保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

嵐山・渡月橋の今昔

2005-10-28 17:40:56 | シリーズ・京都を歩く
ここ数日の朝晩の冷え込みの
お蔭で保津峡の木々もほのかに
赤く色づきはじめました。

いよいよ京都の秋本番近しですね。

嵐山にも観光客の姿は増えれてきました。

京都観光には欠かせない嵐山。
その象徴といえるのが‘渡月橋’でしょう。

渡月橋は、平安時代・承和3年(836)に空海の弟子、
道昌が大堰川を修築したおりに架橋されたもの
といわれ、川の対岸にある法輪寺にお参りする
為の橋として使われていました。
当時は「法輪寺橋」や「嵐橋」と呼ばれていたが、
亀山上皇が夜空に月がさながら橋を
渡る様に見えるときに「くまなき月の渡るに似る」
と語られたことで「渡月橋」と呼ばれる様になった
といわれています。


この写真は幕末・維新時の渡月橋です。都が東京に移って
人通りも少なく、ひなびた感じになっています。
細い丸太で橋脚と土台を造り、竹を敷き詰め、土で
固める構造です。
当時の渡月橋は洪水の度に流れていたそうです。


上の写真と同じところから撮った今の渡月橋です。

室町時代には嵯峨・天竜寺の勢力が強く、今架かっている場所から
約100m上流の天竜寺の門前に架けていたそうですが、
角倉了以が保津川開削の折、今の場所に戻したと云われています。

ちなみに角倉了以は莫大な天龍寺造営費用を捻出する為、
中国・元との貿易事業を進めたといわれ、その船は‘天龍寺船 ’
と呼ばれていました。


上の写真は明治時代の渡月橋の風景です。
橋の橋脚に筋交いが入れられ強固なものとなっています。
文明開化により土木技術も飛躍的に向上したの後が伺えます。

今の渡月橋です。
明治期の橋も洪水には勝てず、2度も流失したそうです。
今の橋は昭和9年に架けられた橋で、鋼鉄を使ってある
ので、平安の世からの流れ橋としての歴史には
終止符が打たれました。

今の橋は明治期の橋より少し下流に架かっています。

京都の人は子供が十三歳になると、京都嵐山の法輪寺にをお参りして、
知恵の仏様「 虚空蔵菩薩 」( こくうぞうぼさつ)に 、
知恵を授かりに行く風習がいまでも残っています。

知恵を授かる祭事を行った後は、渡月橋を渡りきるまで
「けっして振りかえらないように!」と約束させられます。
これは「約束を守る」という大人の自覚を持つという
意味があります。
たぶん丸太橋の頃は、下を見たら怖くて振りかえると
川へ落ちてしまうという意味もあったと思われます。

そんな言い伝えがいつしか
「カップルで渡る時、振り返ると別れる!」という
変な噂になっているのは面白い話ですね。

私達、保津川下りの船頭は毎日、この橋の下を
船で潜って、クレーン場まで片付けに行きます。
下から見る渡月橋の姿は・・・内緒にしておきますね。