鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川実氏の動向

2020-07-19 11:25:32 | 和田黒川氏
実名を「実氏」とされる黒川四郎次郎(*1)は清実の次代として天文11年から所見される。

追記:20/11/8
「実氏」の実名は史料的根拠に乏しい。私は『越後過去名簿』の検討から、「実氏」の実名が実際には「平実」である可能性を提示している。

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天文11年に伊達天文の乱が勃発し、11月に伊達稙宗陣営上郡山為家が「黒川四郎次郎殿」を勧誘しているものが、実氏の初見である(*2)。黒川氏と地理的に近接する羽前小国の上郡山為家が「雖事新申義候、年来得御扶助候間、吉凶共に被仰合者可為本望候」と年来の親交を理由に稙宗陣営への参加を誘っている。同年12月には反対に伊達晴宗が実氏へ、稙宗側の中条氏と小河氏に圧迫されていた本庄氏を除く他の揚北衆と並んで「彼在城(上郡山為家居城)へ御調儀候而、被加対治候者、可為専悦候、頼入計候」(*3)と稙宗陣営の上郡山氏攻撃を依頼している。

この次の所見は天文21年と弘治元年の中条氏との所領相論に関わる文書となる。そして、弘治元年12月4日に長尾宗心書状案(*4)に「黒川下野守」とあるのが終見となる。弘治元年11月29日長尾宗心書状案(*5)には「黒川四郎次郎殿」と見えることから、所領相論と関連して弘治元年11月末から12月始に下野守の受領名を獲得したと考えられる。

永禄2年3月には黒川孫五郎が(*6)、永禄3年8月には黒川竹福丸が見える(*7)ことから、永禄2年(1559)までに死去したと考えられる。

実氏は仮名四郎次郎から清実の嫡子と考えられよう(*8)。前回清実の生年は永正前~中期(1503~1512頃)と推定した。実氏の初見天文11年(1542)を考慮すると、享禄年間(1528~1532)頃の出生であろう。その享年は30歳頃となる。

その後、黒川氏は永禄2年3月に黒川孫五郎が直江実綱より上条の地の郡司不入を認められているのが確認される(*6)。これは、黒川清実が直江酒椿に認められたもの(*9)の継承である。孫五郎は幼少の実氏子息竹福丸の後見であろうか。永禄2年の『祝儀太刀之次第写』には黒川氏の名前がなく、その理由は当主が幼少であることかと考えられる。

また、弘治2年の大熊朝秀の乱に際して蘆名氏傘下の山内舜通が大熊へ「然者越州辺之儀、小田切安芸守可走廻候由候也、依之承旨候、何様黒河令談合、一途ニ可走廻候」と伝えている(*10)。「黒河」を越後黒川氏と捉えればこの頃姿を消す黒川実氏との関係が気になるが、これは蘆名氏の本拠黒川を指すと考えられる。発給者の山内氏は金山谷横田を拠点とした領主であり、蘆名氏からは独立性の高い存在であった。すると、蘆名氏中枢から発給された文書ではないと考えられ、「黒河」が蘆名氏を指すと考えやすくなる。他国の者には「会津」と呼ばれる事が多いが、蘆名氏勢力内ではより詳細な「黒河」で呼ばれることもあったのだろう。蘆名氏を黒川と表現する例として、平等寺薬師寺嵌板墨書(*11)の「くろ川より不調儀之由御せっかん」などが挙げられる。よって、この書状は山内氏が蘆名傘下の立場から大熊に蘆名氏との連絡を密にするように助言した、といったところだろう。

今回は、天文21年黒川実氏書状案について言及しなかったが、天文後期の揚北の動向を詳しく知ることができる文書であり、別の機会に詳しく考察したい。



*1)実名「実氏」は、新潟県史1482号文書の外題「黒川実氏書状案」から確認できる。しかし、外題が後代に副えられたものである点には注意が必要である。
*2)『越佐史料』三巻、856頁
*3)同上、858頁
*4)『上越市史』別編1、132号
*5)同上、131号
*6)同上、163号
*7)同上、211号
*8)実名「実氏」は通字を一文字目においており、黒川氏歴代や他揚北衆を見ても珍しい。これは、伊達入嗣問題を経て黒川氏の権威が上昇したことを表している、または、実氏は庶子であった、もしくは、外題の伝える「実氏」が誤りである、といった可能性が考えられようか。
*9)『上越市史』別編1、119号
*10)『新潟県史』資料編5、3755号
*11)同上、2936号

※21/4/17一部加筆修正した。



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