![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/03/7285142c94c461cbbb81406cd8ab78ac.jpg)
表参道の交差点、ギャップのちょっと青山通りに近い所に小さなビルがある。
その前の歩道は、同潤会アパートを経て青山通りまで続く欅(けやき)の並木道だ。ビルの前の欅の下のベンチには、毎日若者の行列ができる。2階の店「ゴローズ」のオープンを待つ列であり、時には、入店の人数をコントロールするための列だ。
「ゴローズ」は、オリジナルのインデアンジュエリーと、皮製品の店。
店主のゴローさんは、この店にいたりいなかったりだが、30年以上前から、ずっとここが彼の拠点だ。
彼は、日本で初めて、アメリカインデアンのラコタ(旧称スー)族によって「イエローイーグル」という名前を与えられ、正式にインデアンになった人だ。
その名前が与えられる直前、こんなことがあった。
70年代の後半に入った頃のこと。
私に「カウボーイとインデアン」のコマーシャルの仕事がきた。
カウボーイ役は人気男性タレント、インデアンは黒人モデルだった。カウボーイハットや、服はすぐ手配がついた。インデアンの衣装は、アメリカがらみの大きな行事が入っていてどこにもなかった。
私はゴローさんに相談に行った。
「俺が持っているのはさー、このほんものの服だけだな。これを着てインデアンになる儀式をうけるんだよ。だから、これは俺の命とおんなじだ。その儀式を受けるまで、汚(けが)したくないんだ」
まったくその通りだと思った。
何か別の方法を考えよう。私はそのとおりのことをディレクターに伝えてしまった。ディレクターの目がキラリと光った。
「僕はその本物の服を使いたい。」
「もっと、ポップでキュートなほうが可愛いいよ。」とかなんとか私は言ったと思う。(それは本当だ)
だが彼が急に固執した「そこだけ本物指向」は強かった。男性タレントがチューインガムを噛み、そのわきで、インデアンが「インデアン、ウソ、ツカナイ」というコマーシャルなのだ。ゴローさんには怒鳴られそうなアイデアだ。
いやだなー、と思ったけれど私はまたゴローさんのもとに走った。
ゴローさんは私の目をまっすぐ見て、こういった。
「いいよ、貸すよ。これはヤッコじゃなかったら、貸さないよ。ヤッコに貸すんだよ」
私は、その神聖であるべき、しなやかな鹿皮革の上着を借りた。そして、極彩色のインデアンメイクをしたモデルに用心深く着せた。照明が当たって、モデルが汗をかくと、皮革に汗がしみこむのが心配だった。ほんのちょっとの瞬間も目を離せない。私は一日中、緊張しきっていた。
夕方、やっと撮影が終わった。ディレクターの「OK!」の掛け声とともに、私に電話がはいった。たった30秒離れて駆け戻った瞬間、モデルがガバッと衣装を脱いだ。
私は、悲鳴をあげた。
胸元には、グリーンやオレンジのメイクがべったりついていた。
私はことの重大さを周囲に訴えたが、そんなことは、何の解決にもならなかった。気がつくと、スタッフはいなくなっていた。
私は汚してしまった服をもって、ゴローさんのアトリエに向かった。
私が借り、私が返しにいくのだ。
アトリエは、青山3丁目から西麻布に向かってすぐのところにあるコシノジュンコさんのブティックの2階だった。
私はなんと言ったらいいのだ。
何の整理もつかないまま、私はアトリエのドアを開けた。
ゴローさんが立っていた。私は、ゴローさんが命と同じだと言っていた服を捧げもって、絶句した。
「ゴローさん」 それだけ言うと、どっと涙がでてきた。
うなだれている私に、思いがけない言葉が降りそそいだ。
「ヤッコさん、泣くなよ。俺はヤッコさんが泣くのをみたくないよ。こんなもん、どうってことないよ。これは、貫禄ついたほうがいいんだ。俺、これから、どんどん汚すよ。ふんずけて、もっとカッコよくするよ」
ゴローさんは、この間と正反対のことを、懸命にいいつづけた。
付け加えるなら、このとき、私は、ヨチヨチ歩きの息子を連れて行っていた。(仕事の領域に子連れで行くことは、きわめてまれなことだった)
ものめずらしげにアトリエをうろつく息子には、私にとってどんな時間が流れているかを、知る由もなかったろう。何故かこのときの幼い息子の姿がれられないので、ここに記しておく。
私の絶体絶命を救ってくれたのは、誰でもない被害者のゴローさん自身だった。百の言い分があったに違いないのに、一瞬のうちに人を咎めたり、責めたりしないと決めてしまえるなんて。
