伊達入嗣問題に引き続き、奥山庄・小泉庄周辺で生じた紛争の天文8年以降における動向について検討したい。
天文8年9月に本庄氏、色部氏周辺で紛争が生じ、「不慮之再乱」と呼ばれる事態となる。それに乗じて伊達稙宗が侵攻、同年11月に本庄房長が敗死し小河長資、鮎川清長らが伊達氏の影響下に入ったことは前回までで見たところである。
1>天文9年における羽越国境での抗争
[史料1]『越佐史料』三巻、853頁
態令啓候、抑連々可有其聞候、上杉名跡之儀、時宗丸可有相続分候、於愚老者、遠慮之旨、数々度雖及辞退候、定実骨肉之間ニ可被致猶子方無之候上、頻競望候而、先年平子豊後守為迎被越置候キ、雖然彼国之乱劇未落去候故遅延、去々年已来両使節差越、国中一統之調法候上、違背之族候も、一両輩及退治、残徒色部一ケ所迄候条、近日向彼口、可致出馬候、然者御合力之義申述候、就中田村・相馬両所境辺如何様之鬱憤之義、雖出来候、御堪忍候様ニ、重隆江御意見可為欣悦候、邪正之儀者、帰陣之上可申合候、心緒之段、正覺院任口説不能詳候、恐々謹言
六月十四日 左京大夫稙宗
謹上 神谷常陸介殿
[史料2]『越佐史料』三巻、854頁
態啓達一書候、仍伊達息時宗丸越後江上国此度示定候、依之稙宗父子出馬之事、以使者承候、尤目出度候、其方可有同道之旨聞得候、爰元大儀此事候、彼是以床敷存候条、為使郡中務丞指越候、精彼口上申含候、恐々謹言
林鐘十六日 義直
留守相模守殿
天文9年6月に伊達稙宗、晴宗が出陣を計画し越後へ攻勢をかけたと推測される。前年に小泉庄の多くを影響下に置き、それを橋頭保にさらなる侵攻を目指したのだろう。
[史料1]「一両輩及退治、残徒色部一ケ所迄候」と表現される状況は天文8年11月以降のことであるが、その下限が重要である。天文10年2月には小泉庄内の領主間で「如前々申談」(*1)とあるように色部氏と鮎川氏、小河氏らが和解しており、それ以前と推定される。よって、[史料1][史料2]は天文9年6月と考えられる。「田村・相馬両所境辺如何様之鬱憤之義、雖出来候」「邪正之儀者、帰陣之上可申合候」つまり田村氏らへの対応は越後から帰陣後に行うとある点も、天文10年4月における田村氏の伊達氏服属(*2)以前のものであることを示唆している。天文11年に比定されることもあるが、前後に羽越国境で抗争が生じている様子はなく、「去々年已来両使節差越」が長尾氏と伊達氏が敵対後の天文9年のこととなってしまい不自然である。[史料1、2]からは天文8年後半から9年にかけて越後長尾氏と伊達氏の対立は激化していたことが窺える。
同じ頃、越後国内においても天文9年6月長尾氏に敵対する勢力が信濃市川より「松山四籠之要害」を攻め落としたため為景は板屋藤九郎を派遣し奪還したという(*3)。このように羽越国境の動揺と対立する伊達氏の存在は、他方面における反乱分子をも刺激し蜂起する契機となり得たと推測される。つまり天文9年において長尾為景・晴景父子は、伊達稙宗とそれに味方する揚北衆に加え国内の不穏分子の蜂起にも直面し、それらを打倒する必要があったと考えられる。
そのための一手として、為景・晴景父子は朝廷工作に乗り出す。天文9年8月5日に為景が天文4・5年の綸旨の御礼として朝廷へ五千疋などを献上している(*4)。そして、それと同時に新たな綸旨を申請していたことが次の史料からわかる。
[史料3]新999
尊書祝着之至候、抑為先年 綸旨御礼御申段珍重存候、次対私五百疋被送下候、御懇之儀畏存候、只今又弥六郎殿御申綸旨之儀、内海被申候条、随分被申調被遣候、希代御面目候、急度御礼御進上之儀可然存候、巨細内海可被申候条、不能詳候、恐々謹言
九月廿七日 宗頼
長尾信濃守殿 尊報
長尾晴景に下知するとした後奈良天皇綸旨(*5)、「私敵治罰綸旨」の発給を伝える長尾晴景宛広橋兼秀(*6)も残っている。天文9年の綸旨は長尾晴景が申請し、晴景宛に発給されたことがわかる。これが為景から晴景への家督移譲に起因していることは以前言及した(*7)もちろん、[史料1]などから為景が主導していたことは間違いない。天文9年1月に為景は献上品運搬のため加賀通行の許可を本願寺証如に求め翌月に通行が保障されているように(*8)、為景によって綸旨獲得のための事前準備がなされていることからもそれは示される。
