鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

山吉景盛の動向2-大永7年領主間交渉ー

2020-09-26 16:52:46 | 三条山吉氏
山吉景盛の活動の中で最も有名なものは大永期の領主間交渉である。今回は景盛についての検討を兼ねて、この事例について掘り下げてみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編3、485号
於領中片軸雑務出来候歟、就之、彼地被入手之由、覚外候、其子細只見次郎左衛門尉雖申断候、未被聞分候哉、無心元存候、自幾も前々筋目速可有分別事簡要候、委曲彼使任口上候、恐々謹言、
 五月廿三日          (長尾房景 判)
 山吉丹波守殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、452号
御懇書具令拝閲候、仍五十嵐保内ニ候御知行分、従前々不入由、被仰越候、先規之義、若輩故無存知候之条、郡司不入証跡、只見次郎左衛門尉方江尋申候処、御直札忝候、前々義者、貴殿様も御無案内之由候、所詮至于当御代、別而被懸御目候之上者、自今以後義者、雑務等出来候共、可任御索配候、弥以無御余義候者、忝可奉存知候、不粉義候者、乍恐可申上候、速可被仰付事尤候、巨細猶御使者へ申達候、此旨可得御意候、恐々謹言、
(当時 異筆)「大永七年五月廿六日辰刻到来」
 五月廿五日           山吉丹波守
                      政久
 大関殿

[史料3]『新潟県史』資料編3、525号
就御領中雑務義、預御懇札候、祝着存候、御近所之義候間、万端可申合覚悟候間、被仰越候趣、無違輩御返事被申上候、我々満足候、定可為御同意候、於以後、御領中へ或者人下人、或者罪人等逃候て走入義可有之候、郡内義候間、不紛義候者、可申入候、速可被仰付事専一候、左様之義、未熟候て者、不可有其曲候、巨細五十嵐主計助方へ具令申候、恐々謹言、
 五月廿五日          山吉孫右衛門尉
                      景盛
 只見次郎左衛門尉殿 御報

[史料1]から[史料3]は大永7年に栖吉長尾氏と三条山吉氏間で行われた、「雑務出来」についての交渉に関するものである。これは藤木久志氏の研究(*1)に詳しい。それによれば、「雑務」とは逃亡人・罪人の追捕を意味し、[史料3]の「御領中へ或者人下人、或者罪人等逃候て走入義可有之候、郡内義候間、不紛義候者、可申入候、速可被仰付事専一候」とあるのがその具体的趣旨である。要するに、領主間における下人・罪人の人返協定である。これは郡司の権限によるものではなく「近所之義」(*2)とよばれる在地法にあたる、とされる。

それを踏まえて[史料1]から[史料3]を考えてみる。

[史料1]において逃亡した下人もしくは罪人の追捕すなわち「領中雑務」のため山吉氏が栖吉長尾氏家臣大関氏の所領へ介入を図ったことに対し、栖吉長尾房景は「前々筋目」を以て抗議した。

[史料1]を受けた[史料2]において、山吉政久は「先規之義、若輩故無存知候」と弁明し、「自今以後義者、雑務等出来候共、可任御索配候」と人返協定に合意することを伝えた。交渉は蒲原郡五十嵐保の栖吉長尾氏被官大関氏知行が対象であり、大関氏側は「郡司不入」を主張していることがわかる。これは守護上杉房能の郡司不入廃止政策により不入権を失った大関氏が再びその認証を求めたと捉えられ、これに対して政久はそれを認めず代わりに「雑務」の「御索配」を認めた(*3)。このような点から、郡司による郡司権の行使と領主間の在地法が複雑に絡み合っている様子が窺えるのではないだろうか。

また、このケースでは見られないが永正5年頃の栖吉長尾氏・伊与部氏相論や永正16年古栖吉長尾氏・五十嵐氏相論など領主間での解決が見られない場合は守護権力の裁定が求められたように、領主・郡司・守護(または守護代)という重層的な構造がこの時代の特徴である。

[史料3]は[史料2]と同日に、景盛が栖吉長尾氏重臣只見助頼に対して人返協定の合意を伝えたものである。上述したように、この景盛の書状によって領主間協定の具体的内容が知ることができるのである。


[史料4]『新潟県史』資料編3、454号
就大関方刷、令啓上候処被聞召分、人頭雑物以下無相違可返給之由、被仰下候、忝候、就中、長谷川事、御成敗之由候哉、毎事如斯ニ、速被仰付、至于被懸御目者、可忝存候、此旨可得御意候、恐々謹言、
 二月廿七日          政久
 庄田内匠助殿

[史料4]は大永7年以降のものと思われる山吉政久から栖吉長尾氏重臣庄田氏へ宛てられたものである。「人頭雑物以下無相違可返給」、「長谷川事、御成敗」という二点について感謝する内容であり、藤木氏はこれを「『近所の義』の発動を具体的に示す注目すべき一例といえる」と指摘している(*1)。


このように、大永年間に山吉氏と栖吉長尾氏の間で人返協定の合意が見られ、当主山吉政久と共にその交渉にあったのが山吉景盛であった。景盛が当主政久を支える重臣の立場にあったことが理解され、また、当時の領主の存在形態も伺える貴重な事例であるといえよう。


*1) 藤木久志氏「戦国法の形成過程」(『戦国社会史論』東京大学出版会)
*2)『新潟県史』資料編3、166号 において下田長尾景行が「近所之義」を名目に栖吉長尾氏と五十嵐氏の相論に介入している。
*3) 中野豈任氏「越後上杉氏の郡司・郡司不入地について」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)


※2021/1/10 「古志長尾氏」の表記を「栖吉長尾氏」に改めた。


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