静かで、平和な気持ちに満たされて、家に帰れるとは予想もしていなかったことだった。
その後、ゴローズの店で、コーヒーを飲みながら、ゴローさんからイエローイーグルになるまでの、不思議なセレモニーの話を何度も聞いた。
4、5人で彼を囲むテーブルの後ろの壁にはいつも、儀式に着た鹿皮革のジャケットが掛かっていた。
私が汚してしまった胸の染みのあたりには、幾重にもインデアンジュエリーの首飾りがかかっていた。
私はその後、何度ゴローズに行っても、何年たっても、その首飾りの後ろ側を覗くことはできなかった。
写真 (本人所蔵のもの)
その前の歩道は、同潤会アパートを経て青山通りまで続く欅(けやき)の並木道だ。ビルの前の欅の下のベンチには、毎日若者の行列ができる。2階の店「ゴローズ」のオープンを待つ列であり、時には、入店の人数をコントロールするための列だ。
「ゴローズ」は、オリジナルのインデアンジュエリーと、皮製品の店。
店主のゴローさんは、この店にいたりいなかったりだが、30年以上前から、ずっとここが彼の拠点だ。
彼は、日本で初めて、アメリカインデアンのラコタ(旧称スー)族によって「イエローイーグル」という名前を与えられ、正式にインデアンになった人だ。
その名前が与えられる直前、こんなことがあった。
70年代の後半に入った頃のこと。
私に「カウボーイとインデアン」のコマーシャルの仕事がきた。
カウボーイ役は人気男性タレント、インデアンは黒人モデルだった。カウボーイハットや、服はすぐ手配がついた。インデアンの衣装は、アメリカがらみの大きな行事が入っていてどこにもなかった。
私はゴローさんに相談に行った。
「俺が持っているのはさー、このほんものの服だけだな。これを着てインデアンになる儀式をうけるんだよ。だから、これは俺の命とおんなじだ。その儀式を受けるまで、汚(けが)したくないんだ」
まったくその通りだと思った。
何か別の方法を考えよう。私はそのとおりのことをディレクターに伝えてしまった。ディレクターの目がキラリと光った。
「僕はその本物の服を使いたい。」
「もっと、ポップでキュートなほうが可愛いいよ。」とかなんとか私は言ったと思う。(それは本当だ)
だが彼が急に固執した「そこだけ本物指向」は強かった。男性タレントがチューインガムを噛み、そのわきで、インデアンが「インデアン、ウソ、ツカナイ」というコマーシャルなのだ。ゴローさんには怒鳴られそうなアイデアだ。
いやだなー、と思ったけれど私はまたゴローさんのもとに走った。
ゴローさんは私の目をまっすぐ見て、こういった。
「いいよ、貸すよ。これはヤッコじゃなかったら、貸さないよ。ヤッコに貸すんだよ」
私は、その神聖であるべき、しなやかな鹿皮革の上着を借りた。そして、極彩色のインデアンメイクをしたモデルに用心深く着せた。照明が当たって、モデルが汗をかくと、皮革に汗がしみこむのが心配だった。ほんのちょっとの瞬間も目を離せない。私は一日中、緊張しきっていた。
夕方、やっと撮影が終わった。ディレクターの「OK!」の掛け声とともに、私に電話がはいった。たった30秒離れて駆け戻った瞬間、モデルがガバッと衣装を脱いだ。
私は、悲鳴をあげた。
胸元には、グリーンやオレンジのメイクがべったりついていた。
私はことの重大さを周囲に訴えたが、そんなことは、何の解決にもならなかった。気がつくと、スタッフはいなくなっていた。
私は汚してしまった服をもって、ゴローさんのアトリエに向かった。
私が借り、私が返しにいくのだ。
アトリエは、青山3丁目から西麻布に向かってすぐのところにあるコシノジュンコさんのブティックの2階だった。
私はなんと言ったらいいのだ。
何の整理もつかないまま、私はアトリエのドアを開けた。
ゴローさんが立っていた。私は、ゴローさんが命と同じだと言っていた服を捧げもって、絶句した。
「ゴローさん」 それだけ言うと、どっと涙がでてきた。
うなだれている私に、思いがけない言葉が降りそそいだ。
「ヤッコさん、泣くなよ。俺はヤッコさんが泣くのをみたくないよ。こんなもん、どうってことないよ。これは、貫禄ついたほうがいいんだ。俺、これから、どんどん汚すよ。ふんずけて、もっとカッコよくするよ」
ゴローさんは、この間と正反対のことを、懸命にいいつづけた。
付け加えるなら、このとき、私は、ヨチヨチ歩きの息子を連れて行っていた。(仕事の領域に子連れで行くことは、きわめてまれなことだった)
