保津川下りの船頭さん

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保津川の急流を筏で流して・・・継承するものとは?

2009-09-10 22:37:36 | プロジェクト・保津川
昨日、保津川の急流を60年ぶりに筏が流れました。

1300年という長きに渡り続いている保津川水運の幕を開けた‘筏’。

丹波産の材木を京都に流し、その時々の都造営や民家建築に
大きな役割を果たしていたのが保津川の筏流しです。
60年前に姿を消して以来、歴史の中に埋もれていた保津川の筏を
よみがえらせ、その伝統技術と歴史の記憶を今に伝承する目的で
始まった「保津川筏復活プロジェクト」。

その歴史の封印が説かれたのは3年前、保津川の上流地域にあたる
京都府南丹市の日吉ダムで開催された川のイベントでのこと。
数少なくなった保津川の筏師の方から直接に指導を仰ぎ、
保津川伝統の筏組みの技法を教わることでその姿を現在に復元することができたのです。

そして去年、組んだ筏を保津川で実際に川に浮かべ、流れの緩やかな
保津川上流部で流すことに成功、筏復活プロジェクトは順調に
段階的進展を見せていました。

そして今年、保津峡の急流を流すことが計画されたのです。
「学ぶ」→「組む」→「浮かばせる」→「流す」ことに成功した
我々メンバーにとって、保津川渓谷の急流を流すということは、
この事業に避けては通れない「宿命」ともいえるでしょう。

「渓谷の急流を流さずして保津川の筏操船技術の継承はない!」

しかし、日々、同じ川で舟を流している船頭とはいえ、筏を流すことに関しては
初心者、いわばずぶの素人の集まりに過ぎません。

元筏師の方から、操船技術の聞き取りや指導は受けてきたものの、実際に急流を
流すとなると勝手も違い、そう簡単なことではないと思っていました。

「筏の結ぶ藤つるが切れたらどうなる?」(事実、去年は操船中に樫が切れた…)
「流れに負けて岩に乗り上げたら?」「波の衝撃で体が振り落とされたら?」
もちろん自分自身の身に降りかかる恐怖もありますが、それ以上に、何事かあれば、
家族や保津川遊船など、この試みに協力して下さった多くの方々にも
会わす顔がありません。

保津川の流れの速さや波の高さ、渦の強さなど‘川の怖さ’を知りすぎている
私にとって、最悪の事態を想像できないといえば嘘になります。
川の上での失敗は‘死’すら意味する。
だが反面「私たち船頭ほどこの川を知っている者はいない」
「私たちにできなければ、未来永劫、誰も流すことができない!」
という「自負」や「使命感」もある。
この思いと「筏流し」という「未知の経験への怖れ」とが心の中を
行ったり来たりと交差しながら、当日を迎えというのが正直な気持ちでした。

我々の手で組まれた6連の筏は、保津川と清滝川が合流する嵯峨水尾の「落合」
から出発、途中3ヶ所ある‘難所’と呼ばれる複雑な流れをする急流も
難なく流しきり、5キロ先の嵐山に無事到着することができました。

嵐山で我々の到着を待つ、大勢の人々が見えたとき、私の胸に
燃えるような感動と達成感が沸き起こってきました。

それと同時に川で生きた先人たちの人生を垣間見たと感じた瞬間でもありました。

保津川の筏師、それは我々船頭にとって1300年以前からこの保津川で生きた大先達です。
「天下の要害」ともいわれた急峻な保津川渓谷の急流を命がけで制覇した人たち
も、嵐山の渡月橋を見たとき、こんな気持ちを感じたのしょう?
その先輩たちが‘何を感じて’この川で生きてきたのか?
この数日間の思いが、そのことを垣間見せてくれました。
そして、この思いを知ることではじめて復活は成就するのだと
この時、気が付いたのです。

歴史をよみがえさせるとは‘形’を復元するだけではない。

先輩たちも‘家族への思いや川の恐怖との葛藤’と日々、
闘いながら、この保津川で生きたのだろう。

その意味でも歴史と伝統の継承とは「その時代に生きた人の‘思い’」
にまで心を馳せ体感することだ、と感じました。

この「筏復活事業」で本当に甦らせなければならないこと。
それは筏と舟、形は違っても「川で生きる者の‘誇り’」だったのではないだろうか?

今後、この事業がどういった形で継続されているかはともかくとして、
技術継承と同時に川で生きた人たちの‘思い’や‘誇り’をしっかりと
次の世代に継承していかなければらなりません。

それが、1300年という長い歴史を有する保津川で生きる‘バトンランナー’としての私達の使命だと感じるからです。

私は今、保津川の船頭になって‘幸せ’だと、心からそう思えるのです。

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