代の古着。
アシスタントなどという概念はほんのちょっぴりもなかった。
ある日気がついたら、大竹さんという、目がくりくりと輝いている女の子がやってきて「ヤッコさんには私が必要です」とはっきりと言って、そのままアシスタント第一号となった。
彼女はインテリアや雑貨が好きで、まもなく才能を発揮し始めた。
私はいつも彼女といっしょに行動をしていたが、私の先輩のデザイン事務所に遊びに行った時、そこにすてきな建築家がいたらしい。
彼女はあっという間に彼と結婚して、彼の赴任地である中近東へ行ってしまった。
それからしばらくひとりでがんばっていたら、メッツメ(光枝の愛称)さんという女の子が現れた。
彼女はセツモードセミナーやサンデザイン・スタイリスト科に通って自分の居場所を探している少女だった。
彼女もある日、私の前に現れてアシスタントになった。
そのころ私は寛斎さんのロンドンのショーの準備で、ロンドンに行っていることが多くて、お留守番をしているときの彼女の気持ちを考える余裕が私にあったかどうかは、疑問だ。
ロンドンのショーが成功して、東京で凱旋公演ということになり、日生劇場でショーが開催された。
東京のショーも無事成功して、観客の拍手がしばらく鳴り響いた。
ふとメッツメさんの姿をみると、カーテンの陰で、ひっそりと泣いている。
実はロンドンのショーで、スタンディング・オベーションが30分以上つづいた時、私もメッツメさんとまったく同じ場所で泣いたのだった。
置いてきぼりにしていた彼女が、私と同じ場所で同じようにすすり泣いている。
私たちはおなじ感動を共有している、ということを発見して、私はとてもうれしかった。
繊細な都会っ子の彼女は、抜群にセンスが良かったが、自分の美意識に対しては度胸があった。
ある日、彼女は色のきれいなアラン編みのセーターとカーデガンのツインニット、その頃は希少価値だった直輸入のものを、ソニービルで発見した。
(ソニービルは今でいうセレクトショップ的な役割もはたしていた)
アイルランドのアラン島でつくられるアラン編みは、北欧のフィッシャーマンと同じく立体的な模様編みの、温かいニットだ。
素朴ながらモダンな色合いのアラン編みのセーターを、その頃ポール・マッカートニーが着ている写真をみたことがある。
丸ごと一ヶ月の月給をはたいて、そのツインニットを買ったとき、彼女は「一生着るからいいんです」と、きっぱり言った。
それから30年後、恵比寿の写真美術館でメッツメさんに会った。
彼女はあの頃とちっとも変わらない快活さで、私のところにとんできた。
その時の彼女はダンガリーのシャツにチノパンだった。
それこそ、少女のメッツメさんがいつもしていたスタイルのひとつだった。
その姿をみた時、あのアランのニットもまだ元気に生きつづけているんだろう、私は確信した。
2年ほどいっしょに仕事をしたメッツメさんが去って、私はまた孤軍奮闘していた。
「服装」に掲載されている私のエッセイを読んで、分厚い手紙を、一冊の本ができるぐらい送ってくれる少女がいた。返事は書いていたけれど、本人に会うのはなんだか気恥ずかしくてなかなか「お会いしましょう」と言えなかった。
ある日、アパートの私の部屋に大勢の友達を呼んだとき、思い切って彼女にも声をかけた。
オカッパの、日本人形のような顔に、木綿の少女服を着たのんちゃんが現れた。彼女は桑沢デザイン研究所の生徒だったが、この瞬間から、一生のお付き合いが始まったのだ。
いつからともなく仕事を手伝ってもらうようになり、緊急の時は、桑沢デザインの学生ホールに呼び出しをかけたりするようになった。
ようやく彼女が卒業して、二人三脚が始まった。
私の記憶では、それまでの大竹さんや、メッツメさんも含めて、アシスタントとの関係はセンス、嗜好、いい物を探すこと、コーディネイトすること、すべてふたりの間でキャッチボール出来ることが大事だった。
私とのんちゃんは昼も夜もよくしゃべりあった。
しゃべっても、しゃべってもたりないくらい、好きな人、好きな本、好きなものについて、歩きながら、お茶を飲みながら、電話をしあいながら、しゃべった。
仕事以外でも、いっしょに洋服を見て歩いたり、アンティックの店を覗いたりした。のんちゃんの着ているもの、もっているもので何か新しいものがあると「どこで買ったの?」と問いたださずにはいられなかった。
生成りのシャツは渋谷の「文化屋雑貨店」、プードルやスコッチ・テリアのブロウチは青山の「パリ・スキャンダル」、ブリキのおもちゃは骨董通りの 「ビリケン」と言う具合に。
海外ロケに行くと、10回ぐらい店に通って最後に決心して買ったものを思わずのんちゃんにおみやげで渡してしまうことがしばしばあった。そのくらい欲しいものの趣味がいっしょだと感じていた。
ある時、撮影の小道具にトランプが必要になった。手配の途中で、のんちゃんから電話がかかってきた。「いま私、松戸にいるんですけど、、、」
気に入ったトランプがなくて遂にトランプ工場まで行ってしまったのだ。
現在のように、スタイリストご用達のリース屋さんがあるわけでなく、それぞれの才覚とセンスで物を見つけなければならない。
