前回に引き続き、三条山吉氏の系譜を検討してきたい。
長尾為景が登場する頃には山吉能盛の活躍がみえる。永正4年には長尾為景と築地氏の間を能盛が取り次いでいる(*1)。同年12月には中条藤資へ「山吉孫左衛門尉能盛」の名で打渡状を出している(*2)。年代的に正盛の次世代が能盛と考えられる。守護代長尾能景の一字を戴く能盛は、能景が守護代であった文明14年(1483)から永正3年(1506)の間に元服したとわかる。山吉正盛の生年を1450年頃と想定したから、正盛と能盛を父子関係としても矛盾はない。能盛は天文5年に長尾為景が色部氏、本庄氏らと抗争した際、「山吉孫左衛門尉至于中途令出陣其庄」とある同年5月22日長尾為景書状(*3)が終見である。
※23/8/23 追記
天文5年5月22日長尾為景書状について、以前は鮎川式部大輔入道の乱に関連した文書とした上で永正9年に比定していた。しかし、式部入道の乱を検討した結果、乱自体が永正9年ではなく大永前期であった可能性が高いこと、同書状が式部入道の乱ではなく永正5年の奥郡抗争に関するものであったことを示した。修正しておく。
明応期以降に上杉房能が作成したという『蒲原郡段銭帳』(*4)の中に「山吉孫四郎」という人物が見える。上述した能盛の推定元服時期とも合致することから、孫四郎は能盛であろう。父正盛が四郎右兵衛尉、能盛が孫四郎、後述する政久も孫四郎であるから、山吉氏嫡流は代々孫四郎を名乗ったと見られる。よって、能盛が明応年間(1492~1501)頃に元服したと考えられるから、その生年は文明年間(1469~1487)だろうか。次代政久の初見である永正16年(1519)までの死去であろう。
永正6年8月国分胤重書状(*5)には、山吉孫次郎という人物が見える。注目すべきは孫次郎が長尾為景と敵対する関東管領上杉可諄・憲房方の一人として挙げられていることである。この書状中に「蔵王堂、三条、護摩堂者、同六郎(長尾為景)殿味方に候」とあり、三条山吉氏自体は為景に味方していた。よって、この頃の山吉氏は上杉定実・長尾為景方と上杉可諄・憲房方に分裂していたと考えられる。この孫次郎であるが、庶子の名乗りであると推測する。
[史料1]『越後三条山吉家伝記之写』
以前両度如申遣、此時抽忠信候者、恩賞之事ハ、可任望候、子細石河駿河入道可申越候也、
二月十七日 憲房公御判形
山吉孫五郎殿
[史料1]は『越後三条山吉家伝記之写』に筆写された家伝文書の一つである。上杉憲房の発給であり、石川駿河入道は(*5)文書においても山内上杉氏方の中に「石川駿河守」として見えている。永正6年または7年に比定できる文書であろう。この文書は、山吉孫五郎という人物が上杉憲房から陣営への参加を誘われている。ただ、孫五郎はこの後も為景方としてみえ誘いには乗らなかったようだ。
山吉孫五郎は永正7年の上杉可諄戦死後の8月に長尾為景が長尾伊玄の要請で上野国へ軍勢を派遣した際、福王寺氏と共にその軍勢の指揮官として見える(*6)。正盛と談合するように求められている記述もあり、三条山吉氏の一族であったことは確実である。山吉豊守弟の山吉景長が『越後三条山吉家伝記之写』において孫五郎を名乗ったとされるから、孫五郎も庶子の名乗りであるように思える。
後に山吉孫四郎の弟として孫次郎豊守、孫五郎景長が見えることを踏まえ、活動時期を考慮すると永正期の孫次郎、孫五郎の二人は能盛の兄弟と推定できるのではないか。
永正16年には山吉孫四郎政久が見える(*7)。孫四郎を名乗ることから、能盛と政久の父子関係を想定する。大永7年山吉政久書状(*8)において政久は「先規之義、若輩故無存知候」と、若年であったことが推定される。
ここまで山吉氏数代を検討し、
行盛の後、久盛-正盛-能盛-政久
という系譜を想定し、能盛の兄弟として孫次郎、孫五郎が存在したと推測した。
追記:2024/3/2
山内上杉憲房について検討した結果、憲房についての表現を一部修正した。
*1)『新潟県史』資料編4、1435号
*2)同上、1857号
*3)同上、1436号
*4)佐藤博信氏「戦国大名制の形成過程」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)、これによると、文明後期に守護上杉房定が「古志郡検地帳」などに見られる検地を行い、それを受けて次代房能が明応期以降に「段銭定納帳」、「国衙之帳」、「蒲原郡段銭帳」を作成した、とする。
*5)『越佐史料』三巻、519頁
*6)同上、558頁
*7)『新潟県史』資料編3、451号
*8)同上、452号
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