ものめずらしげにアトリエをうろつく息子には、私にとってどんな時間が流れているかを、知る由もなかったろう。何故かこのときの幼い息子の姿がれられないので、ここに記しておく。
私の絶体絶命を救ってくれたのは、誰でもない被害者のゴローさん自身だった。百の言い分があったに違いないのに、一瞬のうちに人を咎めたり、責めたりしないと決めてしまえるなんて。
静かで、平和な気持ちに満たされて、家に帰れるとは予想もしていなかったことだった。
その後、ゴローズの店で、コーヒーを飲みながら、ゴローさんからイエローイーグルになるまでの、不思議なセレモニーの話を何度も聞いた。
4、5人で彼を囲むテーブルの後ろの壁にはいつも、儀式に着た鹿皮革のジャケットが掛かっていた。
私が汚してしまった胸の染みのあたりには、幾重にもインデアンジュエリーの首飾りがかかっていた。
私はその後、何度ゴローズに行っても、何年たっても、その首飾りの後ろ側を覗くことはできなかった。
写真 (本人所蔵のもの)
彼の作るアクセサリーがただの流行ではなく
何十年も多くの人に支持される理由がわかる気がしました。
「レオン」では、顔は知っている有名なクリエーターの方々が打ち合わせをしたり、憩っていて、なかなか入れるような雰囲気ではありませんでした。当時のかっこよい友だちが「レオン知ってるよね?そこで待ってる」と言ってくれてから、やっと普通に入れるようになりましたが、それでも、近くで細野春臣さんが当時のTVゲームをやっていたり、カメラマンの操上さんがおしゃべりしていたり…という光景によく出くわして、内心、ドキドキしたりも。
「ゴローズ」のつやつやになめした、まるで宝石のような輝きを放つ革のショルダーやいぶし銀にブルーのトルコ石をはめ込んだベルト…、「ヴィオロン」の手染めでプリーツが幾重にも揺れるフォークロリックなドレス…、「グラス」の黒字に赤いバラの刺繍が入ったベルボトムパンツ…などなど、ディスプレイされた
それらのアイテムとともに、そのお店自体が、私にとって憧れの「表参道の聖域」でした。
ある日、偶然かいま見た「ゴローズ」のゴローさんは若者心に、とてもかっこよい渋い大人の方でした。
「いつか、このお店にさりげなくはいれるようなかっこよい大人になりたい…」という憧れは、社会人になっても続き、前を通るたびに「いつか、いつか…」と思いながら、(まだ、かっこよくない)などと自分に失望していました。
「同潤会アパートが取り壊されるらしい」という話を聞き、「ええ?」と悲しんでいた、いつのまにかのある日…3つのお店のたたずまいも消え(ゴローズは健在のようで、嬉しいです)、そして私の「表参道の聖域」も霧散したのでした。
ゴローさんの写真から
大きな大きな気概とおっきなスピリッツを感じて
この日記読んでしまいました
とてもすてきな関係なんですね
高橋様もそのときも、いまも
どんなにか、切なかったでしょう・・・・
なんだか切なくなりました・・・。
とても憧れてた方もやはりインディアンから名前をいただいてバッファーローの丘に連れて行ってもらったそうです・・・思い出しました
とても切なくすてきなエピソード、シェアありがとうございます
またいつか、ゴローさんのエピソードを書きたいと思っています。
みなさま、ありがとう。
自分も初めてゴローズでゴローさんに会ってから早15年、いまだゴローズとゴローさんの虜になっている者です。
ゴローズのアクセサリーそのものの魅力はもちろん、ゴローさんの生き方、人間性が自分をこれまで虜にしていると思います。
今はお店にいらっしゃらないようですが、もしもYACCOさんがゴローさんにお会いになる機会があれば、こういう人間がたくさんいることをお伝え下さい。
そして、ずうっとゴローズとゴローさんを応援していることを。
また、YACCOさんのご活躍も心よりお祈りしています。
その行動でその人の中にある居間の
ソファに深く沈んでいごこちよい
権利を貰っているということへの感謝。
Soulが綺麗な方ですね。
どういうとこだか分からないけど、
ゴローさんには会いたくなった。
自分は今将来スタイリストになるという夢を持っています。もし自分がスタイリストになれたときはぜひYaccoさんとお会いできたらうれしいなと思ってます。なんか調子にのったコメントを載せてしまい真にすいません。
Yaccoさんこれからもお仕事のほう頑張ってください!