[史料4]『新潟県史』資料編3、104号
其地敵退散、奥方所々御本意之由、其聞得候、如此頓道行候事、誠以きとくまで候、御留守中無何事候、おそなき御かたがた御堅固候、可有御心安候、恐々謹言
十月廿三日 玄清
信濃守殿
ここまで天文8~10年の発給と考えられる文書だが、天文8年は黒川氏、中条氏に出陣を促しているのみで為景出陣の事実はなく、天文10年には後述するように小泉庄領主間での和解が成立し越後長尾氏の支配に復帰している。このことから[史料4]は天文9年10月と推定される。伊達稙宗・晴宗父子の出兵に対して、綸旨を後ろ盾とした為景自らが揚北へ出陣していたことが推測される。つまり[史料1、2]で述べられたように稙宗の羽越国境出陣が実現していれば、天文9年秋から冬にかけて奥山庄、小泉庄の周辺で伊達稙宗と長尾為景の対陣があったことが想定される。これまでの局地戦とは異なり戦国大名レベルでの軍事衝突が生じていた可能性がある。
そして、「其地敵退散、奥方所々御本意之由」からは為景が伊達軍の侵入を許さず、再び小泉庄への影響力を強めたことが理解される。天文10年2月から始まる小泉庄内の領主間交渉は、天文9年10月に長尾為景の元へ再帰属したことが契機となったのであろう。ここでいう帰属とはあくまで上位権力と国衆の比較的ルーズな関係であり、それ故に領主間の独自の交渉に拠る部分も大きかったのだろう。
ここで領主層と越後長尾氏の関係を考えたい。天文10年8月小河長資宛色部勝長書状(*9)には「府内之儀者不及申、其外ニ被見捨候共、相互不可有別条候」とあり、長尾氏の介入を嫌い領主間の結束を強めたことを示すと解釈されてきた。しかし、「府内之儀」とあるように上位権力として長尾為景・晴景が存在したことは明らかであり、この一文はむしろ小泉庄が再び長尾氏の影響下に戻ったことを示しているとみて良いだろう。彼らは領主間で連携しながらもそれは完全な独立を目指していたわけではなく、上位権力の庇護を受けながらもそれが権利を侵害に繋がる場合には抵抗するためのものだったと考える。簡単にいえば、長尾氏と揚北衆の緩い従属関係を維持するのが目的といえよう。
これまで通説では中条氏が上杉氏への時宗丸入嗣を進める一方、他の揚北衆が反対し軍事的な混乱がおこったとされていた。しかし、ここまで古文書を検討してみると彼らが注目していたのは支配下にある土豪層の動向と所領の維持である。現代の視点で、当時の議題は入嗣問題であるから当然領主層にとっても重要案件であったと勝手に思い込んでいたが、実際に彼らは自領を維持するだけで精一杯でありそれが叶うなら上位権力は長尾氏でも伊達氏でもよかったのではないか。
冗長となったがここまでをまとめると、天文8年から9年にかけての伊達稙宗の攻勢と国内の反乱勢力の抵抗を長尾為景は軍事行動、政治工作の両面を以て乗り切り、天文10年初めまでには再び小泉庄の主な領主を従属させ、その後反乱勢力の鎮圧にも成功したと推測できる。
治罰の綸旨の効果については諸説あるが、結果からみれば綸旨は効果があったと考えられる。もちろん軍事力がなければ権威も無意味であったと思われるから、為景の実力が前提にあることは付け加えたい。
2>晴景の登場と伊達入嗣問題の終結
ただ、完全に伊達氏勢力の排除が完成したわけではなかった。天文10年7月には下渡島城に拠り敵対する勢力を色部氏、鮎川氏が討伐している(*10)。長尾氏へ帰属していなかった残党勢力だろう。さらに忘れてはいけないのは一貫して伊達氏に味方していた中条氏である。周囲が長尾氏の影響下に戻った後も、中条弾正忠は頑固に抵抗を続けていた(*11)。そんな中、天文10年12月に長尾為景が死去する。息子晴景が後を継ぎ、政権を運営していくこととなる。