私と彼女は大雑把に打ち合わせをして、仕事の分担を決める。それから先は、自分で開拓してゆくのだ。こうして、私ものんちゃんも、新しいルートを開拓していった。
そんなのんちゃんも、4年後に、フリーランスとして出発する時が来た。
私が一番先に考えたのは、彼女がいなくて仕事がやっていけるだろうか、ということだった。
のんちゃんはのんちゃんで、「もうじゅうぶん一人でやっていけると思ったけど、全責任を負ってやるのと、アシスタントとしてやるのでは、まったく違うということがわかった。今はこういうとき、ヤッコさんはどう判断しただろう、と思いながらやってるの」と言った。
それから、いろんなアシスタントが現れて人生のある時期いっしょに過ごしてきている。彼女たちはひとりひとり、それぞれまったく違うタイプなのに、うまくフル回転しているときは、おもしろいことに、「ヤッコさんに似てますね」と異口同音に言われる。
写真 (撮影者・不明) 仕事中の私とのんちゃん。
私はマドモアゼル・ノンノンのBMWと刺繍がしてある紺色セーター。のんちゃんは花の刺繍がついているアイボリーのモヘアのセーターで、50年代の古着。
おひさしぶりです。
偶然にTB先のリンクから日記を読んだら懐かしいノンちゃんの写真が・・・
やっこさんには私の現役時代にも、優秀な二人アシスタントを紹介していただきました。
お世話になりました。
しかもノンちゃんは私の一番若いアシスタントだった今も現役の多田ちゃんの同級生でしたね~
かわいいおかっぱ姿に博多の「ひよこ」のお菓子のCMに出ていただいた事も思い出しました。
隠居の私と違いいつまでもお元気で何よりです。
何十年ぶりですね!
70年代、パトラさんの事務所と私が住んでいた静雲アパートはご近所でした。
アシスタントののんちゃんとパトラさんのアシスタントのえっちゃんは親友同士だったし。
そうそう、大映撮影所あたりで、おとなりのスタジオがパトラさんで、遊びに行ったことありましたねー。
わー、いろいろ浮かんできて、パトラさんのことも書きたくなっちゃった。
スタイリストをおやめになってからは、占いをなさっていると、ヘアメイクの野村真一さんや長網さんからうかがってましたが。
あ、おもいきり、内輪話になってしまいました。
ぱとらさんのブログもお訪ねしましたよ。
先週、原宿の裏通りにある当時のままのぱとらさんのマンションの前を通り、ちょうどなつかしく思い出していたところでした!「銘菓ひよこ」のCMの話もなつかしい!
まさに当時まだ「ひよっこ」だった私やえっちゃんは、ヤッコさんやぱとらさんから、仕事やファッションだけでなく、スタイルのある生き方そのものをたくさん学ばせていただいたと思っています。若い頃に素敵でパワフルな先輩女性とめぐり逢えたことは、本当にラッキーで貴重な人生の宝だったと感謝しています。えっちゃんとは今も仲良しです。
ブログってこういうことが起こるから面白いですね!
なつかしいですね、ほんとに。
去年は夢見人さんと家でご飯を一緒に食べたり出来たし、岡崎事務所の岡崎さんにも遊びに来ていただいたりして幸せでした。
現役を隠退してから13~4年ですから忘れられても当然なのに嬉しいな。えっちゃんにも暫く御無沙汰してますがどうぞ宜しくお伝えください。
大先輩のヤッコさんが世田谷のスタジオで宇野亜喜良先生、ヘアの伊藤五郎さん、モデル青木エミさんでプラチナ?ペンか何かのCMを林宏樹先生と撮影している現場に漫画雑誌のインタビユー記事をとりに伺い御会いしたのが最初でした。
その時、スタイリストヤッコさんの仕事に感動したのが広告スタイリストになる切っ掛けでした。
出会いでしたよ、私にも。
優秀なえっちゃんが居てくれてやっと成長する事が出来た、トホホな私ですが楽しかったわね。ありがとうございます。
食卓やお花の写真から、今もぱとらさんが、実にぱとらさんらしいスタイルのある暮らしをなさっている様子が伝わってきて嬉しく感じました。
ヤッコさんと毎日いた日々、ぱとらさんと時々お会いしていた頃から30年ほどの時が流れたわけですが(ワオ!)お二人ともが今もなお、(私が影響を受けた)あのときのままのポリシー、美意識をもって生きてらっしゃることが、とても嬉しいし、素晴らしいことだと思います。
本物のスタイリストであることの意味は、単にその職業を指すのではなく、生き方そのもの・・・とあらためて思いました。
再び、ぱとらさんがクシャミをなさって、このコメントがお目に触れることを祈ります!
ありがとう、照れました。
青木エミさんに連絡をとりたくて探していたら、このページに出会いました。そしたら、ゴローちゃんの名はでてくるし、懐かしい名前がゴロゾロ...。 ...鋤田さんはお元気でしょうか?懐かしい、なつかしい、みなさまです。
実は少し前に、久しぶりに連絡を取った蓑田さんからさんからヤッコさんのお話をちょっぴり聞いていました/なんでも本を出すのだとか?もう出版されたのですか?どんなタイトルの本ですか?
万が一、青木エミさん、ゴローちゃん、鋤田さんの近況ですとか、連絡先等々わかるのでしたら、お知らせくださいませんか?