鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

山吉景盛の動向1ー孫五郎と景盛ー

2020-09-24 19:15:22 | 三条山吉氏
大永期から天文にかけて見られる戦国期三条山吉氏の有力一族として山吉景盛がいる。その実名「景盛」から推測されるのはその立場の重要性であるが、系譜中における位置づけや動向に関しては不明である。今回は、史料類から判明することを参考にその系譜関係を推測してみたい。


まず、景盛が山吉氏の系譜のどこに位置するかを考えたい。天文21年7月の山吉政応等連署禁制(*1)において、山吉恕称軒政応、豊守父子と共に景盛が署名していることから、嫡流と近親にあったことは確かである。景盛の史料上の初見は大永7年5月(*2)であり、終見は天文24年1月[史料2]である。(*2)書状は山吉政久書状(*3)と並んで出されたものであり、政久は「先規之義、若輩故無存知候」と述べるような若年であったから景盛は政久より年上と見る。この時点で政久が仮名孫四郎を名乗るのに対し、景盛が孫右衛門尉を名乗っていることも政久より景盛が年上であることを示している。すると、政久に兄は想定されないから景盛は政久の伯父あたると見られる。すなわち、能盛の弟にあたると考える。

これを踏まえると、永正7年に所見される山吉孫五郎が想起される。『三条山吉家伝記写』(以下『伝記』)より山吉景長が孫五郎を名乗ったとあるから、当主の兄弟が孫五郎を名乗ったとの推測が成り立つ。すなわち、永正期の孫五郎は能盛の弟ではないだろうか。『伝記』はこの孫五郎を「景政」とするが、「景政」の文書上の所見はなく、「政久」の項に「政久後庄応入道景政ト号」とあるように他の人物との混同も見られることから、誤りであろう。

ちなみに、永正期には山吉孫次郎という人物も存在し、政久の子息たちの名乗りを参考にすれば、長男孫四郎能盛、次男孫次郎、三男に孫五郎という関係が想定される。

また、『伝記』には山吉孫五郎宛の文書が数通収められているが、その伝来を考えると孫五郎と景盛の繋がりが見える。『伝記』は山吉景長三男の「景広」から分かれた森田氏に伝来しているのだが、「森田家系図」によると「景広」が「孫右衛門尉」を名乗ったというのである(*4)。すると、「景広」は景盛の孫右衛門尉家を継ぐ存在だと考えられ、受け継いだ文書は景盛関連のものと考えられないだろうか。

これらのことから、永正7年に所見される孫五郎は景盛の前身と推測できると考える。活動時期も被らず、孫五郎から孫右衛門尉という名乗りの変化も自然である。


景盛という実名は長尾為景からの偏諱「景」と山吉氏の通字「盛」から構成されるわけだが、その背景を考えてみたい。府内長尾氏からの一字を戴くその実名は当主としても遜色ないが、永正9年頃まで能盛が存在し(*4)、政久登場後に景盛が[史料3]「丹波守一札をも進候て」と述べるように、あくまで当主能盛、政久の元で活動していた有力一族と考えられる。一族でありながら為景に「景」字を与えられる立場にあったということになる。

山吉孫五郎の立場を見てみれば、孫五郎は永正7年に軍勢を率いて関東へ出陣し長尾伊玄との交渉も担当するなどその働きは重要なものであり、単なる庶子以上の役割を担っている。山吉孫五郎宛の山内上杉憲房書状(*5)も残っている。山吉孫五郎は国内外を問わずその存在を認められていたと推察され、その立場は「景」字をもらうにふさわしいのではないか。

能盛の生年推定や永正7年(1510)に孫五郎が所見されることから、生年は文明(1469~1487)後期から明応(1492~1501)であろうか。景盛の没年は終見である天文24年(1555)後であるから、孫五郎と景盛を同一人物だとすれば享年は60歳前後となる。二人を同一人物と見ることに矛盾はない。


最後に『山吉家家譜』における所伝を紹介したい。ただ、同家譜は内容について信用できる点は少なく、あくまで参考程度に用いるべきである。それを踏まえて、景盛に関連した部分を抜粋したものが以下である。第十七代当主「盛信」の弟に「景盛」の名が見られその仮名を「孫五郎」とする。また、「山吉丹波守政應入道景長」の五男「景政」が「孫五郎」、その後「源左衛門」を名乗り永禄11年に死去したという。

「景政」とは『伝記』において永正期孫五郎の実名とされる名である。すなわち、実際の名、所伝上の名、のどちらにおいても仮名孫五郎を伝えていることが確認できる。


以上より、永正期に山吉能盛の弟として山吉孫五郎、後の孫右衛門尉景盛が存在した、と推測できるであろう。



*1) 『新潟県史』資料編5、2678号
*2)『新潟県史』資料編3、525号
*3)同上、452号
*4)金子氏・米田氏「三条闕所御帳・三条同名同心家風給分御帳の紹介」(『上杉氏の研究』)
*5)『越佐史料』三巻、582頁


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