晴景に代替わりしてからの大きなイベントは鳥坂城中条弾正忠を巡る戦いである。色部氏重臣に宛てられた天文11年9月長尾晴景書状(*12)に「至于中条度々一戦勝利、併忠信無是非候、定落居不可有程候」とあり、晴景方が中条氏を追い詰めていることがわかる。年次比定については以前の記事を参照してほしい(*11)。ちなみに、次掲[史料4]の存在から逆算しても鳥坂城落城は天文11年であることが示される。
[史料4]『新潟県史』資料編4、1056号
従伊達為使門目丹後守方上府、中弾前事、雖被申之候、各へ時宜談合申、於其上可及御返事之由、於其上可及御返事之由、令挨拶候、依之先日以使者申宣候き、定可為参着候、恐々謹言 長尾弥六郎
十一月廿一日 晴景
色部弥三郎殿 御宿所
[史料4]は天文11年のものである。「去秋門目丹後守為使」とある伊達晴宗書状(*13)が洞の乱勃発時の天文11年12月に発給されているから、確実である。内容は「中弾」=中条弾正忠について各々へ相談し返答するとした文書と読め、9月時点で落城間近であった鳥坂城が落城し中条弾正忠の去就について揚北衆に確認し決めていこうとする晴景の意向を示していると考えられる。一連の動向は、天文21年黒川実氏(平実カ)書状案(*14)における「揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き」に一致する。
さて、この戦況の変化をもたらしたのは天文11年6月に勃発した伊達稙宗・晴宗父子の抗争=天文の大乱・洞の乱であること想像に難くない(*15)。伊達氏内乱の隙を衝く形で中条氏が攻撃されたと推測され、混乱する伊達稙宗陣営から十分な支援が受けられなかったことが中条氏の降伏に至った原因である可能性がある。
そして、結果的にこの伊達天文の乱が伊達入嗣問題にも終止符を打つ。天文11年12月色部氏、黒川氏ら晴景方の揚北衆に宛てられた伊達晴宗書状(*16)にて「時宗殿就上国之義、去秋門目丹後守為夫覚悟之旨申越候き、具可致閑談候哉、已前も如申候、被抛万障、早々御無為無事肝要存候哉」とあり、稙宗に敵対した晴宗が時宗丸入嗣は「御無為」であると主張し、それは使者門目氏を通じて長尾晴景にも伝えられたと想定される。つまり、伊達天文の乱勃発後、時宗丸入嗣の中止という点で長尾晴景、伊達晴宗は合意に至ったと考えられる。さらに「(晴景方の揚北衆は)被対当方、無御余儀候由其聞候、本懐之至候」とあり、晴景は敵対する伊達稙宗へ対策として晴宗と協力関係を結んだとみられる。
ちなみに、「御無為無事」という部分だけでは解釈が難しく、上記で見たような時宗丸縁組解消とするものと、無事に時宗丸の入嗣を実現する、という二通りが提唱されている。しかし、南東北地方を二分する伊達天文の乱において時宗丸入嗣の方針が敵対する父子間で一致するとは思えず、そもそも他国への入嗣政策を進める稙宗に対して伊達家中内で基盤を固めるべきと考える晴宗の対立の結果が伊達天文の乱である。つまり、時宗丸入嗣を推進する稙宗に対して、晴宗は反対の立場あると考えられ、「御無為無事」についても入嗣計画の解消を問題なく進めていくという意味であったと推測される。黒嶋敏氏(*17)によると伊達晴宗は伊達家中内での婚姻を進めており、稙宗が行った他勢力への積極的な縁組政策から転換したことを指摘している。この推論は、晴宗が上杉氏への時宗丸入嗣に反対の立場であったとする推測を補強する。
まとめると、伊達天文の乱の勃発後、時宗丸入嗣を掲げる伊達稙宗に対し、長尾晴景はそれに反対する伊達晴宗と協調し戦況を有利に進めたことが理解される。
しかし、伊達稙宗も一方的に負けていたわけではなく、伊達領内での抵抗はもちろん越後へ揚北衆の取り込みを図っていた様子がある。天文11年11月黒川四郎次郎宛上郡山為家書状(*18)にて、山形最上義守の他長井庄の勢力が悉く稙宗に属したことや為家が羽越国境の小玉川を攻め落としたことが伝えられ、黒川氏へ稙宗方に味方するよう勧誘していることが読み取れる。黒川氏は誘いに乗らなかったが。天文11年末頃に晴景陣営へ降伏したばかりの中条氏はほどなく再び伊達稙宗の元に味方し長尾氏を離反し、「上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意」と表現されている(*14)。つまり、中条氏は上郡山為家を通じた稙宗の工作に乗じて再び稙宗陣営についたと考えられる。この「弥三郎」は中条弾正忠の後継、中条弥三郎房資(後に越前守)である。中条氏は天文11年末までに「巣城」まで追い詰められたため降伏したわけだが、逆に言えば「巣城」は無事な状態での開城であることで拠点や軍事力の致命的な損傷を回避しており降伏後まもない離反を可能したと考えられる。
