鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

和田中条氏の系譜

2020-06-28 12:20:50 | 和田中条氏
戦国期越後の和田中条氏の系譜関係は後世の所伝において、中条藤資を中心とする詳細な記述がみられる。それらを元に今日、通説的には藤資-景資=景泰とされているように思える。しかし、この系譜では納得のいかない部分がありこれから数回にわたって後世の所伝(*1)や当時の書状類を交えて検討したいと思う。

まず、結論から言うと、和田中条氏は次のような系譜関係が想定される。

藤資(生年:明応元年~没年:天文4年頃)弥三郎、弾正左衛門尉、越前守
-景資(生:永正10年頃~没:永禄11年)牛黒丸、弥三郎、弾正忠、山城守
-房資(生:享禄5年~没:天正元年)市満丸、弥三郎、越前守
=景泰(生:永禄元年~没:天正10年)沙弥法師丸、与次、越前守

中条藤資は明応3年に父定資から土地を譲られ(*2)、『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』によればこの時三歳であったという。中条氏において幼少の子へ譲状が出される例があり(*3)、所伝に従えば藤資の生年は明応元年となろう。

大永6年に中条藤資は長尾為景へ起請文を提出するわけだが(*4)、その中に系譜を辿る手がかりがある。起請文の第一項に「至于罷成御縁家、対申長尾為景御子孫、奉引弓不可致不儀事」とあり、中条氏が府内長尾氏と婚姻関係を築いたことが明らかになる。『中条家由緒書』には藤資が高梨正頼(政頼)の婿とあり、『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』には景資が高梨刑部大輔政頼の娘で上杉輝虎の養女と結婚、とある。年代的に合わない部分もありそのまま受け取ることはできないが(*5)、府内長尾氏と中条氏に婚姻があったことは確実であろう。所伝によれば娘の相手は藤資か景資のどちらかとなるが、この時点で藤資は受領名越前守を名乗り35歳に達しており長尾氏からの妻を取るにはふさわしくないように思える。

さらに、起請文の第三項を見ると「御出陣之時、各々事者、番替致在陣候共、某事者、親子一人しかと可致在陣事」とある。胎内川の戦いで「土佐守」の戦死によりこの時点で藤資の上の世代はいないことから「親」が藤資にあたり、一人で在陣することのできる「子」が存在したことがわかる。35歳藤資の息子であり、在陣できる程度であることから、少なくとも10代前半に達すると推定されようか。この「子」ならば大永6年時点で妻を娶るのに適当である。

藤資の次の当主とされる景資は『中条氏家譜略記』に享禄5年(1532)の誕生とあり、これを正しいとすれば大永6年まだ生まれていないことになる。さらに、『中条越前守藤資伝』では景資を嫡子としさらに二人の弟がいたとする。しかし、享禄5年(1532)では藤資は41歳であり第一子誕生には遅い印象があり、40歳をすぎてから嫡子を含める3人の男子が生まれるというのは不自然さを感じる。

[史料1]同上、1446号
直和家風小柴下人之儀、其元退散候処、相拘不返之由候間、其身参府之上、従和州房資方へ、色々理之旨候間、書中差越候、彼才覚之様於爰元承届候、子細不可入候、早々彼者方へ可被渡返事、不可移時日候、尚重而可申越候間、不具候、謹言、
七月十五日     房資
築地彦七郎殿まいる

ここで、注目されるのが[資料1]である。「越後文書宝翰集」築地氏文書に伝来する書状で、後代の張紙に「中条房資」とあるものの『新潟県史』では未詳とされる文書である。文中の「直和」は直江大和守景綱を指し、永禄中期から天正初期の文書である。宛名の築地彦七郎は、『中条分家系図』で天正前期に文書上でも所見される築地修理亮資豊が仮名彦七郎を名乗ったとしており、この人物に比定できる。よって、伝来経路や内容、宛名から房資は永禄から天正にかけての中条氏の当主であるといえる。天正2年から吉江氏からの養子景泰が当主であることは史料上明らかであるから(*6)、天正元年頃の死去であろう。これは『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』に伝わる景資の年代と完全に一致する。すなわち、所伝における景資は房資という人物と混同したものだったとわかる。

ここで景資の存在が浮いてしまうことになるが、前述の年齢的な不自然さを鑑みると藤資と房資(所伝における景資)の間にはもう一代存在したとの想定が妥当である。従って、為景の養女を娶ったと推定した「子」こそ景資であると考えられる。景資は永正年間に藤資の嫡子として誕生し、大永6年以前に元服し、婚姻や軍役を果たせる年齢に達していたと推定できる。『中条氏家譜略記』などから仮名は弥三郎であろう。所伝で景資の弟とされる二人は、実際には房資の弟であろう。

景資は中条景泰の実父吉江景資との混同されがちで、中条景資の発給文書とされるものとして波多岐庄の「越後文書宝翰集」上野氏文書に伝来する名字状(*7)があるが、その花押型は吉江景資と同型であり(*8)、比定は誤りである。しかし、『中条氏家譜略記』では中条景資と景泰の実父「吉江織部佐景資」をはっきり区別しており、後世において混同はあるが別人として存在していたと考えられる。

名字状は吉江景資のものであるから中条景資についてその実名を記す一次史料がないということになるが、複数の所伝が一貫して「景資」と伝え、長尾氏から「景」字を与えられて然るべき関係であることから、藤資の子は実名景資であったと考えたい。

では、この系譜関係を踏まえ法名を整理しよう。『桓武平氏諸流系図』と『中条氏家譜略記』を比べる景資=月宗(月秋)は同じであるが前者は藤資と景資の間に梅坡を別人として存在させているため、遡ると両者に一つズレが生じている。両者ともに景資は越前守房資を指すと考えられ、梅坡は景資の法名であろう。とすれば、『桓武平氏諸流系図』の法名は実名と同じ人物を指し、『中条氏家譜略記』での法名は一つ前の世代の人物を指すことになろう。よって、藤資=徳岸、景資=梅坡、房資=月秋という法名となろう。

以上より、

中条藤資-景資-房資=景泰

という系譜関係が矛盾なく浮かび上がるのである。後世の所伝は藤資と景資と房資を複雑に混同してしまったといえる。その理由として、発給文書が中条藤資以降ほとんど残っていないこと。仮名、官途名、受領名が親子故に三人とも似ていること、景資という人物が中条景泰の実父にいたこと、房資という人物が応永から宝徳にかけての中条氏当主として存在すること、などが挙げられるだろう。

しかし、実名を記さずとも一次史料に三人の痕跡は様々に残っている。次回から中条氏の史料を詳しく追跡しながら系譜関係の根拠を詳解し、この三人の動向を具体的に検討してみたい。


*1)『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』『中条家由緒書』などを検討の材料としたが、後世の所伝であり明らかな誤りも散見される。
*2)『新潟県史』資料編4、1852号
*3)同上、1826号
*4)『新潟県史』資料編3、237号
*5)『高梨系図』、志村平治氏『信濃高梨氏一族』より、高梨氏として文明から政盛が永正10年まで活動し、永正9年から大永3年に死去するまで澄頼が存在した。澄頼の跡を政頼が継いだと考えられている。
*6)『上越市史』別編1、1211号
*7)同上、1243号
*8) 同上、1338号の吉江景資花押と比較した。


※20/10/29 高梨氏に関する部分を改訂。
※23/6/18 高梨氏に関する注釈の一部を削除。


コメントを投稿