また、天文12年3月色部家中八名連署起請文(*19)にて色部家臣団が色部中務少輔の誘いに乗らず色部勝長に従うことを誓約しており、稙宗の勧誘に対して色部中務少輔が離反したことがわかる。色部中務少輔は天文10年7月鮎川家中連署起請文(*20)に色部家中の筆頭として見るほどの有力者である。当時、色部中務少輔の他にも本庄亀蔵院、矢羽幾旅次郎らなど稙宗派の勢力が存在していたことが明らかである(21)。
このような戦況につき、長尾晴景は再び朝廷の権威を用いる。それが「当国中令静謐為豊年、 震筆御心経一巻可奉納神前」とする天文13年4月20日後奈良天皇綸旨(*22)の発給である。実際、その後史料上伊達氏との抗争は認めない。伊達稙宗も内乱の対応に忙殺され伊達晴宗と結んだ越後・長尾晴景への攻勢は諦めるほかなかったのであろう。事実上の晴景の勝利であったといえる。黒川実氏(平実カ)案文(*14)には「旁々得助成候而、可及静謐」とあり、晴景に敵対した中条氏などの勢力も天文12、13年頃に降伏したと推測される。
以上が伊達入嗣問題に端を発した奥山庄、小泉庄を周辺とした抗争である。周辺領主はもちろん長尾為景・晴景、伊達稙宗・晴宗らの出陣も認めるように軍事抗争として規模の大きいものであったことは間違いない。揚北領主間の独自交渉、為景から晴景への家督継承、伊達天文の乱などと重なりその経過はかなり複雑である。ここまでそれらを踏まえながら当時の抗争の経過を素描できたと思うが、今後も検討を要する部分も多々ある。特に天文10年前後における越後国内での抗争については検討を続けていきたい。
*1)『新潟県史』資料編4、1126号
*2)天文10年における田村氏の伊達氏服属については佐藤貴浩氏「田村氏の存在形態と南奥の国衆」(『戦国時代の大名と国衆』戒光祥出版)に詳しい
*3)『越佐史料』三巻、854頁
*4)『新潟県史』資料編3号、979、981、982、997号
*5) 同上、775号
*6)同上、998号
*8)『加能史料』戦国10、239頁
*9)『新潟県史』資料編4、1086号
*10)同上、1125号
*11)以前の記事黒川実氏書状案の検討 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~
*12)『新潟県史』資料編4、2076号
*13) 同上、2045号、ちなみに、『新潟県史』によると宛名は「色部、竹俣、荒川、黒川、加地、安田、水原、鮎川、新発田、五十公野、小河」とある。これがこの時点での長尾晴景方の主要な揚北衆であり、敵対した中条氏の名がないことも一貫して中条氏が稙宗方につき抵抗していたことを示す。
*14) 同上、1482号、黒川平実については以前の記事参照『越後過去名簿』から見た和田黒川氏 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~
*15) 『晴宗公采地下賜録』奥書に「天文十一年六月乱之後」とあり、伊達天文の乱の勃発が天文11年6月であることが確実である。
*16)『新潟県史』資料編3、2045号
*17)黒嶋敏氏「はるかなる伊達晴宗」(『戦国大名伊達氏』戒光祥出版)
*18)『越佐史料』三巻、856頁
*19)『新潟県史』資料編4、1089号
*20)『新潟県史』資料編4、 1084号
*21)『越佐史料』三巻、860頁
*22)『新潟県史』資料編3、776号
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます